13.縄による緊縛という結びの思想・四十八手 (30) <何か一つの幻影> 借金返済で弁護士に相談



縄による緊縛という結びの思想・四十八手

(30)  <何か一つの幻影>



解放されることの絶望的な<田代屋敷>という閉塞をあらわす、日本国家においては、
<天皇制>と<日米安全保障条約>という二本(日本)の杭に依って、
優美な日本列島をあらわす全裸の姿態のしなやかで艶かしい両脚は、これ見よがしに割り開かされ、
ぱっくりと覗かせてさらけ出される、陰部にあっては、
強張った女芽という司法、暗い奥を垣間見させる膣口という立法、
窮屈なすぼまりにある肛門という行政が如実とされることにある、
日本民族の居住以来の優美な日本列島という全裸の姿態は、拘束が意義される縄に依って緊縛され、
<隷属することは、悦びである>という国是の下に、年長者から若輩者へ行われる、
<性奴となる家畜>として存在することの<教導>が常道とされる日常にある。

≪「じゃ、次にする事はわかってるな。
お客さんも、しびれを切らしてお待ちかねだ。てっとり早く頼むぜ」
その途端、美津子も桂子も、床に顔を押しつけるようにして、激しく肩を震わせる。
「出来ない、出来ないわ。お願い、もう、これ以上、許して!」
泣きわめくようにして、哀願する二人であったが、そんな事に耳を貸す川田や井上ではない。
「馬鹿野郎、今になって何をいいやがる。おい、朱美。そこの青竹を持ってこい」
川田は、朱美に手渡された青竹を持つと、力一杯、美津子と桂子の背へ打ちおろすのであった。
「あっ」
と叫んだのは、美津子や桂子より、静子夫人や京子の方だった。
ピシリ、ピシリと背や尻に青竹のムチを当てられて、
のけぞり、苦悶する二人を見て夫人と京子は血の気を失った表情になる。
「お願い、やめて、川田さん!」
川田は、じろりと、夫人と京子のひきつった顔を見て、
「へへへ、俺も別に手荒な事はしたくねえんだよ。
じゃ、お前さん達から、この若いお嬢さん方を説得してくんな」
川田にそういわれた静子夫人と京子は、
どうにも抗する事の出来ぬ悪魔の宣言を脳天から叩きつけられたような思いになる。
静子夫人は桂子を、そして、京子は美津子を、
悪魔の生贄にする事から何としてでも救おうと人間的思念を捨てて、
死ぬより辛い数々の辱しめを受けて来たのだが、
しかし、結局、それは、水の泡に終わってしまったのだ。
となれば、未練な感慨をこの若い二人に持つというのはむしろ悲惨であり、
この地獄屋敷の中で、これからもなお続くであろう悪魔共の残忍な調教に対し、
少しでも、それを苦痛と思わせないように見守ってやり、指導してやるのが、
せめてもの慈悲だと、静子夫人も京子も考えたのである。
すでに自分達の心と身体には、こうした日ごと夜ごとの調教のために
今までには想像も出来なかった肉と心の斜面が新しく現われはじめている。
そうしたものをこの若い娘達にも持たせ、
何かを切り替えた新しい女に作り変えてやる事こそ、
この地獄の苦しさを逃れる唯一の手段だと思うのであった。
静子夫人は、哀切的に眼をしばたきながら桂子にいう。
「……桂子さん、お願い。この人達のいう事を聞いて頂戴」
続いて京子も、泣き腫れた瞳を美津子に向けていうのだった。
「美っちゃん。言われた通りにするのよ。さからっちゃ、いけないわ」
そして、静子夫人も京子も、
力尽きたようにがっくり首を垂れ、声をあげて、泣きじゃくるのであった。
「お姉さん!」
「ママ!」
美津子と桂子は、泣き濡れた顔を上げ、
何か一つの幻影を見るように、見上げるのだった。≫

<何か一つの幻影>……
それは、若輩の桂子と美津子がみずからのありようの将来を見上げたとき、
顕現する<みずからの姿>としてあることである、
邪悪な<蛇>に依って純真な<花>が嬲り続けられるという現実にあって、
その状況から決して救済されることのない、<自主・独立・固有の知覚>を剥奪された存在は、
支配者から下される悪魔の宣言に従い、食欲・知欲・性欲・殺傷欲という四つの欲求のままに、
<性奴となる家畜>としてあることを自然なありようとされる国民として存在することであった、
支配者の思うがままになる、被支配者としての国民の姿があらわされていることであった、
<田代屋敷>という国家の現状にあっては、
<何か一つの幻影>を求めざるを得ないというありようは、
<田代屋敷>が絶対的な状態にあるとすれば、率直な反応にあることである、
国家に対して、<何か一つの幻影>としての<憂国・滅国・亡国>の感慨を抱くということは、
その閉塞的な状況に対する、当然と言える、本能的な反応にあることだからである、
だが、それは、<感情による自然観照の情緒的表現>が主潮となる、
<もののあはれの呪縛>に依る思考におけることにあれば、
相応の表現としてあらわされることになる事態も避けられない、
<もの>という客観的対象を<あはれ>という主観的感動で捉えて認識し、
調和のとれた優美繊細な情趣をあらわす芸術意識にある、その思考においては、
その者が置かれている状況は、情緒に依って判断されることにある、
情緒に依る判断から、感情に駆り立てられての行動が当然の因果となることを整合性とする、
結果の分かり切った無謀な行為にあると理解していながらも、
敢えて行うことに有終の美があらわされるという主観的感動が行動へ至らせることにある、
その情緒における<大儀>が<天皇陛下万歳>という意義になることも、
<お上>の意義が第一にあるとすれば、必然的なありようにあるということでしかない、
かつて存在した<教育勅語>が日本国民としての道義をあらわす意義にあると喩えられる事態である、
従って、アメリカ合衆国の<教導>の下にある、属国をあらわす国家にある現状にあっても、
<天皇陛下万歳>を叫べば、主観的感動をもたらす行動が可能であるというありようが生まれる、
国民がみずからの存在理由として、国家のために、国家を成立させるとする天皇のために、
<一億総何々>と目的が掲げられて行われる事柄が示すありようには、
日本民族として存在する共有意識を主観的感動とすることが感情の容易としてあるからである、
喜怒哀楽に従って、国民の皆が感動・感銘・共感した事柄が一つとさせるという状況である、
国家にとっては、国民の皆を一つとさせる事柄が国民の統制には必要不可欠としてある、
従って、国民の皆が一つになる事柄に対して喜怒哀楽があらわされるという状況において、
同様の喜怒哀楽をあらわさない国民を<非国民>として差別するということも起こり得る、
<感情による自然観照の情緒的表現>が主潮となる、<もののあはれの呪縛>に依る思考にある、
日本国民は、感情に基づく喜怒哀楽を判断の価値基準とするありようが示されていることである、
だが、そのありようは、<ひとつの見地>から思考されるありようでしかない、
<感情による自然観照の情緒的表現>が主潮となる、
<もののあはれの呪縛>に依る思考が信仰という熱意を帯びて行われるという見地に依ることである、
当然のことながら、<別のひとつの見地>から思考されるありようも存在するのである、
或いは、また、<別のひとつの見地>から思考されるありようも存在するのである、
これが多種・多様・多義にあるという人間存在の実態である、
ただ、言語や行動でそれを表現するか否かは、その者の場合に依存するという相違があるだけである、
言い換えれば、<別のひとつの見地>を剥奪される政治状況へ置かれるありようがあるとすれば、
それは、国家のために存在する国民の存在理由が露わとされていることにある、
<国家主義>という<囲繞の檻>へ閉じ込められている状況が示されていることにある、
<田代屋敷>という日本国家は、<囲繞の檻>を作り出すために、
これまでにも、<特定秘密保護法>や<安全保障関連法>を閣議決定し法制化してきた、
そして、現在、<囲繞の檻>が堅牢さをあらわすものとして、
更なる事態がもたらされる予兆が示されている、
2017年3月21日、<共謀罪>が<テロ等準備罪>という名称に変えられて、
首相不在に依って閣議決定されたという事態に至ったことである、
首相が不在の異例の閣議決定であることは、
国有地売却をめぐる首相夫妻の関与が問われている森友学園問題の渦中にあって、
首相がヨーロッパを外遊する建前に隠蔽して、
疑念のある首相が主導した閣議決定である本音を国民に如実とさせないという腹積もりに依る、
<共謀罪>の本音は、2003年以来、反対にあって、三度の廃案となった経緯に示されるように、
国民の存立にとって、重大で深刻な問題があるからである、
<共謀罪>の本音とは、
<政府の政策と施政に反対する者は、いずれの者にあろうと、警察機構が逮捕して拘留する>
という事態を可能とさせる法律にあるということである、
政府の政策と施政に反対する者は、それが言語であろうと行動であろうと、
表現の可能を求めてあらわすことをすれば、その表現は、ことごとく弾圧されるということである、
アメリカ合衆国の要求に従って、<安全保障関連法>の下に自衛隊の軍事行動が行われ、
<特定秘密保護法>の下に国民の<一億総納得>する<大本営発表>が行われ、
その政策と施政に反対する者は、<共謀罪>の下に取り締まりが行われる状況となる事態である、
反対しても意義がないどころか、逮捕され拘留され処罰されるということであれば、
殊更に反対するありようは、おのずから自粛へ促されることは避けられない、
警察機構の検挙のために、監視、盗聴、おとり捜査が行われることに依って、
堅牢な<囲繞の檻>となる状況は、檻の中に存在し生活する以上、
その檻の中にいることからの表現が正道であり、
その檻に対しての解放・破壊・超脱へ向かう表現は、一切が邪道とされるということになる、
すべての邪道は、国家警察の正道を進む妨害でしかないから、排除されるだけのものとなる、
そして、<別のひとつの見地>から思考されるありようが存在しないことが正道となる、
<国家主義>という<囲繞の檻>の中において、
政府の政策と施政の邪魔になる存在が排除されていくという経過は、
政府の支配下にある<性奴となる家畜>が優先して生存を許される国家に生まれ変わることである、
<隷属することは、悦びである>という国是の下に、閉塞された状況において、
被虐に晒されるありようを悦びと感ずる者だけが生活を維持できる国家になるということである、
<共謀罪>が法制化されるという現実は、
<隷属・受容・翻案体質>を備える、日本国民は、<お上>の政策と施政に対して、
同様の<治安維持法>の存在した、大東亜・太平洋戦争に敗戦する以前の存立を模範とされて、
反発・反抗・抵抗を行うことの無意味を年長者の過酷な体験に依って<教導>されながら、
若輩者は、<何か一つの幻影>を見上げるしかない思考が作り出されることになる。

≪ 静子夫人は、哀切的に眼をしばたきながら桂子にいう。
「……桂子さん、お願い。この人達のいう事を聞いて頂戴」
続いて京子も、泣き腫れた瞳を美津子に向けていうのだった。
「美っちゃん。言われた通りにするのよ。さからっちゃ、いけないわ」
そして、静子夫人も京子も、
力尽きたようにがっくり首を垂れ、声をあげて、泣きじゃくるのであった。≫

政府に依って行われた、<共謀罪>の閣議決定は、またしても、
直径五・二メートルのマカンバの円卓の上に乗せられた、
緊縛された優美な日本列島の全裸の姿態が政府を構成する者たちの激しく勃起・発情する思いから、
好き勝手に、悩ましさをあらわす陰部がいじくりまわされて、陵辱されたということでしかない、
孤島にある日本列島へ居住した祖先に始まる、
日本民族の可能な人間性の展開という問題からすれば、
大陸に比較しては、土地面積は矮小である日本列島を<囲繞の檻>とすることは、
更に矮小化される状況が作り出されるという意義において、
政府の政策と施政のありようが矮小であるということの証明にしかならない、
明治維新より始まる<開国>は、大東亜・太平洋戦争の敗戦において、
アメリカ合衆国の属国となったという結果において、一度失敗している事態にある、
我々は、<自主・独立・固有の知覚>において、
<国内統治権・対外主権>をあらわさなければならないことにあるが、
<開国>も果たせず、<属国>にあって、更に、<囲繞の檻>に置かれるというのであれば、
閉塞をあらわす状況は、暗黒をあらわす状況へ導かれる以外にないことになる、
日本国家の現状は、明らかに、まるで、日本民族には、それだけしか選択肢がないかのように、
<戦前の体制>へ復古することを着実に歩んでいる、
一つだけ大きく相違する点があるとすれば、
<戦前>は<自主・独立・固有の知覚>を目的としてのありようにあったが、
<戦後>は<自主・独立・固有の知覚>を放棄して属国という隷属にあるということである、
憲法が改正され、天皇が元首の地位へ返り咲いたとしても、その隷属から解放されることはない、
<アメリカ合衆国へ隷属する天皇、天皇へ隷属する政府、政府へ隷属する国民>、
これが敗戦が作り出した、<戦後民主主義>という<戦後レジーム>にあるからである、
従って、日本国家が<国内統治権・対外主権>をみずからのものとするためには、
<戦前>に行ったありようと同様の方法しかあり得ないことになる、
つまり、<自主・独立・固有の知覚>を表現するために行う<対外戦争>である、
結果は、<一億総特攻・民族総自決>にまで追い込まれる、歴史の繰り返しである、
暗黒をあらわす状況と言うほかないが、それが<民族性>であると言われれば、否定のしようもない、
猥褻表現を露わとする、<縄による緊縛という結びの思想>の展開も、
<共謀罪>に対応しては、もはや、これまでという悲観的な展望に置かれることである、
従って、これ以上を成すには、<十分に、それとも、十二分に>という覚悟を求められる訳であるが、
さて、<別のひとつの見地>からすれば、
我々が直面している事態は、超克することを求められる、民族の問題である、
人間として存在することの可能の問題である、
<何か一つの幻影>というものを見るとすれば、このようなものとしてあるということになる、
<別のひとつの見地>の思考からは、
少なくとも、そのようにして、一つの見地はあり得ることにある、
世界には、民族というありようが数多に存在する、多種・多様・多義をあらわす、その各々において、
<民族の可能>というテスト・ケースが行われている、
日本民族の場合にあっても、その例外にあることではない、
<その各々において>と言っていることは、
各々の民族には、それぞれに<固有の事情>のあることから、
<人間の問題>と直裁に向き合うことを容易には行わせないということが示されていることである、
これまでに述べられてきたことで見られるように、日本民族の場合も<固有の事情>があり、
それを超克するという努力なくしては、<人間の問題>と直裁に向き合うことは容易にはならない、
ここで、<人間の問題>と言っていることは、
多種・多様・多義をあらわす、自主・独立・固有の知覚にある、人間存在の問題ということである、
各々の人間において、多種・多様・多義があらわされることは、
二つ以上の存在があれば、相互間に<相対・矛盾>の生じることの必然は、
<自己対他者>は言うに及ばず、<自己対自己>においてもあり得ることにある、
地球に誕生した人類の創始以来、問われ続けている問題である、
<自己対他者>とは、言い換えれば、<自国対他国>ということであり、
<自己対自己>とは、<国家対国民>ということになる、
人類の創始以来の<人間の問題>ということであれば、
民族の創始以来の<人間の問題>ということになる、
我々が直面しているのは、この<人間の問題>である、
従って、根源からの考察ということが求められる以外にないことにある、
遡及できる日本民族の根源には、<結びの思想>というものが存在すると考えられる、
その存在は、縄文時代に起源のあるもので、
<一万三千五百年の縄の執着>に依って培われたものとして存在していることは、
宗教・政治・軍事・農業・漁業・芸術・遊戯といった文明・文化のあらゆる様相に示されている、
<神道>も、宗教に示された、その一つである様相に過ぎない、
この<結びの思想>の探求が<人間の問題>の手掛かりとなることは、
☆最新の研究においては、国立遺伝学研究所の斎藤成也教授らのグループに依れば、
縄文人と現代の本土日本人の遺伝情報を比較したところ、
縄文人から現代の本土日本人に伝わったと考えられる、
遺伝情報の割合は、およそ15%であるとされていることにある、現在の日本民族には、
少なくとも、DNAとして15%の割合で維持されているものとしてあると言えることにある、
<15%の可能>が<結びの思想>の存在をあらわす根源としてあると言えることにある、
<ひねる(異化)・ねじる(変化)・よじる(昇華)>が<結びの思想>の思考作用であることからは、
DNAに依る<二重螺旋の思考作用>にあると言えるものである、
<何か一つの幻影>が浮かび上がるとすれば、
<結びの思想>に根源を置く思考というありように依って導かれる、
民族の創始以来、過去から現在、現在から未来へ投げ掛けられる、
ヴィジョン VISION ということになる、
置かれた<縄>をじっと見つめてみれば、気付くことである、
複数の筋が撚り合わされて織り成された螺旋の形状には、
見つめていて見飽きない、力動感・不可思議・美しさが感じられることである、
これは、<縄>が直線の形状をしていながら、
ねじれているという形態をあらわしていることによるもので、
力動感は、すぐにもそれ自身が大地から動き出して、天に向かって這い登り始めるようにあり、
不可思議は、そのねじれが留まるところを知らない永遠を髣髴とさせるようにあり、
美しさは、くねらせる姿態の柔軟で艶かしい妖美をあらわすようにあって、
<縄>が大地(女性)から天(男性)へ繋がるものであると同時に、
陰(女性)と陽(男性)のねじり合わされて交接した姿を想起させる、
交接は出産を導くものであるから、<縄>は、<生み出すもの>の表象としてあれば、
<神的存在>と森羅万象の生成を見ることも、不思議はない、
その<縄>は、実際の生き物としてもある、<蛇>の存在である、
<蛇>の交尾は、雌と雄のふたつがひとつに絡まり合って、場合によっては
雌雄とも交尾器が左右一対あるために、雌一匹に対して、雄が二匹で交わるという、
<乱交>さえもあることで、長いときは、交尾の状態が何日も続くというものである、
ひねられ、ねじられ、よじられて、撚り合わされるありさまがあらわす、生存の生々しい強靭さは、
雄の精子が雌の体内で二、三年は生きていることにも示される、
<縄>の発祥とは、この<蛇>の交尾を見て発想されたものではないかと想像させることは、
縄文時代には、蛇信仰が存在していたことに繋がることである、
日本民族にあっての<縄>とは、それがそこにあるというだけで、
森羅万象の生成と流動が宇宙をあらわす表象を感じられるということであり、
縄文時代の意識にまで至らせることである。




*上記の≪ ≫内は、団鬼六著『花と蛇』より引用


(2017年4月12日 脱稿)




☆13.縄による緊縛という結びの思想・四十八手 (29)

☆縄による日本の緊縛