13.縄による緊縛という結びの思想・四十八手 (6) 縄師・水晶の表現 <廃屋の着物緊縛美> 借金返済で弁護士に相談



縄による緊縛という結びの思想・四十八手

(6) 縄師・水晶の表現 <廃屋の着物緊縛美>





縄 師    水 晶

写真撮影   本庄奈津子

製作 2003年夏




































































<私の思い描く緊縛美は、背景は古民家(廃屋)に、
下着、できればスリップ(襦袢)姿の女性が縛り物のように転がったありさまです。
モデルは、普通にその辺にいる女性で、
三十代の少し体型が崩れ出した感じの若奥さん風が理想です。
モデルの表情は、恥ずかしそうな顔や辛そうな顔をして、少しいてほしいです>、
このように語る、縄師・水晶があらわした、女流写真家・本庄奈津子との共同制作になる、
縄による着物緊縛の写真表現である。
その映像は、どの一葉においても、紛れもなく、
日本の緊縛表現であることを直裁に感じさせることにあって、
<日本の緊縛表現>が有能にある実例をひとつの例証として示している。
<有能にある実例>とは、
<それを鑑賞する我々の知覚を開かれた次元にまで導く媒体としてある>という意味で、
加虐・被虐の猥褻表現を単なる性欲の開放へ導く媒体とするだけには留まらず、
加虐・被虐の猥褻表現が美の表出を顕現すれば、
<見えなかった事象が見えてくる>という実態が示されることにある。
それは、<緊縛美>や<被虐美>と称される事柄の本質が明言されることでもある。


廃屋の畳敷きのひと部屋に長襦袢姿の若い女性がいる、
その女性の存在だけが際立つように、麻縄で多種に縄掛けされ、多様な姿態を取らされている、
このありさまを<縄による緊縛>で<被虐に晒される>と言うのであれば、
<被虐に晒される意義>が問われることにある。
女性を縛り上げた者に<変態>の趣味があることから行われていることにある、
これが<社会常識>としては、最もわかりやすい意義である。
<正常>とされる性的事象が四十八手にまで及ぶ体位の如何に関わらず、
<男性の陰茎と女性の膣の交接>にあるとすれば、それ以外の性的事象は<異常>であり、
すべて、<変態>の趣味のあらわれと言うことができる。
その<正常>な<交接>という行為がなく、長襦袢で隠された女性の柔肌も、
なよやかな肩がわずかにはだけさせられ、
艶やかな太腿ものぞかされているというだけの体位である、
剥き出しとされる乳房も乳首も、露わとされる恥毛も陰部も見えることにはない、
縄が女性を縛り上げているという実態のあることが如実に分かることにあるだけである、
或いは、この八葉の写真以外に、それは見ることのできるものとしてあることなのだろうか。
だが、縄師・水晶は、この八葉が<私の思い描く緊縛美である>と提示したことにある。
<社会常識>として、<縄による緊縛>は<変態>の趣味のあらわれと見なされることは、
<性的異常>の概念を根拠として、価値判断していることでしかないことは、
すでに、明らかとさせたように、<縄による緊縛>にあっての<交接>は、
<江戸四十八手>には、<理非知らず>や<だるま返し>という<体位>が存在したことで、
<正常>とされる性的事象が四十八手にまで及ぶ体位の如何に関わらず、
<男性の陰茎と女性の膣の交接>にあるとすれば、日本民族の観点からは、
それらを<異常>や<変態>とは見なせないということにある事実である。
従って、<異常>や<変態>の前提で、<縄による緊縛>を見ることは、そこにあらわされる、
<緊縛美>や<被虐美>も見えないことに置かれることになるのは当然で、
☆初期の段階>にあっての<緊縛美>や<被虐美>が普遍性をあらわさずに、
縄師や縛者や解説者、或いは、鑑賞者の<独りよがりの感想>にしかならなかった所以である。
縄師・水晶の美に対する真摯な表現、それと協奏する本庄奈津子の優れた写真技法は、
これに対して、ひとつの明言を行っているのがこの映像と言えることにある。
それは、<縄による緊縛>における、<緊縛美>や<被虐美>は、
<日本民族の表現>として示されることなしには、あらわれることはない、という事柄である。
この<興趣>を表現できる独創は、当然に、日本民族の存在理由に由来するものである。
<日本民族の表現>、それは、<☆ひねる・ねじる・よじるという結びの思想>の活動から、
☆総体を考えられるという自然認識の宗教思想>にあって、
<多種・多様・多義>を本筋とする、<人間の全体性>を見い出す目的にあることで、
特定の<宗教>に依存することがなければ、人間があらわす加虐・被虐の事象は、
人間の生存活動である、四つの欲求のひとつである、殺傷欲の表現に過ぎない、
人間は、加虐・被虐の表現行為を行う、動物であるということに過ぎない、という認識にある。
この<動物>という認識は、<畜生同然に縄で縛り上げられたありさま>を、
畜生か、畜生以下と見るか否かということにある。
畜生か、畜生以下と見なせば、<人間>以下ということになり、
家畜か野生動物、または、原生動物にあるということである。
だが、<動物として縄で縛り上げられたありさま>として見れば、
月岡芳年の<若い妊婦の逆さ吊り>の洞察が示すように、
腹を切り裂かれるために吊るし上げられた、単なる動物存在でしかない、<人間>である。
その<単なる動物存在>は、<文明と文化>を表現することから、
<動物として縄で縛り上げられたありさま>にあって、
他の動物が同然のありさまに晒されてあらわすものとは、異なるものを表現するのである。
この<異なるもの>とは、<美意識>である。
他の動物も、<美意識>をあらわすことにおいては、同様にあるが、
<人間>の<美意識>の範疇に入る限りにおいて、認められるものでしかない。
<人間>の<美意識>の範疇に入らないものは、美の対象とはならないということである。
従って、この<美意識>は、同じ<人間>同士にあっても、
<美・醜>の差異をあらわすものとしてあることは、
<人間>には、感覚する差異、それを概念化する差異があり得る以上、
当人の<美意識>の範疇に入る限りにおいて、認められるものでしかないことにある。
<廃屋の着物緊縛美>と言っていることは、
そのありように<美意識>を認められるか否かということが問い掛けられることにある。
<独りよがりの感想>か、或いは、<一般論>かの相違となることで、
この点における問題が、
<それを鑑賞する我々の知覚を開かれた次元にまで導く媒体としてある>か否か、
という事柄へ導かれるものとしてあることである。


廃屋同然の古い民家は、当然、日本の建築様式の家屋を意義している。
<縄による緊縛>が行われる場として、日本家屋ほど適している場所はあり得ないほどに、
梁、柱、欄間、床柱といった存在は、縛り付ける、吊るすといった形態を可能とさせ、
双方の場所を遮蔽して仕切る、
障子や襖や木戸が容易に取り払うことができるということにあっては、
言い方を換えると、<縄による緊縛>を行うために考案された様式であるかのようである。
これは、日本民族の生活に、<縄>が密接に関係してきたことに由来すると見れば、
当然過ぎて、そこに継承される<因習の存在>も、
改めて確認させるほどのことにはない状況へ導かせる。
明治の文明開化以来、西洋の建築様式が導入され、
時代の推移としての日本家屋の減少は、
西洋の建築様式に生活することが普通であるという意識に置くことをさせれば、
廃屋同然の古い民家は、日本家屋で生活した者にとっては、
ノスタルジア(郷愁)を感覚させる対象となること以外になく、
日本家屋の生活を知らない者には、ただの廃屋であるというに過ぎないことになる。
しかしながら、いずれにあっても、日本民族の継承者にあれば、
継承される<因習の存在>の保持者であることは変らないことである。
<凋落していくもの>に<美>を見い出すというのは、ひとつの見方である、
<美意識>の範疇に囲い込むという感性の概念化である。
廃屋同然の古い民家に見るものが<凋落していくもの>に見い出す<美>とは限らない、
ということである、<廃屋の着物緊縛美>のいずれの一葉においても、紛れもなく、
日本の緊縛表現であることを直裁に感じさせることがあるとすれば、
<凋落していくもの>がかもし出させる<美>を見るというよりは、
日本民族の<因習の存在>が保持されていることが確認されていることにある、
と見る方が普遍的である。
縄師・水晶と写真家・本庄奈津子の協奏は、<古さ>へのノスタルジアではなく、
継承される<因習の存在>が<美>をかもし出せている表現にあることを示しているのである、
従って、<新しさ>がある。
この<新しさ>は、継承される<因習の存在>という<古さ>の確認にあることで、
日本民族の<縄による緊縛>に<新しさ>を求めるとすれば、
この<古さ>の確認を表現としてあらわすことが可能となっているかに依存することである。
それは、本筋としてある、長襦袢姿の女性に施された、<縄掛け>があらわすことで、
<緊縛の意匠>にまったく依存するものである。
女性の人体も自然の縄も変ることのないものにあれば、
<縄掛け>が変化させるものとなるということである。
どのような<縄掛け>があらわす<緊縛の意匠>がそれであるかを言うことは不可能である、
<多種・多様・多義>を本筋とする、日本民族にあれば、規準は存在しないからで、
それは、表現者の意思にまったく依存することにある。
流派が百五十以上、縛り方と名称は三百種類も存在したという<捕縄術>は、
それをあらわしていることである。
従って、<縄による緊縛の表象>が実際にそれを判断させることにある。
それは、<可能>が存在することを示唆している。
<ひねる・ねじる・よじるという結びの思想>を活動させる日本民族にあれば、
自然観としての転変・流動の認識は、<縄掛け>の流動と可変をあらわすことでしかない、
その<可能>は、<不可知>へ向けて、精進させることでしかないありようである。
それは、<それを鑑賞する我々の知覚を開かれた次元にまで導く媒体としてある>ことである。


<被虐>に晒されて、笑う者はいない、
晒された被虐の余りに、耐えかねた爆発の哄笑であれば、あり得るかもしれない。
<縄による緊縛>という被虐に晒されて、
困惑、羞恥、悲哀の表情が被縛者にあらわれることが自然な反応である。
照れ笑いをしていた女性でも、後ろ手にされた両手首へ、縄が触れた瞬間、緊張が走る、
柔肌へ巻き付いて、加えられる摩擦と圧迫の感触は、肉体の触覚を鋭敏にさせていく、
後ろ手にされたことで奪われた自由の自意識は、
掛けられていく縄によって、拘束の状態へと向かわされれば、
拘束の程度に応じて、縄に囲い込まれたありようとして意識せざるを得ないことになる、
被縛者は、自身と向き合わざるを得ないという状況へ置かれることで、
その緊張から生ずる顔立ちの真剣な表情は、驚き、困惑、羞恥、悲哀を滲ませて、
緊張のない、通常の顔立ちにはない、真剣という美しさを漂わせることにある、
それは、切迫する緊張の状態の持続であり、笑いとは無縁である。
相対する縛者にあっても、誤れば、死に至らしめることにもなる<縄掛け>において、
想像力のある意思が赴かせる、<縄による緊縛の意匠>の造形は、真剣な手作業にある。
<縄による緊縛>は、笑いとは無縁にあることで、<別の次元>を開かせるのである。
第八番目の写真が表現している、女性の横顔の表情と胸に巻き付いて覗かせる縄は、
この事柄を充分に伝えているものがある。
開かれる<別の次元>とは、通常にあり得ない、普通にあり得ない、日常にあり得ない、
異種・異様の状況が作り出されることである、
加虐・被虐の状態が作り出されるという特殊な状況である、
第二番目の後ろ手に縛られ胸縄を掛けられた女性が俯いている姿態が伝えるところである。
それは、更に、畳へ正座させられて、後ろ手に縛られ胸縄を掛けられた姿態が、
前屈みの窮屈な状態となって固定されるように、
背中から上方へ繋がれる縄と首を振り分けて揃えさせられた太腿へ繋がれる縄によって、
責め苦に遭う姿態とされることで、<非日常性>が状況の本質となる、
それが第三と第四の写真表現にある。
<非日常性の意識の次元>を作り出すことが<縄による緊縛>にはできる、ということである。
<非日常性の意識の次元>を感得することができれば、
そこから展開される事柄は、<社会常識>から離れることで、
日本民族の固有の存在理由に立ち返って、
<開かれた次元>を見ることへ導かれるものとなる。
第一番目の写真において、下半身を束ねた、<縄による緊縛の意匠>に見えるものは、
布で覆い隠された下半身にあって、それが女性の下半身であると察せられるのは、
覗かせる裸足の両足が柔らかな肌の実感を伝えることが、
綾なすように掛けられた、<縄による緊縛の意匠>が伝える厳しさと相対していることから、
異なるふたつの事柄の並置は、性的官能の所在を明確とさせることで、
<女>を匂い立たせるということを行っていることにある。
<縄>が整合性をあらわすものであると感得する、日本民族における者にあっては、
<ひねる・ねじる・よじる>という作用が性的官能を明らかとさせることで、
<見えなかった事象が見えてくる>という実態が示されることにある、
この映像表現を美しいと感ずることは、その実態にあることである。
同様に、第五番目の写真は、後ろ手を縛られた女性の背後が映し出されている、
<縄による緊縛の意匠>の妙が<興趣>をかもし出せているのは、
後ろ手に縛った縄をほっそりとした首へ掛けられた首縄へ絡められていることで、
この縄の存在が、長襦袢から覗かせる、
ほっそりとした手先や露わとされたなよやかな肩と並置されることで、
女性の顔立ちを見ることなしに、その真剣な表情の美しさを想起させることにある、
という<見えなかった事象が見えてくる>という実態が示される。
その実態は、後ろ手にされたことで、せり出したなよやかな肩は、
骨格と肉質を伝えて、<被虐>をあからさまとさせている、
<美>は<迫真>のなかに見い出せることがあらわされている。
第六番目は、第七番目を全体像とする、
長襦袢姿の女性が後ろ手に縛られ、乳房を上下から挟まれた胸縄を施され、
立った姿勢で片方の脚を太腿を縛った縄で吊り上げられているありさまが映し出されている。
全体像においては、壊れた障子が取り外れて、
廃屋である状況が如実に示されていることにあるが、
緊縛に晒される女性の陰影が立てつけられて残る障子に映し出されている様子が、
女性の取らされている姿態のあられもない姿を一層浮かび上がらせている。
この明暗効果を主要な表現方法とした単彩画という手法は、
西洋の概念で言えば、キアロスクーロ(陰影法)と呼ばれるもので、
<廃屋の着物緊縛美>の基調となっていることにあるが、
そこに示されるのは、その手法にある立体感よりは、表現対象の並列から生じる、
<ひねる・ねじる・よじる>であることにあっては、
<結びの思想>の具現としてあることである。
<縄掛け>のあらわす整合性は、
ひねられた姿態にある形象をねじるように上方へ向かわせる動性を伝えてくるものとさせて、
美意識の所以である性的官能の上昇とよじられることで、
<美>を感得させるものとしている。
<緊縛美>は、<縄>と<人体>が<縄掛け>によって、
相違する物体である、<縄>と<人体>という対象が並列されることでひねられ、
<縄掛け>の技法によって、変化がもたらされることでねじられ、
<人体>の顔立ちの表情と姿態は、異質の昇華へ導かれるようによじられる、
という<美>の顕現としてあることが示される、表現行為である。
この生じる<美>は、単に、物体の形象の変化を意義するものではないことが、
第六番目の映像であらわされている。
全体像における、或る部分の単なる切り取りであると見た場合、
全体は部分の総和以上のものにあるという把握からすれば、
長襦袢をはだけて覗かされた太腿に掛けられた縄を上方へ引き上げられて、
剥き出しとされた片方の脚が漂わせる艶かしさは、
女性のあらわす官能的な姿態のひとつにあるというに留まる。
だが、この映像に示される、ひねるという並置は、
<縄掛け>が太腿と脚と足の艶かしさを際立たせる、ねじるに留まらない、
それは、足首に残る、<縄目>の存在があることである。
この<縄目>があらわされることで、並置の状況はよじられる。
それは、<部分>を見ることに、<全体>を示唆される、
という認識のありようが示されていることにある。
<縄による緊縛>がその<緊縛美>を顕現することで、
<有能にある実例>として、
<それを鑑賞する我々の知覚を開かれた次元にまで導く媒体としてある>ことにある。
我々は、この<縄目>から、一気に、時間と空間を超えた事象の認識に至る、
女性のあらわす、人間のあらわす、性的官能は、
生ある限り、不滅の<美>の存在があり得ることを導くものである、
生々しい太腿の存在は、生々しい艶かしさをあらわす、生のあらわれであると。


これらは、偶然に撮られたスナップ写真ではあり得ないことは、
縄師・水晶と写真家・本庄奈津子の意図する表現は、
<緊縛美>の顕現にあるということを明言するものとさせている。
縄師・水晶は、何故、女性を縛るのか。
<変態>の趣味があるからである、それでは、余りにも、月並み過ぎる、
答えは、<緊縛美>を表現したいと言うだけで充分である、ということである。
その<緊縛美>は、日本民族にあることの存在理由から生まれる、
普遍性の表現にあることの一般論にあるからである。

(2012年6月3日 脱稿)




☆13.縄による緊縛という結びの思想・四十八手 (7)

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