序章 愛ゆえに、終わりにして始まりのとき…… |
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冴内谷津雄は、☆<小夜子の物語>をそのようにして終了させると、パソコンの電源を切り、書斎となっていた部屋を出た。 それから、かつては、夫婦の寝室として使用されていた部屋の扉を開けるのだった。 そこには、別れた女房の孫兵衛が先程から待っていた。 孫兵衛は、清楚で美しい顔立ちを凄艶なくらいにこわばらせ、ベッドの端へおとなしく腰掛けていた。 部屋へ入ってきた相手に気づくと、彼女はすっと立ち上がった。 正絹の地に白黒のパンダの大きく描かれた艶麗な着物に豪奢な笹地の帯を締め、 髪型は柔らかなウェーブを持たせた初々しい若奥様といった感じの艶やかな黒髪を強調した姿にあった。 うりざね形の顔立ちは、細くきれいに流れる眉の下に、澄んだ大きな瞳を愛らしく輝かせ、 小さくまとまりのよい小鼻をひらかせた鼻筋は純潔をあらわすかのように通り、 大きすぎず小さすぎない美しい唇を品を示すような真一文字とさせているのであった。 だが、表情は幾分か蒼ざめた感じにあったが、それが美貌をいっそう際立たせるものとしているのだった。 彼女のまなざしはみずからの胸のあたりへじっと注がれていた、 それは、ほっそりとした白い指先が紫地の帯締めをもてあそぶようにしているからだった。 躊躇をあらわしている仕草であったことは間違いないが、見られていることへの媚態と受け取れないこともなかった。 みずからに自信がある者は、行う事柄の如何に関わらず、遊戯という余裕を示すものである。 この場合、たとえ、それが自惚れであったにしても、女がみずからの身体に自負を持っていたことは確かだった。 その証拠に、帯締めに指が持ってこられるまでの彼女は、両眼に涙を浮かび上がらせていたのである。 ところが、帯締めをもてあそび始めてからは、考えるところを得たように、瞳はきらきらと輝き出したのであった。 何を思ってのことか――そのようなことは、脱衣してから注意を向けても遅くはないことであろう―― ようやく、帯締めは解かれていくのだった。 それから、桃色の帯揚げが外し始められた。 彼女の顔立ちは、毅然としているくらいにもたげられ、正面の虚空がきっとなったまなざしで凝視されている。 華奢な白い指先は、豪奢な笹地の帯へとかかっていた。 手際よくするすると解かれていく帯は、まるで、華厳の滝の落下を見るような華麗な感じを漂わせていた。 白黒のパンダの大きく描かれた艶麗な着物の裾元には、海原を思わせるように豪奢な帯がうねりを見せていたが、 艶めかしい色香を匂わせる帯締めや帯揚げの色とりどりに加え、訪問着を支えている伊達巻や腰紐が解かれていくと、 女は、百花繚乱の花々に足もとを埋められて立つ天女のような風情をかもし出せるのであった。 女は、きれいで、愛らしく、艶やかで、艶めかしく、匂やかで、麗しく、美しさそのものの外観があったのだった。 その天女は、支えるものを失って裾前が左右に割られた着物を双方の手で掻き合わせるような仕草をしている。 そして、幾分か上目遣いになったまなざしで、うっすらと微笑みさえ浮かべている表情を示しているのだった。 それは、これ以上に見たいとお望みなら、はっきりとそうおっしゃってみたら、と言っているかのようだった。 いったい、彼女は誰に向かって、そのように言っているのか。 その疑問へみずから答えるかのように、女は、身体をさも悩ましそうにくねらせて斜めにすると、 艶麗で豪奢な着物を肩からそろそろとすべり落としていくのであった。 あらわれたのは、純白の長襦袢姿の胸を詰まらせるような艶めかしさであった―― 匂い立つような色っぽさが漂うのは、やはり、家庭の主婦であり、夫を持つ妻であるという身の上のことからなのか。 蒼ざめていた顔立ちも、いまは、羞恥を意識してか、桜色にほんのりと上気していたが、 それがますます、人妻であるという憂愁と喜悦と艶美をかもし出せていることは否定できないことであった。 いつまでもその姿で眺め続けていることに飽きがこないほど、醇美、優美、秀美が漂っていた。 彼女自身も、見せつけるように直立した姿勢を微動だにさせず、顔立ちを前方へ華麗に向けていた。 しかし、そのとき、澄んだまなざしをほんのわずか落した仕草は、 これから行うことの恥じらいの思いをにじませたようで、愛くるしくさえ映るものだったのである。 「孫兵衛、戻って来てくれたのは、やはり、これが好きだったんだね」 谷津雄は、使い古された麻縄の束を相手の足元へ投げて示した。 縄を眼の前にさせられた女は、狼狽の色を隠しきれず、それからさっと視線をそらせるのだった。 「あなたの眼は、ごまかせなかったわね……でも、まごえって何ですの? 私の名は小夜子、いくら出戻った女房だからと言って、お爺さんみたいな呼び方をしないでください……」 女は、幾分か震える声音でそう言うと、まじまじと相手を見返すのだった。 「いや、悪かった、ようやく終了させた小説の物語から、まだ頭が離れなくて…… 小夜子……ぼくは、嬉しいよ……」 谷津雄の声も幾らか震えていたが、それは、これから行われようとすることへの期待に胸踊らされてのことだった。 「私も覚悟を決めて戻って来たのですわ…… さあ、どうとでも、あなたのお好きなようになさって……」 小夜子は、直立させた純白の長襦袢姿のなよやかな両肩を震わせながら、美しいまなざしを閉じるのだった。 「この日をどれだけ待ったことか……」 谷津雄は、うっすらとした笑みを口元に浮かべると、相手の華奢な手首を引きつかんで自分の方へと引き寄せた。 力強く抱擁された小夜子は、激しく押しつけてくる相手の唇をためらうことなく、みずからの唇をぴったりと押しつけて返した。 そればかりではなかった、谷津雄の背中へ両手をまわして力一杯相手を抱きしめたのだった。 抱きしめ合ったふたりは、そのまま、なしくずしにベッドの上へ倒れていくのだった。 柔らかなウェーブを持たせた初々しい若奥様の髪型が崩れ、艶めかしい芳香があたりへと撒き散らされていったが、 谷津雄とぴったりと重ね合わせていた小夜子の美しい唇は、やがて、やるせなさそうな身悶えと共に開かれて、 甘く濡れた舌先を相手の口中へと忍ばせてくるのだった。 そのとろけるような甘い舌先を迎え入れた谷津雄は、抱きしめた純白の長襦袢のうなじから匂い立つ温かみのある芳香に、 むせるかえるような甘美さと切なさを感じさせられ、女の舌先がみずからの舌先とくねくねと戯れるに及んでは、 愛する最高の女とふたたびめぐり合うことのできたことに有頂天にさせられるのだった。 大きな瞳の両眼をうっとりと閉じ合わせ、熱っぽく芳しい鼻息をもらしながら、 ねっとりとした舌先の愛撫を続ける小夜子だったが、谷津雄は、重ね合わされた唇がそっと離れるのをきっかけに、 純白の長襦袢の伊達巻を解き始めるのだった。 「生まれたままの姿になって欲しいな、ねっ、いいだろう……」 解かれた伊達巻は色っぽい長襦袢の裾前をはらりと開かせ、谷津雄の両手はなよやかな相手の肩先からそれを滑り落させた。 水色の肌襦袢と湯文字の姿にさせられた小夜子だったが、その清楚で美しい顔立ちのまなざしはきらきらと輝いて、 相手からされることへの期待は、綺麗な形の唇を薄く開かせてあらわされているのであった。 取り払われた肌襦袢があらわにさせた女の柔肌は、乳白色の光沢を放ってあたりを明るませるような美しさがあった。 小夜子は、恥ずかしそうに両手を胸にやって、ふっくらとした盛り上がりを見せる乳房を覆い隠している。 そして、幾分か上目遣いにしたまなざしで谷津雄を見やる様子は、美しい悩ましさを示しているというようなものだった。 「これも脱いでね……」 谷津雄は、興奮の余り震える声音でそう言うと、相手の腰から湯文字を取り去っていくのだった。 女の下半身があからさまにされるに従って、小夜子は、うん、と小さな声音をもらすと、 ベッドへ仰臥させられていた裸身を起こして、谷津雄に背を向けるようにして、その上へ横座りの姿態を取るのだった。 そして、最後に残された衣類であった足袋をみずから脱いでいくと、生まれたままの全裸の後姿を晒すのだった。 だが、それで身に着けていたものがすべて取り払われたわけではなかった。 小夜子の首もとには、銀色に輝くロザリオが掛かっているのだった。 女は、初対面の男を相手にしているとでも言うように、かたくなに後姿を晒したまま、恥ずかしい箇所を両手で覆い隠している。 「きみとは、夫婦だった仲じゃないか、ここに至って、何も恥ずかしがることはないよ」 谷津雄は、苦笑いを浮かべながら、小夜子の柔和な肩先へ手を置くと無理やりこちらへ向けさせようとするのだった。 「だめよ、だめ」 小夜子は、甘く鼻を鳴らしながら駄々をこねるように身悶えをして、かたくなに動くこと拒むのだった。 それが男の思いを掻き立てようとする女の媚態であることは、谷津雄にもわかっていたことだったが、 下腹部は、まさに自然とも言えるように立ち上がって、成行きをはっきりと求めさせるように反っているのだった。 谷津雄は、胸と下腹部を覆う相手の両手を引き剥がそうと華奢な両手首をつかんで引っ張ってみたが、 小夜子は、懸命な抵抗を示して動こうとはしなかった。 「どうして、そんなじらすようなことをするんだ……」 谷津雄は、ついに怒ったようなものの言い方になった。 「うん、わからず屋さんなのね…… 私は何のために裸にさせられたの…… あなたは何のために縄を用意したの…… 私にその先を言わせるなんて、無粋ではないかしら……」 小夜子は、しっとりと濡れたまなざしをきらきらと輝かせながら、肩越しの上目遣いで谷津雄を見やるのだった。 そして、おずおずと両手を背中へまわしていくと、両手首を重ね合わせる仕草を取るのだった。 女は縛られることを望んでいるのだ、という明確すぎる認識が床へ投げ出されていた麻縄をつかませていた。 重ね合わされた華奢な両手首へ縄が巻きついていった、後ろ手に縛った縄尻はすぐに前へとまわされ乳房の上へ掛けられた、 そして、二度巻きつけられると背後で縄留めされた、すぐに、二本目の縄を背中へ繋いで、今度は乳房の下の方へもっていき、 同じように二度巻きつけると左右の腋の下からそれぞれ固定して、後ろ手胸縄縛りとして完成させた。 ものの何分と掛からなかった手際のよい所作は、きっと小夜子も敬服してくれるだろうという満足感のあるものだった。 そうだ、彼女は、この縄が恋しくて自分のもとへ戻って来たのだ。 縛って繋ぐ力……この縄による緊縛の洞察を小夜子は身にしみてわかってくれたのだ。 縄による緊縛の意義を実感させられるのは自分以外にはないということを、 彼女が初夜の床入りで示した高ぶり以上に素晴らしくあらわされたことはなかったのだ。 彼女は、縄で縛られて、最高の喜びをあらわす女なのだ。 縛り上げた小夜子の美しい全裸の後姿をしげしげと見つめながら、谷津雄は、そのように思うのだったが、 どうしても気になって仕方がないということが眼の前へちらちらとしているのだった。 谷津雄は、恥ずかしそうに横へ伏せている小夜子の顔立ちをのぞき込むようにして、問い掛けた。 「このようなもの、もう、きみには必要ないと思うんだが、違うかな…… きみの救いになるのは、ぼくの縄の方じゃないのかな、間違っているかい? 取り去ってもいいだろう?」 谷津雄の指先は、小夜子の胸もとにきらきらと輝く銀のロザリオへ触れているのだった。 小夜子は、恨めしそうな上目遣いのまなざしをちらっと投げかけると、小さくうなずいて見せた。 そうしてロザリオの奪われた女の身体は、文字通り、生まれたままの全裸を縄で緊縛された姿態をあからさまとさせていた。 女は、依然として、男の眼から眺められる羞恥を横座りとさせた身体全体へあらわすように、 後ろ手に縛られた上半身をくの字に折り曲げ、艶めかしい太腿をぴったりと閉ざして陰部を隠すようにして、 ウェーブのかかった柔らかな黒髪で顔立ちを覆うように横へ伏せ続けているのであった。 谷津雄には、そのかたくなさが健気と思えるくらいに愛らしいものと映るのであったが、 ふたりの愛欲の遊戯はまだ始まったばかりのことであった。 谷津雄も衣服をすべて脱ぎ去って全裸となり、ベッドへ上がろうと、ふと、枕もとの方へ眼をやったときだった。 枕もとの傍らに、先日、発刊記念として贈呈されてきた、或る才能豊かな女流作家の小説本があるのが眼にとまった。 その艶めかしい腰巻には、次のような宣伝文句が記されてあるのだった―― 恋に溺れながら 私の愛は乾いていく 高ぶるほど空虚 満たされるほど孤独 そして、谷津雄が小夜子の方へ視線を戻したときだった。 そこに彼女の姿はなかったのだ。 小夜子の縄で緊縛された美しい全裸は消え失せていたのだ。 ベッドの上にあったのは、蛇のようにとぐろを巻いている二本の麻縄ときらめく銀のロザリオだけだったのである…… 途方にくれている作者・冴内谷津雄に残された解決方法があるとすれば、 居間で小説本に触れることから始まる☆小夜子の物語をもう一度最初から始めることでしかなかったかも知れない。 という終わり方であったが、冴内谷津雄には、どうしても納得のいかない結末であった。 それは、鵜里基秀という作者が考案した結末ということでは、まとまりをつけた、それでよいことかもしれなかったが、 逃げた女房にゃ未練はないが、お乳欲しがるこの子が可愛い(越純平作詞 「浪曲子守唄」より引用)、 というその可愛い子供のない亭主にとっては、 やはり、逃げた女房のふくよかで綺麗な乳房と乳首には、愛らしいというほかない未練が残るのであった。 いや、ふくよかで綺麗な乳房と乳首を持った女性であるというだけならば、日本女性には五万といる。 小夜子の清楚で美しい顔立ちと優美な姿態は、小説の登場人物になっていなければ、 女優かモデルか参議院議員にでもなっていたくらいに見栄えのあるものだった。 だが、清楚で美しい顔立ちと優美な姿態の女性ならば、これも、日本女性には五万といることであるから、 それだけの女性であれば、五万と五万で十万の女性から別の女性を捜せばよいことになるだろう。 いや、そうではなくて、ふくよかで綺麗な乳房と乳首を持った清楚で美しい顔立ちと優美な姿態でありながら、 その心根は優しく聡明で良識のある女性という存在であった。 もっとも、このような女性でさえも、日本女性の品格の標準からすれば、五万といることであるから、 小夜子が掛け替えのない、唯一とも思える存在であることがなければ、 愛ゆえに、終わりにして始まりのときにはならないだろう。 その始まりは、逃げた女房の行方を追っての探索ということであるのだから、なまじのことではかなわない。 そう、おわかりの通り、小夜子は、 ふくよかで綺麗な乳房と乳首を持った清楚で美しい顔立ちと優美な姿態でありながら、 その心根は優しく聡明で良識のある女性にあって、 縄で縛られることに被虐の官能を高ぶらせる妖艶な女性であったのだ。 日本の文芸において、縄で縛られることに被虐の官能を高ぶらせる妖艶な女性という存在は、 小夜子ひとりの独壇場となるほど希少なものではないが、 むしろ、その土俵が狭すぎるほど数多あると言ってよいほどの通俗性のあることであるが、 冴内谷津雄には、愛があるからこそ、至上の女性と思えたことであったのである。 それでは、探索ということになるが、小夜子が亭主に残した最後のものは、次のメールであった。
このメールを手掛かりとして小夜子を発見しようという、亭主の妻を求める愛の彷徨である。 小夜子は、<財団法人 大日本性心理研究会>という団体に所属していることがわかっているが、 どのように調べてみても、そのような団体が日本国内に実在するという確証が得られなかった。 小説という物語のなかの絵空事と言われてしまえばそれまでだが、それでは、余りにも想像力が貧困である。 人間がたゆまなく言語による概念的思考を行っている所以は、 人間にとって、みずからに内在するものを他者へ伝達するという表現の可能が必要不可欠のことであり、 それを行うために、 幻想の前に際限はない、推理の前に境界はない、恐怖の前に限定はない、失笑の前に悪意はない、 そして、官能の前に抑圧はない、ということである。 想像力とは、ないものをあると考えることのできる能力であり、表現の可能へと導く原動力である。 そこで、冴内谷津雄が小夜子を求める物語が始まることになるが、 それはそれとして、その作者にまかせておけばよいことであろう。 むしろ、一方においては、 同じ小夜子のメールにあって、示唆される興味深い点から始めることも有意義ではないかと思われる。 それは、引用された田中優子氏の『江戸の想像力』にある<連>と<俳諧化>という事柄である。 問題は二つある。 一つは、近世には渦のように動きまわり流動し続ける「連」の発想がある、ということだ。 これは人間や事柄や言葉の中の「関係の方法」の問題だ。 この「関係の方法」は今の我々から見れば、まるで体系がなく、論理がなく、収斂してゆくところがなく、 すべてを列挙し羅列しているように見える。 しかし、これが第二の問題なのだが、その関係の方法は単に羅列の方法なのではなく、 「俳諧化」とでもいうべき方法であった。 俳諧化とは、絶え間ない相対化のくり返し運動に似ている。 これは、<日本民族の縄による緊縛>というありようにあって、 生まれたままの全裸となった被虐者を<結び、縛り、繋ぐ>という加虐者との相対的関係をあらわし、 人間における官能が表現の可能をあらわす想像力となることを示唆していることだからである。 近世において認識されていた発想法が近代化によって切り捨てられていったことだとしたら、 ここにおいて、再びあらわれたとしても、日本民族の血筋を意味する以外にないことであろう。 そこで、これを読まれている方々への参加の呼び掛けは、次の通りである。
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次回へ続く <章>の関係図 上昇と下降の館 |