13.縄による緊縛という結びの思想・四十八手 (13) 願望の緊縛絵画 ―縄の縛めに結ばれ合う母と娘― 借金返済で弁護士に相談



縄による緊縛という結びの思想・四十八手

(13) 願望の緊縛絵画 ― 縄の縛めに結ばれ合う母と娘




『拉致される想像 ― 縄の縛めに結ばれ合う母と娘』は、
<ひねる・ねじる・よじる>という<結びの思想>に従った方法に依って表現が行われている、
そこに見られる表現の<相反・矛盾>、或いは、<整合性と荒唐無稽>は、
言語表現の可能の試みとして、人間の主体を知るための不可欠の要因にあると認識することにおいて、
論理性や整合性の展開に従う、一般的な論文や小説とは異質なものがあらわされている、
この異質は、理解不可能な事態が表現されることへ至る場合もあり得ることは、
理解不可能な事態を貫通することなしには、
知覚の新しい領域へ踏み込むことはできないという因果に依ることからである、
この因果がもたされるのは、人間の主体の考察にあって、
性欲と性的官能は四六時中活動していることにあるという根源的認識があることにおいて、
性欲と性的官能の主体への関与という問題が前提となることに依存している。
性欲と性的官能の活動は、それを意識化するときに対象となるだけのことでしかない、
つまり、陰茎を勃起させられたり、膣を濡らされたりといった事態があり得るときにおいて、
それは活動しているということであって、四六時中、陰茎や膣を意識させられる状態にあるわけではない、
性欲と性的官能は四六時中活動していると定義することは拡大解釈でしかないという見解がある、
これが一般的な見方としてある、既存の価値観とするならば、<常識>と言えることにある。
既存の価値観は、<常識>を形成するものにある、
<常識>は、<体制と制度>の下に置かれた人間が生活を営み維持していくために依拠する概念である、
<常識>に依る判断が有効性を持っているのは、それが共有されている概念にあることにある。
<体制=国家>と<制度=法律>は、群棲する人間を集団として囲繞する<体制>が作られることに依り、
その<体制>を維持していくための方法として作られる<制度>ということにある、
国家、都市、町、村、部落……呼称はどのようなものにあっても、
集団としての規模の大小があるという相違だけで、
<体制と制度>があって、作り出される<常識>は、人間生活を継承・維持させるという目的で一義である。
<体制と制度>における、このありようは、<常識>に従うことを尋常で健全な見方にあると保証することは、
<体制と制度>に囲繞される限りにおいて、<常識>が共有されることがおのずから導いていくことにある、
共有されない概念は、<常識>とはならないということであり、共有されることがあれば、
それがどのように<非常識>であっても、<常識>として援用されることになる、
<常識>とは、<体制と制度>の囲繞内における<常識>でしかないという意義にあることである。
夫にある者は、<制度>の下に認知された夫婦であるから、毎晩、妻にある者と自由に性交する、
妻にある者は、<制度>の下に認知された夫婦であるから、毎晩、夫にある者と自由に性交する、
夫婦の性交が日常的な倦怠を促すことにあった場合、他の女性や男性と姦淫を試みることにあるか否かは、
<制度>の下にある<常識>があらわす道義に依存することにある。
<制度>の下にあって、<制度>を遵守することは<常識>であるから、
他の女性や男性に対して、<非常識>となる姦淫としての強制猥褻・強姦・淫行勧誘が行われれば、
個人の性的自由を侵害する罪という姦淫罪としての規定からは、法的処罰の対象となることにある、
しかし、<常識>である姦淫として共有されていることにあれば、<不倫>という理解に置かれることにある、
従って、法律が姦淫を禁じれば、それは、<常識>ではなく、<制度>であるから、
<不倫>は、<非常識>となる姦淫として、法的処罰の対象となることにある。
縄による緊縛という行為は、人間が人間に対して、縄を使用して拘束の状態を作り出すということにある、
作り出された拘束の状態において性愛行為が行われる場合、
<非常識>となる姦淫の場合は、強制猥褻・強姦・淫行勧誘にあることから、法的処罰の対象となる、
しかし、<常識>のあらわす道義において、<縄>が性的官能を高ぶらせるための道具として、
張形などの性具全般と同等にあると見なすことが可能であるとした場合、
陰茎と膣の交接のみにあることを<正常>とすれば、<異常>の性愛行為という理解へ置くことができる。
この<異常の性愛行為>は、人間が属性として持っている<性的倒錯>に依るものであるとすれば、
縄による緊縛の性愛行為は、
<サディズム・マゾヒズム>という<性的倒錯>のあらわれであるという理解となることにある。
<江戸四十八手>と伝えられる<性の体位>にある、<理非知らず>や<だるま返し>の示唆することは、
縄による緊縛の性愛行為の擬似をあらわすという方法に依っては、
<非常識>となる姦淫を<常識>である姦淫へ価値転換させることができるということにある、
<常識>のあらわす道義において、<縄>が性的官能を高ぶらせるための道具として、
張形などの性具全般と同等にあると見なすことが可能であることへ導かせるありようである。
<江戸四十八手>が成立した江戸時代には、<制度>に依る、縄による緊縛が存在した、
人間が人間に対して、縄を使用して拘束の状態を作り出すという方法を<捕縄術>という武芸として、
警察機構が使用していたことは、使用する意義が正義をあらわす宗教性を如実とさせたものにあって、
神道における注連縄があらわす宗教性と同様に、<制度>の<縄>が明確とされていることにあった、
この尋常と健全の<常識>に依って、強姦及び拷問を擬似させた、
<理非知らず>や<だるま返し>の<性の体位>を発想することができたと見ることができる。
明治維新という国家の<体制と制度>の転換がこのありようを崩壊させたことは、
<性>の事象は、<体制と制度>の囲繞に依存することにあること確認させる、
それは、続く、大東亜戦争・太平洋戦争の敗戦という<体制と制度>の転換で決定的とさせたことは、
法的処罰の対象となった者へ打たれる<縄>は、
縄による緊縛というありようが<制度の表象>をあらわす意義として明確としていた事柄は、
縄による緊縛が<制度の表象>をあらわさなくなったとき、警察機構が縄を使用しなくなったとき、
<非常識の姦淫>と<異常の性愛行為>が如実に浮かび上がってくることをもたらしたことに示される。
やくざ(暴力団)が絶世の美女と義理の娘を始めとする、一般市民の男女を屋敷へ拉致・監禁して
資金調達のために、<非常識の姦淫>としては、強制猥褻・強姦・淫行勧誘が行われ、
<異常の性愛行為>としては、<SM>を始め、<性的倒錯>に依拠する、
様々の性行為が絢爛に終始する表現などは、その一例として見ることができる、
更に、あらわされる<縄>が拘束の状態を作り出すだけにあるという状況は、
<制度の表象>という意義の取り払われたことの解放が示されていると見ることができる。
だが、それは、非道・不法の状況であって、<制度>からの解放があらわされているわけではない、
縄による緊縛が<制度>の規制に囲繞されている状況に変わりはないことは、
<非常識の姦淫>は言うまでもなく、<異常の性愛行為>においても、
公然猥褻という事態においては、法的処罰の対象となることにあり、
縄による緊縛という事態は、それが陰部露出にあれば、公然とされる状態から隔離されるものでしかない、
上記の表現においても、<屋敷>という隠蔽された状況にあって行われることが必然的に要求されている。
<常識>は、既存の価値観を形成するものにある、
<常識>に対峙して行われる表現にあることは、既存の価値観とは相容れないということにもなり、
その上に、理解不可能な事態が示されることにあるとすれば、
荒唐無稽の独りよがりと見なされることにも成りかねないことにある、
知覚の新しい領域へ踏み込むということは、常に、このような事情を孕んいることを避けられない、
それでも、行われるということには、相応の意義を確認していることがあるからで、
表現を読み解く受容者において、その意義が確認できることにあれば、
知覚の新しい領域を獲得できたことにあると言えることになる、
展開を求めるとすれば、『拉致される想像 ― 縄の縛めに結ばれ合う母と娘』に登場した、
三十八歳になる母の恵美子と十五歳になる娘の香織の文脈は、
以下のようにして進めることができるものとしてある。

母子家庭にある、母と子のすべてが同じ条件にあるという一般論は難しいことかもしれないが、
その条件にある一人っ子の場合、子供が孤独を強く意識するようになることは、
母親の場合においても、同様にあり得るだろうということが想定される。
香織が二歳になって間もないとき、香織の父であり、自身の夫である男性を交通事故で失ったという設定は、
母の恵美子は、二十五歳という女盛りにあったという状況において、
女盛りにあることは、相応の性欲と性的官能の活動の活発な状態にあるということが導き出される。
大手広告代理店に勤務する職業にあっては、余暇は持て余すほどにはなかったかもしれないが、
限られた余暇に、性欲と性的官能を発散させるということは、必然的な因果にあったことだと言える。
それだからといって、恵美子の場合、新たな男性を求めるということができなかったのは、
夫や娘に対しての思いの強さから、恋愛を禁じる道義心にまでなっていたということにある。
娘の香織は、そのような母の心情など思い付くことすら及ばない、二歳という年齢であったことは、
思春期に至る頃までは、、母親が経験していた特別の事柄を知らないでいたということでもあった。
恵美子は、誰にも迷惑を掛けずに、誰にも知られずに、孤独に、性欲と性的官能を慰める行為として、
始めは、両手の指先を使って、みずからの乳房を揉んだり、乳首をこねまわしたりしたことにあったが、
その指先も、次第に下の方へ下りていって、女の羞恥の割れめにある、
敏感な箇所を愛撫するということにまで至っていたが、
それがいまひとつの満足をもたらさなかったことは、疎遠な自慰行為とさせていた原因でもあった、
そのようなとき、インターネットで検索していて出会った、椋陽児の描いた<紐による緊縛の絵画>だった。



年齢は自分と同じくらいの女性が布団へ仰向けに寝かされて、
一糸もつけない全裸の姿態を露わとさせていた、
着物のものと思われる紐で、後ろ手に縛られ、ふたつの乳房の上下にも掛けられ、
縦に下ろされている紐に至っては、陰毛をまったく奪われた、
白無垢とされている股間の羞恥の割れめへ深々と埋没させられているありさまにあるのだった、
その姿態をこれ見よがしのさらけ出させた状態にしていたのは、
胡坐をかくように交錯させた両脚の足首がひとつに束ねられて、紐で縛られていることにあった、
紐で縛られているということで、女性が高ぶらされる状況へ置かれているのであった、
艶やかで豊かな黒髪に縁取られた、女性の顔立ちは、
赤い唇に白い歯をのぞかせるほどのきつい猿轡を手拭いでされていたが、
その大きな黒い両眼は、ふたつの乳首が欲情から立ち上がっている様子からも、
込み上がってくる官能へ意識を集中させられているという凝視のあらわされたものにあった。
猿轡を噛まされた女性の顔立ちを見れば見るほど、あからさまとなっている股間の箇所と見比べさせる、
絵画の表現力は、恵美子に、締め付けられるような胸の高鳴りを覚えさせ、
込み上がってくる官能には、これまでに感じたことのない、甘美なものを意識させられたことは、
当惑にさえあることだった、女性が縄で緊縛されるという画像を見たことがなかった訳ではなかった、
しかし、そのような行為は、特殊な思いにあるひとが行うことで、自分みたいに普通の人間には縁がない、
そのように思っていたことにあった、それが一変して、身近なものとして感じられることにあったのだ、
<紐による緊縛の絵画>は、衝撃的に、心に焼き付いたものとなったのである。
心に焼き付いたものとなったことは、それからの忙しい日々の暮らしのなかでは、
思い出させるということをさせなかったが、或る夜、仕事の疲れからすぐに眠りに就いてしまうところが、
どうしても寝付かれないでいた、寝ようと思えば思うほど、眠れないという状況へ陥るばかりにあった、
あちらへ寝返りを打ち、こちらへ寝返りを打ちしていると、訳もなく興奮してくるなかで、
突然、思い出したのが<紐による緊縛の絵画>だったのである。
女性の紐で縛られた全裸の姿態のことを思い浮かべると、興奮状態は、更に熱を帯びてきて、
ついには、いてもたってもいられなくなった、恵美子は、ベッドから起き上がった、それから、
自慰行為をしていたときは、そうしていたように、娘が寝ている部屋との間仕切りを閉ざすのであった。
立ち上げたパソコンのモニターには、保存しておいた画像が映し出された、
恵美子は、まじまじとそれを見やると、思い立ったように、衣装戸棚の方へ向かうのだった、
紐や手拭いならば、結婚したときに持参した和服のなかに幾らでもある、
ないのは、その紐を使って縛ってくれる人物の存在であったが、
ベッドへ上がり、横座りとさせた身体の前へ、色彩豊かな紐の数々を置いてみると、
その艶かしさの蠱惑は、熱を帯びた興奮状態をひたすら焚き付けるものにあるのだった。
恵美子の指先は、身に着けていたパジャマのボタンに掛かっていた、
ひとから紐で縛られたことなどない、ひとを紐で縛ったこともない、
ましてや、みずからを紐で縛るなど想像もつかないことにあった、
だが、パジャマの上下を脱ぎ去り、ショーツを取り去って、絵画にある女性と同様に、
一糸もつけない全裸の姿態を露わとさせたことは、大胆な思いへ高ぶらされることにあった。
浅ましい姿態をさらけ出すことになるという思いは、羞恥で両頬を赤らませたが、
誰に見られている訳でもない、みずからが見ているだけのことにあるのだという意識からは、
躊躇を感じさせるよりも、むしろ、恥ずかしく浅ましくあるということが興奮を生んでいることにあった。
恵美子は、椋陽児の描く絵画を手本として、自縛を始めるのだった、
まずは、全裸とさせた女が騒がないように、上下の唇で噛み締める、きつい猿轡を顔立ちへ巻き付けた、
これだけのことが全裸にある羞恥を煽り立てるように、興奮をいや増しにするのだった、
次に、艶かしい紐の一本を手に取って、横座りとさせていた姿態の両脚を胡坐をかくように交錯させて、
重ね合わさせた足首をその紐でぐるぐると巻いて結んだ、両脚を大股開きとさせた下半身は、
誰に見られている訳でもなかったが、ふっくらとした漆黒の陰毛が小丘に盛り上がっている様子は、
恥ずかしい割れめを露わとさせているという意識で興奮が掻き立てられるものでしかなかった、
だが、新たな紐の一本を手に取ることは、勇気がいることだと感じさせられたことでもあった、
そこで、絵画をしっかりと見つめたことは、躊躇を押し流す、官能の高ぶりをもたらすことにあった、
紐をふた筋にして首筋へ掛けることをさせていた、それから、身体の前部を伝わせて縦に下ろさせていったが、
小丘にふっくらと盛り上がる陰毛まで至ったとき、再び、躊躇が生まれるのだった、
恥ずかしい割れめへ紐を潜り込ませるなんて、そんな恥ずかしいこと、とてもできないわ、
そのように思ったことであったが、ふたつの乳房も露わな全裸の姿態に晒されている身上は、
大股開きに足首を縛られているという拘束感にあって、有無を言わせないという猿轡の感触からは、
されるがままになるという身体を意識させられたことにあって、熱を帯びた肉体の興奮状態にあった、
羞恥の割れめにも、じっとりとした湿り気が感じられ、その熱っぽさが紐を股間へ通させるのだった、
紐が鋭敏な女芽へ触れたとき、思わず、身体をびくっとさせたことにあったが、
紐を押し付けるようにしたことは、太腿の付け根をぞくぞくする快感の疼きで波立つことをもたらした、
それは、手作業を勢いづかせることを導いた、紐の残りを尻の亀裂からたくし上げると、
首筋へ掛けた紐まで引き上げてそこへ絡めるのだった、それから、絵画の女性に負けないくらいに、
深々とした埋没が露わとなるように、引っ張りながら整えることをして結んだのであった、
漆黒の陰毛を掻き分けて、割れめへ埋没する紐の感触は、
女芽、膣口、肛門を同時に圧迫されることで疼かされるという想像を超えたものにあった、
恥ずかしく浅ましい姿を晒していると思うと、胸の高鳴りは増すばかりにあったが、
更なる紐の一本を手に取り、環を作ると、頭から被って、乳房の上部へ巻き付けて環を縮め、
両手を背後へまわさせると、背中へ垂らさせた胸の紐の残りを両手首へ絡めて、
後ろ手に縛られた状態を作り出すのであった、尻を突いて座っていた姿勢を仰向けに寝かせることで、
ベッドの上に、絵画の女性の緊縛姿があらわされたのだった、
それは、言うまでもなく、似ていると言うだけで、稚拙で無様な緊縛にあったことは事実だった、
だが、恵美子は、その状態に置かれたことで、経験したことのない、不思議な思いへ彷徨うことにあった、
割れめへ埋没して、敏感な羞恥の箇所を圧迫し続ける紐の感触は、
猿轡をされ、後ろ手に縛られ、両足首を束ねられているありさまにあって、
逃れられない官能の高ぶりのままに押し上げられるという肉体を意識させられることにあったのである、
開き切った花びらが紐を包み込み、開いた膣口から漏れ出している愛液がそれを濡らして、
充分に湿った状態にまでなっていることが察せられたのは、
ふたつの乳首が欲情から立ち上がっている様子にもあらわれていることであった、
割れめの箇所から込み上がってくる甘美な疼きは、双方の太腿の付け根を痺れさせて、
火をつけられた官能の高ぶりは、顔立ちを横へ向かせ、両眼を凝視のまなざしとさせたことにあったが、
次第に燃え立たせられていくことは、顔立ちをじっとさせていることをさせないばかりか、
紐に縛られている上半身をうねらされて、燃え上り、腰付きをくねらされて、燃え盛り、
大股開きにある双方の太腿を悶えさせられて、
抑えることのできない高ぶりにまで追い上げられるものとなっていくのであった、
猿轡にあってのくぐもらせた声音で、あっ、あっ、あっと叫ぶと、
ついには、びくんとなった痙攣を露わとさせて、最高潮にまで及ばされたのであった、
恵美子にとって、それは、信じられないくらいの高揚にあった、
痙攣は、余韻を双方の太腿の付け根にぴくぴくと波立たせていたが、
思いは、到達したという幸福を意識させられる、喜びの快感に満たされたことにあるのだった。
やがて、官能が鎮まっていくと、恵美子は、姿態を起こして、紐をひとつひとつ身体から解き始めた、
それから、羞恥の割れめの箇所をティッシュで後始末した、そのときには、
何ということをしてしまったのだろうという後悔の念が込み上がってきた、
だが、色彩豊かな紐の数々を洗濯機へ入れ、ティッシュをごみ箱へ捨てて、
ベッドのシーツまで戻った、恵美子は、まだ、一糸も着けない全裸のままにあるのだった、
下着やパジャマを身に着けるという気持ちにどうしてもならなかったのだ、
そして、そのまま、タオルケットを被って、シーツへ姿態を仰向けとさせた、
身体全体の柔肌が伝える冷やかな感触は、とても気持ちの良いものだった、
そして、信じられないくらいの高揚にあった快感を思い出すことは、気分の悪いものではなかった、
むしろ、果たし終えたという晴れ晴れとした清冽さえ感じられることにあるのだった、
それは、満たされた思いで眠りに就くことを恵美子に促すものだったのである。

緊縛の初夜にあった喜びの快感が恵美子を誘う先は、もう一度経験してみたいということであった、
翌日からは仕事が忙しく、週末まで待たねばならなかったことは、
思い焦がれることのもどかしさというものを久しぶりに味わったことでもあった、
娘が寝付くのを待つ時間を余りにも長過ぎると感じさせられたことでもあった、
そして、行ったことは、前回より手際の良い紐掛けができただけではなかった、
躊躇を投げ捨てたことは、恥ずかしくも浅ましい姿となることへ耽溺することができたのであった、
その結果は、最高潮の官能へ至ることをもう一度経験できたのである、
清冽な官能の喜びの前には、もはや、後悔の念が湧き上がるようなことはなかった、
世間では、このような行為に耽る者を非常識とか異常とか言うのかもしれない、
だが、誰にも迷惑を掛けずに、誰にも知られずに、孤独に行うことにおいては、
どのように言われることだとしても、みずからだけの世界にあることの事実であった、
みずからだけの世界にあっては、みずからが常識となることがあらわされていることでしかなかった、
常習化していく緊縛行為は、もっと強く経験したいということを呼び寄せるのであった、そして、
強く経験することができたことは、もっと激しく経験したいという思いへ向かわせることでしかなかったのだ、
それは、紐の感触では、もはや、満足ができず、麻縄の感触に代わる以外にないということが意味された、
同じ画家の描いた<麻縄による緊縛の絵画>に出合うことは、時間の問題だったのである。



恵美子は、椋陽児の数多ある作品の中で、
<紐による緊縛の絵画>が繰り返しの鑑賞に耐えるということにおいて、傑作の所以を示しているように、
その<麻縄による緊縛の絵画>も傑作にあることは、同様の理由に依ることにあると理解していた。
毀誉褒貶、どのような評価をされる作品にあっても、それが繰り返しの鑑賞を求めさせる表現にあることは、
それが芸術にあることの存在理由を明確とさせていることは、否定できない、
猥褻とされる絵画や文学にあっても、その点は、まったく一緒であることは、
優れた表現が持っている、多義・多種・多様という性格は、一見や一読を凌駕していることにある、
一見や一読では、片鱗を知ったということにしかならないということにある。
恵美子が衝撃的な感銘を受けた、<麻縄による緊縛の絵画>も、一見すれば、
縄で緊縛された女性が男性に犯されるのを待たされている状況があらわされているというものに過ぎない、
そのような設定の表現であれば、緊縛絵画や緊縛写真にはごまんとある、そうしたなかで、
この絵画でなくてはならない理由が理解できれば、それが傑作の所以にあると言えることになるが、
その理解は、好き・嫌いで留まっている限りは、至ることのできない領域にあることだとも言える。
恵美子が<緊縛>に目覚めたことは確かであった、
それは自慰行為を満たすだけに留まらないことにあった、
みずからの全裸の肉体を媒体として、色とりどりの着物の紐を用いて、
繰り返し、絵画の女性の緊縛姿を再現するという常習行為は、
時間を経過するに従って、様々な点で、彼女を教育していくものにあったことだった。
第一に学ばされたことは、緊縛という拘束状態を作り出すことは、
みずからの肉体を媒体とする、自縛という行為においては、困難があるという事実である。
肉体へ紐をただ巻き付けるというだけにあれば、それは難しいことではない、
だが、絵画にある女性と同一の緊縛姿とさせるということになると不可能に近かった、
それは、当然のことである、絵画にある緊縛姿は、縛者が存在して、
その縛者が被縛者へ紐の緊縛を施すということが行われた結果にあることだからである、
従って、限りなく似せるということはできても、同一の状態を作り出すことはできないという現実があった。
そこで、第二に学ばされたことは、同一の緊縛姿が作り出せないのであれば、
みずからの工夫で、最善の状態を作り出す以外にないということであった、
緊縛という拘束状態を作り出すには、技術というものが要求され、その上に工夫が必要とされることだった。
それは、是非とも成し遂げなければならないことは、第三に学ばされたことにあった、
そのような手間を掛けて行われることは、何のためにあるのかということだった、
緊縛という拘束状態が作り出す最善の状態とは、如何なるものにあるのかということだった、
答えは、明瞭だった、まったく稚拙で無様な仕方に依るものではあったが、
緊縛の初夜に経験することのできた、性的官能による快感の喜びの状態が作り出されることにあった。
被虐に晒されることに快感の喜びを感じる、
そのようなありようにある、女性や男性も存在することは知っていた、
だが、 虐待をすることも、虐待を受けることも、望むところではなかった、
ましてや、性欲と性的官能に囲繞される、性奴隷になるなどということは、問題外であった、
無理やり行われて、強要からその状態にあることを承認する、拷問のようなありようには納得できなかった。
では、何故、みずからの身体を緊縛という拘束の状態へ置きたいと望むのか、
恵美子にとって、答えは、明瞭だった、性的官能による快感の喜びを知覚したいからにほかならない、
人間としてあることの当然の欲求として、性欲と性的官能の最高潮を望むというだけのことであった。
緊縛という拘束状態が作り出されることは、人間にある、サディズム・マゾヒズムが働いていることに依る、
従って、緊縛があることは、加虐・被虐の<SM行為>が作り出されることにあるとされることは、
それは、学問体系という<体制>が<制度>として示す囲繞においての概念にあって、
それが<常識>であるということは、その囲繞にあることにおいての<常識>と言えることにある。
<江戸四十八手>と伝えられる<性の体位>にある、<理非知らず>や<だるま返し>が示唆するように、
緊縛という拘束状態の性愛行為の擬似をあらわすという方法に依っては、
<非常識>となる姦淫を<常識>である姦淫へ価値転換させることができるというありようからは、
<SM>という<常識>も、また、価値転換させることが可能なことにあると言えることにある。
恵美子にとっての色とりどりの紐は、性的官能を高ぶらせるための道具として、
張形などの性具全般と同等にあると見なすことが可能であれば、
被虐に晒されることに快感の喜びを感じるというありようがないとしても、
人間の生存活動にある、性欲と性的官能の欲求に従うというだけで、緊縛行為は可能なことにある、
緊縛という拘束状態自体が交感神経を刺激する状態を作り出して、興奮へ導くことにあるからである。
恵美子が緊縛の初夜に経験することのできた、最高潮の知覚は、性欲と性的官能がもたらす、
幸福を意識させられる喜びの快感は清冽である、と考えることを可能とさせたことだった、
外観からすれば、紐で縛られた全裸をさらけ出させた、恥ずかしく浅ましい姿にあることである、
しかし、知覚していることは、人間存在としての生の喜びを意識できる、この上ないありようにある、
それは、<相反と矛盾>にあることであった、その<相反と矛盾>を知ることは、
<体制>が<制度>として示す囲繞を越境させるものを示唆するありようへ導かれるのである、
恵美子が椋陽児の<麻縄による緊縛の絵画>を見たときに受けた衝撃は、
その<相反と矛盾>が表現されたものにあった。

波打つ長い黒髪の若い女性が畳に敷かれた布団の白いシーツの上へ仰向けに寝かされていた、
女性は、身にまとう衣服や下着が一切ない、生まれたままの全裸を露わとされていた、
だが、身にまとっているものがあるという印象は、縄による緊縛を施されていることから感じられた、
それは、まるで、衣装をまとわされているように、肉を盛り上げて、柔肌へ食い込んでいる様子をあらわして、
締め上げられている血管は、血流を阻害してしまうのではないかという緊張感を伝えるものにあった、
<捕縄術>に示される、緊縛の四つの主旨である、縄抜けができないこと、縄の掛け方が見破れないこと、
長時間縛っておいても神経血管を痛めないこと、見た目に美しいことからすれば、
絵画であるからこそ表現のできる、危険な緊張感が示されているものにあるのだった。
女性は、その厳しい緊縛姿のままに放置され続ければ、死に至るかもしれないということを想起させるほど、
衝撃的であったことは、麻縄による縄掛けに注目せざるを得ない状況を作り出していた。
両腕を背後に組ませられて、一本をふた筋とさせた縄で、両手首を重ね合わせて縛られ、
残る縄を身体の前面の鳩尾と臍のあたりへ巻き付けられてから背中へ戻されると、手首で一度結ばれ、
更に、首筋の一方から前面へ下ろされると、鳩尾と臍にある縄をひとつに絡めるようにして、
しっかりと引かれながら、首筋のもう一方から背後へ戻されて、手首で縄留めされる、
同様に、ふた筋とさせた二本目の縄は、背中の縦縄へ結ばれると、
女性の両脚の右側の太腿まで持ってこられて、二重に巻き付けられると、背後へ戻される、
今度は、膝から折り曲げた姿勢をとらせた左側の脚まで持ってこられ、
束ねるようにして太腿へ二重に巻き付けられる、残る縄は、背後を伝わされながら、
再び、右側の脚の太腿まで持ってこられて巻き付けられると、背中へ戻されて縄留めがされる、
こうされたことで、女性の両脚は、左右へ大きく割り開かされたものとなった、
更に、ふた筋とされた三本目の縄が背中の縦縄へ結ばれると、
乳房の上部へ四重の縄として巻き付けられ、乳房の下部にも四重の胸縄として掛けられると、
残りの縄は、右側の膝を折って縛った縄へ絡められてから、背後へ戻されると、
その側にある腋の下から引っ張り出されて、
脚を引っ張る下部の胸縄と元の縄をひとつに束ねるようにして縄留めがされ、
出来上がる、麻縄による緊縛であった。
そのように想像させる、厳重な縄掛けは、シーツの上へ仰臥させられた女性の姿態のありさまにあって、
これ以上は、開くことが出来ないというほどに、両脚を大股開きとさせ、
股間をこれ見よがしにさらけ出させたありさまが作り出されているものにあった、
それは、女性であれば、耐え切れない、大きな恥辱の状態に晒されていると言っても過言ではなかった。
しかも、その全裸の緊縛の姿態は、枕に乗せている頭とその上に見えるティッシュの箱からは、
男性の陰茎を待ち受けさせられている状態にあるということを想起させる以外のものではなかった、
捧げものとしてあるようなその身上に対して、有無を言わせないというように、
下唇を覗かせる顔立ちからは、口内に布を詰められて噛まされている、猿轡にあることが察せられた。
顔立ちの表情は、両眼を閉じさせて、込み上がってくる官能へ集中させられている様子にあった、
それは、全裸で股間を晒された羞恥と余りにも厳しい縄掛けに舞い上げられて、
或いは、失神寸前の状態にあると見ることもできる表現にあった。
失神寸前になるほどの官能を高ぶらされる状態にあると見ることができたことは、
紐で縛られた全裸をさらけ出させた、恥ずかしく浅ましい姿にある緊縛のその上の段階は、
麻縄で縛られた全裸の股間をさらけ出させて、羞恥と恥辱の姿にある極みにおいて最高潮が生まれる、
恵美子にとっては、そのように見ることのできる絵画にあったのだった。
それは、<相反と矛盾>があらわされることにおいて、
如何なる思いにまで到達させられることにあるのか、
その蠱惑の謎に誘われ、見つめれば見つめるほど、甘美に疼く官能を意識させられたことは、
繰り返し絵画を眺めさせるばかりのことにあったのである。
その絵画表現は、<願望の緊縛絵画>となるものにあった、
いつの日か、そのような状態にみずからは縄掛けされたいと望ませるものにあった、
そして、緊縛の道具を<紐>から<縄>へ変えさせたことであったのだ、
だが、願望する<麻縄による緊縛の絵画>は、
縛者の存在を必要とするものにあったことは、不可欠の要件にあったのである。


(2015年10月10日 脱稿)




☆13.縄による緊縛という結びの思想・四十八手 (14)

☆13.縄による緊縛という結びの思想・四十八手 (12)

☆縄による日本の緊縛