3. 因習の絵画表現 「優れた因習の絵画表現というものがあり、それらは、見たくない、知りたくない、考えたくない、 と感じさせるかぎりにおいて、観念の根拠として、 因習が消し去ることのできないものであることを教えてくれる」 という正式の表題にあるように、『奥州安達ケ原ひとつ家の図』という絵画を指している。 ☆『因習の絵画表現』 「供物」より わが国の絵画表現における SM(サディズム・マゾヒズム)の主題が月岡芳年の『奥州安達ケ原ひとつ家の図』を発端として、 伊藤晴雨によって模範とされた事柄は、 明治政府から発禁処分とされた<猥褻で残虐で恥辱のある>絵画表現であった。 (芳年の絵画とクラフト=エビングの『性的精神病理』の発表がほぼ同年であるということは、 偶然であると言うよりは、関孝和がニュートンと同時期であったように、 ここにも、人類の総体的思考は平行時間を持って同一方向を目指す性質があらわれている) 晴雨の作品に見られる傾向が<猥褻で残虐で恥辱のある>表現である以上、 これは、否定できないことである。 それは、芳年が意図した表現と必ずしも一致するものでないことは、 優れた芸術表現は一義で解釈されるものでないからこそ不変のものとして継承される、 という事柄を示していることであるから、晴雨の認識が誤っていたことが言われていることではない。 晴雨は、芳年を模範として、<猥褻で残虐で恥辱のある>絵画表現を見事にあらわした。 当時、芳年の問題の絵画から影響を受けた者は数多くいたのであろうが、倫理的にはばかる、 <猥褻で残虐で恥辱のある>事柄をあからさまに問題としたのは、晴雨だったのである。 若々しい妊婦を裸姿にして逆さ吊りにする、 この主題は、晴雨がみずからの妻をモデルにして写真撮影を行って見せた演技以来、 <猥褻で残虐で恥辱のある>表現の象徴となったことは、 その後の優れた絵画表現者にあっても、避けられない主題であったことは、 キリスト教の民族にあって、十字架上のイエスの<猥褻で残虐で恥辱のある>象徴は、 若々しい女性が裸姿で磔にされるというありようと一緒のことで、 芳年が題材とした奥州の鬼婆伝説にあるように、妊婦の抱く胎児の生き胆は延命をもたらすという、 日本民族の生命の尊厳・安産祈願の信仰に基づいてのことである。 古くからあるこの信仰、或いは、因習がなければ、 ただ<猥褻で残虐で恥辱のある>表現というだけでは、説得力を持たないのである。 ☆日本の象徴的作品 ☆西洋の象徴的作品 因習の意味するところは、人間にある四つの欲求―食欲、知欲、性欲、殺戮欲― という決して消し去ることのできない、人間が動物としてあることの存在理由から生まれる、 人間が共存して生きていくための<しきたり>として受け繋いでいく概念のことであるが、 民族の種族保存と維持のために、社会を構成する目的の宗教、法律、刑罰なくしては、 成立し得ないことは、世界にあるいずれの民族にあっても同様の事柄としてあることである。 <人間の進化>ということがこの<因習>からの脱却にあることだとしたら、 それは、<四つの欲求>を放棄しろ、と言っていることと同じであるから、 人間をやめろ、と言うことになる。 人間をやめて、アンドロイドかロボットになることで、 <四つの欲求>から脱却できれば、それに越したことはないが、 人間の心だとか感情に主題が置かれている表現にあっては、まだ、次に至る段階の話であろう。 現行では、宗教的には、人間をやめて、神仏に近づこうと努力せよ、ということになるが、 <四つの欲求>を抑えた禁欲の生活が推奨されることは、 人間の倫理は、野放図、放埓、無際限、という事柄の反対の極において成立することにある。 欲求の野放図、放埓、無際限というありようは、 実際に極めて行えば、ただ当人の健康を害し死を招くという結果でしかないことであるが、 死に至ることのない野放図、放埓、無際限ということであれば、人間の最上の願望である。 人間が社会を構成する動物となって文明や文化を発展させてきた割合に応じて、 この<死に至ることのない野放図、放埓、無際限>は、倫理と相対して 社会を集団とすれば、人間一個人の自己同一性の願望として受け継がれてきたものである。 <死に至ることのない野放図、放埓、無際限>の主題の物語がいずれの民族にあっても、 神話から始まって現代の小説・映画・コミックスに至るまで、人気の衰えない理由である。 ポルノグラフィにあっても、精力絶倫、妾千人、酒池肉林として、それは同様のことであるが、 <猥褻で残虐で恥辱のある>表現においては、人間のあらわす願望以外の事柄もあらわれる。 人間の性的ありようを精神的・肉体的にサディズム・マゾヒズムが属性としてある見解では、 人間の行動の形態を一律に見なし、つまり、マゾはマゾ、と言うようなことで成されると、 サディズム・マゾヒズム以上はあり得なくなり、はい、それでお仕舞い、ということになってしまう。 サディズム・マゾヒズムは人間の性的属性である、と見なすよりは、 性的表現の形態であり、その意味では、分類可能な性的事象はすべて性的表現であれば、 その表現を行う人間のありようについての考察がさらに求められることの可能性が生まれる。 このためには、心理の新しい考え方も必要になるが、 思考から作り出される<概念>は、思考から作り出される<概念>によって変えられる、 という思考の永劫回帰にある以上、万物は流動転変する歴史的必然となる過程であることは、 人間を活動させている四つの欲求のひとつである知欲は、そこまで貪欲であるということである。 従って、SMとは、<猥褻で残虐で恥辱のある>表現が成されることである、 と言っても同様のことになれば、SMとしてあらわされる行為が人間から消え去ることのない以上、 そこからの考察の奥行きが伸ばされることは、歓迎すべきことであろう。 <猥褻で残虐で恥辱のある>表現に人間のあらわす願望以外の事柄があらわれていることは、 社会的倫理の観点から、見たくない、知りたくない、考えたくない、とされる事柄と同様のものである。 <死に至ることのない野放図、放埓、無際限>を抑制するための倫理は、 社会を構成する目的の宗教、法律、刑罰の成立において維持されるものであって、 <宗教、法律、刑罰>を家庭へ持ち込めば、<信心、しきたり、折檻>ということであり、 <人間性>の倫理から逸脱するほどの行為は、<猥褻で残虐で恥辱のある>ものとなる。 文明や文化が初期の段階であるほど、<宗教、法律、刑罰>は、 <猥褻で残虐で恥辱のある>ことを見せしめるための目的としていたことは、 それだけ、人間にある動物としての<四つの欲求>の存在を明確に把握していたことによるが、 文明や文化は、進展された段階にあるほど、<人間性>という事柄を取り沙汰することになるから、 <宗教、法律、刑罰>も、<猥褻で残虐で恥辱のある>ことを見せしめるということが抑制される。 <人間性>と称されることは、<猥褻で残虐で恥辱のある>人間でないこと、 これが他の動物一般から人間を区別する最も簡単な定義である。 理想的な人間像とは、<四つの欲求>を禁欲して<人間性>を抱く者のことである。 言い方を換えれば、見たくない、知りたくない、考えたくない、とされる事柄から遠ざかる、 人間にある因習の存在に眼を塞ぐということにある。 しかしながら、眼を塞いだとしても、すでに描かれたものは存在する、 問題は、それらの事柄を意識しているか、していないか、ということがあるだけで、 因習の存在は、人間活動の原動力としてあることでは何も変わらない、 ということがあるだけである。 <猥褻で残虐で恥辱のある>表現としての絵画は、それをあらわしているのである。 ☆信心・しきたり・折檻の作品 ここにも、<縄による緊縛>が重要な役割をあらわしていることが見て取れる。 同一の物を眺めていても、結ぶことをしなければ、異なったものとして見ることはできない、 縄で結ぶことの必要が人間には不可欠であり、 日本民族が<縄による緊縛>を必要とし、現在までに展開させている所以である。 認識とは、そこへ至れば、もはや、元へ戻せないありようのことであれば、 そこから、先へ進む以外にないことである。 (2008年11月19日 脱稿) ☆4.因習の絵画表現 再び ☆2.縄による緊縛の絵画 ☆縄による日本の緊縛 |