13.縄による緊縛という結びの思想・四十八手 (17) 縄による緊縛の意義 ―縄の縛めに結ばれ合う母と娘― 借金返済で弁護士に相談



縄による緊縛という結びの思想・四十八手

(17) 縄による緊縛の意義 ― 縄の縛めに結ばれ合う母と娘 ―



恵美子の夫であり、香織の父であった、男性は、交通事故で突然亡くなってしまった、
妻は、夫の遺品の中から、亡くなる直前に書いたと思われる短い手記を発見した、
その内容を知ったことは、強い衝撃だった、それまでは、
真面目で優しく温厚な人物であると思っていた、夫の別の側面を知らされたからであった、
遺書と称してもよい、手記には、次のようなことが書かれてあった。

『縄による緊縛という性愛行為の存在を知ってから、それについての知識が増すにつれて、
或る結論に達したことは、書いておいても良いのではないかという決心をさせた。

性欲と性的官能にまかせて、縄による緊縛に接していると、
気が付くことが少ない事柄に、どうして、縄という道具で縛るのかということがある。
これは、素朴な疑問である、だが、実は、大きく立ちはだかる問題と出合うことでもある。
<縄による緊縛>であるのだから、縄を用いるのは当然のことである、
この当然に対しては、では、何故、<縄による緊縛>であるのかという問いが生まれる。
縄は、物体を結束したり、繋いだりするために、卑近にある道具であるから、
人体を拘束したり、繋いだりするために、同様に使用されるものである。
これが最も分かりやすい答えである、従って、性愛行為を目的とした縄による緊縛は、
卑近な道具である縄が存在するから、縄という道具で縛るということが結論となる。
一般生活にある見地からすれば、この見方に間違いはなく、常識的と言える、
しかしながら、縄による緊縛の性愛行為という事象は、
一般生活にある見地からすれば、異常な行為であり、非常識と言える、
従って、異常で非常識な行為であるという見地からの見方というものもあることになる。

まず、縄は、どうして存在するものとなったのかということに始まる。
発祥年代は、縄文時代の土器に見ることができることから、約一万六千五百年前である、
同じ縄文土器の意匠から、当時は、蛇信仰というものが存在したことが考えられることから、
縄の発想は、蛇があらわす、可変的で、強靭で、超自然的な力に啓発されて、
蛇を模倣した道具を作り出すことにあったと見ることができる。
蛇が超自然的な力を備えていると信じられる、呪物崇拝の対象とされていたことは、
縄も、また、可変的で、強靭で、撚りの美しさの感じられることにおいて、
縄文時代の一万三千五百年の間、執着する意匠となったことは、同様の意義が見られる。
自然の植物繊維を用いて綯う縄は、呪物崇拝という自然崇拝の信仰対象としてあることで、
それが縄の存在理由として意義されていたことにある。
自然崇拝の信仰対象であることは、後の神道における、注連縄の存在に示される、
八百万の神という自然崇拝は、縄を信仰の象徴的対象とすることで成立することにあれば、
縄に関係する日本の事象は、自然崇拝の信仰の所以をもって存在すると見ることができる。
この信仰という構造を見事にあらわしたものは、室町時代の後期に発祥した、
捕縄術という武芸において示されている。
捕縄術とは、人体を縄で拘束する方法があらわされたもので、
隆盛を見た、江戸時代には、破邪顕正を大儀として、衆生済度の信仰をあらわして、
流派は百五十以上、縛り方と名称は三百種類とされたものである。
縄による緊縛という性愛行為の起源は、室町時代の後期にあると見ることもできるが、
武芸として成立するということは、その前身は、それ以前に存在することであるから、
縄は自然崇拝の信仰対象であるという持続が民族史にある以上、
その起源を縄文時代にまで遡って推測させることさえ可能とさせることにある。
縄による緊縛という性愛行為が具象としてあらわれるのは、やはり、江戸時代において、
江戸四十八手と称される、男女の性交の体位が作り出された中に存在する、
<理非知らず>と<だるま返し>は、縄で縛られた女と男が交接するという体位である。
男女の性交の体位法は、男女のいずれが優位にあるかをあらわすものではなく、
陰茎は膣を必要とし、膣は陰茎を必要するという必然性から、
男女の平等が示されていることにある。
従って、このふたつの体位における、縄による緊縛は、加虐・被虐をあらわすものではない、
他の体位と同様に、性感を高め、最高潮へ達するための方法ということにある。
これは、縄による緊縛の性愛行為は、
加虐・被虐という性的倒錯のサディズム・マゾヒズムにはないということが示されていることで、
男女の性交という自然の摂理からすれば、
自然崇拝の信仰と性愛行為が結び付いた具現にあると見ることができる。
日本人が使用する、縄は、縄文時代以来の自然崇拝の信仰心に基づいている、
縄による緊縛の性愛行為は、その信仰心のあらわれである、
これが縄という道具で縛るということの答えである、
言い方を換えれば、日本人の主体性と言えることにある。

明治維新という文明開化は、欧化主義という国家の政策に依って、進められた近代化である、
世界の先端技術と知識は、西洋にあるとして、その導入に邁進したことにある。
縄による緊縛という性愛行為も、
性的倒錯のサディズム・マゾヒズムへ結び付けられたことは、
捕縄術が前近代的とされて、西洋式の拘束へ移行する状況と同調する、
江戸幕府の制度に依る捕縄術を明治政府は制度化しなかったということにある。
このふたつの事象が意味することは、いずれも、
日本人の主体性としての自然崇拝の信仰のありようがないがしろにされたということにある。
では、その新しい国家は、自然崇拝の信仰について、
どのような展開を迎えたことにあるかを見れば、このようである。
日本人の信仰心は、自然崇拝というものにある、
これは、明治維新の文明開化を経過しても、依然として変わらない、
その信仰対象は、八百万の神という多種・多様・多義にある、
日本人のそれぞれ一人一人に信仰心の対象となる神が存在するということである、
このありようは、十人十色ということで、ひとつにはまとまらないということが意義される。
ひとつにまとめるためには、国家の体制と制度に依って、形を作らなければならない、
明治政府が執った方法は、国家神道というありようである、
それは、国民をひとつにする、日本人の新しい主体性を明言したものにある。
日本には、万世一系を主軸とする天皇の存在があって、
国家神道というものが存在するとしたことである、
天皇を現神(あきつかみ、現世に姿をあらわしている神)として定めたことを根拠にして、
日本人は、おしなべて、天皇というひとつの神を信仰するという形が作られたことであった。
天皇は神の存在であるから、一切の批判は、不敬罪という処罰の対象となることであり、
天皇と皇族ばかりでなく、神宮と皇陵もその対象とされたことにあった。
これは、神道が八百万の神を崇拝するというありようからすれば、
多神教にあるものを一神教とするということで、相反・矛盾をあらわすものである、
だが、この相反・矛盾を指摘すれば、不敬罪で処罰されるという国家の体制と制度であった、
日本人のそれぞれ一人一人に信仰心の対象となる神が存在するという自然崇拝は、
封殺される状態へ置かれたことになったのである。
従って、このありようは、国家の体制と制度が磐石である限りは有効的であるが、
破綻すれば、日本人の内実としての自然崇拝があらわれるという実情をもたらすことにある、
誰もが同一のひとつの神を信仰していることにはないという認識へ導かれることになる。
日清戦争に始まり、日露・支那事変・満州事変・大東亜戦争・太平洋戦争と連続する、
対外戦争の歴史は、その破綻をもたらすことへ向かわせたことは、
国家神道という相反・矛盾をあらわすありようの整合性が問われたということである。
天皇制崇拝、天皇のための英霊、皇軍不敗、神州不滅、神風、八紘一宇……
天皇を神とする、日本国民は、戦局が劣勢となれば、一丸となって対処する、
国家が政策として掲げる、一億総特攻、一億総玉砕の宣言を聞くしかなかった。
破綻は、三百十万余の死者と原子爆弾二発の投下をもたらした事実としてある、
戦後の憲法において、天皇は、日本国と日本国民の統合の象徴となったことは、
国民をひとつにする、同様の方法が繰り返されることはあり得ないことが示されたことである。

日本人は、持続する自然崇拝の信仰心があるが故に、
多種・多様・多義のそれぞれの思いのある実情から、
自己実現ができるという存在理由をあらわしている。
日本国民をひとつにするという考え方があるとすれば、
この存在理由が日本人の主体性を形成する出発点となる。
日本人にある、それぞれは、他者とは相違するからこそ、
自分自身にあるという認識の持てる、人間存在にあるということである。
そのような人間存在が国家をより良い囲繞として作り出していくことが日本の未来であり、
日本の未来は、ひとりひとりが自己実現を成し遂げることで作り出されることである、
これが国家の破綻からの出発点となることである。
縄による緊縛という性愛行為も、性的倒錯のサディズム・マゾヒズムを断絶すれば、
日本人が使用する、縄は、縄文時代以来の自然崇拝の信仰心に基づいている、
縄による緊縛の性愛行為は、その信仰心のあらわれであると言えることにある。
これまで、私が廃屋の一軒家で行ってきたことは、
このような考えに基づいて行われたことである。
性愛行為と言う以上、女性が関係することは実際である、
慶子、由美子、麻衣子、真美という四人の女性が被縛者であったが、
彼女たちには、行為の目的を説明して、納得と承諾を得たことからの緊縛行為にあった。
行為の目的とは、
日本人が自然崇拝の信仰心を基調としていることにおいて、男性と女性の差異は存在しない、
性愛行為において、両者が平等な立場に立つことは、
陰茎は膣を必要とし、膣は陰茎を必要する以上、いずれの優位が示されることにもない、
縛者と被縛者の関係は、平等な立場をあらわすものでしかない、
この立場から、日本人の縄による緊縛の可能性を追求するということである。』




(2015年11月6日 脱稿)




☆13.縄による緊縛という結びの思想・四十八手 (18)

☆13.縄による緊縛という結びの思想・四十八手 (16)

☆縄による日本の緊縛