13.縄による緊縛という結びの思想・四十八手 (26) <二元性・単一動機・執拗な反復>という物語の結構 借金返済で弁護士に相談



縄による緊縛という結びの思想・四十八手

(26)  <二元性・単一動機・執拗な反復>という物語の結構





静子夫人は、<名器>の持ち主であるとされることは、次のように描写される、
≪「これが名器というものですよ。御覧になって下さい」
と、田代は千代に夫人の下腹部の方を指さして見せた。
左右に割られた夫人の乳色の光沢を持つ太腿はヒクヒクと微妙に痙攣し、
悦楽の頂上を極めてその余韻を伝えている。
その両腿の附根を覆う繊毛は剃毛されて
まだ日も浅いためにほんのりとした淡さだけだったが、
情感に酔い痴れた夫人の奥から噴き上げて来た熱い愛液で、
その薄い茂みはしどろに濡れている。
露わに等しい小高く盛り上ったその中心部には
鬼源愛用のゴム製の張形が深々と突き立てられ、
それがヒクヒクと断続的に揺れ動いているのも
悦楽の余韻を伝える粘膜の収縮によるものかも知れない。
鬼源は静子夫人の女陰の機能を千代に教示するため、
両手の親指を使って割れ口を押し開げ、
筒具を咥えこんだままの花肉の層を露わに開花させた。
淡紅色の甘実な花肉はねっとりと潤み、
幾重にも重なり合った花襞はまるで軟体動物が収縮するかのように、
深く咥えこんだ筒具をしっかりと緊めつけている。
鬼源が筒具をゆっくりと引き揚げようとすると、
花襞は無意識のうちに貝類のような緊縛カを発揮して、
逃がすものかとばかり責具をギューと強く緊めつけるのだ。
「ね、貝が獲物に喰らいついたみたいでしょう。こういうのを名器というのですがね。
何千人に一人いるか、いないかで、こういうおまんを知った男は骨抜きにされてしまいますよ」
といって鬼源は笑った。≫
『花と蛇』という物語の性的描写には、このように、丁寧さが滲み出ているところがあるが、
<物語の結構>においては、特異な点が見受けられる、
それは、その長さにあって、<二元性・単一動機・執拗な反復>が一貫して示される点、
<起・承・転・結>の整合性からすれば、<結>が示されないという点である、
変化がなく単調であり想像性が希薄であれば、面白味がなく飽きやすいということにあるが、
<隷属・受容・翻案体質>を体現する、静子夫人の<教導>は、
この特異性において表現されるものとしてある、
<教導>される事柄は、<隷属することは、悦びである>という単純明快な命題であり、
複雑性を帯びたものは、まったく排除されている、
このありようは、基調として、性欲と性的官能があることに依るものである、
火がつき、燃え立ち、燃え上がり、燃え盛って、快感の絶頂へ至る、
だが、終息しても、再び、時間が経過すれば、火がついて、繰り返される、
この単純な繰り返しが人間の肉体にはあり、平行関係に精神の働きがあるとされることは、
生きてある限り、<結>が示されることはないという人間観において、不自然さは生じない、
静子夫人の<教導>の基調は、性欲と性的官能の活動に依るものであり、
そこから、率直に示される事柄は、単一・単純・単調な意義へ導かれるということにある、
更に、<物語の結構>が<二元性・単一動機・執拗な反復>をあらわすことにあっては、
静子夫人の<教導>として唱えられる事柄、<隷属することは、悦びである>は、
あたかも、宗教的な<題目>、或いは、政治的標語の効果を上げるようなことになる。

その<物語の結構>を造形する要素の一つめは、<二元性>である、
<二元>とは、<もととなるものが二つあること。
物事が二つの異なった原理から成り立つこと。また、その原理。(『大辞泉』)>である、
『花と蛇』には、多数の人物が登場する、
しかしながら、多数の人物が登場しても、その人間関係は、複雑なものではない、
互いに旧知の間柄であり、共有する価値観にあって、訪れる外来者にあっても、
誰かは誰かの知り合いであるという<芋蔓式の人間関係>が作り出されている、
その<芋蔓式の人間関係>にある登場人物たちが集合して、
加虐・被虐の性的行為が行われる場所は、
一般社会の常識からは隔離された、<田代屋敷>という豪壮な邸宅である、
屋敷の所在地が明らかとされていない状況からは、
それは、周囲を海で囲まれた、<孤島>のような空間を想起することもできる、
絶海の孤島に暮らす、閉鎖的な人々は、外界とは隔絶した環境において、
<島国根性>を最大限に発揮して生活しているという印象を受け取ることができる、
まるで、<田代屋敷>という日本国家を連想することさえ不可能ではない、
これは、『花と蛇』の<物語の結構>は、<二元性・単一動機・執拗な反復>に依って、
その表現に<象徴>を読み取らせるほど、明確なものとしてあるということの一例であるが、
これまでにも、読者が各自の望む<象徴>を『花と蛇』の表現に読み取ってきたことは、
<和製SM>を作り出すありようへ導かれる、動機づけにあったことだと言える、
被虐に晒され続けながらも、それに必死に耐えて、むしろ、虐待に対して悦びの悟りを開く、
静子夫人を<菩薩>の<象徴>と見なしたことなどは、数多ある、その一例に過ぎない、
<二元>については、その最も大きな<象徴>は、
『花と蛇』という題名として、明確にあらわされている、
登場人物は、人柄・人格・身分等において、明確に<二元>に分けられている、
<花>は、<真・善・美>が意義されるものとして、真意・善行・美現のあらわれとして、
富裕・教養・社会的地位の高い者の表象とされていることにある、
<蛇>は、<偽・悪・醜>が意義されるものとして、嘘偽・悪行・醜現のあらわれとして、
貧困・無教養・社会的疎外・不適応・無法・外道の象徴とされていることにある、
<花>に属する主要人物は、次の通りである、
<遠山静子>、
二十六歳、彫りの深い端正な面立で、二重瞼の大きな眼、高貴な感じの鼻すじ、
 顔から頸にかけての皮膚の艶々しさは妖しいばかりの美しさである、
絶世の美女と評判の高い、財界の大立者、五十三歳の遠山隆義の後妻、
華道・茶道・日本舞踊の師匠・名取、フランス語の堪能な才色兼備にある、
<遠山桂子>、
二十一歳、遠山の先妻の娘、葉桜団というグループを組織して、
度々事件を起こしてきた可愛い不良娘、その都度、山崎探偵事務所の世話になる、
今回、仲間を裏切ったことを理由に私刑にされると、桂子自身の電話を受け取った、
静子夫人は、その身代金として百万円を要求され、指定場所の三越前へ向かう、
そこで拉致され、郊外の百姓家へ連れられて、監禁されている全裸の桂子と対面する、
<野島京子>、
二十三歳、二重瞼のエキゾチックな美人、
今年大学を卒業、空手二段の腕前を持つ女探偵、
勤めている山崎探偵事務所では秘書であり、山崎社長とは恋人同士の間柄、
山崎社長は、遠山家に出入りする探偵であるが、村瀬宝石店の遠い親類でもある、
京子は、葉桜団のマリを助けて恩を売り、団員となって、
拉致された静子夫人と桂子を救出するために<田代屋敷>に乗り込むことになる、
<野島美津子>、
十八歳、京子の妹、名門女子高へ通う、
白露を受けて育った野菊のように純朴で新鮮な美しさを持つ、
姉の京子は、美津子を大学へやり、
スチュワーデスにさせたい一心で危険な仕事で収入を得ている、
姉が交通事故にあったと学校へ駆け込んで来た、
令嬢に扮した銀子に騙されて<田代屋敷>へ連れて来られる、
村瀬文夫とは、同じ小学校の幼馴染みであり、恋人同士である、
<村瀬文夫>、
十八歳、小夜子の弟、大学の付属高校の学生、
ギリシャの彫刻のように気品のある横顔を持つ美少年、
美津子から救助を求める悲痛な電話を受けるが、
それは美津子が精神病になったことだと騙されて、
医師に扮して迎えに来た川田の案内で、
姉の小夜子と一緒に、<田代屋敷>へ連れて来られる、
誘拐された姉弟の身代金一千万円の要求を小夜子は父親に電話で連絡させられる、
<村瀬小夜子>、
二十二歳、世に知れた村瀬宝石店の令嬢、
夜毎に下りる白露に育まれた白い花のような美貌、
月の世界から舞い降りたのではないかと思われるぐらい、
ぞっとするばかりに気品に満ちた美女、
静子夫人は、村瀬宝石店の大事な得意客であり、
小夜子の日本舞踊と茶道の師匠でもある、
<千原美沙江>、
二十歳、静子夫人が師事した京都の生花千原流家元の娘、キリスト教者、
東京へ来る折は、遠山家に宿を借りる、静子夫人とは親しい間柄、
日本的な代表美人として女性雑誌のグラビアを飾ったこともある、
肌理の細かい清らかに澄んだ美女で、和装がぴったりの古風な美しさを持っている、
川田は、生花界の主導権が欲しい、前衛華道湖月流の大塚順子から、
かなりの手数料を約束されて、美沙江をこの世から抹殺してくれと依頼される、
殺すくらいなら、<田代屋敷>へ拉致することが得策とされる、
<折原珠江>、
三十一歳、千原美沙江の後援者、夫は医学博士、色白で細身の艶麗な体つき、
容貌は細面の硬質陶器のような冷やかさを含んだ繊細な美しさを持っている、
静子夫人とは、親しい間柄、キリスト教者、
一方の<蛇>に属する主要人物は、次の通りである、
<川田一夫>
遠山家の運転手、以前は、東京で女をものにして稼ぐ専門の愚連隊だった、
大儲けをしようと遠山家へ住み込み、銀子と共謀して、
静子夫人の誘拐計画を立て、実行の機会を狙っていた、
<銀子>
ジーパンをはき、頭髪を赤く染めた小柄な女、
桂子を蹴落として、葉桜団の新首領となる、
川田とは東京時代よりの旧知の間柄、手下には、悦子、朱美、義子、マリがいる、
<川田千代>
三十歳、三角眼で頬骨が出っぱり、おかめにあらずひょっとこに近い醜女、
川田の妹で遠山家の女中、
静子夫人を誘拐された遠山隆義が発狂して、千代と肉体関係をを結び、
彼女を静子の後妻としたことで、遠山家の相続の権利を得て
夫人に対する、残忍で執拗な加虐的な態度が花開き、
<田代屋敷>において、他の者にも一目置かれる存在となる、
<田代一平>
豪壮な<田代屋敷>に暮らす実業家、
或る土地の落札で、遠山隆義の横槍から儲けを失った恨みを抱いている、
その後、社会事業団体の慈善パーティで、
遠山が連れ添っている新婚の静子夫人を見かけている、
数回結婚しているが、変質的なために妻に逃げられ、独身である五十歳、
<森田幹造>
<田代屋敷>の一部を借りて、秘密ショー、秘密写真製造を業とする、
森田組という暴力団の組長、
赤銅色の肌をした全身に刺青をして、その一物は馬並みとされる、
手下には、吉村、井上、吉沢、山田がいる
<井沢>
千代の知り合い、キザな縁なし眼鏡をかけた自称弁護士を名乗る、
酒と女とバクチで、半分身を持ちくずし、
事務所も借金の抵当に入れているが、頭はなかなかきれる男、
<大塚順子>
四十二歳、前衛華道湖月流の家元、川田千代とは娘時代からの親しい間柄、
千原美沙江を亡きものとして、生花界の主導権を握る野望を抱いている、
<山内>
四十歳、もぐりの産婦人科医師、色の赤黒い肩幅の広い男で飲んだくれ
酒に濁った白眼勝ちの眼はどこか狡猾そうな、
それでいてどこか寂寞とした翳りを宿している。
かつて、九州にある広大な山林を遠山隆義に売りつけようとした詐欺を働いている、
遠山家へ赴いたとき、静子夫人を見初める、
夫人が妊娠するための人工授精を施す、
<蛇>に属するなかで、<悦子>という存在だけは、
静子夫人に深い同情を寄せるという曖昧さをあらわすことにあるが、
その行動は、上から命じられたことへ従属しているということでしかない、
<花>に属する一般社会における、
嘘・でたらめ・騙りに引っかかりやすい、良識ある善良な人々、
<蛇>に属する、悪質・残忍・非道の行為を生業とする反社会的勢力の敵対者たち、
この正反対に位置する両者が対峙して、行われる様々の所業を通して、
二極間の対立が明確な構図として示されるという人物設定である、
分かりやすいと言えば、分かりやすい、
この分かりやすさに依って、登場人物の<二元>は、
<蛇という支配者>と<花という被支配者>の関係を鮮明とさせる、
隔離された閉鎖空間である、<田代屋敷>で行われる物語の時間経過は、
拉致された<花>の身代金要求が成し遂げられた後は、
<花>は<蛇>に奉仕する<性奴隷>となるための性的調教を受けるという筋立てである、
<支配者>に依って<性奴隷>が秘密ショーや秘密写真の生産において使役され、
<支配者>のために、生涯を通じて、金銭を稼ぎ出す身上とされることにある、
この<上下関係に依る階層的体系>にあることは、
専制国家の圧制にある国民の<象徴>を読み取ることができれば、
そこには<革命>が必然的な要求としてあることになるが、
<革命>を夢想して挫折した人々にとっては、<革命>はあり得ないという意義において、
<花>があらわす、被虐に晒される現状をむしろ悦びに変えるという成り行きは、
<隷属することは、悦びである>を<教導>されることを性的快感とさせることへ向かわせる、
更には、静子夫人のマゾヒズムを共感することからは、<自虐観>も生まれることになり、
惨敗という敗戦と被支配的戦後、日米安全保障条約破棄の挫折、
アメリカ合衆国従属の政治・経済に対して、<自虐観>に依って状況を見ることをしなければ、
性的快感がもたらされないというありようへ導かれることへ至ったと見ることも可能である、
日本国家の存立に対して、<自虐史観>が作り出されたことの自然経過である、
何故ならば、性欲と性的官能は、常時活動しているものであって、
思考作用へ関与するという見解からは、性的快感を求めることは、
思考作用としての整合性に快感を求めることに同調する以上、
<自虐>のありようが快感であれば、<自虐観>という思考作用は整合性的に快感であり、
そこからは、隷属にある状況からの<自虐史観>を作り出すことが同様の快感となる、
静子夫人の<教導>の説得力というのは、
人間の生への欲求である性欲と性的官能へ働きかけるという意義で根源的である、
しかも、その根源的働きかけは、<花>と<蛇>という<二元>があらわす、
両者における関係を露骨なものとする表現と相乗効果をあらわしながら、物語に終始する、
その関係とは、<相違・格差・差別>である、
<花>が所有するみずからの存在理由となる価値と価値観は、
<蛇>が所有するみずからの存在理由となる価値と価値観との対比において、
<相違・格差・差別>が厳然とあることが両者の関係を作り出しているという状況である、
<蛇>に依る<加虐・虐待・いじめ>というありようは、
<花>の肉体的・精神的の双方に対して、<嫌悪・忌避・拒否>を煽情する目的で、
<花>の所有する<正>の価値と価値観を<反>とする言葉と行動に依って遂行される、
衣服や装飾品の着用が人間性や身分の証明とされることにあれば、
<花>は、一糸もまとわない全裸とされることにあって、人間に対する畜生の境遇において、
全裸を縄で縛り上げられて繋がれるという姿を日常生活とされ、檻や牢舎が寝所となる、
<花>の価値は、その所有する財産・権利・衣服・装飾品等に依ることにあれば、
それらは、金銭としてすべて剥奪され、無一文の裸一貫の状態にあっては、
陰部が金銭となることからは、<花>の恥毛も、代金として剃毛され奪われる、
社会生活の常識において、<屈辱・恥辱・汚辱>と見なされる事柄、
他人には見られたくない、みずからだけの秘匿の部位・行為・状態とされる、
女性の陰部の陰核・尿口・膣・肛門と男性の陰茎・肛門、
それらをあからさまとさせた、男女の性交、或いは、自慰行為、及び、
大便・小便の排泄は、張形や浣腸器具が強制的に使用され、人前へ晒されることにある、
夫婦・親子・兄弟姉妹・友人・師弟という親密さと信頼にある人間関係においても、
常識的な社会関係は<反>とされ、同性愛・肛門性交を強制されることになる、
これらの虐待行為が行われるとき、<花>における<正>の価値観の全面否定を目的として、
<相違・格差・差別>をあらわす言葉が<蛇>に依って述べられることにあるが、
それは、真意・善行・美現・富裕・教養・社会的地位に始まり人種差別にまで至ることにある、
<二元>が明瞭とされるだけ、<相違・格差・差別>は露骨なものとなり、
<加虐・虐待・いじめ>は、両者の<二元>こそが根拠であると把握させることにある、
では、その<二元>が根拠となる<加虐・虐待・いじめ>は、
どのような動機にあることなのか、それも、物語には明確に示されている。

<物語の結構>を造形する要素の二つめである、<単一動機>である、
<恋慕・羨望・嫉妬>から生まれるものは<嫌悪・憎悪・復讐>である、
人間存在には、この情動が備わっているとする、<単一動機>である、
ここにも、<二元>の相対があることを読み取ることができるが、
<花>に対する、<蛇>の<加虐・虐待・いじめ>の<動機>として、
一筋となって、物語に貫かれていることにある、
人間はこの<動機>に依って対人関係を作り出す、という見解自体は特別なものではない、
人間を描くとする文学作品にあれば、人種と民族と国家を問わずに、
世界的に普遍な題材となる、<動機>と言えることにある、
従って、その<動機>を表現することは、むしろ、文学的でさえある、
特異な点は、この一つの<動機>以外に人間観が表現されないという点である、
言い方を変えれば、そこには、考え抜かれた末の深い洞察があるわけではなく、
人間の性欲と性的官能の活動が単純であれば、人間の情動という<動機>も単純である、
このような単純な見解として示されていることにあるのではないかと見ることができれば、
<単純な肉体的活動と単純な精神的活動>というありようにおいて、
人間を明確に<肉体と精神>の<二元の相対>にある存在として見ていることが理解できる、
<肉欲>としての性欲と性的官能の活動をその激しさゆえに、
<精神>は抑えることことができない、
何故ならば、<肉欲>は、みずからの生への欲求をあらわし、同時に、
種族の保存・維持のために子孫を作り出す欲求をあらわすものにあるからである、
抑え切れない<肉欲>は、<神仏>を敬うことができる<精神>を<善>にあるとすれば、
ひたすら絶頂の快感を求める<悪>の<肉体>と見なされるという<二元>となる、
そこで、この<肉体と精神>という<二元>に基づいていることからは、
<善>なる<精神>は、<恋慕・羨望・嫉妬>を抱くことからは、
<悪>なる<肉体>対して、<嫌悪・憎悪・復讐>が成されるということの道理が生まれる、
<精神>の堕落は<肉体>への懲罰をもって戒められるというありようは、
人種と民族を問わずに、宗教へ依拠する人間の普遍的行為でさえある、そこで、
<蛇>の<精神>は<花>の<肉体>を<加虐・虐待・いじめ>に晒すという道理が成立する、
<恋慕・羨望・嫉妬>から生まれるものは<嫌悪・憎悪・復讐>である、
という<単一動機>に対しては、違和感を感じさせられるどころか、
むしろ、<加虐・虐待・いじめ>の正当性を納得させられるということになる、
このありようを<サディズム・マゾヒズム>という人間の性的属性にあるとして、
<性的倒錯>にあることの特殊な例外と見なすことは可能であるが、
過度の<加虐・虐待・いじめ>の正当性が認識されていることに変わりはない、
<加虐・虐待・いじめ>の正当性の提唱にある表現ということになるわけであるが、
この<加虐・虐待・いじめ>の正当性は、日本民族としてのありようにおいて、
決定的ともされる、ひとつの理論的背景と結び付くことにあると、
<恋慕・羨望・嫉妬>から生まれるものは<嫌悪・憎悪・復讐>であることは、
その具現される言葉と行為は<加虐・虐待・いじめ>となることを必然とさせることにある、
人間には、<観念による自然観照の合理的表現>、及び、
<感情による自然観照の情緒的表現>という知覚作用がある、
本居宣長は、<もののあはれ>という理論を提唱して、日本民族に属する者は、
<感情による自然観照の情緒的表現>が主潮となることを明らかとした、
それは、日本民族の<自主・独立・固有の知覚>にあることの存在理由であり、
天皇と神道が精神的基調となることで成立する、信仰とされるものであった、
幕末の政変を経て、明治維新に依って、日本国家が諸外国と向き合ったとき、
先進国であった西洋諸国とアメリカ合衆国に対して、天皇を元首とする明治政府は、
日本民族の<対外主権>を明らかとするために、日本民族の出自の明確さを必要とした、
本居宣長の<もののあはれと天皇・神道崇拝>は、根拠と成り得る<思想>であった、
それは、また、日本国家が<もののあはれの呪縛>という緊縛へ置かれたことでもあった、
<もののあはれ>に依って、日本国家がひたすら対外戦争へ向かう成り行きは、
<感情による自然観照の情緒的表現>と<天皇・神道崇拝>を基調とする、
<情緒的戦争行為>は、どのような結果を生むことになるかを試されたことであった、
結果は、多大の戦死者と餓死者を生み、国土を焦土と化される、無条件降伏の惨敗だった、
しかしながら、戦争が敗戦で区切りがついたことは、
<もののあはれの呪縛>から解き放たれたということではない、戦後復興においても、
<感情による自然観照の情緒的表現>と<天皇・神道崇拝>は、厳然としていた、
日本民族には、<もののあはれ>に取って代わる、民族思想があり得ないという事態は、
<自主・独立・固有の知覚>をあらわす自意識がそれしかないという状況を露呈させる、
<もののあはれの呪縛>のままにあった状況は、あたかも、戦後の自由を謳歌するように、
<西洋思想>の変遷へ追従して、哲学・思想・文学・音楽・美術他のあらゆる分野において、
時代の潮流となる、折々の烈風の影響を受けながら、様々な提唱を導入することをさせたが、
いずれにあっても、日本民族思想と成るまでに成長することは、あり得なかった、
それは、当然である、民族思想とは、その民族がみずから創出するものであるからだが、
世界の最先端を行く、<西洋思想>が停滞する時期に至っては、
<隷属・受容・翻案体質>をもって、追従することの可能な対象を見失った、日本民族は、
<ものあはれ>を評価する以外に、自意識を確立させる方途が見い出せない現実、
<もののあはれの呪縛>にあることを思い知らされることになるわけであるが、
<もののあはれ・天皇・神道>は、<民族の創始以来の一途>にあることである、
ということであれば、むしろ、その状態にあることは、大気や水のように自然である、
相反・矛盾・煩悶となるようなことではない、と考えることができれば、
<もののあはれ・天皇・神道>の体制が厳然とある事実は、
<靖国神社>へ参拝に行くことのない者でも、近所の神社には参拝するという慣習において、
むしろ、<自主・独立・固有の知覚>にある自意識を殊更に問題視することではなかった、
締結されている<日米安全保障条約>に依って、アメリカ合衆国の軍事基地は、
日本国内に132も存在する以上、その傘の下に守られていることは、殊更に、
<自主・独立・固有の知覚>に依る<対外主権>の問題意識は、希薄な事柄でしかなかった、
従って、<もののあはれの呪縛>は、現在、<憲法改正>へ邁進するという方途も、
<民族の創始以来の一途>のあらわれである、<天皇・神道>崇拝を基調とすることにある、
それが国民の総意にあることなのか否かは、調査が行われないので、不明の事柄である、
このような背景を踏まえると、『花と蛇』の物語があらわす<単一動機>というのは、
明治維新以降の日本文学史にあって、必然的な経過としての表現にあることだと言える、
本居宣長が物語としての最高の評価を与えた作品は、『源氏物語』である、
『源氏物語』の表現と結構から、<もののあはれ>と称されるありようが導き出された、
<もののあはれ>は、人間の情動としての<喜怒哀楽>、
更には、<恋慕・羨望・嫉妬>から作り出されるものにあるということにおいて、
『源氏物語』に登場する、数多の人物が織り成す人間模様は、
<感情による自然観照の情緒的表現>が明確に示されているということにある、
物語表現としての日本文学は、『源氏物語』より始まるとされることは、
<もののあはれ>の提唱に対抗する、文学理論の提唱があり得ない限りは、
現代にまで至る、小説を含む、物語表現としてのすべての日本文学は、
<もののあはれ>、即ち、<喜怒哀楽・恋慕・羨望・嫉妬>という情動を主潮とすることで、
日本文学の長い伝統を維持してきたことにあったと見ることができる、
その観点からは、『花と蛇』の物語も、<もののあはれ>のひとつの例証に過ぎないことになる、
『源氏物語』は<性愛の文学>である、『花と蛇』も<性愛の文学>である、
両者は、<性愛の文学>という共通項があるばかりでなく、
<感情による自然観照の情緒的表現>においても、同様なものとしてある、
『花と蛇』の物語があらわす<単一動機>である、
<恋慕・羨望・嫉妬から生まれるものは、嫌悪・憎悪・復讐である>というありようは、
『源氏物語』より始まる、<もののあはれ>を<一筋の伝統>として見ることができれば、
<加虐・虐待・いじめを正当化する>という<ひとつの帰着>へ至ったことがあらわされている、
そのように見なすことができる、
<ひとつの帰着>と言っているのは、それ以上の先がないという意義である、
現在の日本国家にあって、様々の世代・状況・事情において、
<加虐・虐待・いじめ>が露骨に現象化するという事態は、
<ひとつの帰着>がそれ以上の先の展開をもたらさないということからは、
依然として解き放たれることのない、<もののあはれの呪縛>にあることだと言える、
『花と蛇』の<単一動機>があらわす、<加虐・虐待・いじめ>の正当化の提唱は、
そのありようを<正当>と感受することが可能な限り、終わりのないことは、
『花と蛇』の<物語の結構>が<結>をあらわさないありようと同義にあることである、
従って、あり続けるのは、<執拗な反復>となるのである。

<二元性>と<単一動機>から成立する物語表現を決定付けているのは、
<物語の結構>を造形する要素の三つめとなる、<執拗な反復>ということにある、
<蛇>の<花>に対する、<加虐・虐待・いじめ>の<執拗な反復>は、
<花>が秘密ショーや秘密写真の出演者となるために訓練される、<性的調教>において、
言葉と行為の暴力に依ってあらわされる、
<蛇>が<支配者>である以上、奴隷の身上にある<被支配者>は、
生のある限り、<加虐・虐待・いじめ>の<執拗な反復>に晒され続ける、
静子夫人に<象徴>されるように、人工授精で妊娠した奴隷は、生まれた子供においても、
同様に奴隷の身分として、<支配者>へ奉仕することが責務とされる、
<田代屋敷>における、これが<被支配者>の置かれる、
<上下関係に依る階層的体系>の位置付けである、
つまり、<執拗な反復>は、<加虐・虐待・いじめ>の暴力行為としてあるばかりでなく、
世代として継承される、身分においても定められているということが示されている、
『花と蛇』の物語に<結>が存在しないということは、必然のありようなのである、
その意義は、世代が断絶しない限り、永遠に続く事象にあるということであり、
<万世一系>と言える、生まれと身分と継承のあることが決定付けられることにある、
<起>は、出来事の発端をあらわし、<承>は、その成り行きをあらわし、
<転>は、展開をあらわし、<結>は、全体を結ぶ
という物事の順序が組み立てられることは、
整合性を求める思考作用の活動を快感をもって進めさせることにある、
物語の筋立ては、<起・承・転・結>という一筋の整合性があらわされることで、
精神的浄化さえもたらされることにあるが、その<結>が存在しないということは、
論理の整合性を求められないことにある、<結>は<未完>をあらわすものとなる、
<万世一系>の継承・維持は、<未完>であるからこそ成立するありようである、
<執拗な反復>があるからこそ、磐石の体制として示されるのである、
倒幕に依る明治維新は<起>であった、
明治政府の樹立は<承>であった、
対外戦争を開始して繰り返した施政は<転>であった、
対外戦争の終結は無条件降伏に依る惨敗であったことは<結>となったことであった、
この論理の整合性からすれば、一国の元首であり統帥権を持っていた、
天皇という存在は、その<起・承・転・結>において、完結される存立としてあったと言える、
にもかかわらず、そこに<結>が存在しないということは、
天皇という存在の<未完>の<不明>があらわされていることでしかない、
それは、<人間天皇>でありながら、その存在は、<象徴>とされるということにある、
<人間でありながら象徴>とは、
<生死が具象としてある人間>でありながら、<象徴という抽象としてある人間>、
つまり、幽霊のような実態のないものでありながら人間であるという幻想的存在である、
そのことが<憲法>に依って定められているのであるから、
<日本国憲法>というのは、神代と伝承を幻想させる、『古事記』の雰囲気を漂わせる、
しかしながら、<感情による自然観照の情緒的表現>を主潮とする、日本民族は、
論理の整合性が主眼となる、<観念による自然観照の合理的表現>を二の次とする、
<憲法改正>の議論にあっても、天皇の<結>を問題にすることはない、
<天皇制廃止>の意見があっても然るべきであるが、<生前退位>が問題とされる、
黒澤明の『七人の侍』という映画の中で、村を守るためにやってくる侍たちに対して、
溺愛する娘が侍に心を奪われることが心配だと語る、村人に向かって、長老の述べる台詞は、
<のぶせりくるだぞお、首が飛ぶというのに、髭の心配をしてどうするだあ>というものである、
国内外からの様々の問題が鬱積して、国家の危機が迫っているというときに、
そこに居住する人間ではなく、幽霊の実在を心配しても意味がないという喩えとして受け取れる、
もっとも、国家が危機に瀕していると言っても、毎日三度の食事と衣服と住居に困らなければ、
危機など穿ち過ぎだとして、他人事のように考えるということも可能である、
<もののあはれ>という<感情による自然観照の情緒的表現>の知覚作用は、
状況を情緒で判断することを主眼としている、
重要なことは、向き合っている対象に感動はあるか、喜怒哀楽を惹起されるものにあるか、
詰まるところは、恋慕・羨望・嫉妬で済ませられる事態にあるかということにある、
情緒は、それ以上のものを求めさせない、
みずからの安全・安心が脅かされる事態に至った場合は、
嫌悪・憎悪・復讐へ導かれて対処すればよいだけのことである、
<感情による自然観照の情緒的表現>は、知覚作用に依るものである、
<単一動機>にあれば、素直・率直・真摯な態度としてあらわれることは、状況に対して、
可能な限りの情報収集、その綿密な分析、その適切な行動における考察を不得手とする、
快・不快が情報収集であり、感情を逆撫でされればぶち切れる、
思い立ったらすぐに行動を起こすが、感情を共有できる、集団的行動が常道である、
<蛇>は、集団となって、<花>を<加虐・虐待・いじめ>の<執拗な反復>に晒す、
この常道は、家庭内の虐待も、学校内のいじめも、職場内の加虐も、同様にある、
このような事態は、日本民族の<感情による自然観照の情緒的表現>において、
月並みで常識的な当然性にあるありようだと見なすことにあるとすれば、
それは、もはや、人間的事象を自然現象のように捉えているということである、
人間の情動は、自然現象の移り変わりと同様である、
度重なる台風・地震・津波・火山活動といった災害に見舞われる状況が自然であるように、
みずからの意思で制御することの困難な人間の情動は、
そうした状況へ居住して生活を続ける以上、皆が同様にあるように、致し方のないことである、
置かれた状況へ<隷属・受容・翻案体質>が働くのである、
<花>は、晒される<加虐・虐待・いじめ>の状況を忍耐するよりも、
その過酷な状況にあることを悦びに変えることを求める、
日本民族に備わる<隷属・受容・翻案体質>は、
<感情による自然観照の情緒的表現>と不可分にある、
<感情による自然観照の情緒的表現>は、
<喜怒哀楽・恋慕・羨望・嫉妬>と不可分にある、
<恋慕・羨望・嫉妬>が<嫌悪・憎悪・復讐>と不可分にあることは、
<嫌悪・憎悪・復讐>は<加虐・虐待・いじめ>と不可分になる、
<隷属・受容・翻案体質>は、<加虐・虐待・いじめ>をもたらすことの所以である、
<もののあはれの呪縛>を超克して、
<自主・独立・固有の知覚>にある自意識を確立することは、必須の事態としてある、
それが果たせない限り、日本民族は、<加虐・虐待・いじめ>を正当化する者である、
同じことが繰り返される事態に対して、人間は、飽きるか、辟易する、
同じことが繰り返される事態に対して、同じように繰り返して接することの可能は、
事態が<起・承・転・結>という整合性をあらわしているか、或いは、
<執拗な反復>が受容者の意識を麻痺させる場合である、
どのように<単一・単純・単調>な事柄であっても、
<執拗な反復>があれば、それは、受容する者の意識を麻痺させる、
意義のない事柄であっても、意義のあるような錯誤へ陥れられる、
洗脳ということが成り立つための方法にあることである、
<多種・多様・多義>にあることの必要は、
<執拗な反復>の<単一・単純・単調>の超克があらわされることである、
にもかかわらず、<国民総何々>と<一義>にする国家の政策が頻発すれば、
<単一・単純・単調>の意義が<執拗な反復>となることでしかない、
それは、極めて閉塞する状況がもたらされることにある、
だが、閉塞する状況にあるからと言って、悔やむこともないありようを示してくれる、
全裸を縄で緊縛された、静子夫人は、
置かれている状況へ<隷属することは、悦びである>という方法を<教導>してくれる。


*上記の≪ ≫内は、団鬼六著『花と蛇』より引用


(2016年12月3日 脱稿)




☆13.縄による緊縛という結びの思想・四十八手 (27)

☆13.縄による緊縛という結びの思想・四十八手 (25)

☆縄による日本の緊縛