縄による緊縛という結びの思想・四十八手 (10) 通過点 ― 縄の被虐に晒される処女 ― |
![]() ☆組写真の次へ <縄>が<道具>にあるということからすると、その<縄>を用いる立場からは、 人間の身体を縛る<縄>というのは、虐待という観点からすれば、加虐・被虐の双方をあらわすものにある。 従って、<縄の被虐に晒される処女>という表題は、<SMの概念>の抹消された理解からは、 <縄の加虐・被虐に晒される処女>という表題が正しいということになるが、 依然として、人間が加虐・被虐という虐待の状況に性的快感を覚えるという反応にあることだとしたら、 <通過点>としてある事態は変わらない、女性の髪型や衣服が現在流行のものとは相違するだけで、 それも、一糸もまとわない全裸とされてしまえば、体型の個人差を差し引いては、 古色蒼然とした表現と見ることもできないという切実な認識にあることになる。 人間の性欲と性的官能は、日常茶飯事・常時活動しているものにあることは、 虐待を見ている瞬間も、虐待を見られている瞬間も、虐待を加えている瞬間も、虐待を加えられている瞬間も、 虐待ということが行われている瞬間には、等しく働いているということが意義されることにあるが、 <食欲・知欲・性欲・殺傷欲>という人間にある<四つの欲求>が生存を目的とした活動にある以上、 抑圧することの可能にはあっても、抹消することはできないという切実な事態が示されていることである。 従って、日常茶飯事・常時活動している知欲から生み出される認識を変革する問題となることは、 人類がその誕生から今日に至るまで、不変の課題としてあることの切迫とした事態をあらわすことになる。 地球という生存環境へ適応できないほどに、 <食欲・知欲・性欲・殺傷欲>という<四つの欲求>が荒唐無稽な活動にあることならば、 人類の生存を理由にして行われる、資源消費、人口増大、戦争・殺人は、増加の一途を辿ることにある、 しかし、それでも、人類は、最終戦争も、最後の審判もなく、環境破壊の影響に晒されながらも、 生存し続けることは、人間というのは、 <食欲・知欲・性欲・殺傷欲>という<四つの欲求>を抱く、<動物の一種>に過ぎないからである。 その<動物>の行動の<通過点>が表現された、啓発的な組写真にあると言える。 (2014年10月12日 脱稿) |
☆13.縄による緊縛という結びの思想・四十八手 (11) ☆13.縄による緊縛という結びの思想・四十八手 (9) ☆縄による日本の緊縛 |