縄による緊縛という結びの思想・四十八手 (7) <異化・変化・昇華> |
<☆初期の段階>にあっては、<欧化主義>に促されて、<西洋思想>へ準ずるか、 又は、<西洋思想>との比較として見るか、或いは、<西洋思想>へ根拠を置くか、 といったありようにおいて、<日本民族>の見地が問われた事柄としてあったことである、 言い方を換えれば、明治時代以前の<和魂漢才>から始まり、<和魂洋才>となって、 <洋魂洋才>などと考えられてきたことに当たるわけであるが、ここで、 <縄による日本の緊縛>は<和魂和才>の表現にある、と称するつもりは、まったくない。 それは、問われる、<日本民族>の<立場>から考えられてきたことであって、 <結びの思想>という<原初の知覚>から始める、<存在理由>の考察においては、 準ずるとか、比較するとか、根拠を置く、といったありようにはないことからである。 <縄による緊縛>が<原初の知覚>としての<結びの思想>の作用をもって行われることには、 <日本民族>があらわし得る独創性がもとより示されることにあるからである、 それは、<結びの思想>の<ひねる・ねじる・よじる>という作用は、 <異化・変化・昇華>させる方法であるということの実践であり、 <初期の段階>を終えては、このありようが<現段階>の意義となることに依るものである。 <初期の段階>から見なせば、そのようにあったということも、 <現段階>から見れば、このようにしか見えない、というありようが示されることでしかない、 同一の事象に対して、<一義>の概念を適用すれば、 同一の事象は、<多義>をあらわすものとして存在することが明示されることで、 いずれが<正しい意義>にあるか、或いは、第三や第四の意義を促すことになるかは、 その事象が真剣に取り扱われていることが証明されることでしかない。 人類史が明確にあらわしているように、問われる<意義>は、最終の答えを持たない、 それは、人類の知欲が能力に長けていることの証明と見るよりも、 人類には、まだ、知ることのできない領域の多大があるだけのことに過ぎない、 日本民族史も同様にあるだけで、知欲は、未知の領域を求めさせるというだけのことにある。 この文章を見ることの可能な者は、現在、そこに生存しているという事実を確認するだけでなく、 人類の最前衛を生きている者にあることを認識する、 あなたが最前衛者であって、あなたの認識が最新を招き寄せる、 古びたものを温故知新として再評価することは必要だが、 古びたものが展開をもたらさないものとしてあることならば、超克していく以外にないことにある、 超克を行うことの可能な者とは、最前衛者にある、生きて存在する者だけである、 死者は、みずから、それ以上を語る者にも、行動する者にもない。 <結びの思想>の<ひねる・ねじる・よじる>という作用は、 生きて存在する者だけが活動させることのできる能力としてあることである。 <ひねるという異化> <異化>という用語は、様々な意義をあらわすものとして使われている。 生態学では、<異化作用>として、生物が外界から摂取した物質を体内で化学的に分解して、 より簡単な物質に変える反応を行い、これによってエネルギーを得ることであるとされる。 心理学では、差異の著しい二つの性質や分量を接近させることで、 その差異が更に際立つことであるとされる。 芸術では、<異化効果>として、ベルトルト・ブレヒトの演劇論の用語にあって、 日常見慣れたものを未知の異様なものに見せる効果を意義して、 観客が劇中の出来事を距離を持ちながら、批判的に見られるようにするための方法とされる。 ヴィクトル・シクロフスキーの提唱した、<ロシア・フォルマリズム>の手法では、 日常的で見慣れた題材を異質なものに変化させることになる。(大辞泉 小学館) これに対して、<ひねる>という<異化>は、次のようにある、 <並置される、異なるふたつ以上の事象を比喩で絡めて、 ひねるという作用として行うものにある>。 <縄による緊縛>が行為の表現として示される場合、 まず、<人体>と<縄>が存在する。 <人体>と<縄>は、相互に異質の存在としてあることは、それらは、 あらわす存在理由が各々に、<動物>と<物>という<異質>を示すということにあって、 <人体>と<縄>が並置されている状況にあるだけでは、意義は生まれない。 <人体>と<縄>が関係を持つためには、<作用>が必要となることで、 <ひねる>という作用が活動する、 それは、両者を結び合わせることにおいての<比喩>となる。 <比喩>とは、或る事柄を類似や関係する他の事柄を借りて表現するという意義にあるが、 <ひとつ>の意義だけを単純にあらわすことにはない、という意味でもある。 <縄掛け>という<関係>を作り出す思考は、この<ひねる>にあって、 <ひとつ>の意義だけをあらわすものにはないということである、 <ひねる>という<比喩>が<縄掛け>の思考となることである。 並置される、<人体>と<縄>は、<縄掛け>という<比喩>が結び合わせるのである、 通常見慣れている、<人体>と<縄>という存在は、 <縄掛け>の<比喩>によって<異化>される、このようにしてあることである。 この場合、如何なる理由から、<縄掛け>の必要が生ずるものであるかを問えば、 <縄>が<人体>を<拘束>するという、<一義>の目的にあることならば、 それが必要に対する答えであり、その目的を果たすことが意義としてあるだけのことである。 従って、<人体>から行動の自由を奪う<拘束>が成し遂げられることであれば、 どのような<縄掛け>にあっても、別の意義を生じさせることにはない、<一義>である。 その<一義>へ<西洋思想>へ準ずる<特定の概念>の適応を行えば、 <縄掛け>は、<SM>をあらわすものである、という<一義>に収まってしまうことになる。 このありようは、<ひねる>の<比喩>としての<多義>の作用とは、矛盾することにある、 言い方を換えると、<無批判に>、ひとつの概念を受容してしまうということにある、従って、 そこから、<西洋思想>へ根拠を置いた、思考の展開へ向かおうとする場合、<無理>が生じる。 この<無理>は、<結びの思想>の<ひねる・ねじる・よじる>という作用が自然過程にあれば、 <ねじる・よじる>へ導かれないという状態がもたらす、 成し遂げられない<整合性>からの<欲求不満>を生み出す。 その<欲求不満>を回避するためには、<西洋思想>へ根拠を置いて準じるしかない、 それは、<隷属>というありようにおいて、甘受するという状態でしかないために、 思考の展開は、根拠を置いた思想以上のものにはならないことになる、 模倣は追従を生み隷属へ至る、という過程をあらわすことへ導かれる。 <縄による緊縛>において、この<無理>は、異性や同性間の性的表現として行われることで、 優先される、性欲と性的官能という生の力動に依って、隠蔽されてしまう。 性的官能の高ぶらされるままに、性欲と殺傷欲の力動を活動させて、 <加虐・被虐>という暴力行為としての可能があらゆる表現として展開されることになるが、 それは、縄による拘束が可能とさせる、不自由に置かれた人体への一方的な強要行為であり、 道具や器具まで用いられての拷問行為と同然の事象となることは、 <到達点>は、強姦と殺人にあることでしかない、 <SMの概念>の本然とは、この意義をあらわすものとしてあることである。 <血と殺人がまったく表現されない>という<和製SM>にしても、 <娯楽>表現として、<到達点>へ至る道程の中途で表現が行われているというだけで、 <SMの概念>の本然が相違するものとしてあるわけではない。 <SMの概念>の抹消の意義は、ひとつには、 隠蔽へ置かれたままにある、<ひねる>という作用を如実にさせることにあるが、 いまひとつは、この<約束の地>のような<到達点>を予定調和させないことにある。 <縄による緊縛>が行われれば、強姦と殺人へ到達する以外にないということは、 <表現の可能>を剥奪された、余りにも短絡なありようでしかない。 人類の創始以来、<人間の全体性の探求>が人類の課題としてある以上、 ウィリアム・ジェイムズの言葉にある、<原理にまで還元し難い頑固な事実>は、 <到達点>を定めさせない命題の存在を示唆するものである。 <初期の段階>ということも、<現段階>が準備されるために存在した、 と見なすことができるようになることが必然的な経過であることは、 日本民族史全体が撚り合わされた<一筋の縄>としてあることへ導かれることにある、 日本民族史は、絶滅のない限り、 綯われる<一筋の縄>として、民族の成長の歴史をあらわすものにあることである、 それが明らかとされるには、最初の<ひねる>という作用を隠蔽するのではなく、 如実としなければならない。 <縄掛け>は、<縄>が<人体>を<拘束>するという、 <一義>の目的をあらわすだけのものにはない、 それは、<非日常性>をあらわし得るものである、 これが<ひねる>が導く<多義>のひとつである。 <縄掛け>の<多義>としてある<比喩>が<異化>するとは、 <非日常性>の<異化>を創り出すことが<縄による緊縛>には可能である、ということである。 <非日常性>というありようは、様々な方法に依って現出可能なことにあるが、 <縄による緊縛>は、明確な表現として、それをあらわせるということにある。 <異化>の導く事柄としての<非日常性>の状況、 それは、通常の見慣れた状況にはないということであり、 同一と思われていた事象がその相違をあらわすことであり、 開かれた次元が顕現されるということである。 通常の認識ではあり得ない、<非日常性>の状態が作り出されることは、 <特殊な状況>が存在することを知覚することであるが、 それが<普遍的な事象>としてあり得ることを知覚することが可能な場合は、 世界に対する認識の広がりをもたらすものとなることにある。 この場合、性欲と性的官能がその知覚に関与するが、 そのありようがいまひとつの<多義>を作り出すことである。 性欲と性的官能は、<本能>の次元で考えられている限り、 <焚き付けられた性欲は、高ぶらされる性的官能のままに、思いを成し遂げさせる>、 という<整合性>の実現を存在理由とするものにある、 即ち、<本能>とは、動物としての交尾の実現ということにある。 この<動物としての交尾の実現>は、男性と女性という異性間において、 <陰茎と膣の結び付き>によって、果たされる<整合性>にある。 ここで、その果たされる<整合性>があり得ない場合は、 <整合性>を求める選択肢は、単独に自慰行為で成し遂げるか、 もしくは、同性を対象とするか、或いは、人間以外の他の動物を対象とするかになる。 <陰茎と膣の結び付き>によって果たされる<整合性>を<正常>と規定すれば、 <自慰行為><同性愛行為><獣姦>は、すべて、<異常>となることにある。 これは、<整合性>にある、性行為の実現についての場合である、 <焚き付けられた性欲は、高ぶらされる性的官能のままに、思いを成し遂げさせる>、 という意義にあるだけで、この<思い>は、<欲求>と同義にある、 即ち、<性欲>に属するありようである。 <性愛>という語は、 <性本能に基づく男女間の愛欲>という一般的な意義を持つことにあるので、 ここでは、<性的愛情>という語を用いるが、 心理が関与する場合の<整合性>である、<性的愛情>が別にある。 この<性的愛情>とは、男性が女性に抱く場合、女性が男性に抱く場合、 男性が男性に抱く場合、女性が女性に抱く場合、男性が他の動物に抱く場合、 女性が他の動物に抱く場合、としてあるが、ここに意義される<性>とは、 <男性>、或いは、<女性>をあらわす規定に依って、見なされる<性>にある、 つまり、<男性>は<陰茎>、<女性>は<膣>の所有が不可欠にあるという規定である。 ところが、<性的愛情>が<心理>においてのことにあると、 <陰茎>や<膣>の所有という<外観>に依存しないことは、 <男性>の<外観>にありながら、<女性>の<心理>をあらわす場合、 <女性>の<外観>にありながら、<男性>の<心理>をあらわす場合があり、 <男性・女性>を共にあらわす場合もあるとすれば、 分類は可能であるが、<男性・女性>の規定が曖昧になっていく、実情が浮かび上がる。 この実情は、一方で、<性転換手術>や<人工授精>が進展していく状況、及び、 <男性・女性>が<社会的地位>を進展させていく状況との相乗作用に依って、 人間の未来像とは、 <男性・女性の規定に依存しない人間存在>であることが示唆されることでもある。 このような状況にあって、<ひねるという異化>は、次のように働くものにある。 <性欲><性的官能><心理(性的愛情を含む全般)>、 この三者の関係は、図式にすると、以下になる。 <性欲> ― 陰茎・膣 ↓↑ 関与する <性的官能> ↓↑ 関与する <心理> <性欲>は、<性的官能>を介在することなしには、<心理>に関与しない、 <心理>は、<性的官能>を介在することなしには、<性欲>に関与しない、 <性欲>と<心理>は、<直接>に関与し合わない。 <性欲>の減退は、陰茎・膣にあらわされて、確認することができるものとしてある、 <心理>の減退は、言動にあらわされて、確認することができるものとしてある、 <性的官能>の減退は、あらわされて確認することできるものにはない。 従って、<性欲>に減退が生じたとしても、<性的官能>が同時に減退することにはない、 <心理>に減退が生じたとしても、<性的官能>が同時に減退することにはない、 <性的官能>も減退はするが、それは、独立したありようにあるものと見なすことができる、 <感覚的刺激>としてのありようにあるということである。 <性的官能>が<感覚的刺激>にあることは、 それ自体は、感覚の強弱をあらわすことにあって、 その強弱の程度の差異が<快感>と<苦痛>の差異をあらわすものとしてある。 この<快感>と<苦痛>の差異は、 強弱の程度の差異に個人差をあらわすものとしてあれば、 或る者にとっては、<苦痛>にあっても、或る者には、<快感>となることにあるし、 同一部位へ刺激を与えられ続ければ、麻痺の起ることにあれば、 <苦痛>も<快感>に変わることがある。 その<性的官能>という<感覚的刺激>は、 <性欲>と<心理>に関与しているわけであるから、 そこを一定の強弱で刺激されれば、<性欲>において、陰茎は勃起し、膣は濡れる、 <心理>は、刺激に関連する事柄を想起させられることで緊張がもたらされる、 <性欲><性的官能><心理>が一体となった意識から、<高揚状態>が生まれる、 <高揚状態>という<異化>が作り出されるのである。 この<高揚状態>という<異化>は、通常の状態にはないということでは、 <非日常性>の意識と同一のものとしてある。 ここで、この<異化>を単なる<性的な興奮状態>とするだけのことにあれば、 次の<ねじるという変化>へ導かれることにはないことは、 <一義>と<多義>の相違をあらわす点でもある。 <焚き付けられた性欲は、高ぶらされる性的官能のままに、思いを成し遂げさせる>、 この生の力動の認識を<性欲>からの<一義>の表現として、 <焚き付けられた性欲は、獣そのものにさせて、思いを成し遂げさせる>、 とすることで、<性的官能>の所在があやふやとなるのがこれまでの表現である。 人間の<性>は、<性欲>が支配しているだけの事象ではないことは、 先の<図式>に示したように、<性>の全体像は、 <性欲><性的官能><心理>から成る構造にあることであって、 <性的官能>の両者への関与の重要性は、 <減退はあらわされて確認することできるものにはない>ことが見過ごされる所以である、 それが常時活動している<感覚刺激>であることも、 従って、部分的ということではなく、全体性的に<心理>に関与する点においても、 <心理>と<性欲>を短絡に結び付けた見方を遥かに超えたありようが示唆される。 <縄による緊縛>という表現は、これまでに存在した<性的表現>にあって、 この<性的官能>の所在を注目させる、先端の事象にある。 従って、単なる<性的な興奮状態>とする<一義>に置くことは、 短絡に<SMの概念>という<一義>と結び付かせることを容易とさせたことであった。 そればかりか、<SMの概念>という<異常>性愛の概念に対して、 <SMは、市民権を持った>と称して、<正常>な一般化をさせた日本の実情は、 日本独自の傾向である、<隷属>を心情とするありようへ赴かせる状況を作り出した。 明治の文明開化以来の<欧化主義>としての<模倣・追従>にある意識に対して、 <SMの概念>が派生させる、<主人と奴隷の隷属関係>のありようは、 <西洋思想と日本思想の隷属関係>のありようを体現させることになった。 <自主・自立・独立>の意識の希薄は、 大東亜戦争後の世代を重ねるごとに必然的な成り行きとなり、 その危機の警鐘としての社会的事象は、 <自殺・いじめ・ひきこもり>の増加の数値に見い出せるまでになっている、 それが若年層において顕著に見られることにあれば、<先行き不明>となることであるし、 他者へ<隷属>するばかりの享受にあって、みずからで<創造>する意識にはないという、 <未来に希望の持てないこと>にあれば、 <異常>な<SMの概念>を<正常>とさせていることは、 <正常>な<陰茎と膣の結び付き>が疎遠とされることも必然的となり、 <少子化>の傾向となることも避けられない実情を浮かび上がらせる。 <隷属>の意識からの解放は、必須の事態である、 しかしながら、その<解放>の根拠となる思想を<西洋思想>に置いているとしたら、 事態は変わることはないし、事態は変わらないことが現実でしかない、という諦念になる。 従って、すでに起った事象に対しての批評や批判は、真っ盛りである、 だが、その批評や批判に相当する、<取って代わるもの>が創造できない現実に対して、 もはや、希望を考えるどころか、絶望さえ抱けないという、 <西洋思想>という鉄格子の檻に入れられた、<奴隷>の心情吐露に精一杯の末期的症状、 <初期の段階>は、そこまでのことである、と決定された因果にある。 事象の見方を換えるのではない、事象の見方の本然に立つ、必然的要求にある。 <並置される、異なるふたつ以上の事象を比喩で絡めて、 ひねるという作用として行うものにある>という知覚において始まることでなければ、 <多義>という<異化>は生じない、 <縄掛け>が<拘束>の<一義>しかあらわさない状況では、<異化>は成立しない、 <ねじるという変化>へは、更に導かれない、 <加虐・被虐>という暴力の事象があらわされるに過ぎないことへ置かれるだけである。 <ねじるという変化> もたらされる<非日常性>と<高揚状態>の<多義>は、 <ひねるという異化>の知覚から始まることにある。 <焚き付けられた性欲は、高ぶらされる性的官能のままに、思いを成し遂げさせる>、 という<整合性>の実現にあって、短絡に結果を導かないありようとさせる、 そればかりか、<ねじるという変化>を導くものとしてある、 <異化>の作用は、<変化>を招くということにある。 <縄掛け>という<関係>を作り出す思考は、 <ねじる>という<変化>を生み出すことにある。 この<変化>は、<拘束・非日常性・高揚状態>という<多義>から始まることであるから、 必然的に、<多義>の<変化>となることにある。 この<変化>を喩えるならば、実際の<縄掛け>において、 肉体の各部位に対して行われる<縄掛け>は、<一種類・一様>の方法にはない、 また、各部位の<縄掛け>の総体があらわす<全体>は、各部位があらわす、 そのとき施された、<一種類・一様>の総和以上の事柄が表現されるものにある、 それは、<被縛者>が<性欲><性的官能><心理>からあらわす表現に相乗して、 日本民族が自然に対する意識として抱いている認識、 <流動・転変>する<変化>が示されることである。 <ねじるという変化>の作用が<流動・転変>する<変化>の<自然認識>から生じることは、 日常の尋常な状態にある意識においては、感得することの稀有なありようがあらわされる、 即ち、<非日常性>と<高揚状態>がそれを導かせることである。 <縄による緊縛>には、<自然認識>を意識させることが可能であるということである。 <人体>は言うまでもなく、<縄>も自然の植物繊維から撚られたものにあれば、 自然が顕現されるというありようは、当然の事象として、感得できることにある。 しかし、<縄>を単なる<拘束>の<道具>と見なしている認識では、 この<自然が顕現されるというありよう>は、生ずることがない。 <道具>は、その目的の必要に応じて用いられるものにあって、 <道具>は、<道具>以上のものでも、<道具>以下のものでもない、 <道具>が<道具>以上のものとなるためには、多義の変化が必要となる、 <ねじるという変化>の作用がなくてはならない。 <ねじるという変化>の<多義>は、<道具>に対して、<鉱物>や<植物>に始まり、 <動物>や<人間>、更には、<神的存在>から<自然の事象>に及んでは、 <森羅万象>を<道具>の存在に見ることを可能とさせる。 これは、<人間>が創り出す<道具>の由来は、 すべて、森羅万象における、<自然認識>の所以に依ることにある。 これまで、<縄>が<植物><蛇><神的存在>という見方を可能とさせてきたことは、 <縄>が<森羅万象>を示唆するものとしてあることへ至らせる。 世界に数多ある民族は、各自が固有の<自然認識>を所有していることにあって、 日本民族が独創的となるのは、固有の<自然認識>にあるからであって、 <ねじるという変化>の<自然認識>は、例えば、鴨長明は、 <ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず、 淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし>、 という美しい表現で、<流動・転変>する<変化>が基調にあると示している、 或いは、湯浅譲二の『内触覚的宇宙 X』(2002年)がそのありようをこのように示している。 その管弦楽曲は、打楽器の強打に始まり、原始生成を思わせる、混沌の響きがあらわれて、 打楽器、弦楽器、木管楽器、金管楽器の不協和の並置のうねりとなってひねられていく、 うねりが治まると、新たな<流動・転変>が伸び上がろうとする響きとなって続くなか、 後にあらわれる、和太鼓の律動が断続的に聞こえてくる、 そして、<ねじるという変化>をあらわす音響は、如実となった和太鼓の律動に乗せて、 盆踊りの旋律が始まり、不協和の音響を背景としながら、形を明確にしていく過程へ導かれる、 それは、やがて、無音の宇宙へ消え去るように、小さな響きとなっていって終わる、 この間、約十二分半の音楽にあるが、紛れもなく、日本民族の強靭な音楽表現としてある。 <和太鼓の律動>は、最初の打楽器の強打に始まることに含まれていて、 <盆踊りの旋律>は<混沌の響き>の木管器に断片としてあらわされることにおいて、 両者がひとつに撚られて、形を明確にしていく過程が違和感のない、 <自然>として感じられることにある。 作曲者は、<内触覚的宇宙>の意義を<人間と宇宙の交感であり、 宗教発生の場といった原初的、始原性の表出である>としているが、 管弦楽があらわす不協和の音響が<非日常性>を作り出すものとして、 その<流動・転変>は、<高揚状態>を作り出すものとして、 日本民族の<自然認識>は、このようにあるとする、啓発的な作品にある。 日本民族の<自然認識>は、<流動・転変>とする<変化>の認識にあり、 <自然の調和>ということを言うとすれば、<静的>ではなく、<動的>である。 従って、<結びの思想>にある、この<ねじるという変化>を活発にさせなければ、 日本民族の表現は、独自性を顕著にあらわすことができない。 日本民族の<感性>と称されてきた、 <風情><風趣><興趣><風雅>が<移ろい行く事象>に見ることにあれば、 <ねじるという変化>の<自然認識>が<わび>や<さび>、或いは、 <凋落していくものがかもし出させる美>へ至らせることは、自然のありようとしてある。 従って、<縄による緊縛>を<移ろい行く事象>として見ることができれば、 <風情><風趣><興趣><風雅>を感得することも<無理>ではない。 それが<無理>となっていることにあるとしたら、 <ねじるという変化>の作用を抑圧する、 <SMの概念>といった<特定の概念>を根拠とさせていることにある、 殺伐とした認識にしか至れないとしたら、その隷属の抑圧に置かれていることにある。 この抑圧や隷属の状況から解放されることは、 <自然認識>の要となる事柄を導き出すことへ至らせる、それは、<美意識>である。 <美意識>は、<性的官能>が<高揚状態>へ向かうことが前提となって生ずることにおいて、 <ねじるという変化>の<自然認識>が<美意識>を生み出すことにあるのは、 <ひねるという異化>がもたらす<拘束・非日常性・高揚状態>は、 <美意識>の発露を準備する、充分な前提を作り出していることにある。 <美意識は性的官能が高揚状態へ向かうことに依って生ずること>は、 <美意識は性的官能の所産である>ということを言っている、 先に示した図式にあるように、<美意識は性的官能の所産であること>は、 <性欲>へ関与することであり、<心理>に関与することである、 それは、性的官能の独立した活動による。 そこから、<美意識>が陰茎を勃起させたり、膣を濡らさせたりすれば、 それは、<性欲>の作用となることが示されることであり、 <美意識>が<美の概念>として、<言語による概念的思考の活動>に置かれれば、 それは、<心理>の作用となることが示されることにある。 <性欲>の場合は<低次元の美意識>であり、 <心理>の場合は<高次元の美意識>にあるとする見方は、 <肉体と精神>という二元論に依拠するかどうかであって、 <美意識は性的官能の所産であること>そのものが変ることではない。 このことから、次のような事柄を引き出すことができる。 1.<美意識>は、<性欲>と<心理>の各々に関与する、 性的官能の独立した活動である。 2.<性欲>に関与した場合、陰茎を勃起させたり、 膣を濡らさせたりすること以上の表現が示されなければ、 <性欲>の表現以上のものと見ることはできない。 3.<美意識>が<美の概念>として、 <言語による概念的思考の活動>に置かれることは、 <美の概念>の概念的展開をもたらして、<美学>と称される領域にまで至らせる。 従って、<美意識>とは、<心理>へ関与する場合だけに適切な用語と考えられるが、 性的官能が常時活動していることにおいては、 性的事象であるか否かに関係なく、<美意識>は生ずるということにあれば、 <性欲>とは無関係にあるからこそ、<美学>は成立する、ということに収まるのではなく、 <性的官能>の関与が考慮される、<美学>にあっては、 <性的官能>が介在する<性欲>の関与を認めた上で成立することになる。 4.<自然認識>が導く<美学>とは、 <美意識>は<性的官能>の所産であり、<性欲>の間接的な関与を踏まえて、 <心理>が構築する、言語による概念的思考の表現と言えることにある。 5.<変化>とは、 <ある状態や性質などが他の状態や性質に変わること>の意義にあれば、 それは、<移ろい行く事象>の<見栄え>と<内実>の双方を知覚することにあって、 <ねじるという変化>は、<美意識>に依って、 <よじるという昇華>へ導かれることが生まれる。 名称はひとつにはないが、<股縄亀甲縛り>などと呼ばれる、美しい<縄掛け>を喩えに、 <ひねるという異化>から<ねじるという変化>への過程を見ると、以下のようになる。 <被縛者>は、男性である、<縛者>は、女性である。 男性は、一糸もまとわない全裸にあり、女性は、艶やかな和服姿の装いにある。 「隷属の意識から解放されるために、あなたは、縄で緊縛される」 と<縛者>から意義を告げられると、男性は、押し黙ったまま、うなずくだけにあった、 日常の意識では、見られたくないと思う姿態が隠しようもない全裸とさせられたことは、 活動する<感覚的刺激>としての<性的官能>を鋭敏とさせ、 他者から覗かれる主体の心理を羞恥とさせていたことは、 もたげさせた陰茎に明確にあらわされていた。 その陰茎の根元へ、<縛者>は、ふた筋とさせた麻縄の縄頭を掛けた、それから、 睾丸を左右から挟むようにすると、双方を合わせ、肛門へ当てるための結び目が作られた、 そして、股間へ通され、位置を整えられた縄は、尻の亀裂からたくし上げられた。 初めて経験する<被縛者>にとって、それは、驚きに満ちた、 常識に基づいた生活意識のある日常性からの逸脱にあった。 どうしてこのような目に遭わなければならないのかという疑問も湧き上がるが、 縄で縛られることが<隷属の意識から解放されるために>行われることにある、 という矛盾を孕んだ不可思議な意義は、陰茎に掛けられた縄を意識をさせられると、 肛門を圧迫する瘤縄の違和感がどきどきとする緊張感を込み上げさせてきて、 高ぶらされる思いは、戸惑わされるばかりのことだった、 普通ではあり得ない状況に面と向かわされているということでしかなかった。 <被縛者>の背中に這わせられた、ふた筋の縄は、首筋まで来ると左右に振り分けられ、 身体の前部へ持ってこられると垂らされて、首元で合わされて結び目が作られた。 その結び目は、等間隔に、胸、鳩尾、臍の上部、臍の下部の五箇所へ拵えられていったが、 その作業中に増していく縄の張力は、おのずと陰茎を下方へ引っ張って、 <被縛者>の意思をよそに、陰茎は、反発するような反り上がりをあらわすのであった。 ふた筋の縄の残余は、左右に振られて背後へまわされると、背中の縦縄へ縄留めされた。 柔肌へ密着していく縄の感触は、姿態へ異様なことをされているという意識をもたらし、 高ぶらされる性的官能を高揚状態に置かせたことは、火照った顔付きに示されていた。 <縛者>は、用意した第二の麻縄をふた筋とさせて、 その縄頭を首元の正反対になる背中のふた筋の縦縄へ結ぶと左右へ振り、 身体の前部へ持ってきて、左右から首元と胸にある結び目の間の縄へ通させた、 それから、左右の縄を引っ張り出して背後へまわさせると、背中で交錯させた、 これによって、首元と胸の間の縄が菱形の紋様を浮かび上がらせた。 再び、左右の縄が身体の前部へ持ってこられて、胸と鳩尾の間の縄へ同様に施された。 それが、鳩尾と臍の上部、臍の上部と臍の下部へ繰り返されていくと、 横縄が作り出す格子縞の中央に、四つの菱形が縦縄に美しくあらわれるのだった。 横縄の縄尻が背後の縦縄で縄留めされるに及んで、 増していく陰茎の縄の張力と柔肌に密着して圧迫される縄の刺激は、性的官能を活発化させ、 面と向かわされている、普通ではあり得ない状況は、そこに置かれた実感を伴って、 陰茎は、赤々と剥き晒した、見事な反り上がりでそれを明らかとさせるようになっていた。 みずからの意思をよそに、みずからの眼でありありと確認できる、恥ずかしいばかりの勃起は、 <被縛者>に、見られる羞恥ばかりでなく、一方的に成された屈辱を思わせるものがあったが、 そのときに、<縛者>が告げた言葉は、次のようであった。 「あなたは、縄で縛られているからこそ、そのようにあるのです、 あなたのその立派な反り上がりこそ、あなたが男性であることの自負の証です、 目覚めさせるのは、羞恥や屈辱の思いの先にある、人間としてあることの自負です、 縄がそれを導くというだけのことです、さあ、両手を背後にまわしなさい」 亀の甲羅に擬似させて、綾なす麻縄の紋様が彩る、緊縛の意匠姿の<被縛者>は、 反発の素振りも見せず、言われるがままに、両手を背後へまわさせていったことは、 性的官能が導く、性欲と心理が一体となった高揚状態にある、のぼせ上がった浮遊は、 それから先にある、増していく快感へ導かれるばかりことにあって、 求めさせる意思以外のことにはなかったからであった。 重ね合わされた両手首へ、ふた筋とされた縄を幾重にも巻き付けられて縛られると、 <被縛者>には、自由を奪われた思いが込み上がった、 その縄の残余が左の二の腕に巻き付けられ、更に、右の二の腕に巻き付けられ、 元の縄へ絡められて締め込まれるに至っては、 堅牢な拘束感は、縄で緊縛された身上にあることを実感させるばかりになっていた。 <縛者>は、縄留めを終えるとその縄尻を取って、晒し柱まで引き立てるようにして歩かせたが、 あられもない格好を露わとさせた、<被縛者>は、ただ俯いて従うだけにあった。 晒し柱を背にして立たされたときには、 漲った硬直をあらわとさせた陰茎は、てらてらと輝くばかりにあって、 その先端は、しずくの糸を引かせるまでになっていたが、 直立とさせた姿態を後ろ手に縛った縄の残余で繋がれていく間も、されるがままだった。 新たな縄が用いられ、合わさせた両膝と両足首が束ねられ、柱へ固定するように縛られると、 <被縛者>は、晒しものとなった姿態をあからさまとさせたが、 頭から足の先に至るまで丹念に鑑賞する、<縛者>の真剣な顔立ちの執拗なまなざしには、 顔付きをそむけて、みずからへ閉じこもるように、床の一点を凝視する素振りを見せるだけにあった。 みずからへ閉じこもることは、みずからと面と向き合うことでしかない、 <縛者>は、それを助長させる道具を持ち出していた、 ただの布切れ、古風な豆絞りの柄の手拭い、それで<被縛者>に猿轡を噛ませたのである。 両手と両脚の行動の自由を奪われ、更には、言葉を発する自由を奪われては、 放出を求めての漲った硬直は、反り上がりの限度に向かうなかにあって、 みずからと面と向き合うことは、堪えるという思いを伴い始めていたことは、 もはや、反発の余地は消えかけ、何をされても、甘受するしかなかったことだった。 「みずからと向き合うことをしなければ、求めるそれ以上は、見い出すことのできないこと、 これだけ火照って張り切っているありさまにあれば、 求めるそれ以上を見い出せなければ、萎えていくばかりのことでしかない」 <縛者>は、そのように言うと、全裸の緊縛の身体の前へしゃがみ込み、 おもむろに、陰茎を掴むと、口中へ優しく差し入れた、 それから、柔らかな舌先で、矛先を優しく濡れるように愛撫し始めるのだった。 その突き上げられる快感に、<被縛者>は、首筋をのけぞらさせ、猿轡でくぐもらせた嬌声を上げ、 後ろ手に緊縛された股縄亀甲縛りの裸身を震わせて、快感の享受をあらわとさせるのであった。 だが、間もなく、柔和な口中は、陰茎から離れていき、<縛者>は立ち上がると、 <被縛者>の顔付きをまじまじと見つめて、言うのであった。 「私にできるのは、ここまでです、 後は、あなたがみずからの意思で、昇りつめるだけです、 昇りつめたこの上ない快感には、<隷属>の意識からの解放があるはずです、 それは、縄で緊縛されるという拘束の身上にありながら、自由の意識できる、 性的官能が導かせる、相反と矛盾を孕んだ、官能の勝利と言えるものです」 こうして、<縛者>は、再び、鑑賞者となり、 <縄掛け>の意匠をまとわされた<被縛者>は、 みずからの道を突き進むことに専心するばかりになった。 <よじるという昇華> 最初の人類が意識した性的官能の最高潮も、 現在の人類が意識する性的官能の最高潮も同じものとしてある、 いや、より高い感覚となるように、練磨されて継承されてきたことにあると言ってもよい、 少なくとも、低い感覚へ減退していることにはない、何故ならば、 性的官能の<感覚的刺激>としての意義は、まだ、未知の領域としてあることで、 その機能の重要性は、<性欲>において、<心理>において、 新しい人間観を作り出すことに、充分な研究対象としてあることにあるからである。 従って、日本民族の創始にある者も、現在にある我々も、同じ条件に立つことにある、 現在の日本民族の性的官能の最高潮は、 日本民族の創始以来の継承としてあることは、 それが縄文時代という縄を思想の表象とする実際が保有されていることにあって、 縄文時代から始められた思想を現在に至るまで展開させている、という見方を可能とさせる、 <系統樹>という考え方があるものならば、 その時間と空間があらわす物質的表現と形而上的思想は、 日本民族の場合は、<綯われる一筋の縄>というものにあると言える。 日本民族史は、<綯われる一筋の縄>としてある、ということである。 それは、ひとりの人間が誕生・成長・衰退・死滅するという過程を生きるのと同様に、 その<綯われる一筋の縄>という民族史も、 人間の集合から成立しているものにある以上、同様の経過を踏むことになるのは、必然としてある。 現在が<誕生・成長・衰退・死滅>のどの位置にあるのかを言うことは容易である、 日本の現在の状況は末世にあるから、死滅を待つ衰退にある、と言うほどに簡単である、 だが、未来に起り得るという予言の類は、大概は、 その発言者の死後の事象となることにあるから、喩え話に留まるということも避けられない、 それであっても、衰退・死滅することは、時間の問題と言うだけで、必至の事柄としてあり、 それを如何に延命させるかということは、 生まれたままの全裸の姿を後ろ手に縛られ、綾なす亀甲縛りの意匠を半身にまとわされ、 その股縄は、陰茎の屹立を維持させるために掛けられてある、縄によって緊縛された男性が、 晒し柱に直立の姿勢で繋がれた姿態をもどかしくも悩ましくも、うねりくねりとさせて、 噴出まで、あとひと息にありながら、漲らせた硬直のまま居続けるというありようの如くに、 それ以外に手の施しようがなければ、萎えて縮まってしまうということは、確実な状況としてある。 眼の前には、男性を縛り上げた女性が真剣な顔立ちの表情で見守り続けていたが、 <被縛者>に噛まされた豆絞りの手拭いの猿轡は、言葉を容易とはさせないことにある以上、 希望・願望・嘆願・哀願も、意義を結ばない、甲斐のない欲求でしかないことにある、 死滅を必至とする民族史にあることが前提ということにある。 <よじるという昇華>の活動は、 <ひねるという異化>から<ねじるという変化>の過程を経て、 このような状態にあることである、 みずからの手先で、噴出させるまでしごいて、成し遂げられるという安易さにはないことである。 それは、<綯われる一筋の縄>の作用にあるということは、 相反と矛盾を孕んでいることが示されていることであり、 <綯われる一筋の縄>というありようは、日本民族の創始を<起源>として、 <縄を綯ってきた歴史>のありようと見ることが可能である一方で、 <綯われる一筋の縄>は、未来へ投げ掛けられる歴史と見ることも可能とさせることに依る、 つまり、日本民族史を検証して系統立てれば、その歴史は、成立することにあるが、 歴史が過去を検証する、現代史としてあるだけではなく、 歴史は、未来を創造するための現代史であるということにある、という意義にある。 <綯われる一筋の縄>は、その先に、確固とした縄を掛けるための<支え>、 言い換えれば、<目的物>が存在しなければ、<綯う>という事柄が成立しないものである。 その<支え>を過去に求めれば、起源ということになり、未来に求めれば、終末ということになる、 それを性的官能の最高潮へ至る過程として見れば、陰茎を<支え>として掛けられた縄は、 綯われるように官能を高ぶらせて、<目的物>としての放出へ赴かせて、<終末>となる、 <支え>が<目的物>であり、<目的物>が<支え>であり、 <支え>が起源であり終末でもあるという、 <目的物>としてあることの相反と矛盾のありようである。 そして、最高潮へ至る過程が果たせなければ、萎縮するだけのことにある、 従って、その<終末>とは、到達する地点であって、終わりを意義しないことは、 <終末>は、官能の勝利と言える、この上のない快感を生み出させることにあって、 再生を促すものとしてあることが示唆される。 この<支え>という<目的物>は、<人間>が綯う縄ということにある以上、 <人間像>をあらわすものであるから、官能の勝利にある人間像ということになる。 <綯われる一筋の縄>における<結びの思想>とは、 この<人間像>を実現するために、日本民族が生得・継承・展開させていることにあるとすれば、 <終末>とは、到達する地点であって、終わりを意義しないことは、 <終末>が<誕生>を生み出すことにあるとなる、 <終末>が再生を促すものにある。 <終末>という性的官能の最高潮が誕生へ赴き、再生を促すことにあることは、 晒し柱に、縄で緊縛された男性の陰茎は、 女性の膣との結び付きをもたらすことが必然の事柄となることが示唆される。 <綯われる一筋の縄>にあって、陰茎と膣の交接は、不可欠の事象にあるということになる、 <誕生と再生>が性的官能の最高潮を前提としていることにあることは、 官能の勝利と言えることにある。 <よじるという昇華>とは、生まれたままの全裸の肉体にある人間があらわす、 過去と未来のある、<歴史>を表現することである。 それは、人間という人類が絶滅しない限り、 流動・転変とした自然認識にあって、人間の昇華のありようを体現し続けることである。 <人間の昇華のありよう>、 それを体現する民族において、<日本民族>は、 <ひねるという異化><ねじるという変化><よじるという昇華>という<結びの思想>において、 独自の展開を遂げるために、<一筋の縄>を綯い続けている存在にある、 日本民族の表現する、文明と文化とは、 <人間の昇華のありよう>を体現するための成長をあらわす、生の持続の意志である、 <縛者>である女性は、見守り続ける<被縛者>の官能的なありようから、 みずからも、それと同調する、性的官能を意識せざるを得ない状況にあることに至れば、 ほっそりとした指先は、艶やかな和服の帯締めへ掛けられて解き始められる、 着物を支える幾本もの紐が外されて、身にまとう衣装が脱ぎ去られると、 生まれたままの優美な全裸があらわとなり、屹立する男性の陰茎にあてがうためには、 直立させた姿態の半身を前屈みにさせ、艶やかな白い尻を突き出させて、 しっかりと握り締められた矛先を開かせた花びらの内奥へ沈めさせていくことが行われる、 ひとつに繋がった男性と女性の肉体にあれば、 性的官能の最高潮が官能の勝利をあらわすために、 男性が可能な限りに抜き差しを行い、女性が可能な限りに尻を揺さぶるまでのことにあった。 <人間の昇華のありようを体現すること>が日本民族史ということにあれば、 何故、日本民族は、過去に独自な事柄を創造してきたか、現在に創造しているか、 未来に創造していかなければならないかは、自明の認識としてあることになる。 自明の認識とは、日本民族における者にあれば、 <結びの思想>の作用を思考の根拠として生存していることにあるという自明にあって、 <結びの思想>を充分に活動させることが存在理由の自明となることにあり、 <綯われる一筋の縄>という歴史の体現者にあることの自明をあらわすことである。 この自明の認識にあることが自然であれば、 自明の認識を抱けないありようは、<隷属>にあると見なすほかないことになる。 他者へ<隷属>しているありようは、 みずからが自由にあることの自覚に基づくことに依って、認識できることにはない、 みずからがそのありようの自然から創造する思考を行うことに依って、認識される、 従って、状況の分析や判断、批評や批判だけに留まる限り、 <隷属>しているありようから解放されることはあり得ない。 <初期の段階>において見られる、 日本民族における、<引きこもり・いじめ・自殺>の増大は、 他者へ<隷属>しているありようには、限度が来ていることが警鐘されている。 <引きこもり・いじめ・自殺>の三者に共通していることは、 人間存在として、死滅へ向かう必然をただ受容するに留まる思考に置くだけにあっては、 他者へ<隷属>しているありようは逃れられないものとしてあるという自覚以上にならず、 他者の<隷属>から隔離するように引きこもるか、他者の隷属へ追従することに置かれるか、 それ以上を生きられないとすれば、自害するしかないという過程にあることにある。 この他者へ<隷属>しているありようは、明治の文明開化以来、 <西洋思想>へ隷属する<欧化主義>という意識から導かれた本筋に依ることにあって、 日本民族の自然観とは相反・矛盾していることの表現は、 明治以来の日本芸術史における、自殺者の数多ある実際に見ることができるものとしてある、 それ以上を生きられないとすれば自害する、 というありようを<武士道>のありようの潔さと重ねるほかには、 浄瑠璃などにある<心中>を美化の対象とする思想に依ることしかできなかったことにある。 <引きこもり・いじめ・自殺>が若年化の傾向を増大させていることにあっては、 それ以上を生きられないとすれば自害する、という<隷属>をあらわす思想は、 世襲を本筋としてあることを露見させていることでもある。 自殺者の数多ある実際を日本芸術史の模範とすることがあるとしたら、 それは、現在の芸術表現に何が示されているかを見れば、理解できることである。 現在を生きている人間は、人類の最前衛を生きている者にあることは、 現在を生きている人間なくしては、創造もあり得ず、誕生も再生もあり得ないことである。 ひとつの見方が多勢を占めることはあっても、それは、絶対ではない、 事象は、人類の数だけ、多義の見方があることが自然なありようである、 ただ、群棲する人類を<社会>という集団とさせるためには、 多勢の見方を有効とさせるということが執行されているということでしかない。 多義を知る、自然認識のある日本民族にあれば、 まず、生きて、みずからのものを創造しようとする意識にあることが自然である。 この方法で上手にいかなければ、みずから、他のものを創造すればよい、 人類の創造するものに、<唯一・絶対>は、あり得ない、 人類の言語による概念的思考に<最終>は存在しないからである。 (2012年8月11日 脱稿) |
☆13.縄による緊縛という結びの思想・四十八手 (8) ☆13.縄による緊縛という結びの思想・四十八手 (6) ☆縄による日本の緊縛 |