月岡芳年 画 『奥州安達ケ原ひとつ家の図』 (1885年 明治18年) |
2. 縄による緊縛の絵画 日本の美術史にあって、 縄によって裸体の女性が縛られた表現の最も古い作品がいずれにあるかは確かでないが、 少なくとも、写真や映画やコミックスよりも以前に絵画表現が存在していたことは確かである。 従って、月岡芳年の『奥州安達ケ原ひとつ家の図』という絵画が意味を持つのは、 緊縛の絵画表現の最も古い作品のひとつであるということにはない。 先達の業績というものは、それに続く者、さらにそれに続く者へと継承されることの必要は、 それが表現の展開を導くということにあるからであって、 表現の展開を導かないものにあっては、それが当時にどれだけ名を馳せたものとしてあっても、 われわれが現在手に取るようにして表現の可能を求められない限り、 墓地に累々と立ち並ぶ墓碑のようなものでしかなく、それでさえも、 打ち捨てられた墓碑であれば、コケが生え角が割れ、いずれは消えていくものとなる。 現在、世界に通用する文化であるとさえ言ってはばからない<日本の縄による緊縛>も、 歴史として見れば、この月岡芳年の『奥州安達ケ原ひとつ家の図』を発端とすると、 本年で百二十三年という歴史を持つものであるから、 ひとつの主義や思潮が一世紀以上の時間を持続できるということは、誇れることに違いない。 もっとも、縄によって裸体の女性が縛られる、いや、縛られるだけでなく、その上に、 陵辱され、死に至らしめられる、というような表現は猥褻で残虐で恥辱があるだけで、 声高々に、日本文化としての名誉であり、矜持である、と言うには、未だ臆することかもしれない。 裏の文化であるとか、サブ・カルチャーであるとか言ったところで、 インターネットの普及は、もはや、隠されることの意味に付加価値をもたらさない。 秘儀を言うなら、オカルトの意味は、隠されることでなく、知られないということにある。 だが、一方では、テレビでよく見かけるタレント女優が生まれたままの全裸を縄で緊縛され、 猥褻で残虐で恥辱ある表現をスクリーン一杯に演じて露出可能な日本の緊縛である。 百二十三年という歴史は、縄による日本の緊縛を世間へ露出させた経過であった。 縄による日本の緊縛が大衆化した、或いは、SM(サディズム・マゾヒズム)が大衆化した、 そのような時代に至った、これが発端の絵画から導かれた結論ということなのであろう。 (奇しくも、クラフト=エビングの当該の著作の発行は1886年である) 事実、大衆化されたことだとしたら、 大衆の認識からは、それが金銭的に有用であれば保持されるが、 更なる展開そのものは望めない以上、コケが生え角が割れ、いずれは消えていくものとなる。 もはや、展開可能でない文化であれば、SMも一時の流行に過ぎないとされて、 縄による日本の緊縛も、マニアの為だけにあって、文化は消滅する。 もとより、猥褻で残虐で恥辱ある表現であったのだから、 なくなって困ると言うのは、それで金銭収入を得ていた、ポルノグラフィの生産者だけである。 しかし、果たしてそれだけのものであるのだろうか。 『奥州安達ケ原ひとつ家の図』は、月岡芳年の数多ある作品にあって、 猥褻で残虐で恥辱ある表現ということでは数は少ないが、異例のものではない。 むしろ、この作品が表現の総合と多様性ということにおいて、日本の美術史にあって、 傑出した絵画であるということでは、芳年の代表作としてあっても、過言にはならない。 この作品には人間存在の総合と多様性の描かれていることが見て取れれば、 それが見た目の猥褻で残虐で恥辱ある表現でしかないということは、 逆に、われわれの意識に常時働いている性的官能の悪戯とも言うべきことである。 社会にある人間としての倫理からすれば、猥褻で残虐で恥辱ある表現は忌避すべきものである。 ポルノグラフィは、隠されて見られるべきものであって、公然とされる自由を持ってはいない。 社会を成立させる国家は、各自の法律によってそのように規制している。 芳年のこの作品も、発表当時、発禁処分となった。 見た目の猥褻で残虐で恥辱ある表現は、猥褻で残虐で恥辱ある以上のものではなかったのである。 その点では、現在も、発禁にはならないまでも、同様の価値観で見られることは変わらない。 従って、伊藤晴雨を啓発し、表現の模範とさせたことも、 この<猥褻で残虐で恥辱ある表現>ということであったのは、必然的なことであろう。 <猥褻で残虐で恥辱ある表現>は、当時、導入された西洋の学術に照合すれば、 サディズム・マゾヒズムという人間の肉体と心理に備わる働きに依ることであれば、 むしろ、世界を主導する時代の先端思想の後ろ盾が得られたようなものであるから、 芳年に示された模範を晴雨は、妊婦の妻を裸にして縄で緊縛し逆さ吊りにする、 という写真撮影を実践することで掌握した。 ここで、芳年の絵画が表現する人間存在の総合と多様性は隠蔽され、 <猥褻で残虐で恥辱ある表現>のみが継承されることになった。 晴雨が描いた☆同じ題材の表現を見れば、それは明らかなことである。 その表現では、吊るされるのは、腰巻ひとつの半裸の女であれば妊婦である必要もなく、 出刃包丁を研ぐのは、肉付きのよい遣り手婆あであって、骨と皮だけの因縁の鬼婆ではない。 <猥褻で残虐で恥辱ある表現>においては、晴雨は、芳年と対峙できなかったということである。 従って、晴雨のそれ以外の作品には、<猥褻で残虐で恥辱ある表現>の豪華絢爛の展開がある。 晴雨は、<猥褻で残虐で恥辱ある美術>の立派な表現者であった、 少なくとも、芳年の模範をそのように学んで実践した良き継承者であったことは確かである。 それであればこそ、晴雨の<猥褻で残虐で恥辱ある美術>の実践が須磨利之に与えた影響は、 当然、<猥褻で残虐で恥辱ある表現>以外の何物でもなかった。 ただ、須磨は、殺人にまで及ぶ残虐を表現の対象とはせずに、 <猥褻で恥辱のある表現>を美術として継承し展開させたということに違いがある。 ここにおいて、その後の縄による緊縛、或いは、サディズム・マゾヒズムの表現は、 模範がすべて出揃ったということからの表現が行われることになる。 この<猥褻で恥辱のある表現>を文学としてあらわした典型のひとつが団鬼六であって、 <猥褻で恥辱のある表現>とは、日本的と概念化していた明治時代以降の倫理に依るもので、 船橋聖一、谷崎潤一郎、江戸川乱歩などを模範としたところから生まれた美意識であり、 第二次世界大戦敗戦・被占領国家の日本にあっては、倫理の崩壊とも重複することであった。 団鬼六の表現が大衆化したと言うならば、それは、サディズム・マゾヒズムの流布にあるのではなく、 日本的概念とされていた倫理の存在を前提としていることが郷愁をもたらすことにある。 品性も教養も女性としての貞操も高い類まれなる美女が外道からあらん限りの陵辱を受けて、 女であることの本当の悦びに目覚めるという、日本のSMの模範をあらわしたことであるが、 そこには、日本的倫理、情緒、美意識が欠くべからざるものとしてある、言い方を換えれば、 歌舞伎や明治以降の文学の<猥褻で恥辱のある表現>の露出的な焼き直しであると言える、 それであればこそ、大衆化する所以もあるということである。 須磨においても同様であるのは、どのように破廉恥なありようであっても、 それがそこはかとなく<猥褻で恥辱のある表現>であるのは、倫理が前提とされていることにある。 倫理を前提とした<猥褻で恥辱のある表現>を日本固有の美学とさえ感じていたことは、 猥褻で恥辱的な行為を受ける女性の顔立ちとまなざしを見て頂ければ、☆明らかである。 被虐の女性は、きっとなったまなざしで屈辱的なみずからの境遇に反抗をあらわすのである、 女としての貞操を守るということが人間としての自尊心を示すかのように。 そこで、生まれたままの全裸を縄で緊縛されて陵辱を受けることで、 逆に、女としての官能の悦びに震えることは、自尊心を崩壊させたところにある、という定型となる。 この定型が成立するのは、日本的倫理が存在するという前提であって、 日本的と称される事柄があやふやな時代にあっては、古色蒼然となる所以でもある。 ここで、芳年の描いた人間存在の総合と多様性ということは何処へ行っちゃったの、 と問う者など、誰ひとり存在しなかったのは、 『奥州安達ケ原ひとつ家の図』を発端とする<猥褻で残虐で恥辱ある表現>は、 西洋の権威ある学術であるクラフト=エビングの『性的精神病理』(1886年)に裏付けられることで、 それに対峙する日本の心理学があり得ない以上、その模範に従うまでのことだったからである。 国家が戦争に負けて、西洋へ隷属しなければならない第二次世界大戦後の事態にあっては、 支配と隷属というサディズム・マゾヒズムの概念がむしろ事態をわかりやすくさせたことでもある。 従って、支配と隷属という意識が薄れた時期に至っては、 縄による緊縛は、室町時代に起源を求められるほど、 本来、日本固有のものであって、SMとは異なるものだと気付き始める者も出るが、 縄による緊縛がSMとは異なるという根拠の概念が見出せないために、行うことは、 縄による緊縛の<猥褻で恥辱のある表現>は日本固有の美学である、と言えるだけであった。 この経緯を<縄による緊縛>そのものについて見てみると、 月岡芳年―伊藤晴雨―須磨利之という表現の流れにあって、 <縄による人体の緊縛>というありようが目的とすることは、 身動きの自由を奪うための<拘束>を行うことである、 という意義が大きく変化していることがわかる。 室町時代末期に生まれ、江戸時代に隆盛した捕縄術の残された絵図があらわすように、 そのありようは、縄抜けができないこと、縄の掛け方が見破れないこと、 長時間縛っておいても神経血管を痛めないこと、見た目に美しいこと、 という目的にあった(名和弓雄 『絵でみる時代考証百科―捕者道具編』 新人物往来社)。 <破邪顕正(不正を打破し、正義を実現すること)>を緊縛の理念として、 その緊縛の意匠のことごとくに意義をあらわして、日本古来よりの<結びの呪術>を継承していた。 しかし、月岡芳年の表現する緊縛は、そのような意義をあらわす表象ではなかった。 その縛り方は、逆さ吊りにするという拘束だけが目的としてあるだけのもので、 縛られた当人がどのような苦痛や苦悶を感じようが、鍋にされる畜生と同様なものでしかなく、 腹を切り裂かれて孕んだ胎児を取り出される運命をあらわすことが意図であった。 縄による女体の緊縛は拘束でしかない、ということである。 人間を畜生扱いする緊縛は、当然のことながら、被虐者の苦痛や苦悶などお構いなしに、 拘束が果たされることであれば、縄の緊縛の意匠もお構いなしに、雁字搦めの拷問として行われる。 この縄を縛る加虐者と縛られる被虐者の関係が男性と女性であった場合、 肉体的苦痛や精神的苦悶を感じて性的満足を得るというのがマゾヒズムで、 そのありようを容赦なく実現することに性的満足を得るのがサディズムである、 と学術の教えていることがあれば、それが真の人間の姿であるという表現を作り出すことができる。 伊藤晴雨には、縄による緊縛に芸術の意図があったことは、☆みずからあらわしている通りである。 それまでは、江戸時代からの捕縄術の宗教的意義のあった縄による緊縛は、 晴雨によって芸術であると称されたことによって変化がもたらされたことは、 当時の警察機構が縄から手錠へと拘束の手段を移行させていった流れと平行している。 縄による緊縛の目的は、拘束にあることには違いないが、 それは、サディズム・マゾヒズムに基づく男女の性愛を表現することであり、 緊縛の意匠と方法は、宗教性ではなく、芸術性に従うものとされたのである。 警察機構も、捕縛術の因習的な呪術性よりも、近代的で合理的な西洋製の手錠を選んだ。 つまり、日本古来よりの伝統である<縄による緊縛>は、この時点で消滅したということである。 縄による緊縛は芸術である、これは、須磨利之の美術表現における理念とさせるものになった。 サディズム・マゾヒズムという学術が人間の性愛における精神病理を明らかにしていることは、 縄による緊縛という芸術における、加虐と被虐、男と女の心理を如実とさせることである、 緊縛は、拘束する目的が相手の肉体にあるばかりでなく、その心理をも拘束するものである、 いや、むしろ、緊縛とは相手の心を縛るものだ、とまで表現されるに至ることであった。 縄は、肉体と心理を拘束するものであるということが当たり前となったのは、 <残虐で>ということが抑えられた須磨利之以降の<猥褻で恥辱のある表現>からである。 縄による緊縛が心理と直接結び付くようになれば、 縄による緊縛は、単なる拘束であって、拷問でも、残虐でも、虐待でさえなく、 人間として欠くべからざる愛の表現をあらわす方法であり、 肉体を損傷させないための緊縛はさらに複雑となり、 複雑さは意匠をも綾なして展開させることになる。 縄による緊縛は、芸術であり、美学であると称される、これが所以であるが、 それはさておいて、では、当初の月岡芳年の『奥州安達ケ原ひとつ家の図』があらわす、 人間存在の総合と多様性とは何であったのか。 その謎を記憶の端っこに留めておいて、 これから先の展開をお楽しみ頂ければ幸いです。 (2008年10月30日 脱稿) |