縄による緊縛という結びの思想・四十八手 (20) <M&E>の緊縛性愛行為 ― 縄の縛めに結ばれ合う母と娘 ― |
<囲繞の檻>は、<三重層の密閉の構造>があらわされているものにある、 <鋼鉄製の檻><縄による緊縛><生まれたままの全裸>という、 <体制><制度><主体>の三者の関係が示されていることにある、 鋼鉄製の檻が因習を比喩されるものにあれば、 人間は、因習に取り囲まれて逃れ出ることのできない、囚人にあると言うこともできる、 因習は、人間の四つの欲求から作り出されるものであるが、 因習は、また、その欲求を抑制するために存在する、必要不可欠としてある、 因習は、<体制><制度><主体>の三者の関係において成立するものにあれば、 <体制><制度>がより良く<主体>との関係を構築することが求められるが、 事態は、そう容易にはいかない、それは、人類史がこれまでに明らかとして来ている、 <体制>と<制度>の構築は難しい問題である、 <主体>という問題は、その根拠となるが故に、厄介な問題としてある、 人間が食欲・知欲・性欲・殺傷欲を動物状態へ置いたまま、 周期性にある発情期に従って生活することにあれば、それが四つの欲求の抑制となる自然性から、 因習は必要とされることはなく、作り出されることにもない、 四つの欲求を野放図・放埓・無際限の行動とすることを可能とした進化にあって、 因習の問題は生じたことにある以上、 現在の状況が最初の進化にある持続の期間にあることだと見なせば、 更なる進化があれば、人類は、新たな段階へ進むことができると考えることも可能である、 だが、人間の作り出す道具が跳躍的に進化するほど、人間自身の進化が容易であるとは思えない、 それは、肉体の構造にあり、精神の置き所である、脳の構造に依存していることにある、 より良い、多種・多様・多義の道具が作り出されて、有用に人間の生活を支えることにあるが、 道具を剥奪され、身に着けているものを取り去られた、全裸の姿にあっては、 肉体と脳の構造はありのままにあることが露呈されるばかりになることであらわされている、 その全裸の姿に置かれ、鋼鉄製の檻に入れられている、縄奴隷の女と呼称された、恵美子であった、 縄奴隷というからには、縄の奴隷という意義として解釈することに間違いはないと思われるが、 奴隷というのは、人間としての権利と自由を認められず、他人の私有財産として労働を強制され、 また、売買や譲渡の対象とされた人間存在ということからすれば、 全裸という動物状態に置かれ、縄で縛り上げられた拘束の状態にあり、檻に入れられている状況は、 人間としての権利と自由を認められていない様相をあらわしているということでは、その通りである、 後は、他人の持ち物となって、他人の利益のために労働を使役されることがあり、 更に、売買や譲渡の対象とされることにあれば、奴隷の存在をあらわすことにあると言える、 だが、この場合は、<他人>という存在が<縄>に置き換えられていることにある、 <縄>が拘束の状態を作り出して、人間としての権利と自由を認められない状況へ置くことは可能である、 だが、<縄>は物質であるから、物質の持ち物となって、 物質の利益のために労働を使役されることはあり得ないし、売買や譲渡の対象ともならない、 縄奴隷という意義は、 縄に依って、人間としての権利と自由を認められていない存在と解釈するのが妥当である、 しかしながら、ここに、その奴隷存在における、<主体>の問題という事柄が附加されると、 縄奴隷の意義は、その様相と同義と言えることにはないという相反・矛盾を生じさせることがある、 <主体>は、縄の支配に依って、人間としての権利と自由を認められていない存在としてあるが、 <主体>は、縄へ隷属することに依って、隷属からの意思があらわされることにある、 その意思は、追従する隷属をあらわすありようもあれば、 その隷属を<主体>の意思に依って理解するというありようにもあることである、 後者においては、それを自由意思と見ることができれば、 支配する<縄>という物質を如何なるものと理解するかは、<主体>の権利と自由に委ねられる、 <主体>は、<体制>と<制度>の支配の下にあることである、 縄奴隷は、<体制>と<制度>に対して、 追従する隷属にあるか、自由意思にあるかを比喩されることにあるとも受け取れるということである。 麻衣子との交際で目覚めさせられた縄は、恵美子にとって、新しい認識をもたされるものにあった、 まわりを取り囲まれた羞恥の極まりの柵を打ち破る勢いの官能の高ぶりにおいて、 それを発揮させるみずからという存在があるという自覚を生じさせられたことであった、 美しいと感じるということは、それだけ、官能は高ぶらされていることにあり、 高ぶらされる官能を上手に使うことのできる、みずからというものがありさえすれば、 美しいものはあらわすことができるということが麻衣子の縄掛けに依って示されたことであった、 それだけのことだったが、それは、ふたりにとって、大きな意味を持つことになった、 官能を知覚できる主体があり、その主体の意思が表現となることを知ったことにあったからであった、 みずからというのは、官能を知覚できる女性にあって、 その女性にある意思が表現になることを意識できるということだった、 もはや、高ぶらされる性的官能の勢いにまかせて、闇雲に行動が成されるということではなかった、 麻衣子は、縄掛けの表現の構造を意識して行うことにあって、 恵美子は、それを受け留め、みずからを表現させるということへ向かわせたことだった、 ふたりの交際は、共に大学へ進学して、二年生の二十歳を過ぎた頃まで続けられたことにあったが、 麻衣子が海外留学をすることになって、終わりを迎えることになった、 最後の緊縛の日は、ふたりにとって、忘れることのできない時間となったことだった、 恵美子と麻衣子の逢瀬は、麻衣子の自宅では、時間を制限されることから、 大学生になってからは、費用は安くはなかったが、一般のホテルを利用して行われていた、 その最後の日も、渋谷にあるホテルで、恵美子が先に部屋で待っていた、 扉が七度ノックされると、麻衣子が到着したという合図であって、 ベッドの端へきちんと腰掛けて待っている、恵美子は、 高鳴る期待で胸を膨らませながら、耳をそばだてるのだった、 午後の明るい陽射しがあったが、カーテンでぴったりと閉ざされた窓は、 落ち着いた照明と都会の喧騒から遮断された静寂を室内へ行き渡らせるものとさせていた、 やがて、七度の音が鳴り響けば、女性同士の幸福の始まりにあった、 縛者の麻衣子と被縛者の恵美子の縄による緊縛の性愛行為、 ふたりが合言葉とした、<M&E>の始まりであった、 <M&E>は、<MISTRESS & ETERNALITY>の略とされる、 <愛人・女性支配者・女性教師と永遠・不滅・不変>といった意味にあった、 そこでは、縄の意義は、明確にあって、自然が生育させる植物繊維である、 麻縄は、縄掛けの施される、被縛者にとって、性的官能を高ぶらせる道具にあることは、 縄掛けを行う、縛者にとっても、まったく同様の意義にあることになるとされる、 この同一にある意義は、縛者と被縛者の関係を差異のない平等の関係に置くものとされる、 従って、愛人・女性支配者・女性教師と意義されることは、 縛者と被縛者のいずれかを言っていることではなく、双方の存在をあらわすものとされる、 そのようにある両者の関係こそが永遠・不滅・不変のありようにあるという意義にある、 縄は、性的官能を高ぶらせる道具にあるということは、 それが拘束という様態を作り出すということにおいても、 拘束は、被虐があらわされることではないように、加虐があらわされることでもないことにある、 縄は、縄掛けという方法を用いて、縛者においても、被縛者においても、 性的官能を高ぶらせることに依る、最高潮の知覚へ至らせる、自己実現のための道具としてある、 自己実現とは、人間存在として、愛人・女性支配者・女性教師となることである、 愛人とは、人から愛され、人を愛することのできる女性、 女性支配者とは、みずからを管理できる、支配能力をあらわすことのできる女性、 女性教師とは、見い出された認識を他者へ教導する方法を作り出すことのできる女性であるとされる、 <M&E>の緊縛性愛行為は、この目的のために行われたことであった。 最後の日にふさわしい思い出を作りましょうと言って、 Mは、身に着けていたブラウスを脱ぎ始めると、Eも、それに倣って、ブラウスを脱ぎ始めた、 ふたりは、身にまとう一切を取り去ると、若々しい溌剌とした全裸を露わとさせた、 今日は、M&Eの仕上げの意味でも、ふたりは、同様の縄掛けで一緒に向かいましょうと言われると、 Eは、はっきりとした声音で、はいと答えて、ベッドの上に置かれた、縄束のひとつを取り上げるのだった、 Mは、その縄を待っていることをあらわすように、直立不動の姿勢となり、両手を後ろ手にさせていた、 Eは、麻縄の一本をふた筋とさせて、重ね合わさせた両手首へ縄頭を当てるのだった、 人間の全裸があり、縄がある、 この状況は、縄文時代も現在も変わらない事象としてある、 縄文時代から貫かれて現代にまで至る事象にあるということは、未来を予定して、 人間の全裸があって、縄がある限り、不変の事象と言える、 希望することにあれば、永遠・不滅・不変の事象である、 縄による緊縛には、この歴史認識がある、 更に、人間の全裸と縄を結び付けるには、縄掛けという方法のあることは、 <縄><縄掛け><全裸の人間>、 この三者の関係が<三重層の密閉の構造>をあらわすものとさせている、 <体制><制度><主体>の意義があらわされているということにある、 <縄>が<体制>にあることは、<全裸の人間>を囲繞することが可能である状況が示されている、 <縄>を<体制>として見ることは、<縄>の存在理由というものが問われるが、 <支持・拘束・繋留>を目的として、<結ぶ・縛る・繋ぐ>という<道具>の意義があらわされることは、 <体制>の本質は、<支持・拘束・繋留>にあることを見ることができる、 支持の意味は、支えて持ちこたえることである、 拘束の意味は、思想・行動などの自由を制限することである 繋留の意味は、繋ぎ留めておくことである、 <体制>を<国家>に喩えてみれば、 <国家>の体裁をあらわす構造の支持基盤があることに依り、 集合させた人間の思想・行動などの自由を制限することで国民という成員を作り出して、 国民が離反しないように生活の安定を掲げて繋ぎ留めておくことをするというありようになる、 <縄>が<体制>をあらわすことは、日本民族の場合、 <国家>と<注連縄>を象徴とする<神道>が結び付いた、<国家神道>の実例があることから、 <縄>に<体制>の意義を見るということには、まったく無理のないことにあるが、 現行の日本国憲法は、政治と宗教の相互の権力行使の結び付きを禁止する、 政教分離の原則にあることからは、<縄>は、先に述べた、<国家>の比喩以上のものにはならない、 そこから、<縄>は、<統括可能であること>の象徴として考察できることから、 <縄による緊縛>という事象の持続は、 <国家>及び<統括可能であること>の問題と並列して存在する状況にあると言うことができる、 <縄掛け>は、<制度>をあらわす、<体制>を維持・継続させるために、 <支持・拘束・繋留>の実現を目的として、安定の状態を作り出すということにある、 <結ぶ・縛る・繋ぐ>という方法に依って、絡み合った、柔軟で強靭な適応性を示すことにある、 <国家>の比喩で言えば、治安維持は、生活の安定を意義することにあり、 <支持・拘束・繋留>の実現は、刑罰・処罰の存在を持って行われることにある、 <縄掛け>は、刑罰・処罰の意義があらわされることは、 <縄による緊縛>という事象は、刑罰・処罰行為にあることが示されることにある、 <縄>という<道具>が刑罰・処罰行為に用いられるということである、 <縄>が刑罰・処罰行為を連想させるということからは、日本民族の場合、 <縄掛け>のあらわれが<制度>の施行を意義するという表現もあり得たことにある、 室町時代後期に発祥し江戸時代に隆盛を見た、<捕縄術>という存在である、 <縄掛け>が<制度>をあらわすと見ることは、この場合も無理のないことにあるが、 <捕縄術>は、現在、その存在理由をあらわすものとしては存在していない、 <縄掛け>のあらわす<制度>は、<制度>そのものが示されていることにあると言える、 そして、<初期の段階>として<サディズム・マゾヒズム>が抹消されていることにあれば、 これが<縄>と<縄掛け>があらわす<体制>と<制度>と<主体>である人間の関係である、 <主体>である人間は、その存立から、<四つの欲求>に依る<因習>に囲繞されている、 <四つの欲求>の活動に依って<因習>は創造されるものにあるが、 <四つの欲求>の行動に依る、野放図・放埓・無際限は、<因習>を破壊するものにある、 <四つの欲求>は、この創造と破壊に依って、<因習>との間で緊張関係をあらわしている、 <主体>が集合化させられて、複数の<主体>に依って成立する、<社会>という前提にあって、 <主体>と<因習>の緊張関係は生じることにある、 <主体>が<社会生活>にある限りは、その緊張関係も存続することにある、 人間が表現する社会現象は、<四つの欲求>のあらわれである、 <社会生活>を営むと意識する者は、<社会>があらわす<制度>に従って、 <四つの欲求>を抑制する、<四つの欲求>を抑制することのできない者は、 野放図・放埓・無際限の行動にあることで、<制度>に依る刑罰・処罰行為の対象となる、 これは、<主体>における、自由意思の問題である、 自由意思の由来は、 食欲・知欲・性欲・殺傷欲の四つの欲求を野放図・放埓・無際限の行動とすることに始まるが、 この意義では、人間であれば、いずれの差異もなく、各自が所有していることにある、 野放図・放埓・無際限の自由意思は、いずれもが自由に固有の活動をさせることにあれば、 <社会>があらわす<制度>に従って、<社会生活>を営むという<常識>が作られて、 共有する<常識>から構成される<社会>というありようは、破綻の状態へ導かれることになる、 <社会>という<体制>は、<制度>に依って、自由意思を抑制することで成立する、 人間存在における、<多種・多様・多義>のありようが推奨されたとしても、 <社会>という囲繞された状況の中では、 その<体制>と<制度>が作り出す囲繞の中での<多種・多様・多義>のありようでしかない、 <保守と変革>と見なしていることも、<制度>に依って自由意思を抑制することを前者、 野放図・放埓・無際限の自由意思にあることを後者とすることはできるが、 <変革>されたありようが<体制>と<制度>を作り出すことにある以上、 <保守>は<変革>を生み出すが、<保守>には変わらないという事態があらわされることでもある、 人間が<社会生活>を営む動物存在である限りは、この構造は、永遠・不滅・不変の事象にある、 しかしながら、人間は、この囲繞された構造の中にあることに対して、 絶対にその状況から抜け出すことは不可能でありながら、 もがいて、あがいて、のた打ちまわるという表現をあらわすことをする、 それが進化しようとする力であり、その精華を<芸術>と呼称している、 ここで言う、<芸術>とは、技芸と学術の総称として意義していることにあるが、 囲繞された構造に対して、<芸術>が永遠・不滅・不変の事象にあることは、同様としてある、 探求と研究と創造は、進化しようとする力である、 囲繞された構造に対して、超脱しようとする力である、 知力の野放図・放埓・無際限の行動である、 人間の自由意思の到達である、 <性>が探求と研究と創造において、進化しようとする力にどれだけの貢献があるか、 このような状況における、<性>の問題としてある、 食欲・知欲・性欲・殺傷欲という<四つの欲求>は、 それぞれが独立した欲求にあると見ることから始めた方が理解しやすい、 動物存在としての人間は、その<四つの欲求>の活動にあって、種の保存と維持を行う、 <四つの欲求>の活動は、生存の活動ということがあらわされているだけで、 そこに意義を求めることは、<知欲>による思考作用において行われることで、 求められる意義は、見地の次第から、<多種・多様・多義>となることにある、 その<多種・多様・多義>は、一義にはならないという混沌の様相をあらわすものにあれば、 <四つの欲求>の活動の奥に透けて見えるのは、混沌、或いは、荒唐無稽である、 <荒唐無稽>と言うのは、思考作用が整合性を求める働きにあることから、 その相対にあるという意義で用いられている、 人間存在というのは、<四つの欲求>の活動にある<生の存在>と言えることは、 <死の存在>となる人間存在というのは、<動物存在の終了>と言えることにある、 性欲と性的官能が思考作用へ関与する最大のものは、 思考作用は、整合性を求めて行われるというありようにおいてである、 火をつけられ、燃え立たせられ、燃え上り、燃え盛って、 起・承・転・結という快感の絶頂の整合性を求めて行われるということにある、 <四つの欲求>の活動の奥に透けて見える、混沌や荒唐無稽と正反対の充実感のあることにある、 <縄による緊縛>というありようがこの点を極めて良くあらわす事象にある、 人体は縄で縛り上げられて拘束されるという不自由な状態に置かれながら、 その縄の交感神経を圧迫する拘束感は、性欲と性的官能を高ぶらせる、 火をつけられ、燃え立たせられ、燃え上り、燃え盛って、 起・承・転・結という快感の絶頂の整合性を求めさせる、 それは、不自由な状態にありながら、自由を感覚できるという相反・矛盾をあらわすことにある、 この相反・矛盾の認識は、<体制><制度><主体>の意義において、 それが整合性的に成立するものであれば、明確さを帯びるものとしてある、 拘束を意義することは、実際には、不自由な状態を作り出すが、 自由を招来させるという相反・矛盾の<縄による緊縛>を心象させることにあるからである、 性欲と性的官能がなければ、決して、起こり得ない、人間の認識である、 通称、<亀甲縛り>と称される<縄掛け>がある、 麻縄の一本をふた筋とさせて、縄頭を被縛者の首筋へ掛ける、 身体の前部へ垂らさせた左右の縄をまとめるようにして、 首元、胸、鳩尾、臍の上部、臍の下部の五箇所に等間隔の結び目を作る、 残りの縄は、股間を通させるが、男性であれば、陰茎と睾丸を左右から挟むようにして、 女性であれば、女の小丘にのぞかせる亀裂へもぐり込ませるようにして、そのとき、 男性であれば、肛門へ当たる結び目を、女性であれば、膣口に当たる結び目をこしらえる、 尻の亀裂からたくし上げた縄は、背中を伝わせて、首筋の背後にある縄頭へ引っ掛けて垂らしておく、 二本目の縄をふた筋とさせ、縄頭を背中に垂れる四筋の縄をまとめるようにして、 身体の前部にある首元の結び目に対称する背後の縦縄の箇所へ結んでから、右側の腋の下を通す、 首元と胸の結び目の間にある縄へ掛けて背中へ戻し、左側からも同様にして行うことに依って、 首元と胸の間の縄が菱形を浮かび上がらせることになる、背後へ戻した縄は、一度縄留めをして、 同じ所作を胸と鳩尾の間にある縄へ行って、縄留めをする、 三本目の縄を用意して、鳩尾と臍の上部、臍の上部と臍の下部へ同様に施す、これによって、 身体の前面には、四つの菱形が左右へ引かれる縄に依って、亀甲の意匠が作り出されることになる、 首筋の縄頭へ掛けて背後へ垂らさせている、縄の残りは、後ろ手に縛るために用いられるものとなる、 <亀甲縛り>の縄掛けは、菱形が浮かび上がる都度に、縦縄の張力が増すことにあるので、 股間への刺激も、それに従って、増すことにあっては、 男性の場合であれば、もたげる陰茎を露わとさせる状態を生み出し、 女性の場合であれば、女の割れめへ埋没する如実を作り出すことにある、 縄化粧とも言える、意匠の見た目の美しさは、それだけ、被縛者の性的官能を高ぶらせるものにある、 そして、身体の表面に浮かび上がる意匠が亀の甲羅に見立てられることからの名称としては、 <鶴は千年、亀は万年>とある、長寿の象徴や夫婦円満の象徴と見なされていることから、 カップルの被縛者が共にその縄掛けの姿態にあることを最適とするありようが示唆されることにある、 そのような発想から、MとEは、<亀甲縛り>を互いの姿態へ縄化粧し合うのであった。 ふいに思い出に浸る心象が途絶えて、檻の中で、全裸を麻縄で緊縛されている姿態に置かれている、 恵美子は、暗闇と静寂の真底にある、地下室の現実というものをありありと思い知らされるのであった、 瘤縄を膣口へ嵌め込まれて、鋭敏な女の箇所を刺激され続けることを中心にして、 柔肌へ掛けられている縄は、望むと望まないに関わらず、性的官能を高ぶらせるものにあった、 嵌め込まされた瘤縄がじっとりとした湿り気を帯びていることを意識させられることにあったが、 横座りとさせて、双方の太腿を閉じ合わせた格好にあってさえも、 その太腿の付け根までが濡れそぼっていることを知覚できることは、ふとまなざしを投げ掛ければ、 上下の胸縄に挟まれるようにされて突き出させられている、ふたつの乳房にある乳首が立ち上がって、 激しく欲情に駆り立てられている身上にあることを、暗闇にあってさえ、確認できることにあるのであった、 両手を後ろ手に縛られ、両腕をがっちりと固定されるように縄を掛けれられている、拘束感は、 身動きの自由をままならずにして、その上に、狭苦しい檻の中に居させられたことは、 ただ、込み上げさせられる官能のままにあることが安楽な状態にあると考えさせられることにあった、 置かれた状況へ隷属しているということがむしろ善処な状態にあると感じさせられることにあった、 暗闇と静寂の真底にある、地下室の現実は、隷属にあることこそが悦楽にあると思わせるのであった、 頑丈な鉄格子の嵌った鋼鉄製の檻の中で、生まれたままの全裸を縄で緊縛されているという身上は、 惨めで浅ましい姿を淫猥にあらわしているに違いなかった、 だが、そうした境遇にあるからこそ、縄がもたらす悦楽へ隷属することができる、 みずからというのは、縄に導かれる、ただの縄奴隷の女にあるに過ぎないと思い至らせることにあった、 いったい、どのような理由から、このような畜生同然の動物状態へ置かれることになったのか、 みずからが成してきた事柄のどのような因果から、このような情況へ陥ることになったことなのか、 そのような疑問が泡のように浮かび上がるが、漂う暗闇と静寂の波間に弾けては無意味となり、 みずからは、ただ、混沌としている、荒唐無稽にある、 暗闇と静寂の存在にあるに過ぎないと感じさせられることでしかなかった、 いったい、私は、何なのか、 それを問うことは、もはや、手遅れであるという困惑と不安と恐怖が漂うばかりのことにあるのだった、 このようなありようが永遠・不滅・不変に持続することにあるとしたら…… そのように考えると胸が詰まる思いとなり、おのずから涙が込み上げてくるが、 悲哀に浸される思いは、不思議と性的官能を高ぶらせることにあるのだった、 そのとき、Mが語り掛けてくれた言葉が思い出された、 縄は、縄掛けという方法を用いて、縛者においても、被縛者においても、 性的官能を高ぶらせることに依る、最高潮の知覚へ至らせる、 自己実現のための道具としてあること、 自己実現とは、人間存在として、愛人・女性支配者・女性教師となること、 あなたと私は、そのために、お互いを<亀甲縛り>の縄掛けに置いて、高め合うことをする、 さあ、行きましょうと言い終わると、Mは、手を差し出し、Eは、それをしっかりと握った、 MとEは、共に手を携えてベッドの上へあがり、互いに向き合って立ち尽くすのであった、 互いの顔立ちをじっと見つめ合っていた、 美麗な<亀甲縛り>にある肉体は、縄を女の割れめへ埋没させられて、 鋭敏な女の箇所を刺激され続けることを中心にして、 柔肌へ掛けられた縄は、望むと望まないに関わらず、性的官能を高ぶらせるものにあった、 やがて、どちらからともなく、顔立ちを寄せるようにして、唇と唇を触れ合わせるようになるのだった、 柔らかで甘い感触を確かめ合うように、押し付けられ、擦られ、重ねられていくと、 互いの両手が相手の両肩へ置かれ、触れ合わせるだけの唇は、開き加減とさせた唇となって、 覗かせた舌先が互いを求めて、絡み合うようになるのだった、 絡み合い、もつれ合う、舌先と舌先は、柔らかく、強く、優しく、激しく、うねりくねりして、 高ぶらさせる官能が更に向かうところへ、互いを導き合うのであった、 ううん、ううん、と鼻息が荒くなり始めるに至ると、 Mは、相手の両肩へ置いていた両手を背後へまわさせる姿勢を執った、 それを察したEは、離れがたい唇を離して、相手の背後へまわり、 垂れている縦縄で、重ね合わさせているほっそりとした両手首を縛り上げるのだった、 縛られた縄尻をEに取られた、Mは、後ろ手に縛られた姿態をもどかしそうにしながら、 シーツの上にへたり込むようにして腰付きを落すと、 Eは、その両肩へ両手を置いて、優しく横たわらせていくのだった、 Mの仰臥させられた緊縛の全裸の横へ添い寝をするように横になった、同様の緊縛の裸身にあるEは、 上下の縄で突き出すような膨らみをあらわしている、ふたつの乳房へほっそりとした手をやり、 欲情に強張る可憐な乳首を指先で摘み、こねり、揉みしだきながら、 もうひとつの乳首へ唇を当てて、舌先で柔らかで甘い愛撫を始めるのであった、 その熱心な愛撫は、すぐに、Mの縄で緊縛された姿態を悩めるように悶えさせて、 ああっ、ああっ、ああっというやるせない声音を漏らさせるのだった、 まなざしを投げれば、漆黒の繊毛を掻き分けてもぐり込まされている、股縄のある箇所は、 太腿の付け根がてらてらとした輝きを帯びていたことは、Eの愛撫を勢いづかせることになった、 日本民族が固有の道を歩んでいるという歴史認識を持つことは困難なことではない、 困難とさせていることがあるとすれば、それは、他者とは相違することで生ずる孤立を恐れることにある、 この<孤立>というありようは、<自立>という言葉に置き換えてみると、 日本民族は、<自立>を恐れるあまりに固有の道を展開させることができないという意義になる、 つまり、どのようにある事態としての<自立>を考えられるかという問題である、 日本民族は、創始以来、この<自立>の問題と向き合って、現在にまで至っている、 この問題に対して、ひとつの明確な答えを出したのは、本居宣長である、 日本民族にある者が<自立>の意思をあらわす根拠として、 『古事記』に依拠しては、万世一系とされる天皇を主軸とする歴史認識において、 天皇の存在理由をあらわす神道を民族を結束させる宗教と見なして、 <大和心(日本民族)と漢意(他民族)>の相対においての<自立>を促す一方で、 『源氏物語』に依拠しては、日本民族の世界認識にあって、 <もののあはれ>という<自然観照の情緒的表現>を主潮とするありようを固有の道としたことにある、 この<自立>する意思にある日本民族という提唱は、 明治維新の文明開化において、世界の民族へ開国した、<日本国>という立場に置かれたとき、 これ以上の民族意識の発露は、比肩する思想が存在しないという状況から、 <日本国>を一義に結束させるための政治性・宗教性・芸術性をあらわすことができるという意義で、 <国家>の<体制>と<制度>が<主体>を導いたという歴史が示されたことにある、 しかしながら、本居宣長の提唱した、<自立>する意思にある日本民族という思想は、明治維新以来、 連続する<対外戦争>の最終的敗戦に依って、破綻する結果のもたらされる状況へ至ることになった、 敗戦後、アメリカ合衆国を主導とする、占領国の統治下において、 大戦を招いた原因は、戦前の<国家>の<体制>と<制度>にあるという責任を問われ、 明治時代に公布・施行された<大日本帝国憲法>は消滅させられて、 <日本国憲法>が誕生したことは、新しい<体制>と<制度>に依る、 日本民族の<自立>というありようへ置かれる状況になったことにあった、 ここに、相反・矛盾が生じたことは、必然的な事態と言えるものがある、 何故ならば、<大日本帝国憲法>は、天皇は<現神(あきつかみ)>であって、 その下にある<臣民>という<体制>が作られて、 日本民族に属する者の<自立>の意思は、天皇へ依存することで成立することであった状況に対して、 <日本国憲法>は、天皇は <国民を統合する象徴的存在>であって、 <国民主権・平和主義・基本的人権>に基づいて、 個人という<主体>の意思が尊重される、<戦後民主主義>と称されるものになったからであった、 日本民族に属する者にとって、<自立>の意思という問題は、 戦前にあっては、<日本国>が<自立>するというありようにおいて重要な事柄であり、 個人という<主体>においての問題としては、二の次とされていたことに対して、 天皇の存在理由の変異というそれだけの理由に依って、 戦後は、日本民族に属する者の<自立>の意思は、 みずからの意思で成立することになるとされたことにあるからである、 今までは、天皇を崇拝していれば、 日本民族に属する者にあるという存在理由のあった状況が一夜にして、 天皇は現実に存在しているが、崇拝しようとしまいと、 みずからは、一個人として、日本民族に属する者にあるとされたのである、 天皇の臣民にあるという自覚からは、このありように戸惑いを覚えることは必然的であり、 天皇は存在していながら、その存在に関係なく、 日本民族に属する者の<自立>の意思を持つということは、相反であり、矛盾となることであった、 天皇の臣民ではないという自覚からは、一個人としての日本民族に属する者というありようは、 みずからで考え出す以前に、本居宣長の厳然とする提唱があることから、 その提唱が政治性・宗教性において利用されたありようを剥ぎ取って、 本然としてある意義を見ることが民族意識を促すという考察へ赴かせることになった、 いずれにあっても、<戦後民主主義>は、一個人として、 日本民族に属する者にあるという<自立>の意識を問題とさせたことであった、 従って、天皇の臣民にあるという自覚を持つ者を<右翼>、 天皇の臣民ではないという自覚を持つ者を<左翼>と呼称することは容易ではあるが、 日本民族に属する者にあるという<自立>の意識の問題は、 両者は相対していると考える、両者の立場からの意見の対立は、盛況な状況を作り出すことにあったが、 <自立>の意識の問題に答えの出ないことは変わらないという事態を生み出したのである、 この原因は、それほどに複雑な事情にあることではない、 問題は、天皇が存在しているということにある、 <現神(あきつかみ)>であった天皇は<国民を統合する象徴的存在>へ変異したが、 そのふたつの意義をあらわす存在として実在しているということである、言い方を換えれば、 天皇に対する役名が変わったというだけで、主役であることは変わらないという実際である、 天皇が主役である限りは、<主体>という認識は天皇にあって、 一個人においては、二の次になるというありようが生まれることにあるからである、 <戦後民主主義>が根付かないと見なされている、これが原因である、 二の次にある者は、<主体>の考察において、相反と矛盾を孕まずには行うことができない、 この相反と矛盾の原因は天皇の存在にある以上、 国民に依る<革命>でも生じない限りは、価値転換は不可能な事態にあるという現実である、 従って、戦前と戦後の転換は、 日本民族に属する者の<自立>の意思が変化したということにはない、 天皇を<主体>とする、政治の<体制>と<制度>が変化したということでしかなかったのである、 この状況にあることが現状においても持続しているということは、 <右翼>にある者は、いつでも、<日本国憲法>の改正に依って、 戦前へ復古できる可能性があることを示唆される、 新しい<日本国憲法>の下では、日本民族は、 新しい日本民族の<自立>する意思を作り出さねばならない状況へ置かれた、 と考える<左翼>の者があるとしても、 西洋やアメリカ合衆国に依って表現される<芸術>へ<模倣・追従・隷属>しているだけでは、 <右翼>の掲げる、政治性・宗教性・芸術性をあらわす民族思想の強靭さの前では、 外国思想の流行をただ追い駆けているというありようしか示せないという事態になることである、 本居宣長の提唱の呪縛とは、それほどに厳然としたものとしてあることである、 事実、感情による<自然観照の情緒的表現>を主潮とするありようは、 日本人の主力としてあることであり、その<もののあはれ>の呪縛にあることは、 感情を主潮とする表現を政治・宗教・芸術において優勢とする状態とさせていることにある、 <戦後民主主義>が<日本国>を一義に結束させるための政治性・宗教性・芸術性にあるか、 それを問う者にとって、それは否であるという答えになることにあれば、 <日本国憲法>は、占領国から押し付けられた憲法であると見なすことに依り、 本居宣長の提唱した、<自立>する意思にある日本民族のあらわされる、 明治維新から<対外戦争>に勝利していた期間にある日本の状態は、輝かしい明確な目標となり、 戦前へ復古することこそは、<美しい日本>を取り戻すという意義となる、 国民のそれぞれが<自立>した意思にあるありようよりも、 隷属した状態にあることを甘受するありよう、 いや、それ以上に、隷属した状態にあることに喜びさえ覚えるありようにあること、 それは、<日本国>を一義に結束させるための<体制>と<制度>にとっては、 この上ないことである、 <サディズム・マゾヒズム>が<支配・被支配>を意義する概念にあれば、 <SM>の流行と浸透は、 <一義>に依る<支配・被支配>を植え付けるには格好の状態を作り出すことにあると言える、 <国家>というのは、体裁をあらわす構造の支持基盤があることに依り、 集合させた人間の思想・行動などの自由を制限することで国民という成員を作り出して、 国民が離反しないように生活の安定を掲げて繋ぎ留めておくことをするというありようである、 <一義>に依る<支配>は、<一義>へ隷属する<被支配>に依って成立することである、 しかし、戦前へ復古したありようになったところで、 同じ結果を生み出すことにしかならないことは、歴然としている、それは、 本居宣長の提唱が<自然観照の情緒的表現>を主潮とするありようを固有の道としているからである、 人間には、<自然観照の情緒的表現>及び<自然観照の合理的表現>という<知覚作用>があり、 片翼だけを強力にして飛ぶありようは、一方の偏向へ向かうことでしかないというありようへ導かれる、 そうした固有の道が生んだ<対外戦争>であり、敗戦の結果ということにあるからである、 従って、それは、超克されなければならない事態としてあることになる、 Eは、Mの乳首を口に含み、舌先で舐めまわし、転がしては、吸い上げたりを繰り返していた、 片方がしっかりと立ち上がっているさまをあらわせば、今度は、もう片方へ執着するのだった、 Mは、後ろ手に縛られた裸身の腰付きをくねらせ、うねらせ、しなやかな両脚を悶えさせながら、 高ぶらされる官能のままに、ああっ、ああっと甘美な声音を漏らし続けている、 Eも、敏感な相手の反応に煽られ、みずからの肉体をへ掛けられている縄掛けに高ぶらされ、 女の羞恥の割れめへ埋没させられている縄へ、しとどの愛液を漏らさせていることにあった、 誕生して、成長して、衰退して、死滅する、 この因果は、宇宙の生成過程に属していれば、すべての現象や事象にあらわれるものである、 生成過程という動きのなかにあっては、留まることのない、繰り返される、因果をあらわすことにある、 かつては、そのようにあったことも、今は、そうではなく、 今そうであることも、未来においては、そのようではなくなる、 同じ空間と時間に留まることができないということでは、 永遠・不滅・不変のありようにあるという意義は、むしろ、この生成過程そのものにあることになる、 民族意識の問題は、そもそも、<日本民族>というものが存在するという前提で考察される事柄である、 <日本民族>は、どのような過去から形成されてきたことにあるか、 それは、現在、どのようなありようを作り出していることにあるか、 未来においては、どのようなありようを作り出すことができるかという意識の問題である、 従って、<日本民族>という箇所を<人間>に置き換えることが可能であることは、 <日本民族>にあるから、このようにあらねばならないということにはならない、 <日本民族>としてあることの結果があらわされることではなく、 <日本民族>という生成過程があらわされていることにあるからである、 このように見ることができれば、明治維新から<対外戦争>の終結に至るまでの期間は、 二度と同様の経過を行うことがあり得ない、不可逆の事態があらわされたことにあると理解できる、 それは、<初期の段階>としてあるということである、 感情による<自然観照の情緒的表現>を主潮とするありようは、 次の段階へ至るための<初期の段階>ということにあり、 その事実を<戦争>が作り出した、残酷・悲惨・切実な経験から学んだということである、 従って、<初期の段階>を超克する、脱構築が必要不可欠の事態となることにある、 それをなおざりにして、先延ばしの問題として、<自然観照の情緒的表現>による感情を主潮とした、 憂国・滅国・亡国の思いにあるばかりのことでは、<初期の段階>に留まることでしかないのである、 一個人としてあることの<主体>としての<自立>の問題、 人間としてあることの昇華へ向かう段階、 そのような状況にある、現段階なのである、 若々しく麗しいふたりの女性が生まれたままの全裸の姿態にあって、 <亀甲縛り>という意匠の凝らされた、日本の伝統をあらわす縄掛けを肉体へ施して、 ベッドの上で、互いの性感を高め合う愛撫を行うという情景は、 見ように依っては、女性同性愛者の性愛行為と見なされることもあり得る、 だが、一個人としてあることの<主体>としての<自立>の問題からすれば、 互いの性感を高め合う愛撫を行うという意義は、 性的官能を最高潮へ導くための所作にあるということからすれば、 それが同性間であろうと異性間であろうと同一の意義をあらわすことでしかない、 問題となることは、性的官能を最高潮へ導くというありようが何を導き出すかということである、 ただ、性欲と性的官能のままにあるありようというのは、 <自然観照の情緒的表現>を主潮とするありようを<日本的>と称するのと同様で、 それだけが<日本>ではないというありようへ導かれることにある、 <M&E>の緊縛性愛行為は、<主体>の問題としてあることである。 突然、天井のシャンデリアの照明が光り輝いた、地下室にぽつねんと独り取り残されていた、 恵美子は、俯かせていた顔立ちを思わず上げるのだった、 扉口に姿をあらわしたのは、香織であった、 娘の香織に間違いはなかった、だが、その様子は、大きく違っていた、 みずからが収監されている檻の方へ近付いて来るにつれて、 その姿は明らかとなったが、香織は、一糸もまとわない全裸の姿態にあるのだった、 それだけではなかった、後ろ手にされて、縄掛けを施されていたのである、 縦に四つの菱形が綾なす意匠は、二十歳の溌剌とした瑞々しい全裸にあって、 愛らしい乳首を付けた、ふっくらとしたふたつの乳房を際立たせられ、 食い込まされた縄が女の優美な曲線を妖美に映らせる、見事な<亀甲縛り>にあった、 香織が顔立ちを俯き加減とさせて、もどかしそうな足取りで歩まされている素振りにあったことは、 漆黒の陰毛を掻き分けて、女の割れめへ深々と埋没させられている股縄のせいであり、 縄の拘束が高ぶらせる性的官能へ没頭させられていることは明らかであった、 やがて、鋼鉄製の檻の前へ立たれたとき、恵美子は、 香織の縄尻を取って引き立てて来た人物が誰であるのかを知った、 それは、忘れもしない、思い出深い女性だった、 娘が小学校低学年のときの担任教師、由美子さんだったのである、 束髪の髪型に白衣を身に着けた姿にあったが、間違いようのなかったことは、 鉄格子を通して、まじまじとこちらを見やる、由美子さんの変わらない美しいまなざしにあった、 「さあ、香織さん、あなたも、この中へ入ってらっしゃい」 穏やかな口調でそのように言うと、錠を外して、檻の扉を軋ませながら開けるのだった、 香織は、躊躇しているようで、言われたことに従わなかった、 ひとりが入っているだけでも狭苦しいと感じさせる場所へ入れば、 そのひとりと柔肌を触れ合わせずには済まないという状況が明らかであった、 それが母であることは、高ぶらされる性的官能に依って責め立てられる行為を行う相手は、 母であるということは明白な事実であって、その必然性は、 股間に掛けられている縄が愛液で黒ずみ、双方の太腿の付け根がてらてらと光っていることから、 逃れられない状態としてあることを伝えているのであった、 「香織さん、遠慮することはなくてよ、 みずからの求めるままに行うことがあなたの考える自由意思の発揮ではなくて、 さあ、お入りなさい、 そこにいる、緊縛美の夫人は存分に応えてくれるはずよ、 しっかりと思いを遂げることができるわ」 由美子さんの穏やかな声音に依って語られた事柄に対して、 香織は、あらがう言葉を発することもできず、恵美子においてさえもできなかったことは、 彼女自身にも股間へ掛けられている瘤縄は、 同様な状況にあることを意識させるばかりにあるのだった、 香織は、思い至ったように頷くと、背中を丸めて、檻の中へ入って来るのであった、 母とは柔肌を触れ合わせまいとできる限り片隅の方へ身を寄せて、横座りの姿勢を取るのであった、 香織の縄尻を鉄格子へ繋ぎ留めると、由美子さんは、 檻の扉を音を立てながら閉めて、施錠した、 それから、立ち上がると、飼い主が愛玩動物を檻に入れたような気軽な素振りで、地下室を後にした、 縦・横・高さが一メートル半ほどの鋼鉄製の檻に入れられた、母と娘であった、 ふたりが互いに縄付きであったことは、 縄の縛めに結ばれ合う母と娘にあると言えることにあるのだった。 (2015年12月26日 脱稿) |
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