序章  愛ゆえに、終わりにして始まりのとき…… 借金返済で弁護士に相談




序章  愛ゆえに、終わりにして始まりのとき……




冴内谷津雄は、☆<小夜子の物語>をそのようにして終了させると、パソコンの電源を切り、書斎となっていた部屋を出た。
 それから、かつては、夫婦の寝室として使用されていた部屋の扉を開けるのだった。
 そこには、別れた女房の孫兵衛が先程から待っていた。
 孫兵衛は、清楚で美しい顔立ちを凄艶なくらいにこわばらせ、ベッドの端へおとなしく腰掛けていた。
 部屋へ入ってきた相手に気づくと、彼女はすっと立ち上がった。
 正絹の地に白黒のパンダの大きく描かれた艶麗な着物に豪奢な笹地の帯を締め、
 髪型は柔らかなウェーブを持たせた初々しい若奥様といった感じの艶やかな黒髪を強調した姿にあった。
 うりざね形の顔立ちは、細くきれいに流れる眉の下に、澄んだ大きな瞳を愛らしく輝かせ、
 小さくまとまりのよい小鼻をひらかせた鼻筋は純潔をあらわすかのように通り、
 大きすぎず小さすぎない美しい唇を品を示すような真一文字とさせているのであった。
 だが、表情は幾分か蒼ざめた感じにあったが、それが美貌をいっそう際立たせるものとしているのだった。
 彼女のまなざしはみずからの胸のあたりへじっと注がれていた、
 それは、ほっそりとした白い指先が紫地の帯締めをもてあそぶようにしているからだった。
 躊躇をあらわしている仕草であったことは間違いないが、見られていることへの媚態と受け取れないこともなかった。
 みずからに自信がある者は、行う事柄の如何に関わらず、遊戯という余裕を示すものである。
 この場合、たとえ、それが自惚れであったにしても、女がみずからの身体に自負を持っていたことは確かだった。
 その証拠に、帯締めに指が持ってこられるまでの彼女は、両眼に涙を浮かび上がらせていたのである。
 ところが、帯締めをもてあそび始めてからは、考えるところを得たように、瞳はきらきらと輝き出したのであった。
 何を思ってのことか――そのようなことは、脱衣してから注意を向けても遅くはないことであろう――
 ようやく、帯締めは解かれていくのだった。
 それから、桃色の帯揚げが外し始められた。
 彼女の顔立ちは、毅然としているくらいにもたげられ、正面の虚空がきっとなったまなざしで凝視されている。
 華奢な白い指先は、豪奢な笹地の帯へとかかっていた。
 手際よくするすると解かれていく帯は、まるで、華厳の滝の落下を見るような華麗な感じを漂わせていた。
 白黒のパンダの大きく描かれた艶麗な着物の裾元には、海原を思わせるように豪奢な帯がうねりを見せていたが、
 艶めかしい色香を匂わせる帯締めや帯揚げの色とりどりに加え、訪問着を支えている伊達巻や腰紐が解かれていくと、
 女は、百花繚乱の花々に足もとを埋められて立つ天女のような風情をかもし出せるのであった。
 女は、きれいで、愛らしく、艶やかで、艶めかしく、匂やかで、麗しく、美しさそのものの外観があったのだった。
 その天女は、支えるものを失って裾前が左右に割られた着物を双方の手で掻き合わせるような仕草をしている。
 そして、幾分か上目遣いになったまなざしで、うっすらと微笑みさえ浮かべている表情を示しているのだった。
 それは、これ以上に見たいとお望みなら、はっきりとそうおっしゃってみたら、と言っているかのようだった。 
 いったい、彼女は誰に向かって、そのように言っているのか。
 その疑問へみずから答えるかのように、女は、身体をさも悩ましそうにくねらせて斜めにすると、
 艶麗で豪奢な着物を肩からそろそろとすべり落としていくのであった。
 あらわれたのは、純白の長襦袢姿の胸を詰まらせるような艶めかしさであった――
 匂い立つような色っぽさが漂うのは、やはり、家庭の主婦であり、夫を持つ妻であるという身の上のことからなのか。
 蒼ざめていた顔立ちも、いまは、羞恥を意識してか、桜色にほんのりと上気していたが、
 それがますます、人妻であるという憂愁と喜悦と艶美をかもし出せていることは否定できないことであった。
 いつまでもその姿で眺め続けていることに飽きがこないほど、醇美、優美、秀美が漂っていた。
 彼女自身も、見せつけるように直立した姿勢を微動だにさせず、顔立ちを前方へ華麗に向けていた。
 しかし、そのとき、澄んだまなざしをほんのわずか落した仕草は、
 これから行うことの恥じらいの思いをにじませたようで、愛くるしくさえ映るものだったのである。
 「孫兵衛、戻って来てくれたのは、やはり、これが好きだったんだね」
 谷津雄は、使い古された麻縄の束を相手の足元へ投げて示した。
 縄を眼の前にさせられた女は、狼狽の色を隠しきれず、それからさっと視線をそらせるのだった。
 「あなたの眼は、ごまかせなかったわね……でも、まごえって何ですの?
  私の名は小夜子、いくら出戻った女房だからと言って、お爺さんみたいな呼び方をしないでください……」
 女は、幾分か震える声音でそう言うと、まじまじと相手を見返すのだった。
 「いや、悪かった、ようやく終了させた小説の物語から、まだ頭が離れなくて……
  小夜子……ぼくは、嬉しいよ……」
 谷津雄の声も幾らか震えていたが、それは、これから行われようとすることへの期待に胸踊らされてのことだった。
 「私も覚悟を決めて戻って来たのですわ……
  さあ、どうとでも、あなたのお好きなようになさって……」
 小夜子は、直立させた純白の長襦袢姿のなよやかな両肩を震わせながら、美しいまなざしを閉じるのだった。
 「この日をどれだけ待ったことか……」
 谷津雄は、うっすらとした笑みを口元に浮かべると、相手の華奢な手首を引きつかんで自分の方へと引き寄せた。
 力強く抱擁された小夜子は、激しく押しつけてくる相手の唇をためらうことなく、みずからの唇をぴったりと押しつけて返した。
 そればかりではなかった、谷津雄の背中へ両手をまわして力一杯相手を抱きしめたのだった。
 抱きしめ合ったふたりは、そのまま、なしくずしにベッドの上へ倒れていくのだった。
 柔らかなウェーブを持たせた初々しい若奥様の髪型が崩れ、艶めかしい芳香があたりへと撒き散らされていったが、
 谷津雄とぴったりと重ね合わせていた小夜子の美しい唇は、やがて、やるせなさそうな身悶えと共に開かれて、
 甘く濡れた舌先を相手の口中へと忍ばせてくるのだった。
 そのとろけるような甘い舌先を迎え入れた谷津雄は、抱きしめた純白の長襦袢のうなじから匂い立つ温かみのある芳香に、
 むせるかえるような甘美さと切なさを感じさせられ、女の舌先がみずからの舌先とくねくねと戯れるに及んでは、
 愛する最高の女とふたたびめぐり合うことのできたことに有頂天にさせられるのだった。
 大きな瞳の両眼をうっとりと閉じ合わせ、熱っぽく芳しい鼻息をもらしながら、
 ねっとりとした舌先の愛撫を続ける小夜子だったが、谷津雄は、重ね合わされた唇がそっと離れるのをきっかけに、
 純白の長襦袢の伊達巻を解き始めるのだった。
 「生まれたままの姿になって欲しいな、ねっ、いいだろう……」
 解かれた伊達巻は色っぽい長襦袢の裾前をはらりと開かせ、谷津雄の両手はなよやかな相手の肩先からそれを滑り落させた。
 水色の肌襦袢と湯文字の姿にさせられた小夜子だったが、その清楚で美しい顔立ちのまなざしはきらきらと輝いて、
 相手からされることへの期待は、綺麗な形の唇を薄く開かせてあらわされているのであった。
 取り払われた肌襦袢があらわにさせた女の柔肌は、乳白色の光沢を放ってあたりを明るませるような美しさがあった。
 小夜子は、恥ずかしそうに両手を胸にやって、ふっくらとした盛り上がりを見せる乳房を覆い隠している。
 そして、幾分か上目遣いにしたまなざしで谷津雄を見やる様子は、美しい悩ましさを示しているというようなものだった。
 「これも脱いでね……」
 谷津雄は、興奮の余り震える声音でそう言うと、相手の腰から湯文字を取り去っていくのだった。
 女の下半身があからさまにされるに従って、小夜子は、うん、と小さな声音をもらすと、
 ベッドへ仰臥させられていた裸身を起こして、谷津雄に背を向けるようにして、その上へ横座りの姿態を取るのだった。
 そして、最後に残された衣類であった足袋をみずから脱いでいくと、生まれたままの全裸の後姿を晒すのだった。
 だが、それで身に着けていたものがすべて取り払われたわけではなかった。
 小夜子の首もとには、銀色に輝くロザリオが掛かっているのだった。
 女は、初対面の男を相手にしているとでも言うように、かたくなに後姿を晒したまま、恥ずかしい箇所を両手で覆い隠している。
 「きみとは、夫婦だった仲じゃないか、ここに至って、何も恥ずかしがることはないよ」
 谷津雄は、苦笑いを浮かべながら、小夜子の柔和な肩先へ手を置くと無理やりこちらへ向けさせようとするのだった。
 「だめよ、だめ」
 小夜子は、甘く鼻を鳴らしながら駄々をこねるように身悶えをして、かたくなに動くこと拒むのだった。
 それが男の思いを掻き立てようとする女の媚態であることは、谷津雄にもわかっていたことだったが、
 下腹部は、まさに自然とも言えるように立ち上がって、成行きをはっきりと求めさせるように反っているのだった。
 谷津雄は、胸と下腹部を覆う相手の両手を引き剥がそうと華奢な両手首をつかんで引っ張ってみたが、
 小夜子は、懸命な抵抗を示して動こうとはしなかった。
 「どうして、そんなじらすようなことをするんだ……」
 谷津雄は、ついに怒ったようなものの言い方になった。
 「うん、わからず屋さんなのね……
  私は何のために裸にさせられたの……
  あなたは何のために縄を用意したの……
  私にその先を言わせるなんて、無粋ではないかしら……」
 小夜子は、しっとりと濡れたまなざしをきらきらと輝かせながら、肩越しの上目遣いで谷津雄を見やるのだった。 
 そして、おずおずと両手を背中へまわしていくと、両手首を重ね合わせる仕草を取るのだった。
 女は縛られることを望んでいるのだ、という明確すぎる認識が床へ投げ出されていた麻縄をつかませていた。
 重ね合わされた華奢な両手首へ縄が巻きついていった、後ろ手に縛った縄尻はすぐに前へとまわされ乳房の上へ掛けられた、
 そして、二度巻きつけられると背後で縄留めされた、すぐに、二本目の縄を背中へ繋いで、今度は乳房の下の方へもっていき、
 同じように二度巻きつけると左右の腋の下からそれぞれ固定して、後ろ手胸縄縛りとして完成させた。
 ものの何分と掛からなかった手際のよい所作は、きっと小夜子も敬服してくれるだろうという満足感のあるものだった。
 そうだ、彼女は、この縄が恋しくて自分のもとへ戻って来たのだ。
 縛って繋ぐ力……この縄による緊縛の洞察を小夜子は身にしみてわかってくれたのだ。
 縄による緊縛の意義を実感させられるのは自分以外にはないということを、
 彼女が初夜の床入りで示した高ぶり以上に素晴らしくあらわされたことはなかったのだ。 
 彼女は、縄で縛られて、最高の喜びをあらわす女なのだ。
 縛り上げた小夜子の美しい全裸の後姿をしげしげと見つめながら、谷津雄は、そのように思うのだったが、
 どうしても気になって仕方がないということが眼の前へちらちらとしているのだった。
 谷津雄は、恥ずかしそうに横へ伏せている小夜子の顔立ちをのぞき込むようにして、問い掛けた。
 「このようなもの、もう、きみには必要ないと思うんだが、違うかな……
  きみの救いになるのは、ぼくの縄の方じゃないのかな、間違っているかい?
  取り去ってもいいだろう?」
 谷津雄の指先は、小夜子の胸もとにきらきらと輝く銀のロザリオへ触れているのだった。
 小夜子は、恨めしそうな上目遣いのまなざしをちらっと投げかけると、小さくうなずいて見せた。
 そうしてロザリオの奪われた女の身体は、文字通り、生まれたままの全裸を縄で緊縛された姿態をあからさまとさせていた。
 女は、依然として、男の眼から眺められる羞恥を横座りとさせた身体全体へあらわすように、
 後ろ手に縛られた上半身をくの字に折り曲げ、艶めかしい太腿をぴったりと閉ざして陰部を隠すようにして、
 ウェーブのかかった柔らかな黒髪で顔立ちを覆うように横へ伏せ続けているのであった。
 谷津雄には、そのかたくなさが健気と思えるくらいに愛らしいものと映るのであったが、
 ふたりの愛欲の遊戯はまだ始まったばかりのことであった。
 谷津雄も衣服をすべて脱ぎ去って全裸となり、ベッドへ上がろうと、ふと、枕もとの方へ眼をやったときだった。
 枕もとの傍らに、先日、発刊記念として贈呈されてきた、或る才能豊かな女流作家の小説本があるのが眼にとまった。
 その艶めかしい腰巻には、次のような宣伝文句が記されてあるのだった――

恋に溺れながら
       私の愛は乾いていく
        高ぶるほど空虚
              満たされるほど孤独
              
 そして、谷津雄が小夜子の方へ視線を戻したときだった。
 そこに彼女の姿はなかったのだ。
 小夜子の縄で緊縛された美しい全裸は消え失せていたのだ。
 ベッドの上にあったのは、蛇のようにとぐろを巻いている二本の麻縄ときらめく銀のロザリオだけだったのである……
 途方にくれている作者・冴内谷津雄に残された解決方法があるとすれば、
 居間で小説本に触れることから始まる☆小夜子の物語をもう一度最初から始めることでしかなかったかも知れない。


という終わり方であったが、冴内谷津雄には、どうしても納得のいかない結末であった。
それは、鵜里基秀という作者が考案した結末ということでは、まとまりをつけた、それでよいことかもしれなかったが、
逃げた女房にゃ未練はないが、お乳欲しがるこの子が可愛い(越純平作詞 「浪曲子守唄」より引用)、
というその可愛い子供のない亭主にとっては、
やはり、逃げた女房のふくよかで綺麗な乳房と乳首には、愛らしいというほかない未練が残るのであった。
いや、ふくよかで綺麗な乳房と乳首を持った女性であるというだけならば、日本女性には五万といる。
小夜子の清楚で美しい顔立ちと優美な姿態は、小説の登場人物になっていなければ、
女優かモデルか参議院議員にでもなっていたくらいに見栄えのあるものだった。
だが、清楚で美しい顔立ちと優美な姿態の女性ならば、これも、日本女性には五万といることであるから、
それだけの女性であれば、五万と五万で十万の女性から別の女性を捜せばよいことになるだろう。
いや、そうではなくて、ふくよかで綺麗な乳房と乳首を持った清楚で美しい顔立ちと優美な姿態でありながら、
その心根は優しく聡明で良識のある女性という存在であった。
もっとも、このような女性でさえも、日本女性の品格の標準からすれば、五万といることであるから、
小夜子が掛け替えのない、唯一とも思える存在であることがなければ、
愛ゆえに、終わりにして始まりのときにはならないだろう。
その始まりは、逃げた女房の行方を追っての探索ということであるのだから、なまじのことではかなわない。
そう、おわかりの通り、小夜子は、
ふくよかで綺麗な乳房と乳首を持った清楚で美しい顔立ちと優美な姿態でありながら、
その心根は優しく聡明で良識のある女性にあって、
縄で縛られることに被虐の官能を高ぶらせる妖艶な女性であったのだ。
日本の文芸において、縄で縛られることに被虐の官能を高ぶらせる妖艶な女性という存在は、
小夜子ひとりの独壇場となるほど希少なものではないが、
むしろ、その土俵が狭すぎるほど数多あると言ってよいほどの通俗性のあることであるが、
冴内谷津雄には、愛があるからこそ、至上の女性と思えたことであったのである。
それでは、探索ということになるが、小夜子が亭主に残した最後のものは、次のメールであった。




  はなはなだしく遺憾な表現行為であると言わなければならない。
  いや、でたらめもいい加減にしてもらいたいと言いたいところであるが、そのように言ってしまっては、身もふたもない。
  文句は言い出していったらきりがないので、当方からの正当な批判は、根本的な事柄に押し留める次第である。
  まず、この作者は、いったいどのような思想に基づいて表現を展開させておられるというのであろうか。
  私の知るかぎり、田中優子氏が以下において触れておられる「連」の発想に近い気がするが。
 
    問題は二つある。一つは、近世には渦のように動きまわり流動し続ける「連」の発想がある、ということだ。
    これは人間や事柄や言葉の中の「関係の方法」の問題だ。
    この「関係の方法」は今の我々から見れば、まるで体系がなく、論理がなく、収斂してゆくところがなく、
    すべてを列挙し羅列しているように見える。
    しかし、これが第二の問題なのだが、その関係の方法は単に羅列の方法なのではなく、
    「俳諧化」とでもいうべき方法であった。
    俳諧化とは、絶え間ない相対化のくり返し運動に似ている。
    たとえば相対化というのは、一つの理念(たとえばB)が別の理念(たとえばA)を否定する、ということではない。
    否定と排除の関係の中では、もしBのパラダイムにおいてBがAを否定・排除するならば、
    もはや、Aには何の存在理由もなくなる。
    しかし、相対化の方法というのは、否定の方法ではない。もしBがAを否定したとしても、
    次の瞬間にはCがBを否定してしまうので、Bには否定の根拠がなくなる、ということなのだ。
    これが次々と続いてゆくならば、そこには否定も肯定もない。
    あるいは否定することは同時に肯定することになってしまう。
    俳諧化とは、このような相対化のくり返し運動の側面をもちつつ、相手を徹底的にほぐし、その顎(おとがい)を解き、
    あるいは滑稽化することによって批評する方法なのである。
    つまりは、笑うことによって動き続ける方法なのだ。
    だから、俳諧化の動きの中では、どんなに確かだと思えるものの見方も、またたく間に不確かになってしまう。
    俳諧化を生きる人間に安住はない。
    がそのかわり、彼らはあるひとつの視野や領域に釘づけにされる、ということから、常にまぬがれている。
    また彼らには、あるひとつの価値観に収斂してゆくために他のものを切り捨てる、という行動をとる必要がない。
    彼らに要求されるのは、いかにして相いれないものの存在を認めるか、ということであって、
    いかにして否定するか、ではないからだ。
    近世という時代は、このような俳諧化の方法をもっていた時代であった。
    近代化するとは、これらの発想法をすべて切り捨ててゆくことでもあった。
    そのこちら側に、私たちの現在がある。             
                                    田中優子 『江戸の想像力』 筑摩書房 1986年刊

  しかしながら、この作者の取り扱っている題材は、描写があからさまにされた性的行為の表現である、
  言うならば、エロ、淫猥、破廉恥、猥褻、よく言っても、ポルノグラフィにすぎないものである。
  「連」の発想に似てはいても、エロやポルノグラフィの発想は発情的なものであって――
  ひとの性的衝動が時と場所と相手を選ばないという蓋然性を示す意味では――特有の論理性にさえ欠けるものがある。
  従って、学術として研究されているありようとは、根本的に異なるものがある。
  現在の学術が採用している科学的方法というのは、たとえ、始まりが霊感と呼ばれるような発想であっても、
  整合性を目的とした秩序ある全体性を形成しようとするやり方において、その存在理由を明瞭なものとしているのである。
  たとえば、人間の活動の根源には性がある、これは否定できない事柄である。
  活動の根源に性がなければ、生殖行為はありえないわけであるから、人間の種の維持と存続もまたありえない。
  だが、性が人間の活動に及ぼす影響については、発情させられることが簡単な現象であるほどには明らかにされていない。
  それをこの作者が行っているような発情的な発想で概念を相対化させ矛盾化させ非論理化させるような方法で表現すれば、
  簡単な現象でさえも、ただ複雑な様相を帯びるということになるだけで、解明される方向とは別のありようしかあらわさない。
  「連」もそうなれば、「擬似連」であるにすぎないことであろう。
  現象は、性の影響のあらわれるデータ集積を行うことによって、事例の状況として把握されなければならないことである。
  可能な限りの事例は、現象の共通性によって意義付けが成され、分類・整理されることによって理論体系の肉付けとなる。
  骨格としての理論は、それらの意義付けが相互に相反・矛盾のないものとして解明されることにある。
  この作者が――身のほど知らずに――そのような学術として尊厳のあるサディズムやマゾヒズムに挑んだとしても、
  それらの語源となったマルキ・ド・サドやザッヘル・マゾッホの優れた文学をさえも否定するということになるわけであるから、
  でたらめな醜態の赤っ恥をたださらけ出しているということにすぎないのである。
  第一、わが国において、性理論を確立させる語源となるような優れた文学が存在するものだろうか。
  わが国の性科学が西洋の追従をしているだけのものだと見なす程度の浅薄な眼識であることは、
  わが国にはたまたま優れた性文学が存在しなかったが、優れた西洋の性文学であっても、
  それが人間の事象に関する偉大な眼識の表現であれば、グローバル・スタンダードとしてあるということである。
  グローバル・スタンダードにならうことを追従だと言うならば、わが国の学術を明治時代以前へ戻せということと同じである。
  そのような荒唐無稽! あり得るはずがない。
  現代の学術は、人間存在の整合性的意味解明を目的とした科学としてのありようとして、
  どのようにしてあるかということの不分明な点については、その避けられない理論的相反と矛盾を、
  後に、同じく整合性を目的とした理論のありようから批判され修正されることによって進化させられるものだからである。
  科学的方法とは、この批判と修正を綿密に繰り返すことによって、厳密と確実を獲得していくことである。
  批判や修正による厳密と確実が相反や矛盾を明らかとさせた場合は、
  当然、起こりえた相反や矛盾の前まで戻って、それが起こりえない道を模索することを行うものである。
  なぜなら、道は約束された目的地にたどり着くものであり、最初に成された約束事は果たされるものだからである。
  この整合性がなくては、科学的方法としての存在理由はない。
  科学的方法の存在理由は、宇宙と自然と人間の全体を整合性のあるものとして描き出すことにある。
  整合性の証明されるものがグローバル・スタンダードとなって全体化するということである。
  矛盾や相反が許されない整合性、ひとつの完全な全体があり、各部分はすべて従属する秩序を示すというありようである。
  現代のわれわれは、その恩恵を受けて生活しているのであり、未来はさらに希望の前途と言えることなのである。
  われわれの所属する大日本性心理研究会は、取り扱う対象はこの作者と同様の女体緊縛であることは事実であるが、
  上記に述べた方法に従うことにより科学としてのありようがある。
  女性を全裸にして縄で縛り上げオーガズムに到達させるというだけでは、ただの淫猥な緊縛行為にすぎない。
  緊縛行為の技術的熟達者である縄師が整合性のある縄掛けを行うことによってこそ、現象が科学的となるのである。
  この作者が展開させている発情的な霊感に頼っているありようとは、根本的に異なるものがあるのである。
  技術的熟達者である縄師が行う科学的緊縛は、人間存在の性の解明に欠くことのできない論理過程と言えることである。
  この論理過程から集積される事例のデータがあってこそ、現象の科学的解明は成立するものである。
  先に述べたように、緊縛の未経験者である十六歳から六十五歳にわたる女性を被験者として得た五百件の事例によれば、
  たとえば、縄になじむ心理の速度は、首縄、胸縄、腰縄、股縄などの縄掛けの形態に依存して大きく異なることがわかるが、
  女性がいずれを嗜好するものであるかは、性のオーガズムへ到達させる心理の変化要因の多様性において、
  少なくとも、女性は生まれながらにして被虐性・マゾヒズムの心理をもった存在であることを裏付けている、
  <女性は縄で縛り上げれば、女らしさをあらわす>という俗説は、科学的にも論証できることなのである。
  但し、言うまでもなく、人間にはサディズムとマゾヒズムの相対が属性としてあるものであるから、
  女性があらわすこのマゾヒズムは、サディズムの存在意義があってその整合性が表出されていることである。
  従って、この作者が表現する女体緊縛が民族の予定調和の表象であり、縛って繋ぐ力がその実現であるとすることは、
  データ集積による解明のまるでない非科学的ありよう、「擬似連」でさえない、いや、古代の民間信仰にさえ及ぶことのない、
  荒唐無稽の発情的発想にすぎないことである、よくて、せいぜい、猥褻なエンターテイメントというところであろう。
  最後に、余談ではあるが、八十歳余の老人の登場人物名が私の名前と同一であるのは、悪意であるとしか受け取れない。
  私は、権田孫兵衛という名であるが、父親から授けられた立派な名前であることを誇りに思っている。
  名前からすると年配者のように思われがちであるが、現在、三十七歳、八十歳余には遠く及ばない年齢である。
  また、私自身の客観的な立場からは言い添える必要のないことであるが、念のために申し上げる。
  私は、孫兵衛という名であっても、れっきとした女性である、孫兵衛は「まごえ」と読むまでのことである。
  無意味な意味混同をなされる無意味さに対し、整合性はかくも単純で美しいものであると付記する次第である。




このメールを手掛かりとして小夜子を発見しようという、亭主の妻を求める愛の彷徨である。
小夜子は、<財団法人 大日本性心理研究会>という団体に所属していることがわかっているが、
どのように調べてみても、そのような団体が日本国内に実在するという確証が得られなかった。
小説という物語のなかの絵空事と言われてしまえばそれまでだが、それでは、余りにも想像力が貧困である。
人間がたゆまなく言語による概念的思考を行っている所以は、
人間にとって、みずからに内在するものを他者へ伝達するという表現の可能が必要不可欠のことであり、
それを行うために、
幻想の前に際限はない、推理の前に境界はない、恐怖の前に限定はない、失笑の前に悪意はない、
そして、官能の前に抑圧はない、
ということである。 
想像力とは、ないものをあると考えることのできる能力であり、表現の可能へと導く原動力である。
そこで、冴内谷津雄が小夜子を求める物語が始まることになるが、
それはそれとして、その作者にまかせておけばよいことであろう。
むしろ、一方においては、
同じ小夜子のメールにあって、示唆される興味深い点から始めることも有意義ではないかと思われる。
それは、引用された田中優子氏の『江戸の想像力』にある<連>と<俳諧化>という事柄である。

問題は二つある。
一つは、近世には渦のように動きまわり流動し続ける「連」の発想がある、ということだ。
   これは人間や事柄や言葉の中の「関係の方法」の問題だ。
   この「関係の方法」は今の我々から見れば、まるで体系がなく、論理がなく、収斂してゆくところがなく、
   すべてを列挙し羅列しているように見える。
   しかし、これが第二の問題なのだが、その関係の方法は単に羅列の方法なのではなく、
   「俳諧化」とでもいうべき方法であった。
   俳諧化とは、絶え間ない相対化のくり返し運動に似ている。


これは、<日本民族の縄による緊縛>というありようにあって、
生まれたままの全裸となった被虐者を<結び、縛り、繋ぐ>という加虐者との相対的関係をあらわし、
人間における官能が表現の可能をあらわす想像力となることを示唆していることだからである。
近世において認識されていた発想法が近代化によって切り捨てられていったことだとしたら、
ここにおいて、再びあらわれたとしても、日本民族の血筋を意味する以外にないことであろう。
そこで、これを読まれている方々への参加の呼び掛けは、次の通りである。



<連>と<俳諧化>の発想による物語の展開


冴内谷津雄が小夜子を求める物語にあって、
随意に挿話を展開して頂ける作者の参加を求めます。

条件は、<連>と<俳諧化>の発想に従うというだけで、後は、自由です。
どこから繋がって続く挿話であろうと、その後の展開がどのようになろうと、制限はありません。
この場合、掲載された他の作者の表現から繋がる挿話もあり得るわけですから、
この趣旨を納得されていない方ですと無理がありますので、参加されない方が無難です。
当然、作者に男女の制限はありませんが、
成人指定の内容を含んでいますので、18歳未満の方はご遠慮ください。
尚、いくら自由があるからと言っても、
明らかに目に余るという表現に対しては、制限の対象とさせて頂くことをご了承ください。

掲載をご要望の方は、

・掲載する作品
・挿話を繋ぐ箇所の明示
・公示して構わないプロフィール
を合わせて、
☆メールにてお寄せください。
(ここをクリックしてください)

お待ちしております。

冴内谷津雄






次回へ続


<章>の関係図


上昇と下降の館