6.<縄による結び>の事始 借金返済で弁護士に相談







6. <縄による結び>の事始



<古い>と言われてしまえば、それまでのことであるが、
可憐で清純なお嬢さんが縄で縛られている姿には、格別の風情が漂うものがある。
なよやかで純潔な処女が陵辱されている、という<美>のはかなさが感じられることであるが、
こわれやすい<美>であれば、加える力も、強い力は要らない、ということでもある。
縛られた女性の顔立ちや姿態が美しいに越したことはないが、
顔立ちや姿態が滲ませる恥辱の表情には、それを遥かに上まわる表現力が示される、
こわれやすくはかない<美>を必死になって守ろうとする矜持があらわされる。
それゆえに、<縄による結び>も、強く厳しい仕方は必要なかった、
まるで、簡単に縄抜けされてしまうようなゆるい縛り方に見えるものであっても、
縄が柔肌に触れているという程度の拘束であっても、
縄で縛られるという異常なありようは、充分な緊縛を作り出したのである。
<縄による緊縛>がテレビのお笑いに取り上げられたり、
新聞の雑誌広告にまで露出しているようなことであれば、もはや、尋常としか言えない。
<異常>があらわされたそれは、<縛り>と呼ばれた古い時代のことに過ぎない。
それから、縄の数が増え、柔肌へ食い込むような厳しい縛り方へと移行していった頃には、
<緊縛>という呼称に変わったことであるが、そのように強く激しく行われなければならないほど、
<美>がはかなくこわれやすいものではなくなった、ということでもあった。
<美>が強くなった? いや、女性の存在が強くなった? それとも、<縄による結び>が進化した?
いずれにしても、匂い立つ<美>の所以である性的官能そのものが縛られなければ、
<感じない>というありようが作り出されたことは確かだった。
<感じない>ということであるから、当然、<美>に対しては繊細でなくなった、ということである。
性的官能を縄で緊縛して、オーガズムへ達するまで責め抜く、
陵辱は有無を言わさぬ暴力によって行われることであれば、
簡単に縄抜けされてしまうようなゆるい縛り方など論外であって、
頭部、顔面から爪先まで、縄は、縛ることの可能な箇所においては、
首縄、胸縄、腰縄、股縄、足縄……どこへでも施され、柔肌に食い込むほどの激しさは、
雁字搦めとする縄の量の増大が見事に<高度成長>をあらわしたものであった。
<緊縛>という事象が世間にあらわれる流れと戦後の経済復興の流れが同調していることは、
隠されるべき陰毛が公となっていくように、それまで抑圧されていた性が解放へ向かった、
そのように感じられることのようであるが、実際は、金銭の取得できる媒体となっただけのことである。
<性の開放>? 
そのような概念は、西洋先進国へ追従・模倣・隷属している流れにあって言われていることであって、
そのような姿勢をやめてみれば、<性の解放>など、すでに平安時代に達成されている事柄である。
日本が世界に誇ると称している、先駆的小説作品とされる、『源氏物語』は、性愛の作品であり、
そこに示される<性の解放>は、性的官能からの情緒なくしてはあり得ない、交接の放埓である。
『古事記』に始まり、江戸時代が終焉を見るまでの日本の文芸作品は、
性的官能を率直な日常茶飯事の活動として、森羅万象が表現されたものとしてあった。
そこから、<性の事象>を血抜きして、木乃伊のような文芸作品が明治時代以降にあらわれた。
近代文学の誕生である、従って、そこに示される近代人の苦悩の表現と言ったところで、
国家が富国強兵へ邁進し、津波のように導入される西洋先進国の学術に圧倒・抑圧されて、
交接が自信を持てずに行えなくなった、というだけのことであって、
西洋先進国の文芸を第一義とすることをやめれば、せんずりくらいは果たせたことであるが、
それでは、時流から外れて、金銭が稼げず、飯が食えないことになるからやり通す以外になかった。
従って、本来あるところの姿にない、という<矛盾・苦悩・軋轢>が想像力の貧困を招き、
<私小説>などという業務日誌のような表現を日本独自の<小説>とすることが関の山となった。
これは、終わってしまったことを批判しているわけではない、
当時は、それが精一杯の表現であったことだとすれば、批判などおこがましい限りである。
われわれは、そういった事柄を引きずっているということである。
従って、<縄による緊縛>にしたところで、江戸時代以前には存在するはずもないことである。
<縄による緊縛>で虐待することに性的な意味があると西洋から教えられたことによって、
それまでの過去における関係する事象を<異常性愛>の表現として再評価したというだけであって、
捕縄術からその存在理由である宗教性を骨抜きにして、
<縄による緊縛>という技術だけを伝統の継承と解釈したことに良くあらわれている。
もっとも、歴史的な解釈が立場の相違でどのようなものにでもなることは、
歴史的に繰り返されてきていることであるから、これも批判していることではない。
ただ、<異常性愛>という<隠された嗜好>を本分として行われてきたことであれば、
個人の性欲の満足が<美>よりも優先することは、言うまでもないことであるし、
その好事家の趣味に美学を見出すことは、学術の目的で行われることではない以上、あり得ない。
結局、性欲の満足を果たす以上の表現には成り得ないことは、現在に至るまで変わらない。
今更、そのありようを江戸時代の捕縄術と絡めて、伝統の意義を立てようとしたところで、
日本独自の<SM>であると甘んじていることであれば、<私小説>と同様である。
<縛り>の時代にあらわされたものは、何であったのか、そのように問うことの無意味さは、
簡単に縄抜けされてしまうようなゆるい縛り方であらわされた<美>は、
現在からすれば、単なるノスタルジアに過ぎないとされて、当然の結末となることだろう。


まずは、下の<可憐で清純なお嬢さんが縄で縛られている姿>をクリックして、
<古い縛り>の写真をご覧になって頂きたい、或いは、

そのような<古い>ものは好きではない、と感じられる方は、以下の文章へ進んで頂きたい。





江戸時代に捕縄術の流派は百五十以上も存在したとされているが、
現在ある<縄による緊縛>の表現も、同数の者が同数の流派を立てていても、不思議はない。
人間に備わる性欲は、高ぶらされる官能に従って、
ところかまわず、相手かまわず、手段を選ばず、行うことが可能である、という進化の賜物である。
その性欲に率直に従う表現であれば、これほど、人間的なものはない。
<縄による緊縛>の技術も、縛り方と名称が三百もあったことであれば、
みずからの求めることにおいて、各自が思いのままに展開することができるものとしてある、
そこに、皆が同一の方向を向かなければならない、ひとつの思想も、唯一性も、存在しない。
すでに起こってしまった出来事は、
再評価という解釈が可能なだけであって、変えることができないものとしてある。
かつては、<縛り>と称されていたことが<緊縛>へと変わり、
その先にどのような名称になろうとも、人間の性欲に変化が起こるわけではない。
<縄による緊縛>は、加虐・被虐をあらわすものである、ということも、
変わることのない性欲の属性である官能が影響を及ぼす表現によっては、
<縄による緊縛>は、官能のオーガズムへ至る手段に過ぎない、ということにもなる。
人間に備わる性欲は、高ぶらされる官能に従って、
ところかまわず、相手かまわず、手段を選ばず、行うことが可能である、という進化の賜物なのである。
高ぶらされる官能に従って、至ろうとするオーガズムのこの上ない快感は、
言語による概念的思考が整合性を求めて活動する喜びと同一のものである。
その同一の生存の喜びは、<宗教・法律・倫理>に関わらず、善悪を超えたものとしてある。
現在ある<日本の文芸>表現においても、江戸時代からの思想が断ち切られたありさまにあっても、
みずからの求めることにおいて、各自が思いのままに展開することができるものとしては、
皆が同一の方向を向かなければならない、ひとつの思想も、唯一性も、存在しないということである。
変えることのできない、起こってしまった出来事に対しては、
<再評価>という解釈を可能とすることが超克することであり、
みずからが思考し見つめるものに見出す事柄にこそ、率直に官能の喜びを知る、
このありようから始められることが<縄による結び>の事始である。
縄は、結ばれるために、日本民族がみずからの必要で創出した、<始まり>ということである。


小妻容子は、<縄による緊縛>を多種・多様の表現において展開させた絵画表現者であるが、
その<猥褻で残虐で恥辱ある表現>は、
人間に備わる四つの欲求―食欲、知欲、性欲、殺戮欲―を見据えて、
因習の所在を見事に明らかとさせている。
小妻容子が性的官能による日本民族の感性からあらわしていることは、
そこはかとなく匂い立つ<美>が示されるということで、固有のありようが示唆されている。
『奥州安達ケ原ひとつ家の図』に見出された<猥褻で残虐で恥辱ある表現>が、
伊藤晴雨によって、<日本のSM絵画史>を導いたと称されるものであるならば、
小妻の<猥褻で残虐で恥辱ある表現>は、
<SM>を脱却した日本民族の表現の発端として再評価できるものである、ということである。
同様な再評価をこれまでの優れた絵画表現者へ促すものがある、ということである。
数多ある小妻の作品にあって、女性と男性が共に被虐に晒される<縄による緊縛>表現は、
<象徴の絵画作品>として、未来へ投げ掛けられるものである。
その表題を『姦の紋章』という傑作は、
<縄による結び>のありようを問い掛けるものが示唆されているからである。


☆ 小妻容子の『姦の紋章』


(2009年1月8日 脱稿)


☆7.<縛り>のノスタルジアが誘う未来へ

☆5.<縄による緊縛縛り>・ひとつの答え・ひとつの終わり

☆縄による日本の緊縛