8. 日本民族の縄による緊縛の美学 |
<緊縛>という言葉の意味は、「しっかりとしばること(大辞林 第二版)」ということでしかない。 その<しっかりとしばる>という行為を縄を用いて行うことを<縄による緊縛>と言う。 <日本民族の縄による緊縛>ということであれば、<日本民族が縄を用いてしっかりとしばる>ということである。 何を対象として縛るということであるか。 身近な犬や猫から始まって象や鯨にまで及ぶ動物の一般、或いは、可能な形状にある物体のすべて、 それらは言うまでもない。 ただ、今日においては、緊縛の目的を果たすために、縄よりも他の有用な道具が使用されることもある。 縄は、緊縛という目的において、道具のひとつに過ぎないものであるから、 縄よりも有用な道具が存在すれば、それに取って代わられることは、道具としての存在理由が示されていることになる。 警察機構も被疑者の拘束に手錠を使用する以前は縄を用いていたが、容易さと強靭さが取って代わらせたことである。 西洋式の手錠が使用される以前は、縄による拘束が被疑者へ行われていたことであり、 その縄の拘束の方法においては、江戸時代にあって、捕縄術の流派というものが百五十以上も存在したとのことである。 捕縄術というのは、人間の身体を拘束するための縄の縛り方ということであるが、 <縄による緊縛>には、人間の身体を対象として行われることもある、ということが含まれることになる。 このようなまわりくどい表現を行わなくても、今日では、<緊縛>と表現されるだけで、それは、 <人間の身体を対象として行われる縄の縛りによる性的行為>を意味するものとして受けとめられているから、 いずれは、国語辞典へ付加された意味として掲載されることも可能なことであるかもしれない。 言語があらわす概念には一定のものがあるが、それは時代と共に変化することが必然付けられていることであるから、 現在は、そのように考えていることでも、将来においては、必ずしもそれだけではない、ということがありうることである。 <緊縛>という言語とその概念は、老若男女を問わずに接することのできるマス・メディアへ露出している、 それほど卑近な現象となっているということで、<日本の縄による人体への性的緊縛>が示されていることなのである。 従って、ここで言われる<日本民族の縄による緊縛>ということも、 <人間の身体を対象として行われる縄の縛りによる性的行為>をあらわすことは変わらないものである。 但し、<日本の緊縛>という表現になっていないのは、 <日本の緊縛>という一般性から見れば、<緊縛>は、SM(サディズム・マゾヒズム)でしかないからである。 <日本の緊縛>はSMであるかもしれないが、<日本民族の縄による緊縛>はSMではないからである。 <日本民族の縄による緊縛の美学>ということがあらわす意味は、 それがサディズム・マゾヒズムではなく、日本民族の独創的な性的表現である、ということを言っていることだからである。 |
サディズム・マゾヒズムということが虐待や陵辱の加虐・被虐を通して性的快感を求める、 人間のなかにある精神的・肉体的な意味においての属性とされることであるならば、 <日本の緊縛>というのは、どのように日本民族の独創性が発揮された性的表現であったとしても、 西洋精神から考え出されたサディズム・マゾヒズムへ隷属したありようしか示せないものである。 言い方を換えるならば、西洋精神から生み出された思想の奴隷に甘んじているということである。 その奴隷状態を幸福なありようであると考えていることだとしたら、実におめでたい話に違いない。 奴隷の身分に甘んじることで、その本来ある民族としての矜持を放棄していることであるのだから、 民族の本質という事柄へ思いを馳せる者から見れば、<日本の緊縛>という茶番が示されていることでしかない。 茶番とは、底の割れたばかばかしい行為や物事の意味であるから、 <日本の緊縛>ということを通して、人間における性の研究が学者によって真剣に行われたこともなく、 せいぜい、日本におけるサディズム・マゾヒズムのひとつの現象として捉えることがされたくらいのことであるか、 縄による緊縛で性の満足が表現できるということが示されたという程度のことである。 しかしながら、<日本の緊縛>は、断じて茶番ではないことは、 その表現された歴史的時間と豊富さを見れば歴然としていることであり、 そこに意義を見出せなかった性の研究者というのも、底の浅いものでしかなかったのかもしれない。 サディズム・マゾヒズムが精神病理学という学術として存在理由をあらわしていることは、 そのような学問的方法へ根拠を置くことのなかった、学術の未開民族であった日本人にとっては、 ただ啓蒙されるばかりのことであったと思えたことであろうし、 西洋へ並ぶためには、鵜呑みに修得しなければならないことであったのだろう。 しかしながら、その西洋思想の受容が民族に本来ある思想をないがしろにして、 侵略されたのと同然となるくらいのことを啓蒙された幸福状態であると思い込んでいることだとしたら、言語道断であろう。 <日本民族の縄による緊縛>は、世界に数多ある民族のなかにあって、独創的な性的表現を成し遂げているものであり、 それは、独自なものであってこそ、思想であり、美学となることだからである。 少なくとも、西洋思想に隷属しているだけのありようからは、民族の独創性の展開はありえないことである。 民族は、民族みずからの思想を展開することなくしては、民族の過去の歴史を放棄しているようなものであるからである。 日本民族があらわす思想と美学が西洋を啓蒙することが日本という民族精神であることだからだ。 サディズム・マゾヒズムも、ユダヤ・キリスト教という宗教を基にして、西洋の民族精神として考え出されたものだからである。 人間のなかにある精神的・肉体的な意味において、 虐待や陵辱の加虐・被虐を通して性的快感を求める属性があるとすることは、 民族の宗教のありように基づいていることなのである。 被虐にある民族を救済し、最後の審判において、唯一神の統合する天国の至福へ至らせる地上の導者、 イエス・キリストは、裁判で汚名を着せられ、罪人として激しく鞭打たれ、腰の砕けるような重い十字架を担がされ、 茨で作られた偽の王の冠を被らされて、処刑場の丘までの道のりを血みどろに虐待されて歩かされる、 ようやくたどり着いた場所で、腰布ひとつの恥辱の姿で、白木の十字架へ、両手首と両足首へ杭を打たれて磔にされる、 それから、死に至るまでの長い時間、放置されるという苦痛と陵辱に晒されるのである。 この激烈な加虐・被虐、虐待、陵辱、恥辱、苦痛にあってこそ、死後の復活ということが果たされるのであり、 それこそは、唯一神の統合する天国の至福へ至らせる正しい教えの始まり、ということになるのである。 加虐・被虐、虐待、陵辱、恥辱、苦痛ということは、ユダヤ・キリスト教にある民族にとっては、特別の意味があるのである。 それは、加虐・被虐、虐待、陵辱、恥辱、苦痛を通ることをしなければ、至福へは至れないという考え方である。 イエスを救世主と認識するということは、イエスの受難をみずからも思い体験するということなのである。 これは、西洋の民族精神が求めている立派な思想であり、尊厳ある宗教的行為である。 加虐・被虐、虐待、陵辱、恥辱、苦痛に晒される残虐行為を受容してこそ、聖人へ列せられる模範なのである。 しかしながら、人間は、宗教という思想だけで成り立っているものではない。 人間には、民族の保存、種族の維持が目的である性というものがある。 民族における宗教思想は、その性のありようと如何なる折り合いをつけるかによって、民族性をあらわすことであるが、 ユダヤ・キリスト教の至福へ至る概念は、 加虐・被虐、虐待、陵辱、恥辱、苦痛の通過ということを性に結び付けることをしたのである。 人間という存在は、民族の如何に関わらず、加虐・被虐、虐待、陵辱、恥辱、苦痛を表現するものである。 この限りでは、人間には、加虐・被虐、虐待、陵辱、恥辱、苦痛の精神的・肉体的の属性があると言える。 その属性を性と結び合わせて民族の宗教的な解釈をしようとすれば、人間には、 虐待や陵辱の加虐・被虐を通して性的快感という至福を求める、サディズム・マゾヒズムがあるということになる。 サディズム・マゾヒズムをさらに神へ至るための神秘思想へ発展させることをすれば、 性の神学というようなことも生まれることになり、 神が深遠なものであるのと同じくらいに、性は神秘的なものである、ということへ至ることになる。 <神が深遠なものであるのと同じくらいに、性は神秘的なものである>という考え方そのものは、 民族の如何に関わらず発想されることであるから、異なった宗教にある民族にあっても、 虐待や陵辱の加虐・被虐を通して性的快感を求める、サディズム・マゾヒズムというものがありうると考えられる。 加虐・被虐、虐待、陵辱、恥辱、苦痛の表現されるものは、すべてサディズム・マゾヒズムの属性によることだとされれば、 そこから考え出される一切の表現は、加虐・被虐、虐待、陵辱、恥辱、苦痛をどれだけ見事にあらわすものであるか、 優劣を競い合う品評会の様相を呈するものでしかなく、残酷な表現が残虐な表現を生み続けるということになる。 人間とは、つまるところ、みずからを表現することを生とする動物であることを示しているに過ぎないことであるが、 それはさて置いて、これは、あくまで、ユダヤ・キリスト教の宗教解釈による人間の属性である、 加虐・被虐、虐待、陵辱、恥辱、苦痛を表現する人間の属性については、別の考え方もできるということである。 わが日本民族の思想において、サディズム・マゾヒズムの導入以前へ立ち帰って見れば、わかることである。 但し、そのとき、ひとつの付け加えられる考え方が必要であるが、そのとき、それが適わなかったことであれば、 現在の時点で、その立ち帰ったところから、新たに思想を展開させればよいことであって、 すでに起こってしまった歴史の事象が取り返しのつかない過去を意味することではあっても、 歴史の事象の解釈は現代史をあらわすということでは、適合する改変というのは必然の成り行きと言うことである。 人間には、種族保存と維持の合目的な属性として、生存を求めるための欲というものが三つあるとされている、 食欲、知欲、性欲であるが、これらの欲は、宗教思想が成立するためにも、すでに熟知されているものであった。 それに加えて、人間には殺戮欲というものがあることも理解されていたことではあったが、容認されていなかった。 殺戮欲は、<人間は、他を殺すということをすれば、みずからを殺すこともする動物である>ということである。 人間は、他殺と自殺の殺戮欲があるということである。 生存を目的として食欲を満たすために他の動物を殺戮することから始まり、 みずからが生き延びるために殺人を行うことや、 みずからが死ぬことによって死後を生き延びるための自殺の欲があるということである。 これまで、人間にあるとわかっていながら、殺戮欲という存在を容認できなかったことは、 人間の死は、人間を超越する存在に委ねられたものであってこそ、 生の意味と同様に重要性があるものだと考えられたことからである。 すべての宗教は、人知を超えた存在を考えることによって始まるものであるから、 殺戮欲が人間の掌中にあって、その行為が公然と正当化されることは、 人間の群棲を社会化するには、まったく不都合なことであったからなのである。 殺戮欲のままに殺戮を行えば、殺戮は荒唐無稽なまでに行われ、種の絶滅さえ招くと考えられたからである。 人間にある殺戮欲は、宗教的・倫理的に戒められるために考えられるか、隠される意義のようにして置かれた。 しかしながら、人類は、みずからを教育してここまでの進化を遂げた存在であるという自覚と自負があるならば、 もはや、人間のなかにある殺戮欲を容認して、新たな人間の認識へ向かうべき段階にあることでないのだろうか。 少なくとも、この殺戮欲を前提とすれば、 サディズム・マゾヒズムが単なる西洋の民族思想に過ぎないことは明らかとされるのである。 人間には、生存を目的として、種族の保存と維持を行う、食欲、知欲、性欲、殺戮欲がある、 この認識を前提として展開する思想こそ、 日本民族に本来ある創始以来の脈々とした流れをあらわすものなのである。 西洋の啓蒙的な学術に異を唱えることは、学術の後進国、未開民族をあらわすことだという恐れがあるなら、 いつまでも、追従した、おべっか使いのおめでたい、ままごと遊びをする奴隷に甘んじていればよいことである。 民族が民族みずからの存在理由を明らかとさせることに、 他の民族との相反、軋轢、対立を避けては、できるはずのないことだからである。 学術における対立に、平和・友好・おためごかしなど通用するものではないことは、 民族が人間の問題・人類の問題を真剣に考えていることから生まれる思想の民族的対立だからである。 学術そのものでは、実際に殺戮し合う戦争はありえないことだからである。 むしろ、実際に殺戮し合う戦争の前に、人類は、学術の非力をさらけ出してきたことではないのか。 せいぜい、愛や平和や平等を叫んで、人類はひとつというエンターテインメントを行ってきただけのことではないのか。 もはや、わが日本民族が口火を切り、抗争する学術の存在理由が人類の展開へ寄与する模範を示すのである。 戦争やテロや殺人の表現において、愛や平和をエンターテインメントしたところで、 馴れ合いの表現が馴れ合いの表現を生むということに過ぎないのであれば、 抗争する学術こそ、人間が行う戦争のありようであることをあからさまとすべきことなのである。 サディズム・マゾヒズムがそうであるように、エロス(生の本能)・タナトス<死の本能)ということも、 ユダヤ・キリスト教の宗教に絡めてしまえば、ふたつは分離することの難しいものである、 相互性を持った概念であるという複雑さにしか答えを求められない。 生の本能というものがあるとすれば、それは、食欲、知欲、性欲、殺戮欲の四つの欲の総体である。 死の本能というものがあるとすれば、それは、殺戮欲ということに過ぎない。 エロスは、性欲ということであり、それは、男女の交接により子の繁殖が実現されることにある。 知欲は、言うまでもなく、空腹や渇きを満たすように、不可知であることを乗り越えようとすることにある。 ここから出発する心理学が可能であるということである。 精神病理学と言うように、人間は心の病を持っているものである、という前提から出発する学術なのである。 わが日本民族の心理学は、人間は心の病を持っている、という前提からは始まらないものである。 学術が宗教と結び付けられてある限りは、その科学性と呼ばれることも胡散臭いことでしかないからである。 宗教を否定していることではない、宗教が学術の根拠とされることから生ずる、 得体の知れない曖昧さ、不必要に展開される複雑さには、疑問を感じない方が不思議であるということである。 得体の知れない曖昧さや不必要に展開される複雑さへ整合性を持たせるとしたら、 それは、分類という作業で、果てしなく範疇を作り続けていくことでしかないからである。 細分化された範疇に分けられていることは、一見すると体系的にわかりやいすことのように思えるが、 その全体性となると不明が立ち昇ってくるのは、もとより、全体性の認識が欠如していることが始まりであるからで、 その全体性の認識を人知を超越する神を置いて、事無きを得るという仕組みにあるからである。 手の施しようのない人間の心の病は、詰まるところ、神の御手にあることで収まるのである。 性欲には、性的官能というものが属性としてあり、それは、性的官能のオーガズムをもたらすものである。 この性的官能のオーガズムは、比肩するものがないほど、円満具足とした至福と言えるような快感のあることである。 人間の行うすべての性的行為は、この性的官能のオーガズムを求めるために行われるものである。 このことは、非常に単純な事実であるが、 交接の前戯と称されるものが性的官能のオーガズムを高め維持させるものとしてあるように、 様々な様式で考え出されてきたことは、世界にある民族の各々において如実にあらわされていることである。 そして、この事実もおざなりにされていることであるが、 人間の属性としてある性的官能は、四六時中活動しているものである、ということである。 つまり、人間は、生まれたときから死に至るまで、 オーガズムを求めて性的官能を活動させているということである。 これまでに、性的官能のオーガズムの重要性に卓見を示した先人には、ウィルヘルム・ライヒがいるが、 フロイトの心理学の正統からすれば、異端であり、破門され、獄中死という悲惨な末路が示されてある。 性のオーガズムの基であるオルゴン・エネルギーを空気中から採取するための機械装置を製造販売して、 それが不審な商品と見なされて告訴され、アメリカの連邦刑務所へ収監されての晩年であった。 そのような機械装置に答えを求めるほど、性のオーガズムは人間にとって重要であると認識していたが、 中世であれば、錬金術師の賢者の石の探求であったことだろうが、 現代では、効用がない詐欺の大人のおもちゃとしか見なされなかったということである。 従って、ライヒを支持すれば、そこに展開される思想は、いかがわしいものであるか、異端扱いされるものでしかない。 同じ水を飲み合う、同じ宗教の基にある民族にあってさえ、そのようであるのだから、 ウィルヘルム・ライヒを偉人であると称揚することは、馬鹿気たことを言っている、ということにしかならない。 しかし、ライヒのあらわした性的官能のオーガズムの重要性の認識は、 錬金術師の機械装置へ向かうことをしなければ、 人間の属性としてある性的官能は、四六時中活動しているものである、という認識の重要性を導くことなのである。 四六時中活動している、オーガズムを求める性的官能であればこそ、 加虐・被虐、虐待、陵辱、恥辱、苦痛が表現されているときも活動しているのであり、 加虐・被虐、虐待、陵辱、恥辱、苦痛の最終表現が死ということであれば、 それは、殺戮欲と結び付いてあることにしか過ぎない、ということがわかるのである。 人間には、サディズム・マゾヒズムという精神的・肉体的属性というようなものはなく、 あるのは、性欲と殺戮欲であり、虐待の果てに人肉を食することがあるとすれば食欲であり、 そのような行為と行動に認識を求める知欲があるということである。 言い方を換えれば、人間は、オーガズムを求めて、四六時中活動している性的官能を用いて、 加虐・被虐、虐待、陵辱、恥辱、苦痛という前戯を通して、快感の至福へ至ろうとするということである。 従って、加虐・被虐、虐待、陵辱、恥辱、苦痛という前戯を通す必要を感じない者にとっては、 サディズム・マゾヒズムという心理と行為は無意味なものでしかない。 サディズム・マゾヒズムという心理と行為に意味を見ようとすれば、 ユダヤ・キリスト教の至福へ至る受難の概念が説明するというだけのことになる。 サディズム・マゾヒズムが人間の精神的・肉体的属性であるとすることは、 将来の学術としては残らないことであったとしても、 民族の宗教のなかには維持されていく事柄であるということである。 それは、<日本民族の縄による緊縛>が向かう方向とは、異なったありようでしかないのである。 |
<日本民族の縄による緊縛>が民族の宗教に基づいたものであるのは当然のことである。 それは、そのありようが見事にあらわしていることである。 この場合の民族の宗教と言っていることは、神道でも仏教でもない、ましてや、キリスト教でもない。 世界に数多ある民族のなかで、日本民族が固有の宗教思想を抱いていることは、特筆すべきことであるのだが、 それは、見方によっては、無宗教とも見なされないありようであるから、 当然のことであっても、当然の矜持として、あからさまに申し述べられることがはばかられているのである。 日本民族の宗教思想とは、神道も、仏教も、キリスト教も、儒教も、何もかもをも受容している総体である、 正確には、この総体を考えられるという宗教思想である。 互いに相容れないものが並置されてある思想など、相反と矛盾があるだけのものとしか見なされないとしたら、 それは、ひとつの神に基づくことから始まる二元論として考えればそうなるというだけで、 この相反と矛盾を相反と矛盾として感じないところに、日本民族の独創性の所以があることなのである。 このありようには、その基となっている自然に対する思想が民族の創始より脈々と続いていることがあるが、 その<総体を考えられるという自然認識の宗教思想>は、 他の民族には類例を見ることのできないものであるからこそ、 <日本民族の縄による緊縛>という性的表現の独創性を生んでいることへ結び付くのである。 <総体を考えられるという自然認識の宗教思想>というのは、 自然というものをひとつのありようとして捉えることではなく、 自然というありようにあることごとくのものをそれぞれに神が宿るようなものとして考えられるということである。 事物には霊魂など霊的なものが遍在し、諸現象はその働きによるとするアニミズムという、 宗教の原初的形態を意味するものであると言ってしまえば、それにあたることには違いないが、 日本民族のアニミズムは、他のものを含めての宗教思想そのものでさえ、自然の事物と見なすことができるところに、 宗教の原初的形態ではないありようが示されてあることなのである。 歴史的には、古来よりの神道が成立していく過程も、 伝来の仏教や儒教、或いは、キリスト教の影響があってのことであるが、 この神道において、それを唯一の宗教とはしないありようは、 仏教や儒教やキリスト教が唯一のものではないありようと一緒のことなのである。 神道崇拝者や仏教崇拝者、或いは、キリスト教崇拝者からすれば、 何をたわけたことを言っているのだとされることであろうが、崇拝者でない立場からすれば、それこそが自然である。 少なくとも、神社と寺院へ同一人が足を運んで祈祷し、同じ家のなかに神棚と仏壇が奉られている慣習がある。 宗教ということも、崇拝者の熱狂から立場を異にすれば、弾圧や迫害、引いては戦争へ至るということは、 現在、世界を見渡してみても、その例に事欠くことがないばかりか、人類史がすでに明らかとさせていることでもある。 そこに熱狂的な崇拝があるかどうかの違いであれば、アイドルへの熱狂と大差がないとも言える。 これまで、<総体を考えられるという自然認識の宗教思想>は、 一宗派の宗教として存在したわけでも、アイドルとしての存在ということでもなかったから、 日本民族の創始より脈々と続いているありようでありながらも、弾圧や迫害や敵対の対象とはなりえなかった。 実際にありながらも、無いものと同様なありようは、むしろ、因習のようなものであった。 因習であると言えば、昔から続いてきているしきたりということであるから、 場合によっては、悪弊を伴うものでなかったと言い切ることができないことは確かだが、 そのありようがここにおいて、<総体を考えられるという自然認識の宗教思想>として明るみに出されるのは、 日本民族の独創性がさらに展開させられる段階へ到達しているということがあるからである。 はばかりなく、<総体を考えられるという自然認識の宗教思想>を矜持を持って申し述べられるからである。 何故ならば、それは、多くのないがしろにされて隠されていた叡智の事柄を導き出すものとしてあるからで、 <日本民族の縄による緊縛>など、そのなかのたったひとつの事柄に過ぎないことだからである。 現在ある日本民族は、みずからの民族の過去に横たわる膨大な叡智を未来へ繋ぐことをするのである。 それは、民族思想の必然的な展開であり、何よりも、自然へ美を見出す民族の美学のあらわれということである。 <縄による緊縛>は、それを導き出すためのひとつの美学の方法論に過ぎないのである。 <縄による日本の緊縛>は、西洋民族思想のサディズム・マゾヒズムへ準じている限りは、 縄で人体を拘束することは、虐待か陵辱か淫猥を目的として行われることをあらわすものでしかない。 縄を用いて、結ぶ、縛る、繋ぐというありようは、虐待か陵辱か淫猥しかあらわさないのである。 結ぶ、縛る、繋ぐということは、民族みずからの眼で眺められたときに初めて、 それがそこにあるという存在理由の必然性から、自然の総体性へ及ぶ認識の生まれることであり、 性的官能のオーガズムを求めて行われる行為には相違のないことであっても、異なる認識が生まれるのである。 人間の身体を対象として行われるという<緊縛>である。 <緊縛>の対象となるのは、ほとんどが女性であり、男性の割合は極めて少ない事実がある。 この男女間の差異は、男性と女性がどのような関係を示しているかを如実にあらわしていることであるが、 一般的には、女性という存在が歴史的に虐げられてきたものである、という認識にあることである。 実際にある、社会における女性の地位と取り扱われ方、男女の格差をあらわすあからさまな考え方の表現、 ポルノグラフィに示される女性の性の存在理由、サディズム・マゾヒズムで示される男女の相違、 といった事柄は、<女性は被虐に晒されることを当然>としている。 このことは、社会における表現の担い手が現在のところは男性にあり、 男性が男性の存在理由の明確さをあらわすために相対的に行っている、ということに依存しているのであるが、 その事情を複雑にしているのは、そのありようが金を稼ぐための種とされていることにある。 <金を稼ぐための種>というのは、人間が社会を形成し、文明や文化を発展させているなかで、 生存を目的として生活していかなければならない方法のことである。 この<金を稼ぐための種>という事柄を学術的な考察へ持ち込むことは、 性的事柄を持ち込むことと同じくらい、その考察の権威を損ねることになるから避けられていることであるが、 四六時中、人間の性的官能が活動を行っているように、 社会における人間の生存では、四六時中、<金を稼ぐための種>が生活を活動させているのである。 ただ、それは、性的官能が対象を得て活発な活動を起こすまで、その存在が明確なものとはならないように、 <金を稼ぐための種>は、対象を失って活発な活動を中止させられるまでは、その存在が明確とはならない、 日常、思い至らないまでに、人間のありようへ深く関与していることでは、両者は同様なものがあるのである。 両者は、人間の生活へ密着していることであるがゆえに、 考え方を変えるようには、簡単には変革されないものとしてあるのである。 学術へこの両者が容易に持ち込まれない理由は、 人間真理の探求という尊厳ある存在理由をあらわす学術からすれば、 下世話な事柄と一蹴していることだからではなく、思想を変えるようには簡単に変革できないものだからである。 学術を探求する立場の者が行う、不法な性的行為や賄賂の取得などがその認識のあらわれであるが、 それは、政治家や医者、小学校教師や会社社長でもあり得ることであるから、日常性の証明でしかない。 従って、女性がみずからを表現する状況が男性を凌駕するほどの質量となることが明らかとされた段階では、 女性の地位向上のために成されている女性運動も成果がもたらされるときであろう、と考えられることであるが、 実際は、<金を稼ぐための種>が男性より女性へ移行しなければ果たし得ないことなのである。 女性の表現することが<金を稼ぐための種>となり、それを女性が担い手となる状況が生まれることである。 金を稼ぐことの損得に関わりのない思想であれば、どのような荒唐無稽でさえも受容できることでは、 どのような立場の生活人であっても、人間の社会にあっては、真剣な生存の意思のあらわれである、 或る思想を容認できるかどうかは、みずからの<金を稼ぐための種>へ全く依存しているということである。 <金を稼ぐための種>は、繁盛する事柄もあれば、廃れていく事柄もあることでは、人間社会の必然であり、 利益を得ている者は、損失を蒙っている者からの利益である、という因果律のあることである。 <金を稼ぐための種>は、稼げるためなら、種は何でも構わない、というものであるし、 その社会的存在理由については、どのような意味でも付け加えることのできるものであるから、 <緊縛>の対象となるのはほとんどが男性である、 という時代が来るのかもしれないということも、決して、突飛な発想とは言えないことなのである。 男性の<緊縛>が<金を稼ぐための種>となることであれば、成立することなのである。 但し、極めて重要な事柄を抜きにしては成立し得ない、 それは、美の戴冠と言える、学術としての美学の存在である。 美学は、歴史的成果に示されてあるように、美の本質や諸形態に関して、 自然や芸術などの美的現象を対象として、経験的、形而上学的に研究する学問と称されるものであり、 <金を稼ぐための種>といった生活とは乖離して成立することにおいてこそ、あり得るものだからである。 それは、何よりも、<美は想像力の飛翔を生むものである>ということに根拠があることだからである。 人間における想像力、ないものをあると考えることのできる、この能力は、 美学が感覚や知覚によって得られる感性的認識と思惟や理性に基づく理性的認識を両輪とさせた上に、 想像力という天馬の手綱を取って天空を飛翔する美しき戦う乙女のようにして、 成立させられることが本領と言えることだからである。 美の認識は、何処から生まれるものであるか、 それは、四六時中、活動を行っている性的官能に由来していることである。 美は、その極みにおいて、崇高で尊厳のあるものである、という概念は、 超越する最高の存在である神の概念と結び付けられることで、その存在理由が示されていることである。 従って、最高美は神的なものでなくてはならないことから、人間の性的官能から切り離されるのである。 女性の全裸の姿がどのように美しいものであっても、高ぶらされる性的官能が呼び起こす幸福感ではなく、 超越する最高の存在である神を認識できるのと同様の幸福の認識ということになるのである。 美は、下世話な陰茎と膣の結び付きとは関わりなくあることで、美の所以のあることだとされるのである。 この根拠に始まれば、美の反対とされる醜は、不幸・不快・嫌悪といった相対的価値を与えられるのと同時に、 醜においてさえ美が見出せるという考え方も生まれることになる。 それは、美が貶められ、虐待され、陵辱されていることにおいてこそ生じる美がある、という見方である。 崇高で尊厳のあるものが凋落し、退廃し、堕落してあらわす、被虐美といった言葉であらわされることであるが、 女性の美しい全裸の姿も、あられもない格好に縄で縛り上げられれば、美が貶められることになるのである。 美が幸福・快感・愛着を呼び起こすことで、調和があらわされるものとして感受されることであれば、 醜は調和を歪曲させたものとしてあることで、不幸・不快・嫌悪があらわされるものであり、 女性の生まれたままの美しい全裸の姿も、縄の緊縛で歪曲させられたありようは、醜を意味するものでしかない。 その緊縛された全裸の女性も、みみず腫れの残るほど鞭打たれ、熱いろうそくの蝋をまだらになるほど垂らされ、 耳、鼻、唇、舌、乳房、陰唇、陰核へ洗濯バサミを挟み込まれ、ふたつの乳首へ針を貫通させられるばかりでなく、 双頭を持った張形を膣と肛門へ挿入されて、取り囲んだ男性から放出される精液で顔面を濡れそぼつといった、 美の陵辱における歪曲の度合いが激しければ、残酷・残虐・凄惨といった様相があらわれるが、 そこにも被虐美を見出すことができるとしたら、どのような所以に依ることなのであろうか。 人間が残酷・残虐・凄惨といった様相に美を見出すことができるのは、 人間には、サディズム・マゾヒズムという精神的・肉体的属性があるからである、ということが答えになる。 しかしながら、この認識には、美は神と結び付いてあることで、性的官能とは無縁なものであるという始まりと、 終わりに、性的官能と結び付けられることであっても、サディズム・マゾヒズムという神に由来することがある。 美学が神に奉仕するための神を称揚するための神を認識するための学問であれば、それでよいことであろうが、 人間の認識を問題とする学問であれば、それでは、誤謬があることではないのだろうか。 美は、超越する神を前提とすることなく、人間の性的官能によって知覚されるものであることは、明白なのである。 人間の性的官能は、オーガズムを求めて四六時中活動しているものであるから、 与えられた対象に対して、それが円満具足とした至福の快感へ導くものであるかについて、鋭敏に反応する。 そのときに行われる対象への認識は、それが直接的に性的事象へ結び付くものであれば、 陰茎を勃起させたり、膣を濡らさせたりするが、直接的でない場合は、至福の快感を予感させたままにある。 美しさを感じることに幸福・快感・愛着があるのは、オーガズムの至福の快感の予感ということなのである。 その至福の快感を予感させたままでいるか、陰茎を勃起させたり、膣を濡らさせたりすることへ向かうかは、 その対象の表現することが直接的であるか間接的であるかに依存することであるが、 同様に、認識する側において活動させられる想像力へ依存することでもある。 想像力は、未だないものであるオーガズムをあると考えさせる、ということをするのである。 着飾った和服姿の女性を眺めていて、そのありようの美しさだけでもうっとりとさせられる快さがあるが、 想像力は、その女性が生まれたままの全裸をあらわしたときを考え出させることをするのである。 女性の全裸があらわす美は、さらに、性的官能をオーガズムへと向かわせることする、ということである。 美の認識は、感性的認識と理性的認識と想像力が総体化されたものとしてあるということである。 このことは、自然の景観を眺めるときに感じられる美も同様のことである、ただ、そのときの想像力は、 着物を剥ぎ取って全裸を求めるようには、海や山や星の外観を剥ぎ取らないというだけで、 海や山や星の不可思議へ思いを馳せさせ、性的官能をオーガズムへと向かわせるということでは、 その快い美の認識は、そばに一緒にいる異性へ向かわせることであるかもしれないということである。 対象が性的官能の直接的事象であるか、間接的事象であるかの相違は、 段階的な相違であることであるが、そこから展開される想像力の表象に答えが求められるのである。 美が貶められ、虐待され、陵辱されていることがあるからこそ美が生じる、被虐美ということは、 それが実際にはどのような状況のもとで表現されていることであるか、ということが問題なのである。 先ほどの例のように、女性の生まれたままの美しい全裸の姿も、縄の緊縛で歪曲させられ、 みみず腫れの残るほど鞭打たれ、熱いろうそくの蝋をまだらになるほど垂らされ、 耳、鼻、唇、舌、乳房、陰唇、陰核へ洗濯バサミを挟み込まれ、ふたつの乳首へ針を貫通させられるばかりでなく、 双頭を持った張形を膣と肛門へ挿入されて、取り囲んだ男性から放出される精液で顔面を濡れそぼつ、 といったありようは、直接的に性的事象へ結び付くことしかあらわさない。 その性的事象があらわす性的官能のオーガズムへ向かうありようは、 対象の認識をみずからも性的官能のオーガズムを求めるという想像力が発揮されることを答えとさせる。 身近に異性があれば、交接することが求められ、それがかなわなければ、自慰が求められるということである。 ここには、美しさを感じることに幸福・快感・愛着や調和がある、ということは存在しない。 つまり、被虐美と呼ばれることは、 性的官能の直接的事象から間接的事象へ至る、或る段階が示されるということになる、言い換えると、 悲惨、凄惨、残酷、残虐といったありように美を認めることは、人間の認識ではあり得ないことなのである。 人間の美の認識は、性的官能のオーガズムへ依存するものである以上、 円満具足とした至福の快感があるものでなくては、美とは感じられないことだからである、にもかかわらず、 悲惨、凄惨、残酷、残虐へ美と呼ぶような快感を感受できることがあるとしたら、それは、何であるのか。 それは、殺戮欲が呼び起こすものなのである。 これまで、人間にある殺戮欲の存在が明るみに出されることがなかったために、 悲惨、凄惨、残酷、残虐といったありようが殺戮欲と結び付いて知覚されていることへ思い及ばなかった。 悲惨、凄惨、残酷、残虐をあらわす虐待や陵辱が不幸・不快・嫌悪という醜をあらわすものであることは、 醜は円満具足とした至福の快感をもたらさないものであるから、そこには、美は存在しないことが示されている。 それが美であると言っているとしたら、美と混同していることである、という本末転倒の誤謬があるのである。 ましてや、美という言語定義を拡大解釈して曖昧にさせているというだけでは、美学とは無縁のことである。 みずからを生存させる目的の殺戮欲は、 生存の目的のために、悲惨、凄惨、残酷、残虐をあらわす虐待や陵辱を行うことを求めさせる。 虐待や陵辱に晒される対象を前にしたとき、殺戮欲は、みずからの生存の満足感をもたらされるのである。 対象が表現する性的事象が性的官能のオーガズムを求めるさせる至福の予感があれば、 それを美であると認識しても、実際は、殺戮欲が生存の満足感を求めての虐待や陵辱のありようなのである。 虐待や陵辱のありようは、不幸・不快・嫌悪をあらわすものであり、それは、醜ということでしかない。 美に対しては、醜のあらわれに、人間にある殺戮欲の存在が示されていることになる。 性的官能のオーガズムを求める至福の予感は、美の現出である、 殺戮欲のあらわれである悲惨、凄惨、残酷、残虐は、醜の現出である。 美と醜という認識は、これが出発点であって、 神という超越性に依ることでも、性的事象の不幸・不快・嫌悪をサディズム・マゾヒズムに依ることでもない、 縄で縛り上げられた全裸の女性がナイフで切り刻まれるありようには、殺戮欲しかあらわされていないのである。 美は想像力を飛翔させるものである、醜は想像力を飛翔させない。 悲惨、凄惨、残酷、残虐をあらわす虐待や陵辱からは、 人間の生存の意志はあらわされるが、飛翔する想像力が生み出させる生存の維持や展開はありえないのである。 |
生まれたままの美しい全裸にある女性が縄で縛り上げられて歪曲された姿態をあらわしている、 そのありようからは、不幸・不快・嫌悪が呼び起こされる醜が感じられる、だが、一方では、 <緊縛>があらわす妖しい美しさのかもし出される快感がある、という被虐美の感じられることがある。 この被虐美と呼ばれることは、性的官能の直接的事象から間接的事象へ至る、或る段階が示されている。 美の知覚であるオーガズムを求める性的官能の性欲と醜の知覚である殺戮欲とが交錯する段階である。 この交錯する段階は、知覚する主体者の性欲と殺戮欲の程度に依存してあることであるが、 美醜を極めて流動的なものとさせていることには、この知覚には、食欲も関与していることが実際であり、 それは、味覚の美醜をあらわすものとしてあることが複雑とさせている。 人間存在にある四つの欲、食欲、知欲、性欲、殺戮欲の総体として知覚されるものであることでは、 美学の探求は、感覚や知覚によって得られる感性的認識と思惟や理性に基づく理性的認識を両輪とさせた上に、 想像力という天馬の手綱を取って天空を飛翔する美しき戦う乙女のようにして、 成立させられることの本領において、まさしく、<美の戴冠>と称されることの所以である。 美の認識こそは、人間のすべての認識の最上位にあって戴冠するもの、ということである。 美学の探求がないがしろにされる文明や文化には、人間に関する探求は発展しえないということである。 何故ならば、美醜の知覚においては、言語による概念的思考における整合性は存在しないからである。 美醜の知覚は、整合性を必要としないで成立することでは、概念的思考を超えたものでさえある。 それを概念的思考において成立させようとすれば、 幸福・快感・愛着をあらわす美の極みを人間を超越した存在と重ね合わさせることになるのは当然である。 美は美神としてある、という想像力である。 美醜が求めるところの最高美が調和でしかないと考える美学においては、 人間の認識における最高美のありようを人間を超脱する神的存在を認識できることにあるとすることである。 それは、混沌や荒唐無稽とは正反対のもの、秩序や調和という整合性のあらわされたものとなることが求められる。 美醜は、知覚の現象であるよりも、言語による概念的思考が生み出せる言語そのもの、 その整合性の美醜において、審美が問われるというようなものとしてあるということである。 つまり、言語の美醜の探求であるところの修辞学が要求されることである。 これらの哲学、美学、修辞学といった学問の方法が西洋から導入される以前には わが日本民族において、その存在がなかったと考えることは、その存在のあり方の問題でしかないことである。 西洋の方法と同一のものを求めようとすれば、それがわが民族にありえないのは、当然のことである。 西洋の民族は、みずからの宗教性に基づいて、人間に関する学を発展させていったように、 わが日本民族も、みずからの宗教性に基づいて、学を発展させてきたからである。 但し、西洋の宗教が一義の絶対性をあらわしているように、その学も厳然たる一義を示すように創造されることでは、 わが日本民族の学が一義となる様相を持ちえないのは、宗教が一義の絶対性にないというだけのことである、 何もかも、西洋の思想を世界基準として考えようとすれば、メートルと尺は相容れないものとしてあることは、 それでは、メートルを基準として、度量衡以外の事柄まで推し量ることが可能であるのかと問うのと一緒である。 人間の生存と生活のために有用となる道具(手段)としては、より有用なものが求められのは必然的なことであるから、 度量衡においてメートルの使用が有用であれば、それは全般として用いられることになるだろうが、 民族の存在理由をあらわす有用な道具(手段)として、果たして、西洋の哲学、美学、修辞学は有用であるのだろうか。 それは、真剣に学ばれる必要があるほどに、わが民族の学の独自性を際立たせることになるものではないのだろうか。 少なくとも、わが民族にある宗教性、<総体を考えられるという自然認識の宗教思想>においては、 人間にある四つの欲、食欲、知欲、性欲、殺戮欲というものは、 すべては生存を目的として活動していることであり、 人間は生存の喜びを求めて存在する、ということが根本的な事柄である。 従って、<死の本能(タナトス)>というようなことは、<生の本能{エロス)>と対峙して示される限り、 神と人間、善と悪、正と反、といった二元論に依るだけのことで、 西洋的心理のひとつの考え方に過ぎないものである以上、人間の正確なありようとは言えないことになる。 そのような二元論が収拾のつかなくなったときは、 決まって、各概念は相互に要素を持ち合う、というどっちつかずの解釈へたどり着くことは、 そもそもの始めから、悪魔は神の堕落したものである、という二元論の根本的認識があるからであって、 神も悪魔も同体化したありようは、正(テーゼ)と反(アンチ・テーゼ)における総合(ジン・テーゼ)というようなことである。 西洋の思想を批判することが目的ではない、それらは民族の偉大な叡智である、学ぶことの大なるものがある、 だが、それらがすべてわが日本民族に適合するかは、問題は別であるということである。 みずからの民族の独創性をないがしろにして、他へ追従しているだけの民族ということは、ありえないことだからである。 現在としてあるわれわれが先人の独創的に創造したものを遺産のように食い潰しているだけでは、 わが民族の未来における独創性の発揮など、到底望めないことだからである、 わが日本民族は、他の民族に類例を見ない、人間存在としての独創の世界的模範となることの未来である。 それが成し得る、<総体を考えられるという自然認識の宗教思想>にあることだからである。 超越する絶対神の一義から考え出される二元論ではなく、 あまねく神のある総体の多義から考え出される美学なのである。 生まれたままの美しい全裸にある女性が縄で縛り上げられた姿態をあらわしている現象を前にさせられたとき、 <総体を考えられるという自然認識の宗教思想>にあるわれわれは、 そこにある歪曲された肉体のありようをわれわれの眼で見つめることをするのである。 変形や異形や歪曲に美を認識するというのは、美が幸福・快感・愛着をあらわす人間の知覚ではありえないことである、 変形や異形や歪曲に美を認識すると言っていることは、 <調和としての美>が前提とされた考え方においてしかないのである。 <調和としての美>とは、整合性に基づいた美である。 その<整合性に基づいた美>が歪曲されたことにあって生ずることのある美である、と言っていることである。 音楽に喩えれば、和声における協和音が<整合性に基づいた美>をあらわすものであるとすれば、 不協和音をあらわすものが<歪曲された美>のありようということである。 不協和音が<歪曲された美>に留まらず、不協和音が全体をあらわす音楽は、当然に醜をあらわすものであるから、 その音楽からは、醜は殺戮欲における死を明らかにするものであるから、生の不安、恐怖、戦慄がかもし出される。 十二音音楽が成立した背景には、作曲者の妻の不倫・自殺やユダヤ民族殺戮への不安、恐怖、戦慄があり、 それを作曲理論という<整合性に基づいた美>に収めて、円満具足とした至福の快感を求めたということである。 従って、<歪曲された美>と言っている西洋のありようは、あくまでも、<整合性に基づいた美>に基づくのである。 美は美神としてある、ということである。 これをそのまま敷衍すれば、女体の緊縛美も歪曲されてあることが実際であるから、 同様なものとして見なすことは容易である。 だが、それでは、日本の古来よりある音楽の和声が<調和としての美>のあることだとしても、 <整合性に基づいた美>ではないということを未開民族の音楽のように考え、ないがしろにするのと同様である。 日本の古来よりある音楽が西洋の記譜法に当てはまらない事実がそれを簡単にあらわしていることであるが、 それを無理やり当てはめて理解していることだとしたら、その後の理解が歪曲されることになっても、不思議はない。 わが民族における<調和としての美>は、相反や矛盾していることさえも総体として感受できる自然性にある。 それは<調和>ではないでのではないか、という批判があるとしたら、その<調和>の概念に依存していることである。 <整合性に基づいた美>だけが<調和>であるということは、わが民族の美意識にはありえないのである。 それは、美は自然なものとして存在している、ということが前提となってあるからである。 美は、作り出される整合性ではなく、自然として存在しているものだからである。 このありようをないがしろにするか、或いは、放棄してしまったのでは、わが民族の美意識の所以もないことであるから、 西洋の美学へ追従・隷属するか、倫理が失われたと言って自然破壊を嘆く、といったことにしか収まらない。 何故なら、わが民族にとっての自然は、そこにそのままあるから自然ということではないからである。 自然は、人間と結ばれ、縛られ、繋がれることがあって、初めて自然という認識にあることだからである。 わが民族が<総体を考えられるという自然認識の宗教思想>と共に発展させた思考の方法は、 結ぶ、縛る、繋ぐ、ということにあるからである。 <縄>の発祥というものがわが日本民族の独自のありようでないことは事実である、 むしろ、他の民族との共通の事柄であることをあらわしている。 しかし、わが民族が<縄>に対して独自の文明と文化を発展させたことは、縄文土器にあらわされる表象を初めとして、 <縄>が宗教、政治、軍事、生活と多義多様に用いられてきたことにあらわされている。 そこに育まれた、結ぶ、縛る、繋ぐ、という思考の方法は、 外来の文化を導入しても、わが民族のありようとして、結ぶ、縛る、繋ぐ、ということをさせてきたことである。 ここに見られる、漢字、かな、ひらがな、外来語、とその文法における言語ひとつを取っても、それは明らかである。 わが民族には、<縄>が或る物と或る物とを結び合わさせるように、それらが互いに相反・矛盾することであってさえも、 或る観念と或る観念を結び合わさせる方法に独自性が発揮されてきたということである。 わが民族の文明と文化が明らかとさせているように、 われわれには、他の民族の思想に追従・隷属する必要なく、 結ぶ、縛る、繋ぐ、という思考の方法で、独自から独創への展開が可能であるということである、 <日本民族の縄による緊縛>の存在理由とは、そのことを如実とさせていることなのである。 <日本民族の縄による緊縛>があらわしていることは、それが偶然的に発生したものではなく、 日本民族の美学が失われていなければ、顕在化しなければならなかった、性的事象のあらわれということである。 世界に数多ある民族を見渡してみて、<日本民族の縄による緊縛>に匹敵するものを見つけ出すことができるだろうか、 それは、不可能なのである、絶対にありえないことなのである。 <日本民族の縄による緊縛>は、日本民族の美学において、その宗教思想においてのみ、ありうることだからである。 <縄>というものの存在、その意味することがその発祥におけるものと現在も変わらなくあること、 <縄>が単なる道具であれば、もっと有用なものと置き換えられて拘束の目的に使用されることでありながら、 五千年以上も前と同様の<縄>が用いられて、<日本民族の縄による緊縛>が行われることは、 それが人間の肉体という自然を表象するものを自然の植物繊維である<縄>で結び、縛り、繋ぐことをするからである。 自然は、あまねく神のある総体の多義多様性として、人間の肉体にも、縄にも、緊縛の手法そのものにも神が宿るという、 <総体を考えられるという自然認識の宗教思想>にあるからである。 そのようにして自然と同体化できることが美意識を納得させることであるから、 美意識を高めるために、肉体へ施される縄の掛け方に意匠が凝らされるばかりか、 捕縄術の流派というものが百五十以上も存在したという江戸時代には、 縛り方とその名称は三百種類、縛る対象の男女、身分、方角においてさえも、緊縛の形態に異なるものがあり、 不動明王が持つ左手の羂索になぞらえて、破邪顕正と言う宗教的意義まで明確にされていたことなのである。 <日本民族の縄による緊縛>の<縄>は、自然へ結ばれ、縛られ、繋がれる自然そのものなのである。 生まれたままの美しい全裸にある女性が縄で縛り上げられて歪曲された姿態をあらわしている、 このありようには、<整合性に基づいた美>である<調和としての美>が歪曲されて、美が見出されているのではなく、 それが自然をあらわすことであれば、歪曲も、変形や異形さえもない、と考えられる美としてあることなのである。 歪曲や変形や異形さえもない、と言っていることは、それが苦痛をできるだけ抑える拘束という目的があって、 江戸時代における捕縄術が緊縛の主旨としていたことは、 縄抜けができないこと、 縄の掛け方が見破れないこと、 長時間縛っておいても神経血管を痛めないこと、 見た目に美しいことであった。 従って、この<四つの主旨>にあらわされていることが総体化されている緊縛でなければ、 <日本民族の縄による緊縛>ということにはならず、自然への同化ということも明確には果たされないことになる。 言い方を換えれば、自然への同化ということが明確に表現されていない人間の肉体の縄による緊縛は、 縄掛けの技法において、この<四つの主旨>が果たされていないことのあらわれであり、 その不足している部分こそは、サディズム・マゾヒズムへ置き換えられているということである。 <日本の緊縛>が<日本民族の縄による緊縛>ではない、と当初に述べたことである。 すべての性的行為は、性的官能のオーガズムを求めて行われるものである。 オーガズムを求めるために複雑な過程を嫌い避けることは、性的官能の性質からは必然的な経過である。 陵辱を目的として人間の肉体を拘束するだけのことであれば、オーガズムを求める手っ取り早い方法ということでは、 <四つの主旨>が果たされる縄による緊縛という過程は、余りにも冗長であり、決して単純な方法ではない。 縄掛けに馴れていない者が行えば、<四つの主旨>のひとつでさえ成し得ないことである。 <四つの主旨>が総体化できるということは、縄掛けに熟練している者であって、始めて成し得ることなのである。 つまり、性的官能のオーガズムを求めて行われることのために、技術の習得が必要であるということである。 性的行為に技術の習得が必要であるということでは、交接の体位四十八手と呼ばれていることも同様のことにあるが、 その目的は、可能な限りに性的官能のオーガズムへ至ることを引き延ばして高めることにあるように、 修得した技術よる縄の緊縛も同様のことであるのは、その縄掛けの過程が<前戯>であることをあらわしている。 可能な限りに性的官能のオーガズムへ至ることを引き延ばして高めることが<前戯>であれば、 そこに余りにも冗長であり、決して単純な方法が求められない所以も明確となることである。 <日本民族の縄による緊縛>は<前戯>に過ぎないことである、 従って、サディズム・マゾヒズムを導入しなくても、<四つの主旨>さえ総体として果たされれば、 縄文土器の表象以来の民族の伝統を継承するありようとして、 <総体を考えられるという自然認識の宗教思想>により、結ぶ、縛る、繋ぐ、という思考の方法があらわせることになる。 サディズム・マゾヒズムが導入されて絡められたことで、 その本来のありようを不要に歪曲された縄による緊縛であったが、 ここにおいて、伝統のありようへ立ち返ることが可能となるのである。 それであってこそ、<日本民族の縄による緊縛の美学>の成立することであり、 その美学によって、これまでの歴史的表現を再評価して、未来へと結ぶことを可能とさせることになるのである。 生まれたままの美しい全裸にある女性へ掛けられた<縄>を見つめてみよう。 或る物と或る物を結び合わせるために<縄>は生まれた。 それは、思考において、概念と概念を結び合わせて撚り合わせることの現実化であった。 <縄>の素材となるのは、麻や綿や藁などの自然が生育した植物の繊維である。 その繊維を結束させたものを二重の螺旋形状として撚り上げるのである。 二重の螺旋形状が遺伝子にあるとされるDNAと同様であるのは偶然ではない。 <縄>を生み出し、<縄>を思考し、<縄>を扱うことにおいて、 結ぶ、縛る、繋ぐ、という思考の方法を継承していくことであり、 その独自の思考方法から独創性をあらわすことが民族の遺伝子にあることだからである。 <縄>は、道具として、丈夫であり、柔軟であり、変化に富んで、扱いやすいものである、 結び合わせる対象を多義多様に行わせるということでは、神秘的な力が宿ると考えられても不思議はない。 <縄>の神秘は、それを扱うことの技術の奥深さという神秘へ導き、縄掛けということは、 縄抜けができないこと、縄の掛け方が見破れないこと、長時間縛っておいても神経血管を痛めないこと、 見た目に美しいことにある、ということにおいて、様々なる意匠へと展開させるものがある。 その美しい意匠をまとうのは、自然が生み出した曲線の優美さにおいて最高の形態である女性の肉体であれば、 生まれたままの美しい全裸にある女性が縄で縛り上げられた姿態、 それは、最高の自然美をあらわすものとしてあると言われても、否定できないことであろう。 |
生まれたままの美しい全裸にある女性が縄で縛り上げられた姿態は、最高の自然美をあらわすものとしてある、 それがわが民族の美学であるなどとは、とんでもない話である、 ただ、猥褻な事象の考察であるに過ぎないではないか、 このように反論される言葉が聞こえてきそうである。 <日本民族の縄による緊縛の美学>など、単なる偏向な性的趣味による、思い入れの産物にしか過ぎない、 美学であることの一般性に欠けるものであれば、美学を語る無意味さを露呈させていることでしかない、 そもそも、美学が人間のすべての認識の最上位にあるなどという荒唐無稽なたわごと、 猥褻は猥褻に過ぎないということを猥褻は審美であると言っているのと同じだ、言語道断である、云々。 いずれにしても、批判が向けられないのであれば、無視されるだけのことであるから、 最後に、審美の知覚についての言及を添えたい。 美醜の知覚は、人間にある生存を目的とした四つの欲、食欲、知欲、性欲、殺戮欲の総体の活動として行われる。 そのなかにあって、美と醜が相反をあらわすものとして知覚されることには、 美においては、性欲にある性的官能のオーガズムが求める幸福・快感・愛着が感覚されるものとしてあり、 醜においては、死が如実とされる殺戮欲の求める不幸・不快・嫌悪が感覚されるものとしてある、 食欲における味覚の美醜が直接関与するかどうかは、対象のありように依存するものとしてある。 美と醜は、生の感覚と死の感覚をあらわすものとしてあるのである。 美と醜は、ふたつの異なった感覚としてあるもので、両者は知覚されることでは入り混じってはいても、 感覚されるときには、明確な分離が行われるものとしてある。 それは、性欲と殺戮欲が同じ生存を目的とした活動でありながら、各々が独立したものとしてあることに依存している。 四つの欲は、すべてが各々に独立した活動を行っているもので、 それらが相互に相容れるということはない、性欲は性欲であり、殺戮欲は殺戮欲である。 この四つの欲が各々に独立したものであることは、われわれが人間存在を思考し続けていくことで、 その最終に見出されることになる、無秩序や混沌や荒唐無稽の認識としてあらわされる。 無秩序や混沌や荒唐無稽の認識に始まらない、民族史も、宗教も存在しない。 人類の誕生は、無秩序や混沌や荒唐無稽よりの発祥であるから、神という人間を超越した存在が必要なのである。 人間を超越した存在というのは、人間が無秩序や混沌や荒唐無稽を超脱して生存するための目的なのである。 従って、四つの欲は、人間を超越した存在が支配する戒律の下へ置かれることで、人間となることを定められる。 四つの欲のなかでも、特に、性欲と殺戮欲は、直接に生と死とに関わることであるから、厳格に支配される。 そのようにして、人類は、各々に民族としての文明や文化を発展させて現在に至ったことであるが、 四つの欲が最終の認識として、無秩序や混沌や荒唐無稽をあらわすことに変化がもたらされたわけではない。 あれやこれやと散々に、それぞれの民族に応じた、人間に関する深く広い思考が行われてきたが、 それは哲学と称されるものであるが、人間に関する考察を範疇化し、分類化することには向かっているが、 四つの欲の最終の認識を変えさせるものでないことは、 人間はみずからの力で四つの欲を統御することは不可能である、という大前提があることだからである。 人間が思考を行う知欲の活動は、独立した活動である以上、他の欲を統御することはできない、 腹が減ったからと言って我慢することはできても、食欲をなくすことはできない、 性的官能が高ぶったからと言って我慢することはできても、性欲をなくすことはできない、 対象を殺害してまでもみずからが生存を求めることを我慢することはできても、殺戮欲をなくすことはできない、 これらの欲をなくすことが不可能であると我慢することはできても、知欲をなくすことはできないのである。 このありようとしては、人類の創始のときも現在もまったく変わらないということである。 ただ、人間は、我慢する考え方や行動をあれやこれやと散々に作り出して、 生存を引き延ばし続けているということがあるだけである。 何のために。 それは、四つの欲が人間の生存を目的として活動するものだからである。 人間は、生まれた瞬間から死に至るまで、生存を目的として活動する動物であることでは、 この地球上に棲息する、他の生物すべてと何処も変わらないということである。 人間にとって、生が畢竟であって、死はそれに付随しているものとさえ言えることである。 生の重要性を言うために死が持ち出されることはあっても、死の重要性を言うために生が持ち出されることはない、 死が生よりも畢竟であるという考えが示されることがあるとすれば、 それは、四つの欲が人間みずからの力ではどうにもならないものであり、 それは、無秩序や混沌や荒唐無稽を認識させるという場合である。 人間の事象を複雑にして考えようと、単純にして考えようと、四つの欲には、不変のありようしかないのである。 それこそが人間を人間としていることであれば、 われわれの美醜の感覚がその四つの欲が働かせる知覚によるものであるということも避けられないことである。 生まれたままの美しい全裸にある女性が縄で縛り上げられて歪曲された姿態をあらわしている、 そのありようからは、不幸・不快・嫌悪が呼び起こされる醜が感じられる、だが、一方では、 <緊縛>があらわす妖しい美しさのかもし出される快感がある、という被虐美の感じられることがある。 この被虐美と呼ばれることは、性的官能の直接的事象から間接的事象へ至る、或る段階が示されている。 美の知覚であるオーガズムを求める性的官能の性欲と醜の知覚である殺戮欲とが交錯する段階である。 このように言ったことであるが、この交錯する段階ということは、 四つの欲が独立して活動しているということにあって、極めて興味深い点なのである。 美学が人間のすべての認識の最上位にあるとさえ言いたいのは、この認識は、他の知覚では見出されないからである。 美学がこの点に留意して始められるものであれば、 人間の生存にとって、<日本民族の縄による緊縛の美学>ということも、無用とばかりは言えないかもしれない。 (2007年3月11日 脱稿) |
☆9.縄による日本の着物緊縛 ☆7.<縛り>のノスタルジアが誘う未来へ ☆縄による日本の緊縛 |