7. <縛り>のノスタルジアが誘う未来へ 女性が腰巻きひとつのふたつの乳房もあらわな半裸の姿を後ろ手に縛られ、首縄から胸縄を掛けられ、 腰縄を巻きつけられ、あらがう言葉を許されない手拭いの猿轡をされている姿、 その女性の艶やかな黒髪は、男の手で荒々しく引きつかまれて、 言われたとおりにしろ、とでも声が飛んできそうな情景の写真がある、 妻は、身をよじらせ、両眼をしっかりとつむって、夫にされるがままを耐えるしかないことだった、 <縛り>による<家庭内暴力>を表現した見事な作品である、 背景となっている木戸の木目が日々暮らす一般家庭の雰囲気をよくかもし出させている。 もっとも、この同じ写真をやくざ者に拉致された美貌の人妻と見ることも可能であるかもしれないが、 いずれにしても、加虐・被虐のあらわされた暴力表現であることに違いはない。 加虐・被虐のあらわされた暴力表現ということであれば、ましてや、成人の異性間の事柄であれば、 文句なく、人間にある属性としてのサディズム・マゾヒズムによるものであるという見解になる。 <家庭内暴力>が生じる根拠は、<SM>が原因であると見なすことができるということである。 <SM>が性的衝動を意味しているものである以上、 男性が女性に対して、或いは、たとえ、女性が男性に対して行ったことだとしても、 生まれたばかりの乳児から死に瀕する老人まで、性を所有していることが人間存在である以上、 人間が性の束縛から開放されない限りは、或いは、家庭というそのものが消滅しない限りは、 <SM>から生じる、加虐・被虐のあらわされる、<家庭内暴力>が消え去ることはない、 人類の滅亡まで、永久不変に行われる事象ということである。 しかも、この<SM>の観点からすると、 すべての加虐・被虐のあらわされる暴力の事象へ適用できることから、 セクシャル・ハラスメント、学校内いじめ、幼児虐待…… どのような場合の事象にも、明確な根拠を確認できる方法としてあることになる。 明確な根拠としてわかるだけ、人間には、まったく手の施しようのないありようでしかないこともわかる。 そこに、唯一の救済の方法が求められるとすれば、人間の手が施しようがないのであるから、 人間を超絶した絶対者という神の御手に委ねられること以外にない。 言い方を換えれば、<SM>とは、つまるところ、救世主への道を開くものであるということである。 <SM>を題材とした表現は、すべて、キリスト教の伝道表現とも言えることである。 ひとつの神が一義に世界を支配する、立派な教義であるから、 それに追従することにやぶさかでなければ、素晴らしいありようであることに違いない……。 だが、ちょっと違うのではないか、或いは、みずからの<因習>を持つ日本民族としては、 別の道へ向かう方法もあるのではないか、そういった疑問を抱かせるところでもある。 もっとも、別の道と言ったところで、日本民族みずからの性と心理学があるわけではない、 西洋の学術を敷衍しているだけのものしかない。 どうしよう。 仕方がない、新たに始めるしかないことである。 別の言い方をすれば、いつまでも、陰部と心を西洋の学術に握られたたままでいることは、 まるで、主人のされるがままになるだけの奴隷ではあるまいし、 情けなく、歯がゆく、置き所がなく、浅ましく、悔しいばかりのことであって、 その奴隷状態を甘んじるというのであれば、ひとつの積極的な文学作品も生まれることになるだろうが、 何よりも、その不自然さから生み出される、<矛盾・苦悩・軋轢>を引きずったままにあることは、 本来あるようにない、という様々の異様な社会現象を招来することを必至とさせていることであれば、 最低限、性と心理学だけは、 日本民族の<因習>に基づいて、創出・展開させるべき学術としなければならないことであろう、 と言うことで、ここで、日本民族の性と心理に関して、 サディズム・マゾヒズムの概念の適用は終焉を迎えた、ということを申し述べます。 既存の当該事象に関しては、日本民族の新しい性と心理学からの再評価の対象とさせて頂きますこと、 以後、宜しくお願い致します。 「表現とは、ひとのなかに内在している<或るもの>をほかのひとへ伝達するために外在化することです。 それは、生まれたばかりの赤ん坊が手足を動かし泣き声をあげて欲求を伝達することから始まり、 ついには冷たいむくろとなって動きをあらわさなくなるまで続く流動的な現象と言えることです」と始めて、 いずれは、行き着かねばならなかった段階である。(☆表現の可能) 人間の事象のすべては、<表現>である。 心理というのは、その<表現>される事柄の一翼を担う、言語によって概念的思考が行われる活動である。 概念とは、意義と意義相互の区別をあらわすものであり、 品詞として区別される概念から組成される言語があらわす意義のありようを示すものである。 その言語による概念的思考は、整合性を求めるように活動している。 整合性を求めるのは、組成される言語が概念を作り出す活動そのものであることであるが、 その由来を求めるとすれば、それは、性欲と称される性的活動にある。 性欲は、人間が生を持続させるために活動させている四つの欲求―食欲、知欲、殺戮欲―のひとつである。 性欲の属性としてある性的官能は、最高潮へ達したとき、この上のない快感をもたらすものとしてある。 この最高潮の快感があることで、人間の生殖と繁殖に、際限のない性欲の活動があり得るのである。 従って、この性欲の最高潮の快感を、人間が感覚し得る、最上の生ある快感と言うことができる。 人間が喜びとして感覚する快感とは、この性欲の最高潮の快感を基にしてあるということである。 性欲は、その高揚する過程にあって、その活動が意識化されるものとしてあるが、 その属性としての性的官能は、四六時中、活動しているものであって、 人間が行う思考活動へ、常時、関わっている。 性欲の最高潮の快感がもたらす、この上のない快感や喜び、その整合性のある充実感は、 概念的思考が整合性を求めて活動し、それが達成されたときの快感や喜びと同一のものである。 人間の言語による概念的思考の活動は、整合性の快感や喜びを求めるものとしてある、 思考活動は、快感であり、喜びなのである、それは、整合性という健全性をあらわしている。 従って、求められない整合性にあっては、 概念的思考には、焦燥、不安、恐怖といった、苦悩と呼ばれる状態が作り出されることになる、 或いは、嫌悪、憎悪、羨望、嫉妬、憤怒、悲哀といった、感情と称される状態へ向かわされることになる。 苦悩と感情は、整合性の求められる<快>に対して、求められない<不快>という状態にあることで、 人間が概念を作り出す言語の組成において、 未だに発達途上の段階にあることをあらわしていることでもある。 人類進化の上で、発達途上の段階にあることであれば、 それをより発展させるための方法は、言語の組成能力を向上させると言うにほかなく、 概念的思考に備わっている、ないものをあると考えられる、<想像力>という能力が必須のことになる。 <想像力>は、概念的思考が整合性を求めて、言語の組成の可能性を繰り返せば繰り返すほど、 その過程にはあり得ない概念として浮かび上がってくるものである。 人間の事象のすべては、<表現>である、 表現される事柄は、想像力の関与を促して、言語の組成能力を活発とさせるものは、重要である。 言語表現そのものという、文学の役割の重要さが問われることである。 文学の貧困は、言語による概念的思考の未発達を露呈させることであって、 その貧困が社会的事象に及ぼす影響は、未発達の異様な事柄としてあらわれるものである。 <表現の可能>が求められ続ける所以である。 加虐と被虐という虐待の関係は、性欲が直接表現させていることではない。 性欲は、種族の保存・維持という合目的性にある、ただの活動があるだけのものであって、 食欲、知欲、殺戮欲が生存の合目的性において、各自の活動があるように、単独の活力である。 加虐と被虐という虐待の関係は、社会の制度・風習・風潮という<常識>に依存していることである。 <常識>という概念的思考にあって、虐待という行為に整合性が求められる、というありようである。 虐待を正当化することに整合性が求められれば、虐待は行われるということである。 従って、虐待を正当化するか否かと整合性を求める思考活動のあるところには、虐待は生まれにくい。 虐待は、整合性の求められない<不快>の状態、 焦燥、不安、恐怖といった苦悩や、嫌悪、憎悪、羨望、嫉妬、憤怒といった感情にあって、 暴力行為において、整合性を求めようとする表現になることである。 求められる整合性は快感を生むものであるから、それが常習化された行為へ進むか、そうでないかは、 そのとき、用いられる想像力に依存する、 みずからのなかにない相手の存在の状態を考えることができるか、そうでないかということである。 <常識>とされる<表現>が想像力の関与を必要とさせない整合性をあらわす傾向にあれば、 五感―見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる―による快・不快にとどまる程度の事柄が表現される。 それに慣れていくと、言語の組成という概念化の発達は、未発達のままの状態に置かれるようになる。 人間の概念的思考は、整合性を求めるようにしか活動しないものであるから、 未発達のままの状態にあっても、整合性を求める何らかの表現を結果とさせる。 行動として表現されたありように、時には、異様な事柄を生み出させることである。 整合性を求めることは、健全な活動であり、快感である、その快感は性的官能と同一のものであるから、 虐待の手段を性的行為を用いて行うことになれば、性的虐待の表現が生まれることになる。 これを、性的虐待の表現があたかも健全であるように述べているように見えるとしたら、 概念的思考活動に常時関わっている官能があることが、 あたかも性欲が直接関係していると見なすことであって、 俗に、性欲の高ぶりから獣と化した、というような文学的表現に慣らされているだけである。 性欲は、単独の活力であって、その属性である性的官能と同一のものではない。 年齢を経るごとに、性欲は減退していくものではあっても、性的官能は、同調しない。 従って、年齢が若くても、性欲の減退は生じることはあるが、その場合も、性的官能は別である。 性欲は、陰部と称される器官を活動させて、種族の保存・維持の合目的性にあるだけで、 概念的思考において関係しているのは、性欲の属性で性的官能である。 これまでに、人間にある五感―視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚―と称されてきたことあるが、 実際は、性的官能を含めて六感としてあるということである。 この六感がすべて、言語による概念的思考へ常時関係しているということである。 性的官能の最高潮の快感を喜びとして容認しない、 社会の制度・風習・風潮という<常識>に置かれてきた人間にあっては、 感じることはあっても、それを容認できないことであれば、 <矛盾・苦悩・軋轢>に置かれるのは当然のことであって、 その<矛盾・苦悩・軋轢>を解決するためには、精神病理学が必要とされる結果となることである。 人間の心理が病理を持っているものと見なすかどうかは、 社会の制度・風習・風潮という<常識>の背景にある宗教性に依存していることである、 病理があると見なす見解から出発する学術もひとつの表現であれば、 病理はなく、健全な活動における整合性の問題であると見なすことから出発する表現もあり得る、 世界には数多の民族があるように、表現の多種・多様があってこその人間の<表現の可能>である、 一義に世界を支配しようとする学術の存在はあり得ないことである。 従って、加虐・被虐の表現が性欲に依存していることではないことは、 陰部による性別から、男性の加虐性、女性の被虐性を属性とさせていることでもない、 概念的思考における整合性の問題にあって、 社会の制度・風習・風潮という<常識>に依存させられていることである。 それは、陰部による性別からの男性・女性の差異が、 その概念的思考における整合性にあっての男性・女性の意識と必ずしも同一にならない、 このことが社会的にも如実とされてきている、現代の状況にあらわされている。 性的官能も六感のひとつに過ぎないものであるから、そのものにおいては、 男性の官能・女性の官能という差異があるものではない、 あるのは、男性・女性という身体と陰部からの性的官能である。 男性の身体と陰部があれば、女性を意識する男性であっても、性的官能は男性である。 女性を意識することが整合性的にならなければ、<矛盾・苦悩・軋轢>に置かれることになるが、 それは、社会の制度・風習・風潮という<常識>に依存して思考されることである。 男性とはどのようなものであるべきか、女性とはどのようなものであるべきか、 この差異を形成する<常識>に依存させられることである。 人間に備わる性欲は、高ぶらされる官能に従って、 ところかまわず、相手かまわず、手段を選ばず、行うことが可能である、という進化の賜物である、 言語を生み出し、それで概念的思考を行うことを可能とさせたことも、進化の賜物である、 更なる、進化の賜物は、この両者をどのような整合性へ導くかということにある。 女性が腰巻きひとつのふたつの乳房もあらわな半裸の姿を後ろ手に縛られ、首縄から胸縄を掛けられ、 腰縄を巻きつけられ、あらがう言葉を許されない手拭いの猿轡をされている姿、 その女性の艶やかな黒髪は、男の手で荒々しく引きつかまれて、 言われたとおりにしろ、とでも声が飛んできそうな情景の写真は、まるで、古臭くて悪い、 <男尊女卑>と言われた<家庭内暴力>が因習としてあった時代を彷彿とさせる、 <緊縛>という言葉よりも、<縛り>と称されるにふさわしい雰囲気の漂うものがある。 <縛り>とは、<縄による結び>が人体へ適用されたときのありようをあらわした、初期の言語表現である。 その概念は、人体を縄で拘束する、特に女性を対象として行われることが意味されていた。 初期とは、明治時代から昭和中期、表現が<緊縛>へと移行した頃までを考えるものとしているが、 その理由は、<縛り>という行為の由来が江戸時代に隆盛を極めたとされる、 幕府御用達の<捕縄術>に結び付くことにあり、その影響は、その頃までであったと想像できるからである。 <縛り>から<緊縛>へ言語表現が変わったことは、 <縄による結び>の形態ばかりでなく、概念をも変化させたことによるからである。 <捕縄術>は、<縄による結び>によって人体を拘束するという、思想と方法の実践としてあった事柄で、 明治時代を契機に衰退していった経過にあっては、 公然とした官から不特定多数の民へ降りていった時期が<縛り>の時代にあたるのである。 それは、市井の知られざる片隅において、 <捕縄術>の有用性の一端が<縛り>へ適用させられたことであるが、 伊藤晴雨の登場やエロ本などの出現によって、<縛り>という言葉が流布される以前から、 <縛り>が不特定多数の民において行われていたことは、事実としてあったということである。 <縛り>のエロ本の開拓者である須磨利之の幼少時代の自己体験として、 みずからの母が土蔵の柱に全裸で縛られていたという事柄が昭和初期のことであれば、 横暴な夫は、か弱い妻を相手に、一家の<信心、しきたり、折檻>を理由にして行われたことは、 男性と女性、主人と奴隷、その両者を結ぶ縄による<縛り>が<調教>を生むという教育の図式であり、 恥辱や不名誉や猥褻をあらわすために公然とされることがなかっただけで、 その当時には、すでにあり得たということである。 <縛り>の主役は、縛る男性と縛られる女性――この定型が成立することは、 すでに社会常識として、<男尊女卑>ということが存在していたことからであって、 新しい考え方ではなかったということである。 女性が柱を背にして立たせられている、その姿は、生まれたままの全裸で、 柔肌には、菱形の紋様が綾を成す、亀甲縛りと称される<縄による結び>を施されている、 掛けられた首縄、胸縄、腰縄、股縄は、しっかりと各所へ食い込まされてあらわとされている、 その上に、双方の乳首へ結ばれた糸を歯で咥えさせられるという責め苦へ置かれていた。 <縛り>の<家庭内暴力>が<緊縛>という言語表現に変わったことは、 <縄による結び>を<しっかりとしばる>という意匠の複雑さへ移行させただけのことではなかった、 縛る対象をも変質させたことであった。 未曾有の敗戦という時代の移り変わりは、 <男尊女卑>という因習によることは、古臭くて悪いという<常識>となれば、 一家の<信心、しきたり、折檻>を理由にして行われた<縛り>も同様のことになる。 男性と女性、主人と奴隷、 その両者を結ぶ縄による<縛り>が<調教>を生むという教育の図式は、 西洋先進国と日本国、占領国と被占領国、 その両者をしっかりとしばる<支配>が<文化>を生むという教育の図式であり、 横暴な夫がか弱い妻を相手にすることは、 男性の陰茎が女性の膣を相手とすることそのものへと変えられたことであった。 <緊縛>は、その縛る対象を性的官能としたことである。 西洋の性的官能の学術の後ろ盾に支えられた文化となったことであった。 女性は、縄で<緊縛>されるばかりでなく、乳首をも執拗に責められ続ける、 それが主人から与えられる奴隷の快感や喜びとしてあることだった、 加虐・被虐の性的行為には、正当な意義のあることを堂々とあらわすことであった。 いまここで、<縛り>にノスタルジアを感じられるとしたら、 新しく引き受けたものに代わって、古い何かが失われたことをなつかしく感じることになる。 その古い何かは、ただ、因習とされた<古臭くて悪い>ものばかりではなかったことは、確かである。 生まれたままの全裸にある女性が後ろ手にされて、縄で縛られている後姿、 掛けられた首縄や胸縄から、<捕縄術>で見かけたような<縄による結び>の意匠である。 両脚を揃えて横座りとさせ、両手をきっちりと結んで、黒髪を垂れてうなだれているありさまには、 置かれている羞恥を身を震わせて耐える風情が匂い立つように漂っている。 菱形の紋様が綾を成す、亀甲縛りは、美しい意匠である、 掛けられた首縄、胸縄、腰縄、股縄が、 しっかりと各所へ食い込まされてあらわとされているありさまにあってさえも、 妖美である。 <縛り>のノスタルジアが誘う未来とは、 その妖美の縄掛けをまとうことにあったのではなかったのか。 さらば、<SM>。 (2009年5月8日 脱稿) ☆8.日本民族の縄による緊縛の美学 ☆6.<縄による結び>の事始 ☆縄による日本の緊縛 |