5.<縄による緊縛>・ひとつの答え・ひとつの終わり 借金返済で弁護士に相談







5. <縄による緊縛>・ひとつの答え・ひとつの終わり



よく考えてみれば、不思議でも何でもないことであるが、
生まれたままの全裸の姿にある人体と自然の植物繊維を撚った縄が遭遇し、
双方を人間の手が結ぶことをすれば、<縄によって拘束されたありよう>というものは出来上がる。
生まれたままの全裸の姿にある人体は、人類の創始以来、変わらないありようであり、
縄もまた、人間が創出して以来、変わらないありようとしてある。
<縄によって拘束されたありよう>という事象は、人間が存在しなくなればあり得ないことであるから、
或いは、縄が存在しなくなればあり得ないことであるから、
双方の存在が持続する限り、未来永劫、あり続けることができる。
<縄による緊縛>、 万歳である。
しかしながら、忘れてはならないのは、両者に介在する<人間の手>の存在である。
<人間の手>が結ぶことをしなければ、全裸の人体があろうと、自然の縄があろうと、
<縄による緊縛>は、存在し得ない。
従って、問題は、全裸の人体や自然の縄が不変のものであっても、
<人間の手>が結ぶということを行わない限り、<縄による緊縛>には未来がないことになる。
好都合なことには、人間には、性的異常心理学が定義するところの加虐・被虐の属性があり、
サディズム・マゾヒズムというものが人間に備わっていることで、それを<人間の手>があらわす、
<縄による緊縛>が人体を拘束する加虐・被虐のありさまとされる限りにおいては、
これから先、人間の属性の変化が起こらなければ、不滅の事象としてあり続けることができる。
<縄による緊縛>、 ハレルヤである。
日本の<縄による緊縛>は、西洋の学術の後ろ盾に支えられて、未来永劫、磐石と言えるものがある。
これが現在までに至った<ひとつの答え>である。
そして、<ひとつの答え>が出てしまった以上、<ひとつの終わり>でもある、
それ以上はない、という<ひとつの終わり>である。


明治時代に始まる、西洋先進国へ並ぶ<富国強兵>の実現は、相手へ追従することにあった、
国家が相手の所有する学術に匹敵するものを持たないという劣等意識をあらわにするとき、
追従は、模倣という形で行われることで自尊心を保持をさせることができる、
あくまで真似ていることであって、いつしかは、独自性が発揮できると希望できるからである。
しかし、追従が民族の自立や独自を生むためには、民族固有の因習に従うことは必然の事柄としてある、
民族の自尊心とは、その永年の歴史を持つ民族固有の因習を根拠としているからである。
従って、西洋先進国へ並ぶ<富国強兵>のために、
民族固有の因習さえ放棄するようにあろうとすれば、そこに残るのは、隷属の姿だけとなる。
それを隷属と意識しないで、遮二無二進むことをすれば、
対象の西洋先進国と民族固有の因習との対立から生まれる<矛盾・苦悩・軋轢>へ置かれる。
<矛盾・苦悩・軋轢>にあるばかりならまだよいが、それを払拭するための内省をおざなりにして、
思いの丈のままに暴力によって解決しようとすれば、戦争状態へ突き進む以外にない。
<矛盾・苦悩・軋轢>を抱えているままの民族が行う戦争では、戦略も戦術もまともにはならない、
戦争で破綻させられた終末は、民族総自決などという発想に至るのが関の山となる。
過去の歴史に対する解釈は、立場の相違から様々の見解があり得るが、民族の因習からすれば、
大東亜戦争は、日本民族が抱えている<矛盾・苦悩・軋轢>を露呈させた表現であった。
西洋の最先端兵器である原子爆弾を二発も投下され、主要都市は焦土と化され、
軍人・民間人を合わせた310万余の死者があらわすものは、
模倣するはずの相手は敵国へと変容し、西洋先進国への隷属は、文字通り、被占領国という末路だった。
この切実とした現実のありようから啓発を受けないわけはない。
どのような民族にあっても、民族固有の因習に従って、種族の保存と維持を行うことが自然である、
民族固有の因習を放棄しようとする不自然は、<矛盾・苦悩・軋轢>を作り出すことでしかない。
この<矛盾・苦悩・軋轢>は、知識人においてのみ自覚されるというようなものではない、
知識人は、その自覚をより容易に明確な表現とすることができるというだけで、
より容易に明確な表現とすることのできない者にあっては、日常生活においてあらわすだけのことである。
従って、知識人の明確な表現があらわれなければ、自覚していることさえあやふやなものとなる。
偏狭な民族意識の誤謬が招いた戦争であって、自由で国際的な国民に成り代わることの希望は、
戦後の驚異的な復興も、再び、戦勝国である西洋先進国へ追従することによって行われた。
民族意識は、<矛盾・苦悩・軋轢>に置かれたまま、<富国>へ突き進んでいくことであった、
この場合、<強兵>は奪われているから、<富国>こそは、平和を意味することになった、
簡単に言えば、国が金持ちになれば、平和で安楽に暮らせる、ということである。
<金持ちになれば、平和で安楽に暮らせる>という意識は、日本国民の一般的意識である、
国家が貧困になれば戦争が行われる、
かつての戦争はそのようにしてあったものであれば、平和と富は同義とさえ言える。
日本民族の<矛盾・苦悩・軋轢>を依然として引きずったままであっても、
それで自殺する者は、3年8ヶ月で310万余はいない、
日本民族の<矛盾・苦悩・軋轢>を依然として解決しないままであっても、
それで殺害される者は、3年8ヶ月で310万余はいない、
世界には、貧困や飢餓で苦しんでいる民族もあり、それに比較したら、充分にましだということである。
今や、<民族意識>という事柄を持ち出したところで、
大東亜という<民族意識>を意味するようなものであれば、民族意識など無い方が無難であり、
むしろ、国籍不明の表現こそ、世界的なものと成り得る、という流れである、
平和が富と同義であるように、評価が金銭と同義であることに従うということにおいては、
国家に金銭があれば亡ぶようなこともない、民族も消滅するようなことはない、
従って、明治時代以来の<矛盾・苦悩・軋轢>など引きずったままであっても、大した問題ではない、
<国家>の云々は頻繁に言い出されても、民族に触れることは禁忌であるとでも言うように。
西洋先進国へ追従したままでいることも、或いは、隷属にさえあることだとしても、
すべての国民が金持ちになれば、平和で安楽に暮らせる、ということに優越する事柄はあり得ない。
これが現在までに至った<ひとつの答え>であるとしたら、
そして、<ひとつの答え>が出てしまった以上は、
それ以上はない、という<ひとつの終わり>になることでしかない。


ポルノグラフィという表現がこれまでにあったような仕方のままであり続けることはできない。
<ポルノグラフィ>が西洋臭いとするならば、<猥褻な表現すべて>と言い換えてもよい。
<猥褻な表現すべて>があらわしていることは、
人間に備わる四つの欲求―食欲・知欲・性欲・殺戮欲ーの背後に横たわる<荒唐無稽>である、
性欲や殺戮欲による表現は、それを如実にあらわすことができるということであって、
食欲や知欲の表現にあっても、<荒唐無稽>をあらわすことに変わりはない、
人間の思考活動が整合性的にあろうとする所以は、それが<荒唐無稽>の正反対だからである、
でたらめにあり続けることに、言語で組成される概念的思考活動は耐え切れないのである。
この<荒唐無稽>を超克することは、人間というありようでは、絶対にできない。
四つの欲求とは、各自の生存と種族保存・維持を行っている活動そのものとしてあるだけのことであって、
生存活動そのものは、意味をあらわさない、
意味は、知欲のあらわれである思考が創出する言語概念でしかない。
従って、四つの欲求が露呈する<荒唐無稽>に意味を見出そうとすれば、
人間を超越する存在を前提とする思考から始まる、あらゆる宗教において表現された事柄のようになる。
また、四つの欲求が露呈する<荒唐無稽>に意味を見出そうとすることは、
日常生活を支える民族の因習を作り出すことでもある。
あらゆる民族がそれぞれに固有の民族意識を因習としていることの自然性は、
それぞれが異なった居住地に応じて、生存活動を持続させるために展開した事柄から生じたことである。
それぞれに異なった状況にあることであれば、その意識も同一のものとはならない、
世界をひとつにするという考え方は、<荒唐無稽>に対する思考の整合性の在り方と一緒である、
思考は、整合性的に考えようとすることは可能であるが、墓地をひとつにすると言うことならともかく、
生存する民族をひとつにするとは、地球の一箇所の居住地に集め、一万六千五百年かけての話である、
一万六千五百年と言ったのは、日本民族の具象である縄文時代がそれくらいの時間を遡ることからである。
<民族意識>がおざなりにされているとは言っても、
一万六千五百年の時間を明治時代から僅か百四十年の時間が変化させられることであろうか、
住居、道具、乗り物、調度品、衣装、髪型、化粧、装飾品がどれだけ変化したとしても、
一糸もまとわない生まれたままの全裸の姿にある人間となれば、どれだけの変化があるか、
ましてや、おちんちんやおまんこにどれだけの相違があることなのだろうか、
現代の日本国民は、すべて、おちんちんをおまんこでなく、尻の穴へ入れるものであって、
明治時代のおちんちんをおまんこへ入れる仕方を古色蒼然とでも言うのであろうか、
或いは、縄文時代の交接を神話の出来事のように言うのであろうか、
いや、『古事記』には、獣姦の記述のあることであれば、鶏姦がなかったとは断定できない。
人間の性欲の<荒唐無稽>は、これまでの<猥褻な表現すべて>があらわしてきたことである。
<猥褻な表現すべて>は、人間が変わり得ないものであることを如実にしているのである。
社会的倫理からすれば、<猥褻>は人間性の健全を損なうものであるから、悪の位置付けでしかない、
その通りである、<猥褻な表現すべて>に善の位置付けを与えることはでたらめを招来する、
秩序は、整合性を成立させることが本分であるから、<荒唐無稽>は排除される。
人間の社会を秩序を持って健全に維持するとは、<荒唐無稽>をあらゆる仕方で排除することである、
いや、排除できるものではないから、隠蔽と言い換える。
宗教・法律・倫理は、人間にある四つの欲求を抑制する目的で考え出されたものである、
人間が群棲して社会を維持していく限りは、不可欠なものとしてあることである、
そうして、人間は、文明化された理路整然としたと感じられる意識の基に生活している。
人類史とは、<荒唐無稽>を隠蔽するための弛まない努力の表現史である。
<猥褻な表現すべて>のありようがこれまであったようなものから変化したとしても、
それが<荒唐無稽>の表出を存在理由としていることにあれば、状況は変わらない、
それ以上もないことであるが、終わりもまたないことである。


<荒唐無稽>を前にさせられると、すべて、<それまで>のことになってしまう。
<人間には絶対に超克できない>、それとどのように折り合いを付けるか、
ありようとしては、その程度の<それまで>にとどまることでしかない。
<縄による結び>ということが縄文時代より一万六千五百年も継続していることであれば、
現代にある<縄による緊縛>という表象に思考の糸口が感じられるのは当然のことで、
縄文時代も現代も、生まれたままの全裸と縄も変わらないことであれば、
残るは、双方を<結ぶ・縛る・繋ぐ>とする<人間の手>の問題であることがわかる。
西洋先進国の学術へ追従・隷属してしまえば、どのように言っても、それは、SMということでしかない。
しかし、それでは、<民族意識>の不自然は解消できない、
西洋流のボンデージと呼ばれる皮製の拘束具を装着させた上に、麻縄で雁字搦めに縛り上げて、
日本の緊縛美である、と言っているような不自然さである、或いは、それを国際的とでも称するのか。
もしくは、苦痛や苦悶に性的快感を見出すことが西洋の学術の証明であるとするように、
生まれたままの全裸を麻縄で縛り上げたところまではよいが、
イエス・キリストが受けたような陵辱と恥辱の鞭打ちや肉体を損傷する行為に及ぶありよう、
西洋では、象徴のあることであるから、意義もあらわされる性的行為になることだろうが、
象徴のない日本民族の意識からは、ただ、与えられた苦痛や苦悶から性的官能が擾乱させられて、
本来ある官能のオーガズムを被虐を根拠として感覚したと履き違えているありさまとしか見えない、
或いは、それが真の姿であるとするなら、性的異常の病理における事例に準じるというだけである。
いずれにしても、西洋SMの追従・模倣・隷属でしかないことで、
<日本民族の縄による緊縛>ということの未来へは繋がらない。
<ひとつの答え>・<ひとつの終わり>があるだけである。
もし、終わりでないことだとしたら、
<日本民族の縄による緊縛>には、<美>が不可欠の要素としてある、ということが抜け落ちている、
<美>のあらわされない<縄による緊縛>は、<日本民族の緊縛美>ではない、
このように言い切れるまでに、<日本独自のSM>などは、ましてや、存在しないということである。
明治時代以来の<矛盾・苦悩・軋轢>を引きずったままで行うことであるならば、それでもよい、
だが、それを解決しようという意図にあれば、価値転倒は致し方のないことである。
民族が自立した意思にあるということは、民族固有の因習を根拠とすることである以上、
われわれは、すでに起こってしまった過去の事象に対して、
未来へ投げかけるための日本民族の意思を明らかとする解釈を行う必要があるということである。
それが<猥褻な表現すべて>の場から行われるというのは、
民族固有の因習の生まれた根源は、四つの欲求の背後にある<荒唐無稽>の存在であり、
その<荒唐無稽>を如実に表現できるものは、<猥褻な表現すべて>に他ならないからである。
われわれは、<猥褻な表現すべて>という媒体を通して、民族固有の因習を確認し、
民族固有の意識から、未来へのありようを創出することが自然ということである。
人間の性欲の属性である性的官能は、日常茶飯事、四六時中、活動しているものである、
そのことを率直に理解していた江戸時代以前の表現には、
森羅万象のことごとくに、性的官能が呼び覚ます<美>が見出されていた。
その見出される<美>を猥褻だとされれば、西洋先進国の美学へ準じるほかないことである、
明治時代以降の見誤った<美>とは、追従・模倣・隷属から与えられたものに過ぎなかったのである、
みずからの眼で見つめれば、そうとしか見えないものを、
そう見えることは古い因習だと決め付けられては、盲目とならざるを得ないことだったのである。
西洋先進国から評価されることが最上・最良であるという前提が作られれば、
日本民族からの評価は、仲間内の手前味噌の自己満足とされる以外にない、
みずからの感覚したものや思考したことを第一義とできない奴隷根性を作り上げたのである。
日本人として生まれてきてよかった、という自由な気風が欠如していることは、
常時、先生であるところの西洋先進国の動向を気にせずにはいられない生徒だからである。
本来あるようには、ないとなれば、そこにある<矛盾・苦悩・軋轢>は、様々の異様を生む、
本来あるようにない、という社会事件となってあらわれるほかないものである。
社会は、宗教・法律・倫理の秩序を整合性のある形で維持しようとするものである以上、
異様な社会事件のあらわす<矛盾・苦悩・軋轢>の意義と対決しなければならないが、
それが<荒唐無稽>を呼び覚ますとなれば、ただ、排除しようと躍起になるだけである、
隠蔽されたものは、消滅したのではない、見えないだけのことである。
<荒唐無稽>と向き合えるのは、<猥褻な表現すべて>においてである。
<猥褻な表現すべて>が一律の猥褻表現である必要は、まったくないのである。
民族の自立を意識する<美>の表現へ向けての多種・多様にあっては、
これが必然の事柄である。


<人間の手>が行う<縄による結び>があらわす形態は、それを行う者の思考過程のあらわれである。
人体を対象として行われる<縄による緊縛>も、
<緊縛>が意味する<しっかりとしばること>がどのようにあらわされるかによって、
それを見て取ることができるものである。
江戸時代に隆盛した捕縄術という人体を縄で縛るありようは、
破邪顕正という概念を<縄による結び>の存在理由として形成されたものであるから、
多数の流派が存在した多種・多様にあっても、信仰が様式化されたものとして存在したことである。
代々継承されるための儀式性と実用性と美術性が備わったものとしてあったということである。
従って、こうした様式に見違えるような変化の起こることはない、
それ故に、要である実用性が時代の要請に合わなくなれば、消え去っていくものでしかなかったのである。
その捕縄術が蘇ったありようを<縄による緊縛>とすることは容易である、
しかし、決定的な差異がある、<信仰が様式化された>ものではないということである、
代々継承される目的のないことであれば、様式と呼ばれるものまでに高められることはない、
所詮は、性欲のあらわれを<縄による緊縛>は表現しているだけである、ということにとどまる。
<縄による緊縛>が日本的独自性をあらわしていると言ったところで、
その要である<信仰が様式化された>ありようが抜け落ちていれば、
その<手による技術>の習得や鍛錬や応用に固有性がずば抜けてあらわれることもない。
民族伝統の運動競技が国際化し、国技の意義が失われていく過程と同様のことで、
<信仰が様式化された>ありようが希薄であれば、当然、倫理も希薄になるだけのことである。
宗教を異にするその民族以外の者が容易に成し得る事柄というのは、
<信仰が様式化された>ありようにはない、ということである。
数学・物理学・化学・生理学・経済学などは、<信仰が様式化された>ありようにないからこそ、
その業績の評価を民族を問わずに行える表現である。
従って、<国際的>にあろうとすれば、<信仰が様式化された>ありようを棄却することであり、
<世界をひとつ>にするというならば、ひとつの宗教がそれを成し得るということはあり得ず、
宗教性をまったく持たない人間が人間としてあれば、簡単に、果たし得るということである。
しかしながら、宗教性をまったく持たない人間は、簡単にはあり得ない。
固有の宗教信仰対象を持たない者であっても、宗教性がないわけではない。
ここで言う<宗教性>とは、簡単に言えば、人間は人間を超脱することができない、ということである、
すべての事象を全知することは不可能であるという思考の限界を認識すれば、
人間を超脱した絶対性にある不可知の存在を想像できるありようのことである。
そこから、神・仏・霊を想定して、翻っては、それを想像できるみずからの思考を神・仏・霊と考察する、
この考察の永劫回帰の循環からは決して超脱できない、と認識する以外にない人間は、
ひとつの超越する絶対的存在へ帰依する以外にない、とする結果が<宗教>に従うということになる。
従って、<信仰が様式化された>ありようは、欠くことのできない事柄には違いないが、
特定の<宗教>に従わなくてもあり得ることになる。
<宗教>は、人間の考察において、<荒唐無稽>と<四つの欲求>を前提としている、
人間の思考のありようである整合性へ向かおうとする思想の形成は、
それらとどのように折り合いを付けるか、という究極をあらわそうという表現であるから、
性欲や殺戮欲からの猥褻表現としてあることだとしても、
<縄による緊縛>が人間の思考のありようである整合性へ向かおうとする思想の形成を行い、
それらとどのように折り合いを付けるか、という究極があらわせる表現となることができれば、
<信仰が様式化された>ありようの示される可能があり、
代々継承されるための儀式性と実用性と美術性が備わったものとしてあり得る、
そして、その実用性とは、捕縄術ではない、ということが未来を開かせるのである。


<縄による緊縛>など、素っ裸にさせた女性や男性を適宜にふん縛って、
その歪められた肉体が示す非日常の異形、極みのような羞恥・苦悶・被虐があらわされるさま、
それらからかもし出される美を性的官能の高揚に用いる、というだけのことであって、充分なのだろう。
しかしながら、人間は、生存のための<四つの欲求>を備えていることにあっては、貪欲である、
性欲や殺戮欲ばかりではない、食欲の可能、知欲の可能にあっても、
荒唐無稽なほどに際限のなさを求めるのである、
とどまることを知らない、それが人間の生存である。
新しい事柄へ向かうということは、古い事柄を棄却するということではない、
むしろ、温故知新とあるように、われわれは何を引きずっているのかを見直すことなしには、
新しい事柄は生まれない。
月岡芳年の『奥州安達ケ原ひとつ家の図』に啓発された伊藤晴雨は、
そこに見出される<猥褻で残虐で恥辱ある表現>を展開させた。
須磨利之は、晴雨を継承しながらも、<猥褻で残虐で恥辱ある表現>から、
みずからの美意識に従って、<残虐>を差し引いて、<猥褻で恥辱のある表現>とした。
両者が表現した美術は、絵画のみならず写真という媒体によっても示されたが、
その相違は、両者の<絵師の眼で描かれた写真>ということからも、明らかなことである。
<残虐>よりも<美>を押し出そうとした須磨の<猥褻で恥辱のある表現>を見つめて、
<縄による緊縛>を見直すことも必要なことであろう。


☆須磨利之の<猥褻で恥辱のある表現>


(2009年1月3日 脱稿)



☆6.<縄による結び>の事始

☆4.因習の絵画表現 再び

☆縄による日本の緊縛