1. 考察の根本的立場 何処へ考察の根本的立場としての始まりを置くか…… 人間の現象や事象の考察は、何処にその見地を置いて始めるかに依っては、 白も黒となり、黒も白となることがあり得ることは、 例えとして、天動説と地動説の関係を挙げることができる。 天動説は、宇宙の中心に地球が静止し、その周りを他の天体が回転しているとする説で、 それに対して、地動説は、地球が太陽の周りを回転しているとする説である。 いずれへ始まりを置くかによっては、近代科学を黎明させたように、その後の展開が大きく左右するばかりでなく、 天動説を見地としたキリスト教神学の時代にあっては、地動説を提唱する者は異端とされて、 ガリレオ・ガリレイのように軟禁生活を強いられたり、 ジョルダーノ・ブルーノのように火刑に処せられたりしたことでもある。 天動説が現在も考察の根本的立場としての始まりに置かれていることであるとしたら、 科学的考察の展開から生まれた機械技術は、依然として存在しない事柄としてあり、 コンピュータも宇宙ロケットもインターネットもあり得ないことになる。 従って、人類が宇宙へ進出している実際のある今後では、何処へ始まりを置くかに依っては、 天動説にも、地動説にも依らない見地へ発展していったとしても、不思議がないことだとも言える。 これから始められる事柄についても、何処に始まりが置かれていることであるか、 明確に示されなければならない理由は、始まりから展開される総体は、その始まりへ依存することにある。 人間の行う概念的思考は、言語との関係を相対的なものとしている以上、 最初に提示される事柄のありようから形作られる意味内容へ、 言語の組成が事柄と事柄との結び付きを持って行われていくことは、 その意味内容を最終的に整合性のある把握とするためには、 矛盾を意味しない始まりには、決定的な牽引力があるということにある。 人間の行う概念的思考は、整合性的にあろうとすることが活動である。 従って、始まりが理解に困難な事柄であれば、そこから展開される事柄は、荒唐無稽な様相をあらわすものとなる。 人間の行う概念的思考は、言語との関係を相対的なものとして、整合性的にあろうとする、 この活動によって提示される<始まり>ということである。 始まりは、次の点である。 人間は、地球上に存在する、動物の一種族である…… このように言うと、当然の事柄のように聞こえることであるが、 この事柄が始まりに置かれるか、第二義として置かれるかに依っては、展開は、大きく異なることになる。 学術の分野からすれば、生物学の範疇の事柄として、これからの考察があることであれば、 それが第一義とならなければならない所以もあることであるが、 人間の<心理と性>を主題とする考察においても、この事柄が第一義としてあることは、極めて重要である。 <人間は、地球上に存在する、動物の一種族である>という第一義は、 次のように、考察が導かれていくものとしてあることだからである。 <動物>という存在は、定義するとこのようになる。 現行の生物の分類上における、真核生物として動物界にあって、 脊索動物門―脊椎動物亜門―哺乳綱―霊長目ヒト科ヒト属に分類される<一種族>である。 個体として、生を受け、成長、衰退、死に至るという運動の過程をあらわし、 <一種族>を保存・維持するための活動として、 食欲、知欲、性欲、殺傷欲、という<四つの欲求>を備えている。 <食欲>とは、個体の維持として、食物や水分から栄養を摂取しようとする欲求である、 <知欲>とは、個体の維持として、現象や事象を認識しようとする欲求である、 <性欲>とは、種族の保存として、生殖のための交尾をする欲求である、 <殺傷欲>とは、個体の維持として、他の個体を殺したり傷つけたりする欲求である。 これらの<四つの欲求>は、<動物>として、生存を目的とした活動があらわされていることであって、 それ自体には、善悪の意味はない、生存することのエネルギーとしてあるしかないものである。 人間は、生存を求める<四つの欲求>を活動させて運動する<動物>である、 これが第一義としてあることである。 この<動物>として活動することそのものには、善悪の意味は存在しない、 善悪の意味は、<知欲>が媒体とする<思考>が作り出す事柄であって、 <動物>としての活動は、生存を目的としたエネルギーの発揮ということでは、 <健全>をあらわすものでしかない。 その活動の<健全>が損なわれる場合、それを<病気>と見なすことができるということである。 従って、<知欲>が媒体とする<思考>は、 整合性的にあろうとする概念的思考を行う活動としてあるだけで、<健全>をあらわすものでしかなく、 そこに<病理>は存在しない。 もし、<思考>が<病気>と見なされることがあれば、 それは、<思考>が保管される<動物>としての<脳髄>の事柄の問題としてあることである。 <思考>、即ち、<心理>に<病理>が存在するという見解にはならない。 <心理>は、<健全>をあらわそうとするものでしかない。 あらわそうとする<健全>は、<知欲>の活発なエネルギーに応じて、 多種・多様な<思考>の展開を示すものとしてある。 これが考察の根本的立場である。 (2009年8月11日 脱稿) ☆2.縄による緊縛の絵画 ― ☆本文 ☆ 縄による日本の緊縛 |