9.縄による日本の着物緊縛 借金返済で弁護士に相談




9. 縄による日本の着物緊縛




日本の伝統である着物姿の日本女性を縄文時代より継承されてきている日本の縄で縛り上げる、
ということであるのだから、それだけでもはや、
<縄による日本の着物緊縛>という表象は、日本の典型があらわされていると言える。
それを<民族>を異にする男性に縛者を任せて、日本の女性を縛らせるばかりか、
<民族>を異にする女性に日本の着物をまとわせて、緊縛が行われることに及んでは、
国際意識の本末転倒、固有の文化の破壊どころか、民族の自己同一性の放棄と言われても仕方がない。
すでに、国技とされる柔道や相撲などは、国技である<縄による緊縛>に先駆けて、
国際的となることで、実益ばかりか、相反・矛盾の問題をも露呈している状況であるから、
それに倣って闇雲に進むことに同様の問題が露骨化することは、目に見えている。
事態が相反・矛盾・苦悩・軋轢へ置かれることが分かっていながら突き進むというのは、
それだけの見返りを期待してのことであるか、或いは、将来を読むことのできないおめでたさにあるか、
いずれにしても、期待や希望や願望は、所詮は、期待や希望や願望に過ぎない、
期待や希望や願望が閉ざされたとき、
成し遂げられずに閉塞の状態へ陥れば、玉砕すればよい、自殺すればよい、
という方向へ赴くことは、いまや、世間常識でさえである。
自害するということを日本人の当然の受け皿として作り上げたのは、
ひとえに<武士道>の考え方によるものであるとは決め付けたくはないが、
みずからの腹を掻っ捌いていさぎよしとすることを本懐を遂げると意義することは、
歌舞伎や浄瑠璃などの男女の道行きを美しく映らせるありようと同様の意義であり、
幾度にも渡る自殺や心中未遂の果てに本懐を遂げた小説家が人間的と人気を保持する理由でもある。
現世で遂げられなかった思いを死後へ託して自害するという考え方は、ひとつのありようである、
それが日本の典型をあらわすということを自殺者の統計的数値から推量されたところで、
みずからもその考え方を引き受けることが日本人であるという所以にはならない。
むしろ、来世へ旅立つ・輪廻転生するといったひとつの意義に依ることよりも、
古来より継承される、日本民族が本来の考え方の所以としていることに依れば、
その<総体を考えられるという自然認識の宗教思想>にあることは、
生と死の考え方において、多義・多様の考えをあらわすことを必然とさせる。
<多義・多様>とは、ひとりひとりが各自のありようから、それぞれの価値観で世界を見つめるということで、
各自の生を活動させる、<四つの欲求―食欲・知欲・性欲・殺傷欲―>と
<七つの官能―視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・第六感・性的官能―>は、
そのあらわれにおのずからの差異があるものとして備わるものであり、
それらの影響を受けて生み出される言語による概念的思考の発達と展開に差異をもたらすものである以上、
人間としてあると定義することでは、<多義・多様>としてあることは、自然な姿であると言える、
それは、一糸も身にまとわない、装飾品のひとつさえ着けない、生まれたままの全裸、
それが表象しているとさえ言いたい所以は、人間の全裸の姿態は、輝ける美があらわされていることにある、
もっとも、人間の全裸を美しいものと感覚できるのは、感覚する者が人間にあるということであるから、
手前味噌、自画自賛、或いは、陶酔的自己愛と見なされても否定はできないことでもあるが、
この意味では、民族を問わずに、人類のすべてが同じ条件に立たされていることも事実である、
と言ってしまえば、何だ、人間として存在するならば、当たり前のことに過ぎないのか、
ひとと異なる自分について悩み、挙句に絶望するなんて、とんでもない話ではないかとも言えることである。
しかしながら、老若男女を問わずに、社会に居住する人間としてあれば、
<社会>は、群棲する人間を結束させるために、<一義>の考え方を必要不可欠のものとしていることから、
人間としてあることの本来の<多義・多様>は、
その<一義>に照らし合わされて容認される限りにおいて、
<社会>の構成員としての位置付けを与えられるということになることでしかない。
この場合、<社会>を<国家>と置き換えても、<学校>や<宗教組織>としても、同様のことである、
人間を教育・成長・集団化させる目的にある、<場>があらわす<一義>ということである。
従って、その<一義>に準じることのできない、或いは、準じる真似を振舞うことのできない、
矛盾・苦悩・軋轢は、疎外感と孤独感をもたらし、
その疎外感や孤独感が他者による行動によって、いじめ・迫害・虐待というあらわれとなれば、
閉塞の絶望は、自害という<結>をもって、
矛盾・苦悩・軋轢の<起・承・転>にあった思考活動の整合性を成立させることをする。
<一義>に準じることをしないで<多義・多様>をあらわすということは、視点を変えると、
個人の身勝手、わがまま、独りよがりの考えにあるとしか見えないことであるから、
<一義>に準じている者からすれば、人間の<多義・多様>をあらわしている姿は、
ひねくれている、ねじくれている、わかりにくいということでしかない、
それらに対して、違和感・嫌悪感・憎悪感が暴力へ向かわせるか否かは、
言語による概念的思考の整合性に<想像力>という展開がもたらされるか否かでしかない、
みずからのなかにない<他人>をあり得る思考として展開できるかどうかである。
他の多数の者がそのように考え・そのように行動するから、
みずからもそのように考え・そのように行動するというありようは、
<一義>の<社会>にあって、<多義・多様>の個人が集団化し結束する必要不可欠からすれば、
概念的思考の整合性に正当性を持たせるものとさせる。
従って、社会を取るか・個人を取るか、といった議論に置いたところで、答えの出るはずのないことは、
そもそも、社会集団としての理想的な構成員となるには、
人類は、余りにも、言語による概念的思考を発達させてしまった動物であるのだから、
固有に備わる<多義・多様>の認識を放棄して、
<四つの欲求>と<七つの官能>を<一義>としてある動物となって生きるというわけにはいかず、
せいぜい、多数決で暫定的に答えを出す方法を民主主義の整合性として行えるというのが現状である。
問題とすべきは、言語による概念的思考が未発達の状態にある、人類の進化途上の現在、
という人類の創始より依然として変わらない問題ということでしかない。
<社会><国家><学校><宗教組織>の<一義>が人間の<多義・多様>を抑圧することは、
挙句の果ては、自殺へ至らせるか、或いは、権力による暴力死で行われることでしかないことは、
これまでの人類史が鮮明にあらわしてきたことで、民族の如何を問わずに正当性を持っていることでは、
世界の何処かで紛争の絶えないことにあらわれている、
これは、進化の次なる段階へ移行しない限り、人類の終焉のないありようでしかない。
日本の伝統である着物姿の日本女性を縄文時代より継承されてきている日本の縄で縛り上げる、
ということが日本の典型をあらわしているとするならば、その固有性は重要な事柄である、
そこに見られる、虐待に晒される故の美しさという<被虐美>として意識させられることは、
日本の女性は美しい、その着物を着付けた姿はさらに美しい、
その美しい姿の日本女性が縄の紋様も綾な意匠を施されている妖美は、
虐待に晒される自意識を耐えることでかもし出される人間の矜持がいや増しとさせる、
他の民族では決してあらわすことのできない、独創性の艶やかさとしてあることである。
すでに明らかとされているように、世界に数多ある民族にあって、
<総体を考えられるという自然認識の宗教思想>を持っている固有性、
<縄の結び>という独創性を血肉としている日本民族が表現することであるから、
固有性のあらわれることは当然のことであって、それが重要な事柄としてあるとしたら、
世界にある他の民族に先駆けて、人類進化の次なる段階を志向させるということがあるからである。
にもかかわらず、その根幹となる、民族の自己同一性を放棄してしまったのでは、
他の民族思想に<模倣・追従・隷属>するか、相反・矛盾・苦悩・軋轢にあるか、
閉塞している絶望から自害の本懐を遂げるか、或いは、みずからを悟らないおめでたさにあるか、
これも、また、<多義・多様>をあらわすということでしかない。
人間は、生を生き抜くために生まれてくる動物であることは、
民族を問わずに、人類であれば、誰でも同じ条件に立たされていることである、
動物に備わる、生存ための<四つの欲求―食欲・知欲・性欲・殺傷欲―>の活動は、
生の保存と維持ためにしか存在しないということは、
当然過ぎて、おざなりとされるくらいに歴然としている事実である、従って、
そこから始められる、知欲における言語による概念的思考がどのようあるかという相違があるだけである、
日本民族も、すべてが日本人として<武士道>の考え方へ準じているわけではないことは、
国家の敗戦が濃厚となったとき、国民総自決などと旗印を掲げられたとしても、
そのような言語による概念的思考から生み出された考え方ひとつに従うことよりも、
遥かに根深いものとしてある、人間が動物としてあることの欲求が優るということがあらわされるのである、
すなわち、みずから命を絶つことを敗北の恥辱を引き受けても拒絶するのである。
従って、現在、日本民族が晒されている状況においても、
明治時代の文明開化を分水嶺とすれば、百四十二年に渡る根深さを培ってきた事柄を前にして、
昨日今日に生まれた程度の時間にある考え方が太刀打ちできるはずもなく、
百四十二年に渡る根深さを培ってきた事柄を相手にするというのであれば、
当然、それに匹敵するどころか、それを上回る<根深さを培ってきた事柄>を持ってくるほかにないことで、
日本民族には、縄文土器という表象があらわす、<縄>が歴然として存在している、
一万六千五百年前、縄文時代より培われてきた考え方、<縄の結び>という思想が存在する、
それは、宗教・政治・軍事・農業・漁業・芸術・遊戯というあらゆる様相に示されて
(この点に関しては、額田巌 1911年―1993年 の<結びの研究>という業績がある)、
命綱から首吊りの縄に至るまで、多種多様、変幻自在、強靭と柔軟を併せ持った、
<道具><技術><思想>として実在する事柄に依ることができる。
一万六千五百年に比べれば、僅かに百四十二年の歴史時間のことに過ぎない、
人間は、生存ための<四つの欲求―食欲・知欲・性欲・殺傷欲―>を活動させる動物である、
その知欲が生み出す、言語による概念的思考を行う、動物である、
言語による概念的思考がものを見る仕方を変えれば、黒は白となり、白は黒ともなる、
人間の言語による概念的思考に<絶対>の概念が必要であるのは、
それがどのようにあっても、森羅万象のすべてを知ることのあり得ない活動でしかないからである、
ひとつの<絶対>に統御される人間の概念的思考はあり得ないからである。
人間の概念的思考は、決して終わることのない考えを永劫回帰するだけのものでしかない、
<起・承・転・結>の整合性は、<想像力>という展開をもって、終末をあり得ないものとさせるのである。
従って、<絶対>とは、暫定的に<絶対>なのであって、<一義>の意義は、その意味でしか存在しない、
いま、ここで述べられている事柄以外にも、当然として、別の考え方は幾らでも生まれるということである、
人類として生存する人間の数だけ、<多義・多様>の考え方があり得るのである。
人間の言語による概念的思考は、<多義・多様>を志向するものである。
<縄による日本の緊縛>を<民族>を異にする者が<模倣・追従・隷属>することは仕方がないことである、
みずからの<民族>よりも優れた<表現>があれば、それは、学ぶべき大なる事柄である、
だが、学ばれる立場にあるとしたら、学ばれる立場の自覚をあらわすことなくして、
学ぶべき大なる事柄も明確とされることではない。
自然の植物繊維を撚った縄があり、人間の肉体が並列して置かれてあれば、
その両者を縄で結ばせることができるのは、人類であれば、<民族>を問わずに可能なことである、
その意味では、<縄による緊縛>は、国際基準の表現としてある、
言い方を換えれば、日本民族の独創性ではない。
日本民族の独創性が発揮されるのは、<縄による日本の緊縛>となるときである。
この相違が理解されることがなければ、
柔道技や相撲の四十八手が国際基準の表現となることではあっても、
それを行う者の自覚に、その技を創出した民族の自覚なくしては、
単なる格闘技としてあることに過ぎず、<縄による緊縛>も単なる性的表現に過ぎないことである、
いずれは、世界に数多ある民族が時と場所と相手を選ばない乱交を遂げた結果、
この<民族>とやらも、<一義>をあらわさなくなる時代が来るのは必至であるが、
現在のところ、<民族>意識は、進化の次なる段階には必要不可欠な事柄である。
<縄による日本の緊縛>は、
その<民族>の自覚から表現される自己同一性をあらわすことのできる、表象のひとつである、
日本民族にあるからこそ、成し遂げられる固有の独創的な表現である、
もし、ないものであれば、或るものと或るものとを結び合わせて、創り出せばよい、
という<想像力>の発揮できる民族にあるからこそ、成し遂げられる性的表現である。



― 全 裸 



一糸も身にまとわない、装飾品のひとつさえ着けない、生まれたままの全裸、
備わるものが備わり、見えるものが見え、隠されることの一切ない姿態、
つまり、尻や乳房や恥毛ばかりでなく、陰茎や膣もあからさまであるという、
男性と女性の姿は、人間の最も自然な美のありようを示すものである……
このように言うことは、正当性を持つものであるだろうか。
人間の進化過程の現段階において、人間の<性欲>や<性的官能>が露骨とされる<表現>は、
<社会>は<猥褻>と見なして、<国家>の法により、規制と処罰の対象とされることにある。
都心にある公共の墓地で女性の全裸撮影を行った写真家は、その発見者に訴えられ警察機構が動いたが、
始めから許可を取っていれば、名のある写真家の<芸術表現>という見方もできたことかもしれないが、
そうでなかったとしたら、賃貸料もなしに商売の種になる場所として墓地を利用されただけというのでは、
女性の全裸も、死者への艶やかな献花として供養となるどころか、下卑た真似をされたということでしかない、
美しい全裸も、扱われ方によっては、必ずしもそうとは言われないということである。
どのような<表現>として成されていることにあるかということである。
古くから、性にまつわる表現が<社会>の俎上に載せられるとき、
それが人間の美をあらわすものであるか、人間の真実をあらわすものであるかの問い掛けに、
<猥褻>であるか<芸術>であるかの真価を量るという方法が行われてきたことである。
しかしながら、ほとんどの批評・議論・考察が後に影響を与えるというほどの真価を解き明かしたことはなく、
規制と処罰の対象となるものは<猥褻>、そうならないものは<芸術>という定義を明瞭とさせただけで、
むしろ、宣伝効果として一役買ったことは、無名を一躍有名にさせたことなどの経済としてあらわされたことであった。
どのような芸術的な<猥褻>表現であろうと、無名であれば大して売れないが、
どのような猥褻な<芸術>表現であろうと、有名であれば売れる、という大衆の好奇心への扇情ということである。
従って、<猥褻>と<芸術>は、むしろ、その区分が曖昧であることの方が好都合なことから、
美学と哲学の問題から、<影響を与えるというほどの真価が問われる>結果が浅薄であるのは、当然であった。
<社会>で大きく取沙汰される事柄のほとんどは金銭の経済にまつわることにあるから、
この場合も致し方のないことだとすれば、他愛のない話であるとも言えることである。
従って、曖昧もなく、全裸を批評・議論・考察しようとすれば、
全裸とは、やはり、陰茎や膣もあからさまであるという、生まれたままのありようでなければ、
<全裸>とは言い難いという前提が生まれる。
しかしながら、そのような剥き晒しのありさまは、ポルノグラフィとなるもので、<猥褻>の別名でしかない。
この場合も、全裸は、ヌードとポルノとでは異なるものである、という範疇分類化があって、
ヌードは美的鑑賞の対象となるが、ポルノはそうではないと概念化される。
剥き晒しのおちんちんやおまんこは、汚いもの・醜いものをあらわしているということになる。
人間の陰部が汚穢であるとされるのは、その箇所が小便や大便を排出する機能を司っていることから、
否定のできない実際である以上、ポルノは汚穢であると見なされても仕方のないことで、
このありようは、隠しようのないほどに、明瞭な<猥褻>であるから、規制と処罰の対象とされることでしかない。
全裸とは、露出の度合いに従って、<猥褻>と意義される概念との相対的距離をあらわすことは、
歴史的に見て、公的に全裸表現がどこまであからさまとなってきたかを見れば明らかである。
従って、露出の度合いが厳密を極めれば極めるだけ、<猥褻>となるということであるから、
全裸という表現が公共に流布するためには、その意義が曖昧であるに越したことはない、
曖昧であれば、真価を問う批評・議論・考察も、依然として聞く耳を持たせることになる。
このありようは、別の見方をすれば、縄で<全裸>を縛る前から、
<全裸>は、規制と処罰の拘束衣をまとわされている、或いは、雁字搦めにされているといったありさまである、
自然な姿を縛れない全裸であれば、全裸の対象を厳密にするほかないことは、
人間の男性と女性の<全裸>と言うからには、対象としては、
生まれたばかりの血みどろの赤子から、老いさらばえて骨と皮だけの瀕死の老人に至るものがあり、
殊更に、肉体としての成長の絶頂にある二十歳くらいの男性と女性を対象としなくても、
<いたずらに性欲を興奮又は刺激させ、かつ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する>
と定義される感覚を呼び覚ます対象であれば、年齢を制限させるものではない。
昨今、児童を性的対象として取り扱うことの規制と処罰が厳重になっていることは、
いずれは、全裸も<成人指定>が適応されることが示唆されていることのようであるが、
児童の全裸が成人の全裸に比べて、純真無垢をあらわす穢れなき輝きを放っていることに魅力があるとしたら、
性的対象となる児童の年齢の低下も止むを得ないことであるのは、
人間の肉体は、誕生・成長・衰退・死滅の留まることのない過程にある存在である以上、
より若い者の肉体の方が溌剌としている実際は、変えられない事実としてあることに依る、
穢れなき純真無垢は、高校生はおろか、中学生でさえ保持する難しさは、小学生を問い質すが、
それさえも困難であれば、幼稚園児へ及び、更には、乳児へと至る、
それが胎児にまで達することだとしたら、やはり、人間存在の荒唐無稽の立証ということでしかないことである。
児童に対して行われる性的暴力に関しては、<全裸>であろうとなかろうと遂行されることであるから、
暴力が性的表現としてあることの問題を<全裸>に結び付けたところで、
仮に<着衣>よりも<全裸>の方が性的暴力の発生数値が統計的に高いと証明されても、
児童に対して行われる性的暴力のより良き理解となることではない。
暴力は、弱者と意識する相手に行われる表現である、
暴力の対象箇所は、弱いと意識される箇所を攻撃することが効果をもたらすことであれば、
暴力者は、被暴力者をこの意識から選択するということにある。
人間に備わる<性欲>は、常時働いている<性的官能>が高ぶらされるに従い、
ところかまわず、相手かまわず、手段を選ばず、行うことが可能である、という進化の賜物であるから、
相手と状況が整えば、性的暴力は遂行されるということである。
成人の女性よりも、より若い者が弱者として容易であれば、未成年者へ遂行されることであり、
その遂行が結果をもたらす事実があれば、それを模倣する者があらわれるという連鎖である。
他の多数の者がそのように考え・そのように行動するから、
みずからもそのように考え・そのように行動するというありようは、
<一義>の<社会>にあって、<多義・多様>の個人が集団化し結束する必要不可欠からすれば、
概念的思考の整合性に正当性を持たせるものとさせる。
性的暴力の被害状況という情報の開示が明瞭であればあるほど、
模倣するための情報が確固とした事柄となることである。
現代がそれ以前の時代に比べて、性犯罪の発生率が上昇していることがあるとすれば、
模倣するための性犯罪の行われた情報が蔓延化しているということにある、
模倣して学ぶべき実例がなく、みずから犯罪を創出するという人間は、ほんの僅かしかいない。
公的に<全裸>をあからさまとさせれば、その扇情が性犯罪を増長させると見なされるとしたら、
一糸も身にまとわない、装飾品のひとつさえ着けない、生まれたままの全裸、
備わるものが備わり、見えるものが見え、隠されることの一切ない姿態という<全裸>は、
人間の最も自然な美のありようを示すものであるという言い分も、
単なる期待や希望や願望をあらわしているということに過ぎなくなる。
<縄による日本の緊縛>ということにあって、<全裸>は必要不可欠の事柄である以上、
<縄による日本の緊縛>が日本民族の自己同一性を明らかとさせるものであるとされている以上、
置かれている現在の状況は、未来を楽観的に展望させるようにはない、法の規制と処罰が強化されれば、
<縄による緊縛>など、結局は、<性欲>の一表現の娯楽として終わらせられてしまうことである。
従って、そうならないうちに、認識の価値転換が果たされなければならないことである。
それは、これまではどのようにあったか、ということがくびきにはならないことは、
すでに起こってしまった出来事は事実としてあることだと認められても、
歴史は、その解釈と価値評価を常に未来へ向けて、
より良い<再評価>という方法で行ってきたことにあるからで、
例えば、明治時代を分水嶺とした日本文学のありようについては、鈴木貞美の業績が存在する、
その『「日本文学」の成立』(作品社 2009年刊)は、
<縄>はどのように結べば<緊縛>となるかを教えてくれる<表現>としてあり、
それを成すには、<人間の全体性>に対する認識が必要不可欠の事柄としてあることが示されている、
<日本文学>を<人間の全体性>から考察できる、傑出した存在である。
<人間の全体性>とは、民族の自意識なくしては、あり得ないことである。
娯楽としての人気を得ることであれば、民族の自意識などは不必要として、
世界はひとつ、愛が世界を救う、人類は皆同じ、と喧伝できることには違いないが、
実際は、そこに眼を向けないことが民族対民族、或いは、民族自身の<矛盾・苦悩・軋轢>を生んでいる、
民族は、みずからを持ってして、みずからの問題を解決しなくてはならない。
日本民族が現在立たされている、避けて通ることのできない立場にしても、
明治時代を分水嶺として、西洋の先端思想を<模倣・追従・隷属>する、百四十二年の世襲から生み出された、
<矛盾・苦悩・軋轢>の超克ということにある。
現代の日本文学が<閉塞した人間の状況>しか表現できないものとしてあるとしたら、
それまでの西洋思想の流行に<模倣・追従・隷属>して、<和製何々主義・思想・運動>を容易に行えたようには、
もはや、容易に<模倣・追従・隷属>する対象が存在しないことにある、
つまり、それだけ、先生の西洋思想にあっても、人間に関する考察の困難があるということで、
生徒にしては、<矛盾・苦悩・軋轢>が剥き晒しとなっている全裸があらわされていることでしかない、
<矛盾・苦悩・軋轢>を引き摺っていても、衣食住に困らなければ問題とはならない<富国>、
その衣さえも剥ぎ取られては、ついには、あらわすほかない、生まれたままの<全裸>でしかない。
<閉塞した人間の状況>を解決する文学表現を創り出そうというのであれば、
日本民族の自意識と面と向かうしかないことである。
進化過程の現段階の人間にあっては、それは、厳然と存在する<因習>としてあることだからである、
世界に数多ある、いずれの民族にあっても、超克できない<因習>としてあることだからである、
<人間の全体性>へ向けての思想の展開は、そこが出発点だからである。
しかしながら、日本民族、恐るべし。
日本民族が固有にある民族の自己同一性を明らかとすれば、
一万六千五百年の<結びの思想>に基づいて、
<人間の全体性>へ向けての創造を切磋琢磨・持続継続した暁には、
世界のいずれの民族に先立って、<人間の全体性>を体現できる民族と成り得ることができるからで、
日本民族の<学術>の存在理由は、<人間の全体性>をあらわすことになることである、
日本民族には、<人間の全体性>を表現するという厳然とした目的があるということである。
<全裸>にある男性と女性の姿は、人間の最も自然な美のありようを示すものである……
このように表現することの可能は、その生まれたままのありようにあって、
<人工的なもの>が一切付着しないことが人間の<動物>であることをあらわすことに始まる。
人間が動物であるとは、<四つの欲求>と<七つの官能>を活動させる、生ある生き物であるということである。
その生ある生き物は、知欲から生じる言語の発達に伴い、整合性を求める思考を行うことで、
<みずから>というものを意識する。
この<みずから>は、生まれたままの全裸であることに<羞恥>を感じるようになったとき、
初めて認識されるもので、胎児より誕生した乳児が幼児・児童へと成長していく過程において、
母親、父親、兄弟、親戚、隣人と接する対象が増加することに伴い、
人間が群棲して<一義>の規律を持って集団を形作る<社会>を意識させらるようになったとき、
<みずから>以外の<他者>を意識することで生じる。
<羞恥>とは、人間が<みずから>と<他者>との距離をどれくらいのものとしているかを測ることのできる、
始まりの意識であるから、<羞恥>を持たない人間ということはあり得ない、
また、<羞恥>のあらわされない人間というものもあり得ない。
もし、羞恥心のない人間と見受けられる者があるとすれば、
それは、<みずから>という自意識も、また、希薄であるということをあらわしている、
そのようにある者は、<全裸>となった場合にあっても、あらわす<羞恥>は希薄であるということになる。
これは、<みずから>と<他者>との距離を狭く意識しているということであるから、
<みずから>の思考も<他者>の思考も一緒のことのようにしか意識できないことから、
俗に、思いやりに欠けるという態度にあらわれるということになる。
人間は、生まれたままの<全裸>に剥き晒してみれば、
その者がどのような<みずから>の意識を持ってあるかを知ることができるということである。
人間が<全裸>となるということは、それだけ明確な<表現>としてあることであるから、
<社会>が<羞恥>をないがしろにしている傾向にあっては、
その成員の<みずから>の意識及び意義が希薄となることは避けられない。
<羞恥>は、その者が生育する<社会>の<一義>によって成長させられるものである、
それは、<みずから>という認識に強弱をもたらすものである以上、
本来の<多義・多様>としてある、<動物>存在の人間をどのように<一義>としてあるかへ導く一方、
人間に常時活動している<性的官能>は、このとき、<みずから>へ色合いを添えさせる、
この<色合い>とは美的感覚という意義であるが、
美的感覚とは、<性的官能>を始めとした<七つの官能>に依ることであれば、
<全裸>にある男性と女性の姿態が美しいと感じさせる理由は、
その対象が<羞恥>をあらわしていることを見つめる者が<羞恥>を意識していることにある。
陰茎も膣も剥き晒しの<全裸>を<社会>が醜いと<一義>に概念化している意識にあっては、
それを美しいとは感じさせず、それはポルノであると概念的に決め付けられて、
醜い陰部の隠された全裸の姿態、ヌードを美しいと感ずるということになる。
美的感覚とは、<性的官能>を始めとした<七つの官能>に依ることであれば、
人間の本来の<多義・多様>からすれば、個人差という差異があり得る以上、
幼児・児童の<全裸>に対して感ずる美的感覚も、
<あどけない>ものとするか、<扇情>なものとするかの差異となる。
成人男性の陰茎の<交接の目的>を見事にあらわした露骨で正常なありようや、
成人女性の膣の<交接の目的>を見事にあらわした露骨で正常なありように対して、
<交接の目的>を大してあらわさない幼児・児童の陰茎や膣が可愛らしいものである、
と感覚することできるとすれば、<社会>の<一義>は、
人間は、<動物>であることを脱却しようとすることで、<文明と文化>をあらわしてきたことであり、
人間は、生まれたままの<全裸>で<社会>を営むものではなく、
衣服・装飾品・髪型・化粧という人工的なものを付着させた<進化であること>を概念としていることにある。
この意味では、ポルノグラフィと称される表現も、
少なくとも、髪型・化粧は留意されている<全裸>である以上、<生まれたまま>ということではない、
美しく見せるための人工的なものが付着していることであり、
人間の最も自然な美のありようを示すということにはならない。
それでは、一糸も身にまとわない、装飾品のひとつさえ着けない、生まれたままの全裸、
備わるものが備わり、見えるものが見え、隠されることの一切ない姿態、
つまり、尻や乳房や恥毛ばかりでなく、陰茎や膣もあからさまであるという、
男性と女性の姿は、人間の最も自然な美のありようを示すものであるということは、
原始状態、或いは、地球上に未だに存在するかもしれない、全裸の未開民族をあらわすものかと言えば、
その未開民族でさえ、陰茎や膣を剥き晒していても、髪型や耳輪のひとつでも付着させていれば、
<文明と文化>をあらわしていることに変わりはない、
つまり、<生まれたまま>の<全裸>とは、生まれたときにしかあり得ないという<全裸>である。
胎児から誕生し成長する人間は、死滅するまで、<全裸>となることはあり得ないということである。
人間の認識する<全裸>とは、人工的なものが付着されたことで、
<色合い>を感覚されるものでしかないというありようである。
<全裸>になったからといって、自然に帰れるかと言えば、そうは容易にならないのである。
<人間>は、誕生したときから、自然のありようを<みずから>の肉体から放棄していくのである、
放棄された肉体は、付着できる<人工的なもの>を衣服・装飾品・髪型・化粧は言うに及ばず、
刺青、脱毛、顔立ちや身体付きの成型・整形を施されて、<色合い>をあらわすようにされる、
人間と自然との隔離は、その付着の度合いを示すものとしてある。
科学技術文明と称される所産は、人間の<道具>の発達ということであるから、
<人工的なもの>である<道具>であれば、それらがすべて失われたとしても、
人間に付着することも失われたことになるが、肉体の付着は失われることがあり得ない。
人間は、<文明と文化>をあらわすことのできる、地球上唯一の<動物>であるという象徴である。
従って、地球上のすべての<全裸>にある<動物>のなかにあって、
この<人工的なもの>が付着している<全裸>にある人間ということは、
むしろ、人間としての矜持をあらわす身繕いが整えられた姿にあると言える、
それこそが人間の最も自然なありようがあらわされている美であるという言い分があっても、当然である。
<全裸>にあることの<自然>の<表現>など、自己欺瞞であるか、或いは、まやかしであって、
進化の遅れた動物状態をあらわすというものでしかなく、
男性と女性の姿は、身に着ける、衣服・装飾品・髪型・化粧、<人工的なもの>一切の付着にあってこそ、
最も自然なありようをあらわすという、
繊維・服飾・工芸・理容・美容産業の振興をさらに促すという事態、
身繕いを整えるという人間の矜持が<表現>される、精悍さ・清楚さ・艶やかさ・妖しさにある美の顕現、
備わるものが備わっているのか、見えるものを見ることのできない、隠されることにある性の神秘、
男性と見受けられても、実は女性であったり、女性と思えても、実は男性であったりする、
多義・多様、百花繚乱、豪華絢爛の世界民族総参加の一大展示会、
これであれば、<猥褻>ともならず、規制と処罰の対象にもならず、<成人指定>にさえないことであり、
老若男女、皆平等という結構づくめのありようであれば、
これからは、人間の最も自然にある姿は<着衣>にある、という認識が常識となることでもある。
それでも、<全裸>が人間の最も自然な美のありようを示すものである、と言うことの必要は、
<縄による日本の緊縛>からすれば、縛る対象に<全裸>が不可欠であることに依る。
人間が<文明・文化>という<人工的なもの>を付着させた<全裸>をあらわす<動物>であるとされる、
それはそれで事実ならば、仕方がないことである。
しかし、そうであるならば、現代の<全裸>であろうと、明治時代の<全裸>であろうと、
或いは、江戸時代、室町時代、平安時代、いや、縄文時代の<全裸>であろうと
それぞれが何を付着させているか、つまり、<着衣>しているかという相違があるだけのことになる、
<縄>で<縛り>上げる<全裸>に変わりはない。



― 着 衣 ―



人間は、全裸であるから<着衣>した……
このように言えることは、人類が固有の進化を始める初期の段階において、
身に着けるものが肉体を保護するという明確な目的があってのことである、
それまでは、剥き晒しのありさまにあったわけであるから、
<みずから>という自意識も希薄なものであったに違いない。
<個>が群棲して群れを成すという程度のことであって、<みずから>と<他者>との距離は狭く、
<一義>の概念で集団の統率が維持されていたことである。
人間に備わる<性欲>も、常時働いている<性的官能>が高ぶらされるに従い、
ところかまわず、相手かまわず、手段を選ばず、行うことが可能である、という自由・放埓はあり得ず、
他の動物と同様の<発情期>という<一義>に従っていた。
全裸を隠すということによって、見えるべきものが見えない、という状況が作られて、初めて、
男性にとっては、見えるべき女性の膣、女性にとっては、見えるべき男性の陰茎が眼前から消えた。
そこから、<ないものをあると考えられる>という<想像力>の発達が促されたことは、
すでに、<みずから>の体感に従う、音声の感覚伝達の<表現>は、
<みずから>の思考に従う、言語の意思伝達の<表現>へと移行し始めていた状況にあったことは、
<言語による概念的思考>の発達なくしては、<想像力>は展開しないという因果関係があるからである。
言語の組成と構造は、<整合性>を求めるように思考を活動させる、
この<整合性>の認識は、言語を用いる遥か以前、動物状態であったときからの遺伝的認識である。
高ぶらされた<性的官能>が<性欲>の求めるままに発情して行う、<交接>のこの上ない快感としてある、
<性的官能>の<絶頂感>、それは、生まれたものは育ち成長して実る、
という<起・承・転・結>の見事な<整合性>の実感である。
<言語による概念的思考>を行うことは、それが<整合性>をあらわせばあらわすほど、
<性的官能>は、常時活動しているものであれば、当然のことながら、
<性的官能>の<絶頂感>を想起させるものとなり、喜びの感じられることであった、
<言語による概念的思考>を行うことは、快感のある喜びであった。
しかし、<言語による概念的思考>を発達させれば、それだけ、<概念>の<多義・多様>が生まれることは、
<概念>の<相反・矛盾>を招くことであったことは、苦痛という、快感とは正反対の感覚を意識させた。
そこで止めてしまえば、悩み苦しむ、というそれだけのことであったが、
敢えて思考を続けることによってもたらされたことは、<概念>の苦痛のある<擾乱>にあって、
そこには<ないものをあると考えられる>という<想像力>が生まれることであった、
これは、<七つの官能>にある<第六感>を契機とした働きとして見ることもできる。

――ここで、感覚として、<快感>と<苦痛>を正反対のものとしているが、
これは、感じられるありようにおいて、そうあるだけで、実際は、ひとつの感覚の程度の差異である。
つまり、<苦痛>も<快感>と成り得ることがあるということは、
肉体における<性感帯>と称される箇所への適度の刺激は、<快感>をもたらすことであるが、
肉体へ<苦痛>の刺激を与えることによって、<性感帯>は<快感>を感覚させることもするということである。
このことは、<サディズム・マゾヒズム>という性と心理の見解に誤謬があることを示唆する、
つまり、<肉体>は言うに及ばず、<心理>においてさえ、
<快感>と<苦痛>は、同一感覚の差異であるとすれば、
<加虐>や<被虐>に<快感>を覚えることは、感覚の<傾向>はあることだとしても、
加えられる<苦痛>の度合いに応じてあらわされるものであれば、
それが人間の<属性>としてあることではないことになる。
<加虐>や<被虐>の様相のすべてを<サディズム・マゾヒズム>によって見なすことは、
そのように思考する心理に限界をもたらすというだけで、
古い<概念>の固執ということにしかならない、或いは、
それを<属性>として厳粛に受け留めるとしたら、民族の宗教的解釈を支えとすることでしかない。
<サディズム・マゾヒズム>は、単なる<性の表現>に過ぎないことである、
<加虐>や<被虐>の<表現>と言い換えても、変わりがないものである。
この点は、《10.<被虐美>という猥褻で恥辱のある表現》において詳述される。――

こうして、<四つの欲求―食欲・知欲・性欲・殺傷欲―>と
<七つの官能―視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・第六感・性的官能―>を備えた<動物>である人類は、
<概念的思考>と<想像力>を用いて、<社会>を作り出し、<文明と文化>を発展させていくことは、
<言語>と<想像力>こそは、人類に固有の進化を遂げさせた原動力としてあることで、
この状況は、現在も、或いは、人類が次の段階へ進化を遂げるまで変わらないものとしてあれば、
人類の生存にとって、<概念的思考>における<言語>と<想像力>の問題は、最重要課題としてあると言える。
<言語>と<想像力>次第で、<概念的思考>は、どのようなありようにも成り変わるからである、
それまで<支配的>と考えられていた<思想>が取って代わられることは、歴史があらわしてきていることである、
<言語による概念的思考>には、<想像力>がある限り、思考の<終末>はあり得ないことだからである。
<着衣>が全裸を隠すということによって、見えるべきものが見えない、という状況が作られたとき、
見えない相手の膣と陰茎を<ないものをあると考えられる>という<想像力>が変えさせたことであった。
<ないものをあると考えられる>ということは、
<一義>の<発情期>に置かれた状況から、<多義・多様>の<情欲>へと脱却させていくことでもあった。
<想像力>によれば、求める<概念的思考>の<整合性>は、
ところかまわず、相手かまわず、手段を選ばず、行うことが可能である、という自由・放埓を可能とさせたことだった。
しかも、この<着衣>を契機として、<隠されたもの>を想像するという思考方法が始まった。
それまでは、他の動物と同じように、現象として眼前にある<事柄>を思考するということしかなかった、
<事柄>と<事柄>の<関連>という、<隠されたもの>を想像することはなかった、
存在する両者、及び、複数の<関連>、<事柄>と<事柄>の関連に思考活動を向かわせることは、
ついには、言語活動そのものにある、言語の組成と構造、それが作り出す<概念>にまで及ぶようになった、
という現在の置かれている状況にまでたどり着かせることである。
その間にあって、<着衣>は、ただ、<隠すもの>を全裸に付着させて保護するという当初の目的から、
膣も陰茎も剥き晒しの生まれたままの<全裸>を<何らかのもの>で隠すことは、
同時にその<何らかのもの>がその<隠されたもの>に新しい<意義>を作り出すことを認識させた。
衣服・装飾品・髪型・化粧、刺青、<人工的なもの>一切の付着は、
<隠されたもの>を想像させる、<不可知>の表象として用いられていくことであった。
この<不可知>は、<概念的思考>が<事柄>を前にして、<関連>を突き詰めていくと立ちあらわれる、
どうしても知ることのできない、<総体>、<全体>、<事柄>のすべて、ということであり、
人間には、<不可知>の<事柄>が存在するという認識である、
何らかの現象が起こるが、その<事柄>を<関連>付ける<事柄>を思考できないというありようである。
そこで、<想像力>によって生み出されたのが<絶対>という<概念>であった。
<絶対>は、人間の<不可知>を補完するという、<整合性>の<概念>である。
その<絶対>の<概念>を<人間を超越した存在>と想像できれば、<神的存在>が生まれることになる、
その<神的存在>が<不可知>の<事柄>を<関連>付けていることだとすれば、
森羅万象のほんの僅かしか認識することのできない人間にあって、
<神的存在>という人間を超越している<支配的>な力は、森羅万象へ行き届いていることになる。
森羅万象の<事柄>すべてに<神的存在>があるという<一義>は、
森羅万象に生じるすべては<神的存在>の賜物であると思考することで、畏怖・崇敬・尊厳が生まれる、
人間を取り巻く自然現象の変動は、不安・恐怖・悲哀を感覚させるばかりのものとしてあるのではなく、
<神的存在>があるということは、その豊穣・円満・歓喜を賜物とさせてくれることであり、
人間を始めとして、すべての動物・植物・鉱物に至るまで、意義のあるものと考えさせたのである。
<神的存在>の意識は、種族の保存・維持の合目的性から、群棲する<個>を<集団>化するために、
それ以上の意義はあり得ない<絶対>とすることが可能であった、
<神的存在>のもとに、<社会>を形成し、ついには、<国家>を作り出すことを始めさせたことであった。
ここで、<神的存在>そのものについて、<一義>のままに置かれるか、<多義>へと展開させるかは、
それぞれの民族が発展のために選択した<事柄>としてあることである。
日本民族は、<神的存在>を<多義>へと展開させたのである。
そうは言っても、日本民族の起源としてある<縄文時代>に行われた<事柄>は、
どのように語られようとも、仮説を超えることはできない。
ここで述べられることも、仮説に過ぎないことは当然のことであることは、
他方の解釈では、<縄文時代>の現在の民族的直系は、アイヌと琉球民族にあって、
本土は、朝鮮・中国から渡来して発展した弥生民族にあるという見方もあるのである。
<縄による日本の緊縛>が日本民族の自己同一性を明らかとさせるという意義が、
民族の出自を明らかとさせることにあれば、荒唐無稽もはなはだしい<事柄>となることである。
しかし、すでに述べたように、<性的官能>が高ぶらされれば、
ところかまわず、相手かまわず、手段を選ばず、行うことが可能である、という自由・放埓にある人間である、
当時は、宗教的祭儀の後に乱交が行われたと見なす見解もあることである、
長くても百年程度の寿命にある、<個>としての人間が童貞や処女を守り切れるようには、
一万六千五百年の長寿の民族の出自は、純粋で直系であることを容易とさせることではない。
民族の自己同一性とは、過去の歴史から、<みずから>が何であるかを知ることだけではない、
むしろ、現在を生きる<みずから>が何を結ばせ、何を創り出し、何を<表現>するかにある、
その<表現>を次に連なる世代は見つめていることにある。
人間は、<見つめる者>であるが、同時に<見つめられる者>でもある、
<みずから>は、たかが<ひとり>のことに過ぎないが、
<ひとり>は、<人間の全体性>を想像して<表現>することもできる。
その<ひとり>の<みずから>が抱いている、<縄>による<結びの思想>、
それが<縄文時代>に起源を求められるものであれば、日本民族の<因習>として考えられるということである、
<因習>の歴史的経過を宗教・政治・軍事・農業・漁業・芸術・遊戯において、
見事に示してきた<結びの思想>である。
<縄>の発祥は、一本のものを別のもう一本のものと撚り合せるということにある、
これは、<事柄>と<事柄>とを<関連>付ける<想像力>なくしては、偶然に起こることではあり得ない。
そして、<縄>は、あるものとあるものを<繋ぐ・縛る・結ぶ>ということを目的としてある、
これらは、すべて<関連>をあらわす<概念>であれば、
<縄>それ自体に<神的存在>を思考することは難しいことではなかった、
そこには、<縄>のありさまが呪術化されていた<蛇>と<関連>付けられることも関与している、
縄文土器には、<縄>の文様以外にも、<蛇>の描かれたものが存在する。

――<縄>が<蛇>と言われれば、団鬼六の<花と蛇>を想起させることであるが、
その比喩も、<美の化身と因習の縄>と読み替えると、
団鬼六作品の再評価も、<サディズム・マゾヒズム>を脱却して行われれば、
そのあらわす<加虐>と<被虐>の様相が<日本民族的性愛>の<表現>となることであろうか。
だが、拘束することだけが目的の<縄>による<縛り>の表現でしかなければ、
穿って見たところで、<和製サディズム・マゾヒズム>が明らかとなるだけであるが。――

置かれた<縄>をじっと見つめてみれば、誰でも気付くことであるが、
複数の筋が撚り合わされて織り成された螺旋の形状には、
見つめていて見飽きない、力動感・不可思議・美しさが感じられることである。
これは、<縄>が直線の形状をしていながら、ねじれているという形態をあらわしていることによるもので、
力動感は、すぐにもそれ自身が大地から動き出して、天に向かって這い登り始めるようにあり、
不可思議は、そのねじれが留まるところを知らない永遠を髣髴とさせるようにあり、
美しさは、くねらせる姿態の柔軟で艶かしい妖美をあらわすようにあって、
<縄>が大地(女性)から天(男性)へ繋がるものであると同時に、
陰(女性)と陽(男性)のねじり合わされて交接したものと見なされることであった。
交接は出産を導くものであるから、<縄>は、<生み出すもの>の表象としてあれば、
<神的存在>と森羅万象の生成を見たとしても、不思議ではない。
強靭でありながら可変性に富んでいる、<縄>のあわらす実用性は、その用途の広さにあらわされ、
宗教・政治・軍事・農業・漁業・芸術・遊戯、命綱から首吊りの縄に至るまで、更には、
<縄>を見せられて、官能の疼きは胸を高鳴らせ蠱惑の意識とさせられる、<縛り>へと及ぶことであった。
<縄>が日本民族にとって、必要不可欠の<事柄>であったことは、
<縄>を始めとして、自然に生育する植物から生まれる、糸・紐などにおいても、
<結びの思想>のあらわされる<表現>は、服飾・装飾・工芸として多種・多様なものへ展開された。
この<結びの思想>とは、言い換えれば、<関連の想像力>ということであるから、
他の民族から伝来した文化という<事柄>を<みずから>の文化の<事柄>と結び合わせて、
新たなものとして、<みずから>の文化とすることにあらわされたことであった、
中国からの<漢字>の伝来は、<かな>と結び合わされて、日本語としての文化を作り出している。
このありようは、<みずから>に<想像力>が脆弱なものとしてある場合は、
伝来する<事柄>に対して、<模倣・追従・隷属>するだけの文化しかあらわせない、
日本民族に独創性を問うとしたら、結び合わせる<想像力>が<新たなもの>を生むことでしかないことは、
日本民族の文化の歴史とは、その相克の結果をあらわしてきたものである、と言えることである。
明治時代以降、現在に至るまでの文化も同様としてあれば、
それが西洋思想に基づいた様相をあらわすだけのものとしてしかなければ、
<想像力>は脆弱なものとして置かれ続けているということである。
その原因のひとつは、それまで継承されてきた、<結びの思想>を断ち切ろうとしたことにある、
断ち切って、西洋先進国の思想を用いて、<みずから>を思考・裁断しようとしたことによる。
<連>という発想が江戸時代にあったということであるが(参照 ☆田中優子の洞察)、
渦のように動きまわり流動し続ける、<連>とは、<縄>の螺旋を表象するものであり、
<人間><言葉><事柄>の関係を体系も論理も収斂するところもなく、
すべて列挙して羅列するということを<俳諧化>という相対化の運動として行われたことであった。
この相対化は、善・悪、正・反という単なる二元論ではなく、
列挙して羅列された<事柄>が相互に肯定と否定をもって、
意義そのものを無意味化してしまうという方法であった、
そこに滑稽としての笑いが生ずることが運動を持続させるというものであった。
これは、<想像力>によって<関連>を浮き彫りとさせる、<結びの思想>である、
<人間の全体性>を考えるとき、浮かび上がる<相反・矛盾>を超克する、ひとつの方法である。
このような優れた発想がありながら、それを断ち切ったのである、
何故なら、それは、<一義>の宗教性から生まれる、構造の厳格な不変に思える西洋思想に対して、
意味不明で荒唐無稽とも思える<多義・多様>をあらわす、可変的で軟弱な思想と見なしたからである。
そして、先生に習うことが精一杯の生徒であるように、<想像力>を脆弱にしていったのである。
<想像力>が脆弱に置かれてあるということは、西洋思想の流行に<模倣・追従・隷属>して、
<和製何々主義・思想・運動>を行うことでしかなかったことである。
<みずから>の<想像力>で創造した思想ではなかったからこそ、
その<和製何々主義・思想・運動>が現在に至らせる継承者を作り出すこともなかったことは、
流行を真似たものでは流行物にしかならない、という道理を示しているに過ぎない。
この見方に対して、いや、それには当てはまらないものもある、と提示される<事柄>があるとしたら、
それこそが現在において再評価されるべき<事柄>としてあることである、
未来へ投げかけられる、<結びの思想>の継承と言える<事柄>であると言える。
そのようなものが<多義・多種・多様>にあらわれることが<新たなもの>を生ませるのである。
<縄による日本の緊縛>も、<縄>を身にまとうということが、
<神的存在>と森羅万象の生成という意義のあったことであれば、
<全裸>を晒した人間を<縄>で縛るということが公的な<表現>とは成り得ない以上、
行われた事実は歴史に浮上することなく、<縄文時代>より、脈々と受け継がれてあったことは、
室町時代の後半に、<捕縄術>の発祥ということにおいて、具現化したことである。
<捕縄術>は、<縄で人間を縛る>ということが、思想・方法・技術において昇華されたものである、
その発祥までに、罪人を縛り上げる程度の実績しか背景になかったと考えるだけでは、
百五十以上の流派、三百の縛り方という、江戸時代に大成し隆盛を極める経過は生まれないはずである。
貴族や僧侶、世間一般においてさえも、男性と女性の関係のみならず、
衆道という<事柄>が存在したわけであるから、男性と男性の関係においても、
<縄による緊縛>は行われたと見て間違いないと想像できることである。
但し、そのありようは、<縛る>からと言って、<加虐・被虐>をあらわすものではなかった、
ましてや、<サディズム・マゾヒズム>という異民族の宗教思想に当てはまるようなものではなかった、
伝承される<結びの思想>、<縄>で相手を<縛る>ということは厳粛な行為として、
<縄>をまとわされた者を<神的存在>と森羅万象の生成に置くことであったのである。
それから行われる交接が膣と陰茎の結び付きであろうと、陰茎と肛門の結び付きであろうと、
<性的官能>の<絶頂感>を導くものとしてあれば、
それは、<神的存在>の賜物としてある、生ある喜びであったのである、
<日本民族的性愛>が<表現>されたことであったのである。
これは、実証する文献や遺品があるわけではないから、
先にも述べたように、仮説であり、<想像力>による<表現>でしかないことである。
しかし、残虐・残酷・悲惨の<表現>である、
<サディズム・マゾヒズム>という属性が人間にあって行われる行為と見るよりは、
遥かに、自然な性愛として感じられることではないだろうか。
<全裸>に<縄掛け>をする<着衣>は、
<不可知>の表象をあらわすものであると見ることができれば、
現在においても、<縄による緊縛>の世間一般の<表現>が<多種・多様>をあらわすことは、
理解するに容易な<事柄>としてあるということである。
<縄>で人間を<緊縛>するという行為が<神的存在>を意識するまでには至らないとしても、
<結びの思想>という<因習>を継承している者にとっては、、
高ぶらされた<性的官能>が<絶頂感>を求める<自然>のありようと等しく、
<肉体>へ掛ける・掛けられる<縄>が織り成していく付着が<自然>としてあるからである、
嫌がり・あらがい・抵抗する者へ、無理やり掛ける<縄>であれば、暴力や虐待に過ぎないことである、
だが、現在の<縄>は、<縄>を媒介として<縛者>と<被縛者>が結ばれること、
結ばれて、<性的官能>の<絶頂感>を求め合うことを<表現>している、
そのあらわされる<表現>は、見た目には、<加虐・被虐>の様相を示しているが、
そこで導き出される認識は、<因習>としてある<結びの思想>は、
人間の喜びとしてある<整合性>、<性的官能>の<絶頂感>をもたらすものとしてあるということである、
その<整合性>の実感が<想像力>を促して、<新たなもの>を生ませることである。
だが、現在の<学術>の教えるところに依れば、人間が人間を<縄>で縛るありようは、
<加虐・被虐>という<恥辱>の示される<虐待>をあらわす<サディズム・マゾヒズム>でしかない、
と教えられていれば、そうではないという違和感を抱きながらも、
それが異なるものであるということを明らかとすることができなければ、
高ぶらされる<性的官能>が<絶頂>を求めて行う、<性癖>と思わざるを得ない。
その<性癖>は、<社会>的には、<異常性欲>という人間の道を<外道>した<事柄>とされれば、
誰に打ち明けられる<事柄>でもなく、良くて、同様の<嗜好>を抱いた者同士が集まって、
<引きこもり>の自慰行為を行うという、後ろめたさにあることでしかない。
可能であれば、西洋へ<模倣・追従・隷属>することではなく、日本に独自の思想があればと思う、
<サディズム・マゾヒズム>などなければ、もっと自由な<性的表現>が可能となるに違いないと思う、
しかし、日本に独自の思想があり得なければ、もともと、<ないものである>と思考するほかないことである。
<ないものをある>とする<想像力>は、脆弱とさせられていくほかない……。
そうではないのである。
すでに見たように、<縄による日本の緊縛>は、
<縄文時代>から現在にまでに繋がる、<結びの思想>の継承があらわされたものとしてある、
そこから、<表現>される<事柄>において、<自己同一性>を示すことができるか、
その認識があるか否かに掛かっているだけのことである。





― 着 付 け ―



美しく着付けられた日本の着物を脱ぐ女性のありようには、
世界のいずれの民族と比べても、このような艶美をあらわす脱衣のありさまはない、と言える圧倒的存在感がある、
日本民族の者が<みずから>のありようを賞賛することであるから、
自画自賛・手前味噌・独りよがりと見なされる言い分にあるとしたら、話半分とされても一向に構わないことである。
話半分にされたとしても、美しく<着付け>られた着物が表出させる<事柄>そのものに変わりはない。
上手に整然と整合性的に<着付け>られた着物は、脱衣することに余計な手間は掛からない、
余計な手間がないだけ、<脱衣>にかもしだされる<美>が如実になるということである、
身に着けているもの脱ぎ去る、という本来の<興趣>が生々しく匂い立つということである。

――<着物>の<脱衣>の<興趣>ということについて、
団鬼六の『真昼の淫獣』(駿河台書房 1984年刊 「情炎夫人」所収)という作品では、
井上純子夫人が六畳の部屋で独りで全裸となることを強要されて、
そのありさまを<外道>たちによってマジック・ミラーで眺められるという描写が三十ページ以上に渡ってある。
その間に、<外道>たちは、女の品定めをしながら、<サディズム・マゾヒズム>観をぶち上げるのであるが、
それは、「夫の危急を救うため、辛さ、哀しさを必死にこらえて肌を晒そうとしている女、
そのやり切れない羞らいと屈辱の女の風情、ここに君、値打ちがあるんだよ」
「普通、女ってものは男より同性の手でなぶりものにされた方が一層、屈辱を感じるものだ」
「心理的な拷問がサディズムの中では一番痛快なんだ」とされることである。
純子夫人が日本民族の<着物>という<表象>を脱いで<全裸>となることは、掛けられる<縄>は、
<サディズム・マゾヒズム>を身にまとわされる、ということがあらわされていることになるが、
<いじめの心理>を満足させることがその<思想>の認識である、という以上の<事柄>にはなっていない。
最後は、全裸を緊縛された夫人がバイブレーターで、<性的官能>の<絶頂感>へ追い立てられるのであるが、
<縄による緊縛>がそれに与る意義があらわされることでもない、<縄>は拘束の目的でしかない――

<着付け>とは、それほどに重要な<事柄>としてあることは、
人間としてあることの自尊心が付着された、生まれたままの<全裸>である、
動物状態にある肉体といったありようをただ<覆い隠すもの>というだけでは、能がなさ過ぎることである。
人間の有能が示されるために、<着付け>は、<全裸>を覆い隠す<美>が極限にまであらわされるために、
<思想・作法・技術>を長い時間を掛けて洗練させた結実となっていることは、
世界のいずれの民族衣装にあっても、同様の<事柄>としてある。
従って、日本民族の<着物>は、民族固有の<事柄>から、<着付け>も生まれたことである。
着物、長襦袢、肌襦袢、湯文字、足袋というものが<覆い隠すもの>である、
いずれの民族衣装に比べて、固有であるのは、この<覆い隠すもの>だけで終わることではないことにある。
<覆い隠すもの>を整然と整合性的に付着させ、
<帯>という<結び>の象徴を<着物>と対比させるために、
帯あげ、帯じめ、帯どめ、伊達じめ、腰紐といった、布や紐の<結び>が多数用いられることにある。
どうしてこのような手間の掛かる・手の込んだ<着付け>を行うことであるかと言えば、
それは、<結びの思想>があらわされるためであることは言うまでもないが、
その意義するところは、<結び>をあらわさなければ、<美>は現出できない、ということにある。
<美>を現出するためには、帯や布や紐は、必要不可欠であるということである、
<縄>が<日本民族の緊縛>に必要不可欠であることは、<美>をあらわすためにあるのと同様である。
女性が<着物>姿にある、そのありようがすでに<緊縛>そのものである、と感じさせることがあるとしたら、
意識させる<結びの思想>が<縄>を想起させずにはおかない、という必然の認識にあることに依るのである。
従って、<縄による日本の着物緊縛>とは、
<着付け>であわらされている<結びの思想>を<縄掛け>という<結びの思想>で構造化することにある。
この構造化とは、日本的な<事柄>の純粋さを際立たせるということばかりにあるのではない、
<結びの思想>は、<多義・多様>をあらわすことを可能にさせるということにある。
日本民族にある<事柄>が<結びの思想>を持って行われることは、
美しい着物姿の<被縛者>が<縛者>の手間の掛かる・手の込んだ<縄掛け>によって、
<新たなもの>を生み出すという<想像力>の展開が成される、ということである。
それは、<着物>姿のあらわす<多義・多様>は、
礼装として、振袖(大振袖・中振袖・小振袖・打掛)、色留袖、黒留袖、色無地、
準礼装として、訪問着、つけさげ、友禅、街着・家庭着として、小紋、お召、紬、縞、絣、
というあらわれとなっていることが<美>の<多様>を<表現>可能とさせていることで、
<縄掛け>の意匠も、その<着物>姿にある姿態をどのように引き立てるかということから、
<一義>の方法はあり得ず、<捕縄術>が三百種類の<縛り方>をあらわしたように、
<多義>な<緊縛>が<多様>に施されることで、醍醐味と<興趣>が生まれることである。
<縄>で縛られるという、<被虐>に置かれる<被縛者>は、
<全裸>を<覆い隠すもの>を付着させるということそのものが<着付け>に依ってあらわされる、
<みずから>を明確な自意識として感じさせられることにあるから、
そこへ<結び>合わされる<縄>は、その自意識を更に高ぶらせるものとなることは必然の<事柄>であって、
<全裸>を縛られるよりは、<着物>姿にある身体を縛られる方が<性的官能>を感じてしまう、
ということがあるとしたら、<着物>の<着付け>が肉体を適度に締め上げ、
<性感帯>を刺激して、すでに<性的官能>が高ぶらされるという準備があることで、
それを<絶頂感>にまで昇華させようする<縄掛け>は、<縛者>の自意識次第のことによる。
日本民族の女性の<着物>姿に<婀娜>、男性の<着物>姿に<粋>などがかもし出されるとしたら、
それは、上手に<着付け>の施された<着物>姿そのものが<性的官能>を刺激させていることにある。
<快感の喜び>は、心理を狭い穴倉へ閉じ込めて置くようには、縛り付けない、
従って、<着物>姿が窮屈であるとしか感じられないような<着付け>であれば、
<性感帯>への同様の刺激が<快感>を感じさせるものではないことにある、
ここで、その窮屈が耐え難い<苦痛>にまで及ぶことがあった場合、
逆に<快感>を覚えることがあったとしたら、それは、感覚の程度の差異のあらわれである。
日本民族の<着物>とは、それだけ、繊細であり、微妙であり、<興趣>のあらわされることである。
<着物>姿を<縄>で<緊縛>されただけで、
<性的官能>の<絶頂>を迎えてしまう<被縛者>があり得ても、不思議のないことである。
このような明瞭な<表現>をあらわすことのできる<事柄>であれば、
その<縄>と<着物>による、<縄掛け>と<着付け>の<結び>という構造化にあって、
<サディズム・マゾヒズム>という西洋思想の<異質>が持ち込まれることは、
本来の<美>の<整合性>へ向かうことからすれば、<不整合性>をもたらすだけことでしかない。
手間の掛かる面倒な<着付け>の行われることから生じる、そこはかとない優美ばかりか、
上手に整然と整合性的に<着付け>られた着物が脱衣されることでかもし出される、匂い立つ艶美でさえも、
<艶消し>のものとされてしまうことでしかない。
その<艶消し>と引き換えに何が得られることかと言えば、西洋の<美学>であるとでも言うのだろうか、
それとも、<模倣・追従・隷属>にあることのいじけた<異常性欲>者の<美学>であるとでも言うのだろか、
<艶消し>の行われないところに、日本民族の<美学>が成立することは、必然のことである。
<井上純子夫人>の<着物>の<脱衣>の描写は、<興趣>をかもし出させる見事な<表現>にあるが、
その<興趣>が<サディズム・マゾヒズム>と引き換えでは、<艶消し>となってしまうことを考えると、
明治時代以降の<日本文学>全体において、
<模倣・追従・隷属>にある、<和製何々主義・思想・運動>が<艶消し>としていることは、
これからの<再評価>の問題として、重要な<事柄>となることは、必然であると言える。
<着衣>ということは、<全裸>に<覆い隠すもの>を付着させるということである、
<全裸>に<覆い隠すもの>を付着させるということが、
<模倣・追従・隷属>にある、<和製何々主義・思想・運動>であるとしたら、
そのようなものは、<脱衣>できるということにある。
実際、<和製何々主義・思想・運動>が西洋の<流行>を追いかけたものでしかあり得なかったことは、
その<主義・思想・運動>を支持する者が<流行>が萎えれば、簡単に鞍替えしてしまうところにあらわされる。
そのようなものであれば、その後に続く者が真面目にそれに取り組む所以もないことは、
そのもの自体が<表現>こそすれ、まるで<内実>のないことを暴露しているようなことでしかない。
少なくとも、<淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし>とされるように、
或いは、<連>の例えのように、連続する<表現>の展開として、<結びの思想>があるべきことである。
従って、すでに起こってしまった<事柄>をあれこれと批判するだけでは、何も生まれてこない、
より良い未来へ投げ掛けられる、<再評価>の方法がなくてはならないが、この点においては、
先に述べた、鈴木貞美の『「日本文学」の成立』があらわしている、<表現>と<方法>は、重要である。
そこには、対象を<全裸>にし、<縄掛け>をすることがあらわとさせる、<新たなもの>が何であるか、
分析する<方法>と連続させる<表現>があることを明確とさせているからである。
書評には、<いかにも大風呂敷である。が、世界の建て替えを夢想させる革新の書には違いない
(片山杜秀 読売新聞 2010年1月24日)>ともあるが、
そのありようは、まさに、<結びの思想>の実践であるとしか言えない。
これまでに存在した、<サディズム・マゾヒズム>によるとされる日本の<表現>においても、、
<艶消し>となっている部分が剥ぎ取られて、<全裸>があらわとさせられたとき、
掛けられる<縄掛け>の次第であらわす、<新たなもの>があるということは、確かなことであるのだろうか、
それとも、所詮は、<サディズム・マゾヒズム>の流行<表現>であったと棄却されてしまうだけのことなのだろうか。

――『肉の手形』という団鬼六の作品(桃園書房 1986年刊 「妖美夫人」所収)は、
作者の考える、<和製サディズム・マゾヒズム>の典型が良くまとめられた小説である。
物語の筋立ては、夫が行った質屋の借金で差し押さえられて倒産した呉服屋を再起させようと、
美しい夫人が同じ質屋へ再び借金を重ねる条件として、みずからの肉体を担保として差し出すというもので、
ついには返済を果たせず、質屋へ監禁されて、加虐の嗜好を持つ者たちの被虐の生贄となるという話である。
小さな呉服問屋の夫人、島崎葉子は、「潤んだような黒眼勝ちの澄んだ瞳、
気品のある柔らかな線の鼻、頬は白蝋のように白々と冴えている臈たけた美人である」。
「主人を再起させるために大村から金を借りのっぴきならなくなっているのに
何の連絡もしてこない主人を恨もうともしない。容貌だけではなく心まで美しいこの人妻」は、
返済期限切れの質流れ品として、質屋の土蔵に作られた狭い牢舎へ、着物を剥ぎ取られて入れられる。
夫へ電話連絡を取らせて欲しいという懇願の代金として、肉体を隠す最後の衣類である湯文字を求められ、
全裸となって、ひとり牢舎へ閉じ込められると、
「これ以上、あの大村という男がこのみじめな自分にどのような苦痛を与えようというのか、
捨鉢になって彼の手でズタズタにこの身を引き裂いてみたいといった被虐の願望すら涙の中から生じてくるのだ。
恐怖と屈辱にどれほど自分の身が耐え得るかためしてみたい、といった悲壮な気分にもなる」のである。
それから、麻縄で後ろ手に縛られ胸縄を掛けられた姿態を奥座敷にある床柱へ繋がれて、酒宴の晒しものとされる。
加虐者たちの熱いまなざしを受けて、「ああ、とやるせない吐息をつきながら羞恥に身悶えし、
美しい頬にもつれさせた黒髪を打ち払うように火照った顔を右へねじったり左へねじったりする葉子」は、
夫への最後の電話連絡を哀願すると、裸一貫の女に残された代金に相当するものは、
「悩ましい柔らかみのある翳り」であるとされて、それを奪われることを仕方なく承諾する。
葉子は、悲壮な表情で決心し、みずから電話をするが、親戚にいるはずの夫の所在は不明だった。
吉野の手によって、陰毛の剃毛が行われることになるが、この若い男は、江崎を通じ質屋の大村に雇われて、
葉子を住居まで迎えに行ったいきさつがあり、嗜虐の趣味を持っていて、葉子に初対面で惚れてしまう。
葉子は、「お好きなようになさって、吉野さん。……
出過ぎたことをしてしまった私が馬鹿だったんです。主人に罪はありませんわ」と覚悟を決め、
「これからは大村さんに気に入られるような奴隷にならなくちゃいけない」と吉野に決め付けられても、
「わかってます、と小さくうなずいて見せるのだった」。吉野は、そのような「葉子の可憐さに心がうずき、
もう耐えられなくなって激情的に葉子の麻縄に縛り上げられている胸のあたりを抱きしめる」ことをしても、
「葉子の唇に唇を押しつけていったのだが、
葉子は、まるでそれを待ち受けていたかのようにぴったりと吉野の唇に唇を合わせ、
さすりつけるようにしながら甘美な舌先を吉野の口中へそっと差し入れてきたのである」。
そして、「ああ、私は馬鹿だったわ。ね、吉野さん、
うんと私をいじめてもう主人の事を私から忘れさせて」と言うのであった。
それから、陰毛が奪い去られていくなかで、葉子は、「うん、嫌、吉野さん」、
「何をぐずっていらしゃるの。もう覚悟は出来ているんです。早くお剃りになって」、
「傷なんかつけちゃ嫌。上手に剃ってね、吉野さん」、「こう? こうすればいいの、吉野さん」、
「と、とても、とてもいい気持ちよ、吉野さん」と相手に媚態をあらわす態度さえ見せるようになっていくのである。
「まあ、可愛くなったわね、奥さん」と大村の妻の直江に揶揄され、大村と江崎から哄笑を浴びせられても、
「純黒の神秘のベールを無残にもすっかり剥ぎ取られて赤裸々に生々しい亀裂を露わにしてしまった美貌の人妻」は、
「上気した頬に艶々した乱れ髪をほつらせて……
もう男達のいたぶりを受けてもからかいを受けても何ら動揺を示さず、綺麗な睫毛を閉じ合わせているだけ」であった。
そして、全裸の緊縛姿のまま、ベッドへ仰向けに寝かされると、
「大村と江崎の手が左右からのびて葉子の優美な二肢をからめとると、
そのままぐっと左右へ引き裂くように割り開かせた」。
「幾層もの襞を見せ、毒っぽく開花したその部分をふと見た吉野はうそ寒さまで感じ、
いかに貞淑な美しい人妻ももうこうなれば落下無残の哀れな空しい姿だと思わず眼をそらせてしまうのだ」。
その相手の態度に、葉子は、「ど、どうして私から眼をそらせようとするの、吉野さん。
こんな羞ずかしい姿にされた私など見るのもけがらわしいというわけなんですか」と問い掛け、
「うそ、うそ、あんまり私が浅ましい姿になったものだから、軽蔑なすっているんだわ。
私、吉野さんだけにはそんな眼で見られたくなかった」と思いを打ち明ける。
次第を眺めていた大村の裁量で、「この肉の奴隷は君専用のはけ口にしたっていいんだぞ」ということなり、
葉子をこの地獄のありさまから救う思いで、「僕の好きなようにするけど、いいね」と、
「吉野は葉子の額にたれかかる黒髪を優しく撫で上げてやりながらそういうと
葉子の涙に濡れた美しい瞳の中に妖しい輝きが射し始める」。
「君は奴隷にはかわりないが僕という特定の男を持つことになるんだ、異存はないね」という告白に、
「葉子は、美しい光の滲む眼を吉野に注ぎながらゆっくりとうなずいて見せるのだ」。
行われる浣腸も、夫人もその方が気分が乗るだろうということで、吉野に任されることになった、
「薄紅色の美しい襞まで見せたその下方の奥深くに可憐な菊の座はひっそりと息づいているようだ」
と感じながら見やるばかりの吉野に対して、大きく開脚させた人の字に縛り付けられた葉子は、
「そんなに黙って見ているばかりは嫌。何とかおっしゃって。
うんと淫らな言葉を吐いて葉子に羞ずかしい思いをさせて頂戴」とねだるのだった。
大村や江崎が股間の箇所を熱い視線で眺めながら、盛んに淫らな言葉を投げつけると、
「『もっと、ああ、もっとおっしゃって』
と葉子はもじもじと双臀を揺らせて男達を煽るような仕草を演じるのだ」。
ついに、吉野が可憐な菊の蕾へ一気に嘴管を突き立てると、
「そんなひどいなさり方ってないわ。ねえ、コールドクリームを塗って頂戴」と要求を始める。
「先程までの貞淑そうな葉子と今、ここでコールドクリームを要求する葉子と
果たして同一人物かと吉野は何か信じられない思いになる。
女って一皮むけばみんなこんな風に魔性を持っているものなのだろうか」
と妖婦に変身した感のある葉子を見つめながら、吉野が塗るクリームにも、
「『うん、もっと、優しく、ねえ、じれったいわ。そんなのじゃ柔らかくならないわ』と、不服そうに顔をしかめるのだ」。
大村が取って代わることになり、「両手を使って優しく愛撫する大村の手練手管に忽ち、
葉子は煽られて昂ぶった声をはり上げる。大村の片方の手で隠微な愛撫を受けるそれは忽ち大きく開花し、
溢れるばかりの果汁をもう一方の大村の指先へしたたらせるのだ。
吉野は大村の手管で火柱のように燃えさかってしまった葉子を見て激しい嫉妬を感じた」。さらに、
「大村が腰を据えて嘴管を当てぐっと力を入れると、葉子は甘美な啼泣と一緒に悩ましげな身悶えを見せる。
……大村の責めに同調するような葉子のそんな仇っぽい身のこなし、そして、切なげな悩ましい鼻息――
それを息を呑んで見つめている吉野は、大村にそんな媚態まで示して淫虐な責めに同調する葉子に
たまらない嫉妬を感じると共に何か背筋も冷たくなる程の恐怖に似たものを感じた。
美貌、淑徳、貞淑と美しい女の条件をすべて兼ねているように思えた
この人妻のどこにこのような魔性が隠されていたのだろうか……片一方の指先で女の生理の源泉を揺さぶられ、
片一方の手では嘴管を押しすすめていく大村の手練に全身の官能を痺らせて、
『ああ、もう、もうどうでもしてっ』と、せっぱつまったようなうめきを上げ、
麻縄に緊め上げられた白桃のように美しい乳房までねっとり脂汗を滲ませてのたうつなど
それは女の奥深い快楽源から発生したものとしか思えない」。
そうして、葉子は、「体内に注ぎこまれる溶液の泌み入るような快美感に
妖しい夢の中へ誘い込まれたようなうっとりとした表情を顔に現わすのだった」。
やがて、便意をもよおすと、「『ね、お願い、縄をといてっ、もう私、我慢できないっ』
と、葉子は苦痛にのたうちながら舌足らずの悲鳴を上げ始めている」。
そこへ電話が入り、吉野が取るが、他の者は、嗜虐に夢中になっているばかりで気が付かない。
電話の相手は、葉子の夫で、利子を揃えて借金が工面できたので、そちらへ伺いたい旨であった、
吉野は、電話を切ってしまった、そして、「もう手おくれさ、と吐き出すようにいった」。
吉野がブリキの便器を取り上げる、「『そ、そんな、嫌よっ嫌っ』
冷たいブリキが双臀の下に当てられると葉子はけたたましい悲鳴を上げるのだ。
『こ、こんな格好のままで――あ、あんまりだわ』
葉子は泣きじゃくったが、それで一層残忍な気持ちを誘発されてしまった吉野は、
『奴隷は御主人様のしようとすることに絶対服従するものだよ』と、鋭く叱咤する。
葉子は激しく喘ぎながら上の空になった瞳を開いたり閉じたりしながら、
『ほんとにこのまましてもかまわないの』と、すすり上げるようにいうのだ」
『ああ、いいとも。僕がちゃんと後始末をしてあげる。遠慮しなくたっていいよ』」
という回答に、限界に達してしまい、
「すさまじい勢いで最初のものが放出されると葉子は息の根も止まるようなうめきを上げ、
『見て、ねぇ、もっとよく見て』と狂い出したのではないかと思われるような自嘲的な笑い声を立てたのだ。
鋭い被虐感の果てに遂に魔女の本性をむき出しにした葉子に
吉野はメラメラと敵意のようなものを抱いて、『今、奥さんの御主人から電話があってね。
五百万円のお金が出来たといってきたよ。もうすぐここへ来るそうだ』
それを葉子がどんな風に受け取るか、吉野も嗜虐の果てに到達した心境ではっきりいったのだが、
葉子は驚きも狼狽も示さず、妖しい輝きが増してきた二つの瞳をねっとり見開きながら、
『まだ、おまるを離しちゃ駄目』と、甘えかかった声を出し、
量感のある双臀をブルブル慄わせながら二度目の激しい発作を起こすのであった」。
ここで終わりとなる筋立てであるが、葉子夫人の成り行きから見ると、
美貌、淑徳、貞淑と美しい女の条件をすべて兼ねた人妻が被虐の果てに<魔女>となるという話である。
<魔女>とは、言うまでもなく、マゾヒストの本性をあらわさせたという意味で、
<魔女>という語が通常想起させる意味では、西洋の俗信にある存在であるから、
日本の女性が被虐の果てにさらけ出す本性は、
<サディズム・マゾヒズム>による<西洋の悪魔の女性>ということになる。
これでは、アメリカの文学思潮において、<ロスト・ジェネレーション(失われた世代)>というものがあれば、
それに相当する日本の時期を見つけ出して、その周辺にある<表現>の近似値を同様と見るのと変らない、
つまり、<和製ロスト・ジェネレーション>ということを言っているのと同様であれば、
これは、<和製サディズム・マゾヒズム>ということになる。
この<和製(何々)>という<形容詞>は、これまでに、<名詞>扱いされる限りにおいて、
<模倣>する<原型>に対して、<和製で創り出した原型>という意味をあらわそうとしたことであるが、
<原型>を<模倣>しても、<原型>にはならない、それは、<複写>であるという道理から、
日本の自尊心を独りよがりに満足させるということにしかならなかった<事柄>である。
従って、<名詞>として用いる<ふがいなさ>は、この辺で、古くて悪い<因習>と裁断して、
<形容詞>へ変えるか、いっそのこと、根絶させてしまった方が良いことは、
<和製サディズム・マゾヒズム>は、<艶消し>にしかならないことだからである。
葉子夫人が<被虐>に晒されて、<性的官能>の<絶頂感>へ追い立てられていった果てには、
<日本の女>であることの認識が待ち受けているのが自然であり、必然である。
それを<西洋の思想>の<衣装>をまとって行わなければできないありように、
敗戦国の被占領国家の隷属させられた国民の<状況>を読んだとしても、情状酌量にはならない。
<被虐>に晒されながら、葉子夫人が<性的官能>の高ぶりから、
置かれた<状況>の指導的立場をあらわしていることが何を意味するものであるか、<艶消し>となるだけである、
男性が陰茎を立たせられないなら、女性が進んで膣を濡らすということの意義は、不明になるばかりのことである。
それについては、一方の吉野という男であるが、勤めていた玩具会社が倒産して、
女房は、肉体関係のあった保険勧誘員と駆け落ちしてしまい、
十五・六歳のときから感じるようになった嗜虐趣味が頭をもたげて、
「絶世の美女をキリキリと縛り上げ剃毛してやるなり、浣腸してやるなりして、
その驕慢の美をズタズタに引き裂かねば面白くない」と妄想する男にある、という設定になっている。
この男性の性的願望が成就される物語と見ることは、
<ポルノグラフィの荒唐無稽>からすれば、決して間違いではないが、
女の本性をあらわして<指導性>をあらわす媚態の前に、ただ、唖然となって<隷属>をあらわすだけでは、
どちらが<奴隷>であるのかさえ、意味不明となることである。
しかも、<羨望・嫉妬・嫌悪・憎悪>からの<いじめの心理>だけが嗜虐者の心理というのでは、
戦後、急増した、あらゆる集団環境における<いじめ>を正当化しているだけのものでしかなくなってしまう。
そうは言っても、大衆へ売れることが目的の<娯楽表現>であれば、<内実>は大して重要ではない、
細かいことは抜きにして、陰茎でもしごいていろ、ということであるならば、
葉子夫人は、その点でも、美しく素晴らしい女性だ、という印象を持ったと締め括る――

<着付け>も、<みずから>が<ひとり>で行うことのできない、<事柄>としてあることだとしたら、
<着付け>の<思想・作法・技術>は、それを専門の業とする者に託されるだけになっていく、
そうなると、 美しく着付けられた日本の着物を脱ぐ女性のありようということも、
世界のいずれの民族と比べても、このような艶美をあらわす脱衣のありさまはない、と言える圧倒的存在感がある、
と述べられる可能性も、おのずと減少することになっていく。
<着付け>の<思想・作法・技術>の意識なくしては、<脱衣>の<興趣>は生まれないということは、
<着物>が<全裸>を<覆い隠すもの>という意識と同様のものとしてあるからである。
<脱衣>するだけであるならば、<興趣>なしに容易にできるに違いない、
では、それに代わって、<みずから>の<衣装>としてまとうことのできる<事柄>とは、
いったい何であるのだろうか。





― 縄 掛 け ―



<縄>で人間を縛り上げるという行為が<拘束>だけを目的としたものであれば、
<縄掛け>ということも、大した<思想・作法・技術>を必要としない<事柄>としてある、
強盗が被害者を縛る、継母が連れ子を縛る、老父が放蕩息子を縛る……
老若男女、誰もが思うにまかせて行うことができることでは、普遍性がある。
では、<拘束>を目的としない、つまり、<拘束>する必要がないにもかかわらず、
人間が人間を縛り、<拘束>の姿をあらわさせるということに、どのような意義があることなのだろうか。
<和製サディズム・マゾヒズム>の<縄による緊縛>は、
その<原型>にはない、<加虐・被虐>の<日本的表現>として行われてきたことであるが、
その意義は、あくまで、<原型>に依る<思想>の根拠があってのことで、
独自の展開があらわされたというには、<縛り方>の多様が<表現>されたというに留まることである。
それは、<異常性欲>の嗜虐趣味として、<好事家>の対象となることでしかなく、
<縄による緊縛>について語られる<事柄>も、<好事家>の<言い分>でしかなかったことは、
言うなれば、<趣味>の世界の<事柄>であったことは、<学術>が真面目な研究対象とすることもあり得ず、
あったとしても、研究者の<自慰行為>を満足させることに役立ったことが幸い、という程度でしかなかった。
従って、そうした<初期>のありようは、<日本民族の自己同一性>の考察に、参考となることではあっても、
そのありようを考察して、<思想>を展開できる<事柄>としてあることでは、残念ながら、ないことである。
<拘束>を目的としない、つまり、<拘束>する必要がないにもかかわらず、
人間が人間を縛り、<拘束>の姿をあらわさせるということに、どのような意義があることなのだろうか、
ということの設問の答えが、縛りたいから縛る、とされる言葉のようなものだけでは、
<動機>としては立派なことには違いないが、役には立たないのである。
すでに、その<段階>にあることではないことは、<表現>の<多種・多様>にあらわれている。
統計を実施した結果ではないが、江戸時代に<捕縄術>が隆盛を見せた、
流派として百五十以上、<縛り方>として三百という数値へ至るのは、時間の問題であると思える。
それであるからこそ、如実となってくる問題なのである。
人間の身体を<縄>で<縛る>ということは、それだけで、
かつては、罪人が引き回されて見せしめとされたありようにあるように、
人間としてある尊厳を動物状態へ貶めて、人間の恥辱を<表現>しているとしか見なされないことにある。
動物状態を更に剥き晒す<全裸>を<縛る>ことにせよ、柔和にして<着衣>を<縛る>ことにせよ、
<被縛者>が女性であれば、女性を蔑視した虐待の差別表現をあらわすことでしかないとされることであり、
幼い未成年者を<縛る>ことをすれば、<児童虐待>ということにもなることである。
<縄による日本の緊縛>が<日本民族の自己同一性>をあらわすと、
述べられている<事柄>である以上、
普遍的<思想>として<社会>的になることの条件が課されている、
ここが障壁の相克の地点と言えることである。

―― もっとも、日本の<縄による緊縛>は、アニメや漫画と肩を並べて、
日本が世界に通用する<文化>であるという、<娯楽表現>の観点から見られることであれば、話は別である。
<娯楽表現>は、<大衆>の<人気>を<存在理由>としていることであるから、
<人気>の如何が生み出す<経済効果>から、その<有益さ>が評価されるものとしてあることで、
<内実>がどのようなものであろうと、<見栄え>が納得のいくものであれば、それが答えとなる、
<見栄え>に人気がなくなれば、より<見栄え>のする<表現>へ<人気>が移るということにある。
<縄による緊縛>も、その目的で行われていることが実際にあることであるから、
それらは、<娯楽表現>として、見て戴くほかない――

<縄掛け>は、歴史的に見れば、室町時代後期に発祥したとされる、
<捕縄術>というものが江戸時代に大成して隆盛を極めた事実がある。
しかし、<捕縄術>は、明治時代を分水嶺として、先に述べた、
<《連》という《俳諧化》>などと同様に、断絶されて消滅させられた<事柄>である。
すでに、<5.<縄による緊縛>・ひとつの答え・ひとつの終わり>において述べたように、
それが現代に復活されたと見るには、
<捕縄術>が<縄掛け>の<思想・作法・技術>としてあらわした<宗教性>が、
現代においては、完全に欠落している事実があり、
<宗教性>に代えて<サディズム・マゾヒズム>という<西洋思想>を当てはめたこと、
この理由から、<伝統の継承>であるとは言えないことにある。
<縄掛け>の<縛りの様相>だけが受け継がれたというだけで、
<伝統の継承>と言うのは、余りにも幼稚すぎるし、そのようなものがその後も<継承>されることはない、
<継承>されるには、<思想・作法・技術>が必要不可欠のものとしてあり、
それは、いずれの分野の<事柄>を対象としたとしても、言えることである。
<縄掛け>の存在理由である、<思想・作法・技術>を意義のないものであると言うのでは、
<趣味>の世界の<独りよがり>は、その<愛好者>のためだけにあるものにしかならない。
それでは、良くて、<一代の奇想・奇抜>で終わってしまうことは、
小説・絵画・漫画・映画などの<和製サディズム・マゾヒズム>の<表現>にあっても、同様である。
もっとも、所詮は、性的な<娯楽>であれば、
<人気>の如何が生み出す<経済効果>においてのみ、<存在価値>が認められることであるから、
一代で消滅しようが大して問題にはならない、そもそも、<猥褻>であることの<存在理由>は、
<社会>の<許容>の<埒外>であるということであれば、それだけのものでしかない。
この点では、<社会>の<許容>の<埒内>にある、<芸術一般>の<表現>も、
<思想・作法・技術>の高められないものは、一代の消滅となることは、歴史の示している通りである。
従って、現代に露呈している、<縄による緊縛>は、<縄掛け>という<事柄>に、
<新たな意義>をあらわすことがなければ、その<継承>もまたあり得ないことにある、
受け継がれた<縛りの様相>も、そのとき、初めて、しっかりと結び付けられるものとしてあることになる。
それには、まず、<拘束>を目的としない、つまり、<拘束>する必要がないにもかかわらず、
人間が人間を縛り、<拘束>の姿をあらわさせるということに、
どのような意義があることなのか、明らかとさせなければならないが、すでに述べてきたように、
それは、<サディズム・マゾヒズム>という<概念>の<適用>の終焉をあらわすことであるから、
<西洋思想>からの脱却をあらわすことになる、
<和製サディズム・マゾヒズム>は、<☆初期の段階>の<事柄>であったと結論付けることである。
<初期の段階>の<事柄>に対しては、ノスタルジアにほだされて<ひとり>で<自慰行為>を成すか、
<普遍的>な意味での<再評価>をする、という姿勢のいずれかで臨むことでしかない。
後者であれば、<既成概念>と真っ向から対峙し、相克し、超克することであるから、
<和製サディズム・マゾヒズム>の<支持者>からは、そっぽを向かれ、
<和製サディズム・マゾヒズム>の<流通業者>からは、気違い扱いされることであるかもしれない、
当然、その<業界>では、飯を食えないことになるかもしれない。
<新たな意義>を創出するとは、このような<状況>を作り出すということである。
断絶させられた<伝統>を<継承>するとは、いずれの分野にあっても、
<西洋思想>を<根拠>として作られた<既成概念>に対峙すれば、このようなことになる。
それでも、超克しようと言うのであれば、それだけの見返りがなくてはならない、
<新たな意義>とされることが、民族にとって<有益であること>が明らかにされなければならない。
まず、<新たな意義>を創出するための<方法>である。
断絶させられた<伝統>を<継承>することが、
断絶させられて消滅させられた<方法>をもって行われるということには、
一見、<矛盾>があるように見える、
しかしながら、その<方法>は、その<矛盾>でさえ、超克する<力動性>を孕んでいる。
それは、<《連》という《俳諧化》>である。
<《連》という《俳諧化》>は、断絶されて消滅させられた<事柄>ではあるが、
その<発想>は、<思想>として、消失されたわけではない。
<☆田中優子の洞察>は、失われた<事柄>へのノスタルジアでは、当然、あり得なかったことである。
その<発想>から、現在において、未来へ投げ掛けられる<方法>として創出することができれば、
それは、日本民族の<伝統の継承>ということになるのではないだろうか、
何故ならば、<《連》という《俳諧化》>は、<結びの思想>のひとつのあらわれにあるからである、
そして、それは、明確な<目的>のあらわされたものとしてあるからである、
それが<新たな意義>である。
その<目的>とは、<人間の全体性>を<表現>することである。
<縄による日本の緊縛>が現代において露呈されたものとしてあることには、
<人間の全体性>を<表現>することのできるありようがあらわされている、ということである。
<人間の全体性>とは、人間が現在よりも<進化>を進めた場合の<人間のありよう>のことである。
しかしながら、その<段階>へ進むには、
現在置かれている人間の状況では、未だに<未発達な力>しか持ち合わせていない。
世界には数多の民族が存在し、いずれの民族にあっても、
<みずから>の民族の固有にある問題を解決できずにいるのが現状である。
解決できずにいる<民族固有の問題>が他の民族の同様の状況と触れ合うのであるから、
そこに、手と手とが触れ合っただけでも、<相反・矛盾・軋轢>が生じないわけはない。
互いの<民族性の相違>とは、解決できずにいる<民族固有の問題>を如実とさせることである。
もっとも、世界に数多ある民族と言っても、出所は、<アフリカ>に求められると考えられれば、
現在の日本民族の<民族性>は、縄文人が起源か、
弥生人が起源かを設問しているのと似たようなものであるから、
<人類はひとつである>と言うことは、簡単である。
しかし、その<民族性>というのは、生まれたままの<人類>にあることならともかく、
人間の自意識を付着させた<全裸>にあるばかりか、
<衣装>までまとって、<着付け>までしているのである。
従って、それぞれの民族が<みずから>の解決に<みずから>をもって行うことは、
必要不可欠な<事柄>としてあることだが、容易に達成できることではなかったことは、
人類史にあらわされている通り、民族間の<衝突・紛争・戦争表現>となっていることである。
<世界に平和を>と言うのであれば、
それぞれの民族は、<みずから>の<民族固有の問題>を解決できない限り、
エンターテインメントの<表現>であることでしかないことである。
<世界基準>と称される<思想表現>にあっては、
そのありようがそうした<状況>を変革できるとして行われていることであるが、
<民族固有の問題>は、その民族がその創始以来の<因習>としていることである以上、
<世界基準>の<思想>が<自然科学>を対象とした<事柄>においてのみある限り、
その限られた<適用力>では、解決することのできないものとしてある。
喩えれば、<人間の全体性>と言っていることは、限られた<適用力>を超えたありよう、
<自然科学>ばかりでなく、<人文科学>や<社会科学>を総体化したものという意味にあることである。
そのような<夢想のようなこと>であれば、
それを成し遂げるということも、尋常な<方法>ではあり得ないことである。
<みずから>という<個>の問題も解決できずに、
<全体>の問題を解決できるということは、<思考の整合性>としては、あり得ないことなのである。
現在の日本民族の置かれている<状況>は、その<人間の全体性>へ着手する前段にあることで、
そのためには、<民族の自己同一性>を成し遂げるということが早急の課題である。
これは、おめでたくも、楽観的な見方である、と言われても仕方がないが、
<民族の自己同一性>を成し遂げて、<人間の全体性>の問題へ着手できる<状況>としては、
民族の<因習>に対する条件として、日本民族が最適な環境にあることは、絶好の機会と言えることである。
現在、置かれている<状況>は、一切がその<目的>を意識するための<相克>であれば、
<個>たる、それぞれが<みずから>の求める<表現>を行うことを当然の<事柄>として、
晒される<相克>を超えていくことさえあれば、
どのように転んでも、<四つの欲求―食欲・知欲・性欲・殺傷欲―>と
<七つの官能―視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・第六感・性的官能―>を備えた<動物>であることが、
<総体を考えられるという自然認識の宗教思想>という<因習>を根拠とさせて、
<結びの思想>を的確に意識することで、
<言語による概念的思考>を<想像力>によって<展開>させることができることにあるからである。
<人間の全体性>や<民族の自己同一性>といった<言葉>は、ひとつであるが、
それは、<一義>の<概念>をあらわすものではなく、<多義・多様>の<概念>としてあることで、
日本民族の独自性が<表現>されるものとしてあることでは、
ここに述べられていることも、ひとつの<方法>が示されているに過ぎないことである、
別の<方法>が<多義・多様>として生み出されることこそが<自然>なのである、
それこそが<《連》という《俳諧化》>である、
日本民族は、その<自然>を感得し実践できる、<人類>なのである。
その<人類>の陰茎と膣の問題が重要な<事柄>としてあるのは、
それが肉体にあって、<自然>であり、当然の<事柄>として、考えられていることにあるが、
余りにも当然すぎて、<人類>という種の保存と維持さえ覚束なくなるありようをあらわしていることは、
人類の進化のあらわれとして、ところかまわず、相手かまわず、手段を選ばず、
行うことが可能であるということが、<無際限・放埓・奔放>を生み出させているからである。
<無際限・放埓・奔放>が志向させる<事柄>が<暴力・強姦・殺傷>に尽きてしまうというのでは、
どうして、進化の賜物として、人類が勝ち得たものであるか、<意義>は不明となる。
この<意義>を明らかとさせることが<縄による緊縛>には可能なのである。
人間に備わる<性欲>は、常時働いている<性的官能>が高ぶらされて活動するものであれば、
<性的官能>の重要性は、ただの力動である<性欲>以上のものがある。
<縄による緊縛>が明らかとさせることは、その<性的官能>の明確な<所在とありよう>である。
これまでに、人類は、<性的官能>を高ぶらせて、
<性欲>の実施である陰茎と膣の結び付きのために、
<猥褻な表現>と<猥褻な道具>を<多種・多様>に考え出し・作り出してきた歴史があるが、
そのなかにあって、<縄による緊縛>は、最も昇華された、<道具と表現>としてあることは、
それが<縄掛け>という、<思想・作法・技術>を持っていることにある。
<猥褻な表現>と<猥褻な道具>の単純明快な目的、<人間を扇情させる>ということだけではなく、
<思想・作法・技術>は、更に、高次の<性の事象>を導き出す、<方法>となることがあり得る、
<縄による日本の緊縛>には、それができるということがあるのである。
世界のいずれの民族にあって、唯一の独創性を発揮できる、<条件>にあることである。
但し、先にも述べたように、<娯楽>の観点から見られる限りでは、まったく不可能なことである。
<見栄え>と<内実>があって、<内実>が<結びの思想>をあらわすことでなければ、
その、<見栄え>もまた、高次の<性の事象>を<表現>することにはならないからである、
そのためにある、<縄掛け>の<存在理由>だからである。
<縄掛け>の<創意・工夫・実践>は、<縛者>の<思考・想像力・美意識>をあらわすものでしかない、
低い意識は、貧相で醜い表象をあらわとさせることでしかなく、
高い意識は、豊饒で美しい表象をあらわとさせることでしかない。
このようなものとしてある、<縄による日本の緊縛>であれば、
少なくとも、日本の着物姿にある日本民族の女性を縄掛けすることに関して、
異なる民族の<縛者>が行って、達成できることにはない、
それは、<模倣・追従>が示されるだけのことに過ぎない、
かつて、日本民族が<サディズム・マゾヒズム>に関して、そうであったように。


(2010年7月21日 脱稿)






☆ 着物緊縛 参考画像





☆10.<被虐美>という猥褻で恥辱のある表現

☆8.日本民族の縄による緊縛の美学

☆縄による日本の緊縛