13.縄による緊縛という結びの思想・四十八手 (23) <性奴>となる家畜化 借金返済で弁護士に相談



縄による緊縛という結びの思想・四十八手

(23)  <性奴>となる家畜化





<美しい国 日本>とは、全裸の緊縛美の姿態が意義されることでしかなかった……
<自称最高指揮官>の幼少時における、この認識体験は、彼の固有の出来事にあったと見なすには、
<全裸の緊縛美の姿態>は、もはや、<日本文化>であると称する現状からすると、
日本国家においては、月並みな個人的体験に過ぎないことにある、
実際、彼が二十歳の成人となった1974年、縄による緊縛の女体虐待とされる、<SM>表現は、
団鬼六の原作に依る、日活ロマンポルノの『花と蛇』が公開された年にあたる、
その映画作品を皮切りとして、<SM>が社会へ露出し始め、その後、浸透していったという経過を踏まえると、
月並みな認識体験という意義は、<全裸の緊縛美の姿態>と遭遇する機会さえあれば、
日本国家に居住する者としては、老若男女の区別なしにあり得ることにあって、
その事象と出合うか出合わないかという相違でしかない状況があらわされていることにある、
言い方を換えれば、<自称最高指揮官>が二十歳の成人になるまでに受けた<教育>というものは、
<全裸の緊縛美の姿態は、SMを意義するものにある>とされる状況が示唆されることにある、
この<SM>の意義というものは、日本国家においては、固有の意義をあらわすものにある、
それは、<和製SM>というものである。
<サディズム・マゾヒズムの概念>は、加虐嗜好というサディズム、及び、被虐嗜好というマゾヒズム、
この両者が性的欲求に従って行われる人間の自己表現に顕現するという見解である、
虐待すれば、それだけ、性的官能を高ぶらされる、虐待されれば、それだけ、性的官能を高ぶらされる、
虐待行為が激しさを増せば、それだけ、性的官能の快感がもたらされ、絶頂へ至るというありようである、
人間が人間を虐待するという行為を性的欲求のあらわれと見なした、クラフト=エビングの見解は卓抜であった、
虐待表現を<サディズム・マゾヒズムの概念>以上の認識として考察することを困難とさせるものがあるからである、
人間の虐待行為は、老若男女において、様々な形態をあらわしていることにあるが、その最高の形態においては、
人類の救済と至福を見い出すことにまで至るという宗教的認識にあることは、それ以上の考察を許容させないのである、
つまり、神の存在の認識である、イエス・キリストの処刑という形態である、
皮の裂けるまでの鞭打ちが行われ、茨の冠を被せられ、処刑場までみずからを磔とする十字架を背負わされ、
腰巻ひとつの半裸という恥辱の姿で、両手両足へ釘を打ち込まれて、死に至るまでの磔刑に晒され続ける、
この虐待行為の極限において、人類の救済と至福がもたらされる、歓喜の絶頂があることが示されるという表現にある、
クラフト=エビングは、性科学の見解として提唱したことにあるから、宗教性をあらわすことにはない、
だが、その民族にとって、そのありようの<宗教性>は当然の事柄としてあれば、言及されるまでもないことにある、
<SM>の語源となった、<S>を意義する、マルキ・ド・サドは、<宗教性>を超越する、
<食欲・知欲・性欲・殺傷欲>という<四つの欲求>にある人間性としての表現を成し得たという意義において、
<M>を意義する、ザッヘル・マゾッホは、主人と奴隷という支配と被支配の<宗教性>を露見させた表現において、
共に、キリスト教を根拠としての性欲と性的官能の表現を提示しているということは、事実でしかない、
それは、ポーリーヌ・レアージュの<SM>表現においても、見事に継承されている、
<西洋思想>において、<SM>の意義は、虐待行為の極限において、歓喜の絶頂があることが示される、
その自主・独立・固有の知覚を示すありようを<主体意識>とする認識が神的認識と明示されていることにある、
それを人間に備わる属性であるとされるならば、人類の救済と至福がもたらされる、伝道表現ということになる、
これが<サディズム・マゾヒズムの概念>の<本質>と言えるものであるが、
性科学の見解として提唱されることにあれば、<宗教性>は差し引かれるべきであるとされて、
性的欲求に従って行われる人間の自己表現に顕現する事象という科学的見地として示されるという意義になる、
日本民族は、その<科学的見地>に基づいた人間の性の理解ということで、
明治27年(1894年)、<SMの概念>を導入した、その<本質>を熟考することはせずに、
性的欲求に従って行われる自己表現に顕現する事象ということに留まったということでは、<科学的見地>にあった、
しかしながら、昭和20年(1945年)、大東亜・太平洋戦争の敗戦という事態は、
その<科学的見地>を固有の意義をあらすものへと変質させる契機となることにあった、
先進をあらわす異民族・外国の<独創的表現>を日本民族にある<翻案体質>に依って、
<独創的表現>の本質的意義については、そのままに従いながら、表現を<日本的なもの>とすることにおいて、
異民族・外国の先進思想や表現を単に模倣しているのではなく、
<日本的なもの>とすることで、表現の自負を得るという<和製何々>と称されるものがある、
その一つである、<和製SM>という日本固有のものを作らせるに至らせたことであった、
この<和製SM>の意義は、
団鬼六の『花と蛇』(1962年〜1975年)という小説作品において典型的にあらわされていることにあるが、
語弊のないように、<和製SM>は、団鬼六自身が作り出したことでも提唱したことでもない、
むしろ、作者自身は、<こんな本を書いて、作家と呼ばれるのは不本意だ>と言ったくらいであるから、
<和製SM>の啓蒙者にあるとされることは侮辱であると反発を感じたことであったかもしれない、
しかしながら、他に数多ある、<和製何々>と称されるありようと同様に、
大衆の経済需要を喚起するための流行の必要から、作家も相乗効果で収入を得ることの仕組みにあり、
<幻想>を共有することで<主体意識>となる<大衆の意識>が作り出されるものにあるということは事実である、
<縛られた美女が恥らう様子がエロチシズムだ>という発想に依って、団鬼六は、作品創作を行ったことにあるが、
この発想は、伊藤晴雨に依って始められ、須磨利之に引き継がれ、団鬼六が継承したものとして、
<和製SM>とは、縄による緊縛によって女性が被虐に晒されるありさまを主要な題材として、
その命題は、<隷属することは、悦びである>ということが示されることにある、
<SMの概念>の認識において、この唯一性の概念において、
『花と蛇』は、この命題を日本国民へ知らしめた啓蒙書という意義にあることである、
縄による緊縛によって被虐に晒されるありさまに置かれながら、絶対に逃げ出すことのできない主体者は、
その状況が作り出す体制へ隷属することで、被虐に晒されるありさまを進んで受け容れることに従って、
<生き抜く手段>を可能とさせる、被虐に悦びを覚えるというマゾヒズムを身上とするありよう、
<和製SM>の正当性は、この<生き抜く手段>が実際の生活にあって有効性を持ったということにおいて、
<幻想>を共有する<主体意識>が<大衆の意識>となる人気と流行を喚起させたものであった、
<縄による緊縛によって被虐に晒されるありさまに置かれながら、絶対に逃げ出すことのできない>主体者とは、
日本国民である、国家が大東亜・太平洋戦争に敗戦して、戦勝国である連合国軍の占領下に置かれ、
GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)を主導するアメリカ合衆国の統治下において、
<WGIP 戦争犯罪を自責するための情報計画>に依る、
<戦争を罪悪とする認識><大東亜戦争をもたらした日本民族思想の否定>という認識を前提として、
<アメリカによって形作られた政治・経済・文化>を模範とした<民主主義>の国家体制作りのために、
徹底した情報検閲が行われたという緊縛によって、被虐に晒されるありさまに置かれながら、
絶対に逃げ出すことのできない状況にあって、<生き抜く手段>を可能とさせるには、
その被虐に悦びを覚えるというマゾヒズムを身上とするありようが正当であるという<幻想>であった、
<日本的なもの>に対する<自虐史観>が正当化されるために必要不可欠だった、主体者の身上であった、
『花と蛇』は、その啓蒙の役割を果たしたということである、
いや、『花と蛇』は、秘密裡に読まれる猥褻表現の示された、単なる官能小説に過ぎないという見解に立てば、
その作品を賞賛してきた数多の評価があらわしたように、叙情性のある、日本的性文学である、
その豊かな表現においては、主人公の静子夫人を類稀なる絶世の美女に始まり菩薩と見立てるまでに至らせる、
<感情による自然観照の情緒的表現>を主潮とする、日本文学の伝統へ連なる、作品の一つである、
しかしながら、『花と蛇』は、秘密裡に読まれ続けるものではなかった、
被虐に悦びを覚えるというマゾヒズムを身上とするありようにある国民となることは、
その悦びは、類稀なる<高度経済成長>がもたらされるというありようと引き換えであったことは、
『花と蛇』が秘密裡でなくなり、世間一般へ露呈していく経過と<国民総生産 世界第二位>をあらわす国家の成長は、
平行関係を示していることから察することができる、それは、見城徹の正鵠を得た指摘にあるように、
「高度成長期に必死で働く国民を表で応援したのが司馬遼太郎だとすると、
裏で支えたのは団鬼六だ(2011年6月18日 讀賣新聞)」とされることは、
『花と蛇』は単なる猥褻小説以上の存在理由をあらわしていることが意義されることにある、
団鬼六自身は、官能小説作家であることを卑下していたことにあったとしても、
その表現を受容した、高度成長期に必死で働く国民にとって、
特に、アメリカ合衆国の影響下にある、<民主主義>に依る<戦後教育>された、団塊の世代にとっては、
みずからの存在理由を正当化できる、実践的な啓蒙書となることにあった、
<縛られた美女が恥らう様子がエロチシズムだ>という表現は、
精神(思想)においてばかりでなく、肉体(陰部)においても、自慰行為を可能とさせる対象となることであった、
司馬遼太郎が明治維新という変革期を捉えて、それこそが<日本的な>精神的表現の発露であるとして、
大東亜・太平洋戦争に敗戦した大衆の意思を<立ち上がれ>とした小説作品で人気を得たように、
団鬼六にあっては、その敗戦に依ってもたらされた、占領国軍であるアメリカ合衆国が主導する思想下に置かれて、
被支配・被虐・隷属という状況においては、抵抗・反抗・革命は実を結ぶことのない願望・妄想であって、
その苦渋の状況を甘受するというのではなく、経済的愉悦という<高度経済成長>と引き換えにしては、
<隷属することは、悦びである>ということを正当性とするマゾヒズムを<日本的な立ち上がれ>とすることに依って、
大衆の陰部が鼓舞される小説作品が人気を得たということであった、
大東亜・太平洋戦争の敗戦がもたらした日本国家の存立に対して、<自虐史観>を抱くということは、
それがなければ、<高度経済成長>は果たし得ないという認識に置かれる、同時性ということであった、
日本国家がアメリカ合衆国に対して、<高度経済成長>と引き換えに、対米従属の道を歩み出したことは、
ポツダム宣言の受諾を終えて、サンフランシスコ講和条約(1951年)において、自立の道を歩み出すという意義は、
同時に、日本国内にアメリカ合衆国の軍事施設が多数存在し続けるという<日米安全保障条約>の締結にあって、
自立の意思と対米従属の状況、米国思想の被支配・被虐・隷属と自国の<高度経済成長>による経済的愉悦、
双方の相反・矛盾を自己統一するという哲学的問題へ置かれることであった、それは、現在も変わらない、
条約改正に反対する、大規模な六十年安保闘争(1959年〜60年)は、条約破棄を求めたが果たし得なかった、
被支配・被虐・隷属の意識から脱却することはできなかった、
更に、七十年安保闘争(1970年)においても、再び、条約破棄を果たせなかった、
混乱した学生運動もあった、この抵抗・反抗・革命の無力感において、
置かれた相反・矛盾する状況へ<隷属することは、悦びである>ということは正当性を帯びるものとなったのである、
『花と蛇』は、1962年、『奇譚クラブ』で連載が始まり、後に掲載誌を変え、1975年、『アブハンター』で完結する、
この連載期間が六十年と七十年の安保闘争によってもたらされた<大衆の意識>と平行していることは、
日活ロマンポルノの『花と蛇』が公開された、1974年に始まる、<SM>の社会への露出は、
その後、浸透していき、<SM>が異常性愛であるという概念を<正常>とさえ見なせるくらいに、
新聞・テレビ放送・雑誌・映画・コミックス・アニメ・ゲーム・小説・論文・他諸々と表現されるに至ることで示される、
団鬼六にとっては、<縛られた美女が恥らう様子がエロチシズムだ>ということに過ぎなかったことが、
受容する読者の意識にあっては、日本国民を正当性とさせるエロチシズムとなったことであった、
団鬼六の知性よりも、それを評価する団塊の世代の知性の方が優勢であったことは、
<戦後の被支配下>へ置かれ続けていることは、決して超克できない、
それならば、<生き抜く手段>は、<隷属することは、悦びである>という主体意識において、
<自虐史観>に悦びを覚えるマゾヒストになり、
世界第二位の経済大国にあれば、屈辱でも、恥辱でも、汚辱でもないという自己意識となることにあった、
団鬼六は、大衆が喜ぶものであれば積極的に表現するという優れた大衆小説家であった、
その積極的に表現される作品が文学や映像に依って増えれば増えるほど、<団鬼六>が一般化すればするほど、
それを鑑賞する、多数にある国民の正当性は、根拠が確実なものとされる流れへと導かれたことであった、
『花と蛇』が普遍化することは、大衆は、その<共有する幻想>にあってこそ、経済的に豊かな国民となる、
日本人としての自主・独立・固有の知覚を示すありようなどという妄想には意義がない、
アメリカ合衆国の統治下にある、<田代屋敷>に監禁され続けているからこそ、
衣食住に困らず、適度の知性と適度の感性で、
西洋の先進的思想・表現へ隷属していることが<生き抜く手段>となることが示されたありようであった、
<敗戦の事実>と<戦後の被支配下>という状況が存在しなければ、
団鬼六の『花と蛇』は生まれなかった、<和製SM>というものも作り出されることはなかった、
敗戦の事実に依る<敗者の意識>と<戦後の被支配下>に依ってもたらされた<戦後教育>は、
『花と蛇』という小説の<正当性>を認識させる根拠となっていることにある、
言い方を換えれば、戦後七十年を経過した現在においても、
『花と蛇』という小説の<正当性>が評価されることであれば、
<戦後教育>は持続していることであり、<GHQに依る戦後の被支配下>は継続していることであり、
<隷属することは、悦びである>とする<敗者の意識>は抱き続けられている事態にあると言えることにある、
七十年間に行われた世代交代があったとしても、見事に継承されている、<大衆意識>として存在していることにある、
<自称最高指揮官>が二十歳の成人になるまでに受けた<教育>というものがこの<意識>にあることだとすれば、
その<意識>による思考作用から生まれる<政策と施政>があるということである、
<美しい国 日本とは、和製SMの表現である、縄による緊縛の女体虐待が意義される>ということになる。

人間は、如何ともしがたい動物である、
この動物は、野放しにしておくと、その食欲・知欲・性欲・殺傷欲のままに好き勝手な行動を起こして、
場合に依っては、種族の保存・維持にさえ支障を来たすような結果をもたらすことをする、
この動物をただ群棲させて置くということは、異常を来たすことであり、
正常な状態とは、この動物を囲繞された場所へ置いて、管理されたありようが保持されることにある、
この考えを抱いた者がそれを実行に移したときに、最初の<支配者>としてあらわれたことは、
群棲する動物と見なされた残りの者は、<被支配者>という位置付けとなることであった、
<囲繞された場所>は、<社会>と称されて、その規模の大きさに従って、
集落、村、町、都市、国家と呼称される場所となっていったが、
<支配者>と<被支配者>の関係性をあらわす<囲繞>が基調となっている状況は変わらない、
群棲している動物が<社会>という集団となるためには、<囲繞>されることが必要不可欠であって、
その<囲繞>にあることに依って、種族の保存・維持が行われることが正常な状態としてあれば、
<囲繞>に依って、動物の相互における<関係性>を自意識とさせることが必要不可欠となることにある、
<囲繞>とは、人間としてあることの相互の<関係性>は、<支配と被支配>をあらわすものにあって、
<支配者>と<被支配者>の相互の自意識において、成立・維持されることの必然性となる、
<社会>には、<支配者>と<被支配者>の二者しか存在しないことが健全をあらわすことは、
その<関係性>を逸脱する者は、食欲・知欲・性欲・殺傷欲のままに好き勝手な行動をする者でしかなく、
<社会>を成立させる秩序を擾乱させる、その行動は、処罰される対象以外にその存在理由を持たない、
集団化した人間のいずれの者が<支配者>、或いは、<被支配者>にあるかは、
自意識に始まる問題であるから、その自意識を根拠とする行動において示されることにある以上、
<支配者>は<支配者>であり、<被支配者>は<被支配者>であることでしかない、絶対的<関係性>にある、
<支配者>を自意識した者が<支配者>の位置付けを作り出すことが可能でなければ、その存在はあり得ないことは、
<被支配者>を自意識する者であっても、<支配者>の位置付けを作り出すことができれば、あり得る存在となる、
従って、<支配者>は、作り出した位置付けを確保・維持するために、
<囲繞>の<関係性>は、取り囲んだ<檻>のように堅牢なものとすることが求められることになる、
<囲繞>を<体制>、<関係性>を<制度>とすることができるありようであるが
それは、<囲繞の檻>、その檻へ入れられることは、<性奴となる家畜化>が生まれるということでもある、
<性奴>とは、性の奴隷の略で、性欲と性的官能の奴隷にあるという意義である、
性欲と性的官能の奴隷にあるということは、そのありようがもたらす快感・喜悦・幸福の虜にあるという身上であれば、
<家畜>とは、人間の生活に役立たせる目的で飼育される動物という意義にあることから、
<性奴となる家畜化>ということは、<人間の生活に役立たせる目的で飼育される性の奴隷>という意義にあって、
その奴隷状態に置かれてあることに対して幸福を意識できるということである、
<支配者>のために存在する<被支配者>が存続する意義は、
種族の保存・維持の性行為が奨励されて行われるということになる、
人間が存在するためには、種族の保存・維持が行われることが必要不可欠であることは、
種族の保存・維持が行われるためには、男性と女性に依る性交が必要不可欠の事態にある、
種族の保存・維持が行われる必要不可欠の事態は、<支配者>にとって、支配する者の継承・維持をあらわし、
<被支配者>にあっても、支配される者の継承・維持があらわされることである、
<種族の保存・維持>という両者の意義は同義ではあるが、両者における、<囲繞>の<関係性>は、
<支配者>の存続は<被支配者>の存続に基づいてある以上、
<支配者>からすれば、<被支配者>の男性と女性に依る性交は、
<支配者>という人間の生活に役立たせる目的で飼育される存在にあるという意義をあらわすことになる、
飼育される存在の性交にあることは、性を<支配者>の意思に委ねられる、性の奴隷という意義になる、
即ち、<被支配者>としてあることは、<性奴となる家畜化>にあるという意義において、
<被支配者>にとって、<支配者>へ隷属する、<性奴>という家畜にあるという身上は、
<支配者>に依って作り出された<制度>に縛られて隷属する状態が作り出されることからは、
<制度>に縛り上げられて隷属する、<家畜>としての<性奴>というありようがあらわされることになる、
<国家>という<体制>に依る、<産児制限>という<制度>である、
このような性の奴隷にある家畜の状態へ置かれることを納得・承知するか否かは、
その状態に対して不満を抱くことにあるが、それがなければ、反逆・反抗ということもあり得ない、
置かれている状況へ<隷属することは、悦びである>と意識する<被支配者>の身上においては、
その<人間性>が奴隷状態にある幸福以上の幸福をもたらすという事態があり得ない限り、
奴隷状態にあることは幸福にあることの意識以上のありようにはならないことにある、
従って、それに取って代わる、自主・独立・固有の知覚を示すありようを<主体意識>とする、
人間認識があると提唱されても、それが幸福であるのかという想像へ促されることがあり得なければ、
そのありようは、変革・脱構築されることはない、
これは、自主・独立・固有の知覚を示すありようを本然として欲求することにあるのかという問題である。
現行の<日本国憲法>があらわす、<国民主権・基本的人権の尊重・平和主義>は、
<人間性>というものを考え、その個人の主体性が<国家>という囲繞にあって生活を営むというありようにおいて、
人間としてあることの尊厳を称揚する自尊を栄誉と思うことのできる、<民主主義>を明確としている、
<民主主義>にある<人間性>を肯定している、
従って、この憲法の理想に基づいて、<人間性>を表現できる、<体制と制度>でなくてはならない必然にある、
日本民族にとっての<国家>とは、
自主・独立・固有の知覚を示すありようを本然として欲求する、
多種・多様・多義、千差万別、十人十色という<個体>が共同で生活を営むことのできる、
<人間性>の発展を実践できる、世界に数多ある民族に先駆けての可能にある、<場所>と言える、
従って、その<国民>とは、
置かれている状況へ<隷属することは、悦びである>と意識する<被支配者>の身上にあることではない、
<隷属することは、悦びである>と教え込まれる<教育>に対しては、
超克する主体性をあらわす、<個体>としてあることを権利とすることができる、これが<国民主権>である、
<個体>としてあることの<人間性>の肯定がある、これが<基本的人権の尊重>である、
多種・多様・多義、千差万別、十人十色ということが<個体>のそれぞれであると認識できるということは、
そこに差異・差別・格差を見出すよりも、<個体>としての自己実現の可能へ向かうことが促されることである、
馴れ合いの共同意識、長いものに巻かれろの共有意識、多数へ加担するだけの共犯意識、
それらの意識を逆撫でする者に対する<嫌がらせ・いじめ・村八分>が行われる、<群集の一義性>に対して、
正反対のありようを表現できる<人間性>を作り出すことができるという可能である、
<人間性>の否定とは、人間は人間という動物ではなく、人間は家畜にあると見なすことである、
誰がそのような見方をするのか、
家畜にされていることにあるから、家畜に置かれている者がみずからそのような見方をすることではない、
家畜というのは、<人間の生活に役立たせる目的で飼育される動物>という意義である、
従って、その<人間>とは誰かということになる、
その<人間>は、<国民>ではない、<国民>は、みずからを家畜と見なすことはしない、
残るは、<国民>を統治していると思い込む、支配的立場にある人間ということになる、
即ち、<支配的立場にある人間の生活に役立たせる目的で飼育される動物>が<国民>ということになる、
支配的立場にある人間にあっては、<国民>とは、大衆という意義では、烏合の衆ということでしかなければ、
烏合の衆とは、規律も統一もなく寄り集まった群集ということであるから、
烏合の衆を統一する<体制と制度>を実現することが統治ということであり、
支配的立場にある人間が必要不可欠であるという存在理由をあらわす自覚となることにある、
<個体>の観点からすれば、人間は、多種・多様・多義をあらわす、一個の人間と見ることができるが、
<国民>の観点からすれば、<一義性>に先導されるだけの主体性を持たない群集でしかないという様相である、
規律も統一もなく寄り集まった、<国民>という存在は、
<食欲・知欲・性欲・殺傷欲>という<四つの欲求>をあらわす、人間という存在にあって、
<食欲・性欲・殺傷欲>の求めるままにあるだけの<知欲>の希薄な動物存在に過ぎないものとして見れば、
<愚民化政策>と称されて、古くは、古代ローマにおいて、<パンとサーカス>という政治的手法があり、
平和で退屈な社会に置いて、飢餓に陥ることなく、娯楽を与えておけば、
<国民>は、政治的に盲目にすることができるというありようは、現代においては、<3S政策>として、
<スクリーン(映像メディア)・スポーツ(プロスポーツ)・セックス(性風俗産業)>に依って、
それが行われていることにあるという見方もできることにある、
これは、<支配者>が食欲・知欲・性欲・殺傷欲という四つの欲求を管理することを行えば、成し得る状態である、
食欲は、満足はできなくても、不満を抱くことのない、食糧供給が成されること、
知欲は、多種・多様・多義となる考え方へ向かう情報を統制して、一義にあることの健全を意識とさせること、
男性と女性の性行為以外を性的異常と道徳・規律化して、社会的に許容させないこと、
暴力に依る革命などはあり得ないという意義において、闘争・戦争・殺傷の疑似体験を常習化することにある、
飢えない程度に食欲が満たされ、高ぶらされる程度に性欲が満たされ、闘争・反抗へ向かう殺傷欲を相殺されて、
娯楽と笑いが知欲を希薄にさせることにある、日常という生活環境へ日々置かれてあることは、
<人間性>の発展を求めて生活を営むという意欲・希望・目的を減衰させられて、
<支配者>に役立つための家畜の位置付けとして、
<国家>の<体制・制度>に依って囲繞される、<制度となる家畜化>とされることになる、
<国民の生命と財産を守る>という<国家の意義>とは、
<家畜をより良く飼育する>ためにあるという目的にあれば、
<戒厳令>や<非常事態宣言>といった<国家の存立意義>の変更次第に依っては、
<生命と財産を奪われる家畜>となることもあり得ない話ではないと言えることにある、
<国民>に対して、<支配者>がこのような理解を持つだけで、
<国民主権・基本的人権の尊重・平和主義>という意義は消失して、
建前だけの上辺だけの見せ掛けの<民主主義>が掲げられるありようにあるということになる、
従って、家畜は家畜の認識にあることではなく、
家畜にあることを人間の認識としてあるように、飼育の整備が法律によって行われることになる、
この飼育にあっては、<性奴となる家畜化>は、<制度となる家畜化>になる、<体制と制度>の強権があり得る。

しかしながら、一方において、日本民族に備わる<体質>というものを考えてみれば、
<制度となる家畜化>へ向かうということは、当然の結果として導かれるありようにあるとも言える、
日本民族にある<体質>の故にである、
それは、<受容体質>及び<翻案体質>というものである、
<受容体質>とは、<受け入れて、取り込むこと>であるが、日本民族に固有のありようとしては、
導入される<外来の事柄>に対して、無批判とも言える受容をあらわす傾向にあることである、
もう一つの<翻案体質>は、<既存の事柄の趣旨を生かして作り変えること>であるが、
受容した事柄を用いることに対しては、みずからに都合の良い表現へ作り変える傾向にあるということである、
言い方を換えれば、みずからの独自の発想に依る事柄を創造することが主要としてある傾向ではなく、
<外来の事柄を受容して作り変えること>がみずからの固有性の発揮にあるという傾向にある、
この<受容体質>及び<翻案体質>が備わるというありようは、遡及すれば、
孤立した日本列島という地理に居住し続けることから育成されたものにあると見ることができる、
日本列島における人類の足跡が12万年前にまで遡る(2009年 砂原遺跡 出雲市)とされることにあれば、
それだけの時間を経過して、身に染み付いたものとしてあることである、
日本列島の特性は、現在は、長さは、3、500km、最大の幅の広さは、300kmという陸地面積にあって
75パーセントが山地・山麓にあたり、平地が少なく、場所の多くは、温暖湿潤気候にある、
冬季に雨の多い月があることから、気温が零度近くになる場合は、豪雪地帯となることがあり、
四季の変化が明瞭であることからは、夏季の高温・多雨は稲の生育に適している、
梅雨、季節風による豪雪、台風の影響により、地層・岩石の侵食が激しく、火山活動や地震も活発であることは、
そこに居住する人間は、来る年も来る年も、自然の脅威と向き合うことなくしては、
生存を確保・維持できない状況へ置かれ、大陸とは海を隔て孤絶していることから、
晒される自然環境の脅威に対して居住し続けることは、その状況を無批判に甘受する、
<受容体質>を育成することが求められるということにあったと見ることができる、
度重なる自然災害に対して、試行錯誤を重ねた末に、納得せずに嫌気がさし、絶望してその地を見捨て流浪する、
それを行うことのない人間が育成した、<受容体質>ということにあるのである、
この自然に対する<受容体質>は、そこから、あらゆる生起する事柄に対して、批判的な主観的判断を挟むことなく、
その事柄を受け容れることを自然なありようとして行うことができるということから、人間には、
<感情に依る自然観照の情緒的表現>及び<観念に依る自然観照の合理的表現>が備わるということにおいて、
受容する<自然観照の情緒的表現>を主潮とするありようへ赴かせることでもあった、
<縄文時代>へ移行するまでの時代は<旧石器時代>と称されて1万6千年前まで続いたが、
<縄文人>の情緒的表現の豊かさは、多種・多様に変化する自然に対峙して、
その恩恵と脅威をそのまま受け容れられる、<受容体質>があることがあらわされている、
作り出された土器等の意匠に示される、繊細な情緒的表現の豊かさと執拗さは、
<受容体質>の強力な表象にあると見ることができるものとしてある、
更に、<縄文人>において、<受容体質>がしっかりと育成されたものにあったと見ることができるのは、
<弥生人>という<外来の事柄>との遭遇に示される、
日本列島に居住する原住民である、<縄文人>に対して、<弥生人>というのは、
中国の一部の地域と朝鮮半島に居住していた原住民が中国王朝の政変を受けて、
逃れるようにして日本列島へ渡来した異民族にあった、
この状況は、<縄文人>対<弥生人>という対立・闘争が生じることにあったが、
<縄文人>は、<弥生人>を受け容れることをしたのである、
気候変動に依る影響から人口の減少傾向にあった、<縄文人>にとって、
<弥生人>が携えてきた、水稲技術といった<外来の事柄>は魅力的だった、
<受容体質>は、あらゆる生起する事柄に対して、批判的な主観的判断を挟むことなく、
その事柄を容易に受け容れることを自然なありようとして行うことができるということであるから、
<弥生人>と<外来の事柄>を歓迎するように受け容れることができた、
<弥生人>にしても、武力行使に依る支配を必要とせずに、その地位を確立することが可能なことにあった、
それは、北九州を発端として、日本列島へ水稲技術が伝播した速さにあらわされていると見ることができるとされる、
そして、<縄文人>と<弥生人>の結合に依って、日本民族の<体質>のもう一つである、
<翻案体質>が育成されることになった、
その体質の土壌は、<縄文人>が一万三千五百年に及んで執着して育んだ思考作用である、
或るものと或るものを結び付けて別のものを作り出すという<縄による結びの思想>があることに依る、
そして、一方の<弥生人>には、中国王朝の支配下へ置かれていたことで育まれていた、<隷属体質>があった、
<隷属体質>とは、みずからより上位の事柄へ隷属することで主観的判断を正当化するありようである、
<受容体質>をあらわす<縄文人>の反抗や抵抗の少ない対応は、
<弥生人>の<隷属体質>を逆撫ですることなく、むしろ、保持させたままの支配を可能とさせたことにあった、
<縄文人>と<弥生人>の結合は、<受容体質>と<隷属体質>の交接が行われたということであり、
<受容体質>と<隷属体質>という二つの混交が<翻案体質>を育成していくことになるのである、
支配者にある<弥生人>の<隷属体質>の下に<受容体質>にある被支配者の<縄文人>があった、
この原初の体制の構造は、日本民族史が万世一系の天皇の支配下にあるものだとしたら、
<隷属体質>にある天皇の下に<受容体質>にある国民があるという構造を示唆されることにある、
この構造が大陸とは海を隔て孤絶している状況にある、<島国の場合>に留まることであり続ける限りは、
主権国家の定義である<国内統治権>をあらわすことにあった、
だが、もう一つの<対外主権>が希薄な状況にあることを露呈させられる事態に置かれては、
<国家>の存立の危機となることにあった、
言い方を換えれば、<鎖国>にある体制を維持し続けられる状況にあれば、問題はないが、
<開国>を要求されて、<対外主権>を明確とさせなければならない状況にあっては、困難のあることであった、
<外来の事柄>の圧力に対して、<隷属体質・受容体質・翻案体質>で対処することで、
やり過ごすことの可能にあったという歴史において、
鎌倉時代の中期に生じた国難、<元寇>と称される蒙古襲来の事態があったが、
江戸時代の末期に生じた国難、<黒船来航>と称されるアメリカ合衆国の開国要求に始まる事態においては、
日本民族に備わる、その<体質>の可能は、
日清・日露・支那事変・満州事変・大東亜戦争・太平洋戦争へ突き進む状況を求めさせる結果となった、
無条件降伏の敗戦という<国家>の破綻が示されたことであった、
<天皇制>の存在とは、<隷属体質・受容体質・翻案体質>を維持させることに依って成立してきたことにあれば、
<国家>の破綻が意義することは、<天皇制>の支配の破綻が示されたと見るほかないことにある、
即ち、万世一系の支配の終焉があらわされたことである、
にもかかわらず、<天皇制>の支配が維持され続ける状況が作り出されることにあるとしたら、
<隷属体質・受容体質・翻案体質>が敗戦に依り歪曲な様相を呈していくということも避けられない、言い換えれば、
日本民族が自主・独立・固有の知覚を示すありようを<主体意識>とする存在にあるかということが問われる、
歴史的事態に置かれたことである、敗戦に依ってもたらされた<民主主義>の認識の問題である、
依然として、<お上>を抱いて、<隷属体質・受容体質・翻案体質>のままに体制が行われるということは、
悲惨な戦後状況からの復興というモチベーションがあれば、壊滅から創造が行われるという景気が示されるが、
復興後の創造があらわせないという事態へ置かれている状況を高度経済成長に依って満悦するありようは、
国家への危機意識を抱く者たちにとっては、<憂国・亡国・滅国>と言うような表現になることにあった、しかし、
旧来のままの<隷属体質・受容体質・翻案体質>では、<感情に依る自然観照の情緒的表現>にしかならない、
問題は、日本民族はどのようにあるのかということであるが、
それは、人間存在として、どのようにあるのかということである、
人間として、日本民族はどのような存在にあるか、それが歴史的に問われている事態にあるということである、
取り沙汰される事柄が目先の皮相となって、本質を欠いた事柄となる傾向にあるのは、
<感情に依る自然観照の情緒的表現>を主潮とするありようを満足させる表現は、
喜怒哀楽という一過性の感動を重要視することが求められることにある、
喜怒哀楽という感動をもたらさない表現は<真実>ではないとさえ見なされるに至っては、
共有できる感動こそが国民の総意をあらわすということにもなる、
日本民族が<場当たり>の表現行為を露呈しているとすれば、
旧来のままの<隷属体質・受容体質・翻案体質>を維持させるということは、
もたらされる<相反・矛盾>を抱き続けなければ、生活の持続ができないということが示唆されることにある、
この旧来のままの<隷属体質・受容体質・翻案体質>を見事に表現した作品が『花と蛇』と言える、
女主人公の<静子夫人>には、その日本の体現が明確にあらわされた表象にあるという意義では、
一糸も身に着けない、生まれたままの全裸の監禁生活を行う、<静子夫人>を拘束する縄は、
縛り上げられた美しい日本列島の姿態を晒させる、<緊縛美の夫人>の誕生にあると言えることでもある、
<自称最高指揮官>にあっても、旧来のままの<隷属体質・受容体質・翻案体質>にあることだとしたら、
<緊縛美の夫人>が豪壮な建物に監禁されて、直径五・二メートルのマカンバの円卓の上に、
一糸もまとわない全裸の優美な日本列島の姿態を仰臥させられているありように対して、
礼服姿の十七人の男性と三人の女性と共に車座になって、厳粛な雰囲気を漂わせながら、
ぱっくりと開かせた陰部にある、強張った女芽という司法、暗い奥を垣間見させる膣口という立法、
窮屈なすぼまりにある肛門という行政を眺めやるという意義は、
教育された<和製SM>からの<政策と施政>が当然として示されるものでしかない、
その<政策と施政>が主権国家の定義である<国内統治権>をあらわすことにあったとしても、
<島国の場合>における限りのことで、もう一つの<対外主権>が希薄な状況へ置かれていることにあれば、
<隷属することは、悦びである>ということが示されることでしかない、
<自称最高指揮官>であることは、その上位に最高指揮官が存在するということである、
その<最高指揮官>の命令に従って行動することが<自称最高指揮官>の意義にあることは、
アーミテージ・ナイ報告書>という女体調教指示書に従って、
<緊縛美の夫人>を被虐に晒す<政策と施政>の行われることがあらわされる、
アメリカ合衆国の属国、植民地、或いは、飼い犬ポチとまで揶揄される、
優美な日本列島の姿態をさらけ出す<緊縛美の夫人>である、
少子高齢化、人口の減少、<失われた20年>と称される経済の長期低迷、GDPの縮小、所得水準の低下、
雇用の質量双方の劣化、格差の拡大、深刻化する財政危機、東日本大震災の甚大な被害、
放射線被爆をもたらした原発事故、日本衰退を示す指標は数多あり、加速している、
<国家>は、経済政策に貧窮すれば、軍事化への道を進むという常道がある。


(2016年10月11日 脱稿)




☆13.縄による緊縛という結びの思想・四十八手 (24)

☆13.縄による緊縛という結びの思想・四十八手 (22)

☆縄による日本の緊縛