縄による緊縛という結びの思想・四十八手 (32) <永遠の黄昏>から始まる思考作用 |
<縄による緊縛という結びの思想>は、 日本民族における、<自主・独立・固有の知覚>の実現を目的とした探求にある、 その探求が更には<人間の問題>の可能に資することがあれば、 幸いと想像できる、作者と読者の交感に依る作業にあることである、 従って、<自主・独立・固有の知覚>などというありようは、すでに備えている事態であって、 殊更に必要と感じない、或いは、そのようなありようにはまったく関心がない、 という前提から始められる思考作用においては、無意義な思想にあるとしか言えないものである、 人間は、生を受けて死に至るまで、どのようなありようとして存在することにあるか、 この問いに対する答えは、人間が十人十色・千差万別という多種・多様・多義にある以上、 みずからが作り出す価値ということにおいては、一つの答えとしてあることではないからである、 みずからのありように不満はあっても、変革・超克・脱構築へ向かうことの必要は、 その者が望んで思考を重ねなければ、あり得ることにはないからである、 現在、日本民族が置かれている状況は、極めて深刻な状態にある、 同時に、相対・矛盾を孕んでいる点において、真に厄介な状態にある、 このように述べても、そのようには思えないと見なされれば、 その状況を変革・超克・脱構築しようとする表現は、 異常な状態を作り出すという以外にはあり得ないということにおいて、 現在のありようを尋常な状態にあると思える者の眼には、荒唐無稽にしか映らないことにある、 つまり、荒唐無稽ではないと感じられる事柄は、 現状維持の思考作用にあることだと言えることにあり、 その整合性は、どのような場合であれ、従来より存在する既成概念に依拠している事柄にある、 そこで言えることは、従来に存在した方法で成し遂げられなかった過去にあることならば、 現在は、それと同様の方法を用いても同じ結果にしかならないということの明白にあって、 未来を切り拓く思考のためには、新たな方法が作り出される表現が必要不可欠ということになる、 <自主・独立・固有の知覚>の実現を目的とした探求は、 人間が十人十色・千差万別という多種・多様・多義にあるというありようからすれば、 特別な欲求でも、特殊な願望でもなく、むしろ、直截で当たり前の自然なありようにあることである、 言い方を換えれば、人間は、自己開発・自己発展・自己成長を欲求する動物にあるというだけのことである、 日常という慣習にあって、隷属・受容へ置かれるままの思考作用においては、 <ひねる(異化)・ねじる(変化)・よじる(昇華)>は、 日本民族にある者が備える特有の<翻案体質>において、 否応なく要求される思考作用にあるありようでしかないという因果が示唆されていることである。 『☆永遠の黄昏』という創作がすでに示されている、 その手記を公にした、由利子と名乗る女性は、 みずからの生年を昭和二十一年一月一日であると述べる、 手記に登場している<由利子>という女性は、みずからの本当の母親であり、 敗戦直後の物資欠乏と社会情勢の混乱から、出産直後に死亡したことにあると述べる、 父親は、一之瀬琢磨・結城真吾・坂田久光という三人の青年にあると述べているが、 すでに死亡した母親が婚姻関係になかった男性を父親にあると明言されても、 その三人の父親がいずれも太平洋戦争で戦死しているということにあれば、 認知する父親が存在しない以上、由利子と名乗る女性のあらわす身上は、幻想か妄想か虚言か、 或いは、思い込みに徹する類にあるとすれば、 単なる、パラノイア(偏執病)にあるとしか言いようがない、 従って、『永遠の黄昏』という手記は一之瀬琢磨の創作文学にあるという前提へ置かれれば、 時間・空間・相反・矛盾の超越された、荒唐無稽な世界が描写されているということでしかなくなる、 日本民族の伝統文学に依れば、古くは、御伽噺、怪異譚、近年では、幻想小説などと呼ばれる、 超時間・超空間・超整合性にある、超次元をあらわす表現世界が示されているということにある、 父親の一人である、結城真吾は、神秘や超自然を扱う、オカルトに強い関心を持っていたとされる、 由利子の性質にも、それが見事にあらわされていることにあると言えるのかもしれない、だが、一方で、 もう一人の父親である、坂田久光は、生物学者を目指した実証的な人物にあったという示唆は、 記憶に留めた由利子が伝承として語りあらわした、『☆人類の生態学の抜粋』に示されていることである、 由利子には、一之瀬琢磨の文学的創造性・結城真吾のオカルト性・坂田久光の実証性があるということで、 現在、日本民族の置かれている、 極めて深刻で真に厄介な状態を変革・超克・脱構築するための荒唐無稽としては、 そのような由利子が心身をもってあらわす、多種・多様・多義の混交の超絶は、 或いは、最適が表現されるありようの一つにあるのだと言えることなのかも知れない、 いずれにしても、その容姿は、次のように描写される艶美にあることは確かであった。 あらわれたのは、艶やかな訪問着姿の色香があたりに撒き散らされるという、 目の覚めるような美しい女性だった、 年齢は、三十歳後半のようでもあり、或いは、二十歳なかばのようにも見えた、 実際は、五十歳を過ぎていたのかもしれないという、 曖昧模糊とした幽玄な幻想美というものを揺らめかせているのであった、 女性は、その和風に整えられた艶やかな髪型に、綺麗に化粧された麗しい顔立ちをもたげて、 しなやかで優雅さを漂わす物腰で、玄関をなかへと入って来るのであった。 「一之瀬由利子と申します、 突然、お伺いしました不躾、失礼致します、 こちらには、設備の整った地下室があるとお聞きしまして、参りました」 それは、顔立ちに劣らず、澄んだ艶やかな声音であったが、 地下室を言及された、住居の主人とっては、驚きと大きな戸惑いを感じさせられることだった、 まったくの見ず知らずの相手である、この女性は、どうして、<地下室>の存在を知っているのだ、 それは、他人には絶対知られることのない、みずからにある、秘密の事柄にあったことだった、 「私の住まいは、ただの二階建て、地下室などというものはありませんよ、 あなたは、訪問される家を間違われたのではないですか? それに、私は、あなたをまったく知らない」 主人の返答は、不安な面持ちを浮かばせながらも、きっぱりとしていた、 それに対して、一之瀬由利子は、艶美にある顔立ちを真顔の表情にさせたまま、 艶かしい妖しさを放つ眼差しを相手に向けながら言うのであった、 「私は、あなたの奥様の恵美子さんがその地下室を利用していた事実を知っているのです、 それは、このような表現で示されたことにあったのではないかしら? 『廃屋の一軒家にある地下室が縄による緊縛の秘密の儀式の場所として使用されていたことは、 当然、そこに参加できる特別の資格を持つものだけが知るという事情にあったが、 それが、恵美子、香織、慶子、由美子、麻衣子、真美という六人の女性にあったことは、 男性は禁断の場所であるという掟が示されていることにあった、 恵美子が子持ちの未亡人である以外は、他の五人は独身者であったことから、 彼女は、愛縛の聖母、或いは、緊縛美の夫人、または、縄奴隷の女と呼称されていたことは、 彼女が儀式に捧げられる供物として、取り扱われるあり方をあらわしていることにあった、 その儀式の目的とは、 縄の美しく強靭で柔軟性に富んだありようは、憧憬する男性そのものにあることであれば、 女性は、優れた存在にある縄という男性の支配を望んでいるものであって、 その支配に依って、みずからも優れた存在に引き上げられることにあるとする、 縄による緊縛の性愛行為を行うことにあった、 この考え方の根拠となっているのは、<結びの思想>である、 それに依れば、人間には、<女性の縄>と<男性の縄>というものがある、 知覚作用として活動する、感情を主潮として自然を認識する<自然観照の情緒的表現>を前者、 観念を主潮として自然を認識する<自然観照の合理的表現>を後者の思考作用にあるとされる、 思考作用における事柄であることは、 女性を縛る事象にあるから、<女性の縄>にあると見なされることではない、 同様に、男性を縛る事象にあるから、<男性の縄>にあるということではない、 <情緒的表現>並びに<合理的表現>を如何に構築させるかという思考作用の問題にある、 人間が縄で縛られている状態は、如何なる事象として表現されるものにあるかを示す方法である、 従って、<女性の縄>と<男性の縄>は、思考作用にある以上、 人間が縄で縛られているという現象は、ひとつの表現の状態にあることであって、 表現される現象は、縄による緊縛という事象でなくても、あり得るということにある』」 更に驚かされる事柄を聞かされた、主人は、ますます、困惑を深めるばかりにあるなかで、 娘の香織の部屋にある衣装戸棚の引き出しの中に発見した写真があらわす光景、 妻の恵美子が全裸のまま、緊縛の姿態に晒されているありさまを思い起こさずにはいられなかった、 それから、一之瀬由利子が美しい顔立ちに浮かばせた真剣な表情は、 次なる事柄を語っていたが、それは、主人を呆然とする状態へ追い込ませる以外の何物でもなかった、 「奥様ばかりにあることではないですわね、 ご主人も、同じ地下室を利用していたことは、このように表現されたことにあったのではないかしら? 『日本人は、持続する自然崇拝の信仰心があるが故に、 多種・多様・多義のそれぞれの思いのある実情から、 自己実現ができるという存在理由をあらわしている。 日本国民をひとつにするという考え方があるとすれば、 この存在理由が日本人の主体性を形成する出発点となる。 日本人にある、それぞれは、他者とは相違するからこそ、 自分自身にあるという認識の持てる、人間存在にあるということである。 そのような人間存在が国家をより良い囲繞として作り出していくことが日本の未来であり、 日本の未来は、ひとりひとりが自己実現を成し遂げることで作り出されることである、 これが国家の破綻からの出発点となることである。 縄による緊縛という性愛行為も、性的倒錯のサディズム・マゾヒズムを断絶すれば、 日本人が使用する、縄は、縄文時代以来の自然崇拝の信仰心に基づいている、 縄による緊縛の性愛行為は、その信仰心のあらわれであると言えることにある。 これまで、私が廃屋の一軒家で行ってきたことは、 このような考えに基づいて行われたことである。 性愛行為と言う以上、女性が関係することは実際である、 慶子、由美子、麻衣子、真美という四人の女性が被縛者であったが、 彼女たちには、行為の目的を説明して、納得と承諾を得たことからの緊縛行為にあった。 行為の目的とは、 日本人が自然崇拝の信仰心を基調としていることにおいて、男性と女性の差異は存在しない、 性愛行為において、両者が平等な立場に立つことは、 陰茎は膣を必要とし、膣は陰茎を必要する以上、いずれの優位が示されることにもない、 縛者と被縛者の関係は、平等な立場をあらわすものでしかない、 この立場から、日本人の縄による緊縛の可能性を追求するということである。』 立派な志ですわ、このような表現に接する機会を与えられれば、 あなたが私の来訪を待ち続けていたということは、 自明の論理にあるということ以外にあり得ないのではないかしら? それとも、私を拒絶なさいます? 私を拒絶することがあなたにお出来になります? さあ、冗長な社交辞令は、このくらいにして、 一緒に地下室へ参りましょう」 一之瀬由利子は、そのように言い終わると、真顔の艶美な顔立ちを崩すことなく、 ほっそりとしたしなやかな白い手を相手に差し出すのであった、 主人は、驚異を持って相手を見続けながら、その手をしっかりと取る以外になかった、 待望していたものが遂にやって来たという思いで、 家へ迎え入れる丁重な態度をあらわすほかになかったのである。 すでに、<三重層の密閉の構造>というありようを理解している者にあれば、 二階建ての住居に地下室が存在することは、むしろ、当然のありようにあることである、 一階は、日常という尋常な常識的意識にあることであり、 二階は、その尋常という常識を超脱する上昇ということの異常な意識にあることである、 従って、地下室というのは、その常識を逸脱する下降ということの放埓な意識にあるということになる、 人間存在は、この<三重層の密閉の構造>にあるものであるという見方のできることにあれば、 生まれたままの全裸にある人体を縄で縛り上げるという縄による緊縛というありようも、 <三重層の密閉の構造>に従っては、 一糸も身にまとわない、生まれたままの全裸の肉体にあるということに依って、 一階という自然状態が作り出され、 精神と称される、人間の主体的意識は、その肉体に密閉されることにおいて、二階となることにある、 そのよう心理をあらわす全裸の肉体を緊縛という縄掛けが作り出すのが地下室である、 三層が作り出す<三重層の密閉の構造>は、 自然の植物繊維で撚られた<縄>というものが本然としてあらわす意義においては、 一之瀬由利子は、『永遠の黄昏』という手記の解釈について、次のように述べる。 置かれた縄をじっと見つめてみれば、気付くことであります、 複数の筋が撚り合わされて織り成された螺旋の形状には、 見つめていて見飽きない、力動感・不可思議・美しさが感じられることです、 これは、縄が直線の形状をしていながら、ねじれているという形態をあらわしていることによるもので、 力動感は、すぐにもそれ自身が大地から動き出して、天に向かって這い登り始めるようにあり、 不可思議は、そのねじれが留まるところを知らない永遠を髣髴とさせるようにあり、 美しさは、くねらせる姿態の柔軟で艶かしい妖美をあらわすようにあって、 縄が大地という女性から天という男性へ繋がるものであると同時に、 陰という女性と陽という男性のねじり合わされて交接した姿を想起させることにあります、 交接は出産を導くものでありますから、縄は、生み出すものの表象としてあれば、 神的存在と森羅万象の生成を見ることも、不思議ではありません、 その縄は、実際の生き物としてもある、蛇の存在としてあることです、 蛇の交尾は、雌と雄のふたつがひとつに絡まり合って、場合によっては 雌雄とも交尾器が左右一対あるために、雌一匹に対して、雄が三匹で交わるという、 乱交さえもあることで、長いときは、交尾の状態が何日も続くというものです、 ひねられ、ねじられ、よじられて、撚り合わされるありさまがあらわす、生存の生々しい強靭さは、 雄の精子が雌の体内で二、三年は生きていることにも示されます、 縄の発祥とは、この蛇の交尾を見て発想されたものではないかと想像させることは、 縄文時代には、蛇信仰が存在していたことに繋がることであります、 日本民族にあっての縄とは、それがそこにあるというだけで、 森羅万象の生成と流動が宇宙をあらわす表象を感じられるということであり、 縄文時代の意識にまで至らせることにあるのです、 縄は、人間が生み出した道具です、 人間という存在は、みずから生み出した道具に守られて、存在する動物です、 その事実は、人間が身のまわりから道具を奪われて、 一糸も身に着けない、生まれたままの全裸に晒されれることへ置かれれば、 容易に理解できることにあります、全裸において、みずからを守るものは、 自意識しかないという状況へ置かれることにあるからです、 置かれる状況を判断するのは、自意識以外にないということから示されることは、 そこで用いられる<縄>は、<道具>として使用される<縄>として、どのような意義を持つものにあるか、 <縄>が<道具>として、どのように使用されるものにあるか、 人間にとって、<道具>がどのような意義をあらわすものにあるかという事柄が提示されることです、 地球上に誕生した人類が初めて<道具>を作り出して以来の問題があらわされていることです、 一之瀬琢磨が書き残した、『永遠の黄昏』の手記にあらわされる、麻縄は、そうした縄でした、 私の母が生まれたままの全裸の姿となり、後ろ手に縛り上げられた縄は、そうした縄だったのです、 そのことが認識できたとき、手記に書かれている事柄は、私を開かれた次元へ導くことにあったのです、 私は、開かれた次元において、世界とみずからを見ることができるようになったのです、 時間・空間・相反・矛盾を超越する次元に生きることを可能とさせたことでした、 私は、一之瀬由利子・結城由利子・坂田由利子という姓名を名乗る自意識において、 母の認識を受け継ぐ者にあるということの存在理由にあるということです、 母の認識とは、全裸を麻縄で縛り上げられた母が因縁のある漆黒の三角木馬へ跨がされて、 苦痛と苦悶の果てに至った歓喜の状態で告げた次の言葉です、 私は女 すべての生まれるものの母 私はすべてを受け入れられます 私を愛し光り輝きなさい 私も、母と同様に全裸の緊縛姿となり、因縁のある漆黒の三角木馬へ跨った同様の経験から、 同様の認識を得たことにあるからです、 人間の根源の活動として、食欲・知欲・性欲・殺戮欲という四つの欲動があります、 性欲と殺戮欲、この欲動があらわす<生と死>の顕現は、人間を他の動物種と隔絶することにあります、 人間は、動物存在であるが、動物存在以上のものにあるという認識の根拠を形作らせることにあります、 <宗教>は、<性欲と殺戮欲>に対して、どのような折り合いをつけるかという表現にあることです、 同様に、<国家>は、<性欲と殺戮欲>を制御する法制を作り出すことを至上とします、 <性欲と殺戮欲>のままにある国民は、一般の動物以上に始末の悪い存在でしかないからです、 このありようが通低として人類史を形成していることにあると見ることができれば、 <絶対的体制>などというものはあり得ないことは、人類史が明らかとさせていることです、 万世一系の体制が民族史を未来へ導くということはあり得ないということです、 むしろ、そのような膠着したありようこそが民族に終焉をもたらすということにあるからです、 体制を作り出すのは、人間です、神ではありません、 人間は、十人十色・千差万別という多種・多様・多義にある、一個人であるに過ぎません、 その一個人が<他からの脅威>に対して群棲して、集団化して、社会を形成することは、 一個人は社会と同義の意識において、その社会の構成員として存在するということになります、 しかしながら、その<社会>においての問題は、 <一個人>は、十人十色・千差万別という多種・多様・多義にある存在であることです、 <集団・社会・国家>、群棲を統合化するために、どのようなありようが形成されても、 <一個人>は、十人十色・千差万別という多種・多様・多義にある存在であることは不変なのです、 従って、国家が国民を統制するために、<一義の概念>を用いて、 あたかも、全員が同様に<一義の概念>を思考しているという幻想・妄想へ置くことが成されるのです、 国家というのは、群棲する人間を集合化させて、統制された状態をあらわすものでしかありません、 政府というのは、そのありようを運用するために組織化された集団でしかありません、 その構成員というのは、 <一個人>としての十人十色・千差万別という多種・多様・多義の存在にあるのです、 構成員は、作り出される<法・規制・常識>に従うことにおいて、統制される存在となることは、 <法・規制・常識>を逸脱しない限りにおいて、正当性があらわされるということでしかないということです、 個人は、如何に権力を持つかという問題となることです、 一之瀬琢磨が尊敬した、フリードリッヒ・ニーチェにあっては、 そのありようを<権力への意志>と呼びました、 個人が十人十色・千差万別という多種・多様・多義の存在として、 個人としての能力をどれだけ発揮できることにあるか、それが<人類進化>という問題にあることです、 我々、日本民族には、民族の創始以来の<結びの思想>というものが存在します、 時代の変遷に伴って、時の政権がどのような体制にあろうとも、国家がどのような様相をあらわそうとも、 日本民族としてあることの存在理由は、それらを超越して、 <結びの思想>が赴かせる展開・発展・成就があり得るということにあることです、 私の三人の父親が国家非常事態の召集令状に従って戦死した事実は、 そのとき、日本国家が戦争状態にあって、しかも、それは、引き返せない末路の状況において、 国家のために命を捧げたという大義名分の成り立つありようと言えることにあるのかも知れません、 しかし、それが名誉の戦死とされることは、無意味です、 中国を始めとする、アジア諸地域を占領・展開していた日本国軍の兵士は、 引き返せない末路の戦況において、軍備・食糧・医薬品の補給物資の途絶えた状況に置かれたことは、 餓死と病弊の坩堝にあって、同胞の兵士を食肉するという事態にまであったことです、 個人が十人十色・千差万別という多種・多様・多義の存在として、 個人としての能力をどれだけ発揮できることにあるか、それが<人類進化>という問題にあることです、 このような言説など、ままごとか茶番か荒唐無稽でしかないことです、 餓死と病弊の坩堝にあって、死滅するという選択肢しかない、 極限状態においての戦死にあったことを超克させることはできないからです、 私の三人の父親がどのような最期を遂げたことにあるのか、私は、知りません、 しかし、軍人・軍属・准軍属の戦没者の約230万人のうち、 約140万人は餓死で戦死したとされることにあるとすれば、 名誉の戦死者とされることも、ままごとか茶番か荒唐無稽でしかないことです、 私は、私の三人の父親の死が戦死や病死であったとさえ思うことをしません、 彼らは、一之瀬琢磨が記したように、 脳の薄闇の叡智を体得した、みずからの真のありようを知った者に訪れる死の招来にあった、 というだけの事実にあったとしか思いません、 母の由利子も、脳の薄闇の叡智を体得したことからの同様の死にあったということでしかありません、 私にとっては、一之瀬琢磨の手記にあらわされている事柄が私の存在理由なのです、 私が生きる、生き続けるという意義は、その意義のほかにはあり得ないことです、 そこから、一之瀬琢磨の手記は、人間存在と文学という関係から見ると、 次のように言えることにもあります。 『永遠の黄昏』は、自主・独立・固有の知覚をあらわす、一個の人間を主題とする問題にあります、 この一個の人間というのは、誕生と死滅に依って区切られる、生という現象において、 食欲・知欲・性欲・殺傷欲という四つの欲動を活動させて行動する動物存在にあって、 感情に依る<自然観照の情緒的表現>、及び、 観念に依る<自然観照の合理的表現>という知覚作用を用いて、 森羅万象に対する、世界認識を行うということにあります、 この存在にある人間の考察の方法としては、『永遠の黄昏』に示されている通り、 人間の性欲と性的官能は、整合性の成就の快感を認知するありようにおいて、 常時、思考作用に関与している実情にあるということを踏まえた上で、 異化・変化・昇華を表現する、<結びの思想>があらわされていることにあることです、 一個の人間における、誕生と死滅に依って区切られる、生という現象は、 誕生に始まり、死滅に依って終わる、<意識>の連続としてあることであります、 <意識>の定義は、「心が知覚を有しているときの状態、物事や状態に気づくこと、 自分自身の精神状態の直観、自分の精神のうちに起こることの知覚、 知覚・判断・感情・欲求など、すべての志向的な体験(「大辞泉」)」ということです、 この<意識>の連続は、食欲・知欲・性欲・殺傷欲という四つの欲動に支えられていることは、 <意識>の活動とは、食欲・知欲・性欲・殺傷欲があらわされることにある、 生という現象は、その現象における、いずれの事象にあっても、 食欲・知欲・性欲・殺傷欲のあらわれであると言えることが示されていることにあることです、 この意義において、一個の人間の<自主性>とは、 食欲・知欲・性欲・殺傷欲の欲動に従って、<意識>を連続させることにあると言えます、 その連続する<意識>の状態は、一個の人間としてあるということの<独立>に依り、 その<独立>の故に、それぞれの固有にある、<囲繞の檻>に閉じ込められているように、 <意識>において<固有の知覚>があらわされるものとしてある、 人間は、一個の人間として、生という現象にある限り、 存在する人間の数だけ、<固有の知覚>をあらわしていることになる、 従って、その個人的差異のある<固有の知覚>からあらわされる、 一個の人間の表現は、相似にはあるとしても、同一にはないということから、 その一個の人間の表現を言語であらわすということには困難が生じることは、 言語が概念を組成するものである以上、 差異を明確に表現することの可能な概念が作り出される言語表現があり得ない限り、 言語は、完全に表現できるだけの表現媒体にはないということが示されていることにあるのです、 <文学>と称される分析・探求・表現の必要不可欠の所以は、此処にあるのです、 人間が<比喩表現>を発達させた所以も、言語の未発達の故にあることなのです、 人間が意思疎通の媒体として言語という道具を使用する限りは、 分析・探求・表現の必要不可欠は、常に、拡大と深化を求められるものにあるということです、 それは、これまではそうであったから、それで良いとされることのあり得ない、 持続する進化の過程としてあることなのです、 何故ならば、言語に依る意思疎通に困難が生じるということは、 意思の疎通に言語を使用しないという表現へ導かれることにあって、 人間にある殺傷欲に従えば、暴力表現が代替表現として示されることにあることで明白です、 暴力表現が言語に依る意思疎通の代替表現となる限り、 我々の道具としての言語の使用は、弱体・脆弱・貧困をあらわしているということにあります、 暴力表現が身体を使用しての限りでは、まだ、動物状態をあわらすだけのことですが、 <道具>を使用しての暴力表現となれば、 人間という存在は、みずから生み出した<道具>に守られて、存在する動物にある以上、 使用する<道具>に対して、おのずからの進化が求められていく、 それは、一段と強力で高度な殺傷能力をあらわす<道具>が進化の賜物とされることになります、 人間が<永遠の黄昏>という状態にある性欲と殺傷欲を脳髄に抱いている限りは、 <道具>である武器や兵器は、更なる進化を求められるということにあるのです、 武器や兵器が<道具>として使用される戦争、 私の父である、一之瀬琢磨・結城真吾・坂田久光が相対しなければならなかった、 人間の殺戮状態というありようです。 ほっそりとした白い手を住居の主人に取られて、長く続く、狭い螺旋階段を地下へ下りながら、 一之瀬由利子は、そのようにみずからを述べるのであった、 住居の主人にとっては、ただ、聞き続ける以外にないという音楽の調べのようでもあったことは、 螺旋階段には、明かりというものがまったくなく、 向かい続ける地下という場所も、暗闇と静寂を漂わせるばかりにあって、 由利子の澄んだ艶やかな声音は、 明確な旋律と律動を表現しているように聞き取ることができたからであった、 だが、その調べも、<人間の殺戮状態というありようです>という言葉を最後に消えていた、 住居の主人は、ひたすら下降する以外に方途はなかったが、 やがて、それ以上の先はないという地面に足が触れたと感じられたときだった、 住居の主人は、ようやく辿り着いたと、 思わず、ほっそりとした白い手を取っている相手を振り返るのであった、 そして、見ることの出来た相手は、 艶やかな訪問着姿の色香があたりに撒き散らされるという風情にあった、 妻の恵美子、そのひとだった、 恵美子は、まるで見ず知らずの相手を見るような遠いまなざしで見つめ返しながら、 取られていた手を優しく離すと、美しい顔立ちに真剣な表情を浮かべて、 姿態を包む瀟洒な着物の帯紐へ、しなやかな指先を掛け始めるのであった。 (2018年1月18日 脱稿) |
☆13.縄による緊縛という結びの思想・四十八手 (31) ☆縄による日本の緊縛 |