縄による緊縛という結びの思想・四十八手 (9) 綯われる一筋の縄 |
日本民族における者がそれぞれの思考において、 民族の創始を起源とする、<縄>を綯っている、 民族史という歴史の全体から見れば、 創始以来の<一筋の縄>を総力で綯っているという状態にある、 日本民族に依って、<綯われる一筋の縄>というありようである。 この<綯われる一筋の縄>という考え方は、 日本民族における者にあって、日本民族には、民族の創始より、 <連続した思考>にあることがその存在理由をあらわすものとしてある、 という見方に依るものである。 従って、<連続した思考>の認識においては、必然的に、 創始以来の歴史の維持・継承者にあることが示されることになる。 ここで、民族の創始と言っていることは、 その民族が現在にあっても、創始の時期に誕生させ育んだ、 <思考方法>を用いているという実際があることから規定されることで、 それを、<縄文時代>を民族の創始とすることができるのは、 <一万三千五百年の縄の執着>による、 <結びの思想>の誕生と育成があることによる。 その<結びの思想>とは、 <異化・変化・昇華>という<思考作用>を行うことである。 <綯われる一筋の縄>とは、 <異化・変化・昇華>という<思考作用>を行うことにある。 <異化・変化・昇華>という<思考作用>にあることは、 知覚・意識・認識の問題にあることであって、 何らかの政治的意義に根拠を置いていることにはない、 または、何らかの宗教的意義に根拠を置いていることでもない、 或いは、何らかの因習的意義に根拠を置いていることにもないことは、 <連続した思考>にあるという状態を作り出させる。 <連続した思考>が生存の実際において活動することは、 そこから派生していく事柄は、 日本民族における者がそれぞれの思考において、 展開していく表現となることにある、 この<展開していく表現>が<綯われる一筋の縄>の具現である。 何故、日本民族は、<一筋の縄>を総力で綯っているのだろうか、 当然に生じる疑問であるが、答えは、簡明である、 <人間の昇華のありよう>を体現する民族となるためである、 未だにそれが実現されていない状態にあるとしたら、 縄を綯い続ける以外にないというありようである。 <結びの思想>を誕生させた起源は、 その<連続した思考>を展開させるために始められたことにあって、 <一万三千五百年の縄の執着>に匹敵するほど、 そこから、三千年程度の時間に依って成し遂げられた事柄では、 <人間の昇華のありよう>の実現などおこがましいとさえ言えるのは、 現状に至って、ようやく、 自立した民族のありようの考察が始まったことにある。 日本民族における者は、 <綯われる一筋の縄>という<連続した思考>にあることで、 確立した主体性を持って存在していることにあることは、 行われた事象を超克していく意思の示される表現に依って、 明らかとされることにあるからである。 人間が行う思考は、言語による概念的思考にある。 日本語の場合は、品詞と呼ばれる、名詞、代名詞、連体詞、副詞、接続詞、 感動詞、動詞、形容詞、形容動詞、助詞、助動詞の組成によって、 <概念>が作り出されるという活動にある。 森羅万象の事物に対して、知覚できる対象には、 すべてにおいて、名前(名詞)が必要であることは、 相互に区別されるものを知ることを可能とさせることにある。 その個々に名前を持った存在の意義を明らかとさせるためには、 動詞、形容詞、副詞が必要となり、 可能な限りの意義の<整合性>が求められることに至れば、 品詞の総体性に依って、作り出される意義が必要とされる、 これが<概念>の誕生である。 この<概念>を思考するということは、言語における、品詞の組成の活動であり、 個としてある主体の認識は、言語による概念的思考にあって、 品詞の組成による総体性を理解可能なものとする限りにおいて、 事物の認識を明確なものとさせることができることは、 求められる<整合性>の度合いが思考をあらわしていることになる。 <概念>が作り出される活動は、品詞における、相互間の関係にあって、 相反・矛盾のない結び付きを骨格とするものとしてあることから、 <整合性>を求め・あらわすようにしてある。 言語を作り出すというのは、相反・矛盾のない、 <整合性>を形作ろうとする活動にある。 言語による概念的思考とは、<整合性を求め・あらわす活動>のことである。 この<整合性を求め・あらわす活動>がどのようにして生まれたものにあるか、 <整合性>の由来を求めてみると、次のようにして考えることができる。 人間は、言語を誕生させる以前の段階にあって、 人間の知覚する、最上の幸福感のある快感は、 性欲と性的官能がもたらす最高潮の快感にあったことは、 種族の保存と維持は、最上の幸福感のある快感において行われることで、 持続と反復の行為とすることができたということにあった。 性欲と性的官能がもたらす最高潮の快感は、 火がつけられ、燃え上り、燃え盛り、燃え尽きる、 という相反・矛盾のない、<起・承・転・結>の<整合性>をあらわすものとして、 <整合性>の実感を知覚させるものとしてあった。 人間が未だに<発情期>という<周期性>にある段階の動物存在であった時点では、 この<整合性>の実感は、希薄なものであったことは、 意思伝達の手段も絵柄や言語ではなく、音声にあった状態と相応することにある。 人間が<発情期>という<周期性>から解放されるということは、 性欲と性的官能が周期的にあらわれるものではなく、 常態的にあるという知覚が作り出されることにおいて、 その<整合性>の実感は、頻繁で強度なものとなることにあって、 それは同時に、音声を絵柄や言語へ展開させていくことをもたらしたことは、 人間の知覚は、<整合性>の実感を最上の幸福感のある快感とすることで、 <整合性>を不可欠のものとさせたことにある。 言語を用いて行われる概念的思考は、その<整合性>の次第で、 性欲と性的官能がもたらす最高潮の快感に匹敵しようとすることが本筋にあり、 達成され、成就される、<整合性>は、思考の喜びとなることにある。 人間にとって、思考することは喜びである、という認識が生まれたことは、 森羅万象の知覚する対象に対して、喜びを持って、名前を付けるということを活発とさせた。 この名前を付けるという活動は、<絵柄>に始まり、<言語>へ展開するものである。 <発情期>という<周期性>から解放されて、常態的にある、 性欲と性的官能が知覚する事物とそれに対する思考に及ぼす影響が始まったことであった。 知覚する事物に対して、感覚する<快感>を<整合性>と意識することにあって、 <相反・矛盾>のない状態を<快感>とする思考へ向かわせたことは、 言語による概念的思考のありようは、 <整合性>の実感を<整合性>の認識へ向かわせるための<整合性>の構築、 という活動にあることにより、<言語>の誕生とは、 <整合性>を絶対化するための進化過程の始まりとなることであった。 しかしながら、この始まりには、すでに、<相反・矛盾>が孕まれている、 <周期性>というありようは、その成立を完結させる、時間のあらわす、<整合性>にある、 従って、<発情期>という<周期性>からの解放は、<整合性>からの解放になる、 言語による概念的思考の活動は、<整合性>を求めることによって、 <整合性>を反故にするというありようをあらわすものとしてあることになる。 <周期性>からの解放は、<音声>を<言語>へ展開させたことにあっても、 音声表現をそれ以外に展開不可能な<周期性>と見れば、それからの解放にある。 このようにして見れば、人間の進化と称されるものは、 動物一般が属性としている<周期性>から、 ひとつずつ解放させていく歴史過程と見ることができるが、 それは、動物であることで縛られている<周期性>から、ひとつでも自由になることで、 <人間性>を作り出そうとする努力のあらわれと言えることにある。 人間以外の動物にも、知覚があり、性と性的官能があれば、 <整合性>の知覚は可能なことにある、という出発点は一緒である、 人間が相違するのは、性と性的官能を<発情期>という<周期性>から解放させたことで、 <異なる地平>に立たせたことにある、 樹上棲息の森林生活にあった猿の一種族がサバンナへ居住を移して、 自由にした両手と直立歩行に始まったことからの展開である。 現在における、<異なる地平>へ居住を移すという展開は、 地球外の宇宙へ進出することにあるが、その状況がもたらす、 言語による概念的思考の変化は、森羅万象の事物に対しての知覚の変化に依存する、 その認識による、洞察ある言語表現があらわれるまでは、今のところ、 地球上に居住する状況にあっての考察に留まるしかない、 それ以外に展開不可能な<重力>という<周期性>に縛られたなかでの思考である。 性欲と性的官能が常態として働いて、<整合性>の実感が意識されるということは、 始められた、言語による概念的思考において、知覚する森羅万象に対して、 <整合性>のあらわれを<周期性>として見ることを<因果>とさせるようになったことは、 例えば、<朝>―太陽が昇り、<昼>―頂上へ達し、<夕方>―降りて、<夜>―没する、 といった現象を<火がつけられ、燃え上り、燃え盛り、燃え尽きる> という<起・承・転・結>の<整合性>として捉えさせたということである。 森羅万象に対して、名前を付けていく経過は、対象の各々が区別されるに従って、 <周期性>という<循環・回帰>を認識することになる過程としてあった、 <文字>が誕生する以前の言語による概念的思考にあれば、 それらは、<絵柄>によって表現されたことにある。 <絵柄>は、<文字>の前身となることにあれば、 縄文時代の<一万三千五百年の縄の執着>が生んだ<絵柄>の豊饒は、 言語による概念的思考を育ませたと見ることに無理はない。 土器や土偶の<絵柄>の豊饒に関して、大谷幸市の研究は、 <絵柄>が<言語>にあることを見事に示している。 (『縄文人の偉大な発見』 2009年 彩流社刊) 日本民族における者にあって、<一万三千五百年の縄の執着>は、 言語による概念的思考を育んだ時間にあった、と言えることにあれば、 <綯われる一筋の縄>は、問題なく、縄文時代を起源とすることができるものとしてある。 <綯われる一筋の縄>の本然とは、<縄>に何を見い出したかということである、 <縄>を単なる<道具>として見るばかりでなく、 <縄>を後の<注連縄>へ発展させる、<宗教性>として見るばかりでなく、 <縄>を思考するという如くに、<縄>に見い出す<思考作用>が本質としてある。 <縄>を<整合性>の象徴として見ることがあるにもかかわらず、 <縄>の<ひねる・ねじる・よじる>という可変の動性に、 <異化・変化・昇華>の<思考作用>を獲得させたという意義である。 <整合性を求め・あらわす活動>である、言語による概念的思考にあって、 <相反・矛盾>を絡ませることを可能とさせた<思考作用>にあるという、 日本民族の固有の思考展開であり、多義性的知覚を育んだことにある、 諸々の知覚対象に各々の<神的存在>を見るという可変的柔軟性である、 それは、民族の存在理由が示されることにある。 日本民族という存在が何故にあらわれたのか、という問いがあるとすれば、 <異化・変化・昇華>の<思考作用>が実現させる事柄を創造・成就するためである、 と答えられる存在理由である、 その<縄>を綯うという思考を総力で行っていることに、 民族としての歴史を表現していると答えられることにある。 日本民族における者の各自が<綯われる一筋の縄>という、 縄文時代より連綿と続く、<連続した思考>にあって、 <人間の昇華のありよう>を体現する民族となるために生存を維持・継承している、 台風・地震・津波といった自然災害の脅威に晒されながらも、 その地形は、首をもたげる龍の勇壮な屹立をあらわす、美しい日本列島に居住し続けて、 他の民族から学ぶことを模倣・追従・隷属をあらわす思考としてではなく、 みずからの民族が育ませた<思考作用>において達成させるという、 <人間の昇華のありよう>の体現にあることである。 <周期性>という<循環・回帰>に縛られているだけの動物存在にあっては、 それが展開不可能な<秩序>であり、否定できない<整合性>となることにある、 その場合、知覚することのまったく困難な事柄がある、 その相対としてある、<混沌>である。 <秩序>に相対する用語にあれば<混沌>となるが、 <整合性>に対する用語としては、<荒唐無稽>という表現になることである。 人間が<異なる地平>に立ったことは、この<混沌>を認識したことに始まる。 <混沌>の認識は、<整合性>の実感を前提にしなければあり得ないことは、 <不可知>の認識によってもたらされることにある。 <不可知>は、既知にないものを知覚するということにあれば、 人間においても、他の動物一般においても、 <記憶>という存在がありさえすれば、認識できることにある。 両者の差異は、記憶容量の大小と<整合性>の思考の度合いに依存していることは、 新たな事柄を既知に存在した事柄に<整合性>的に適合させるというありようからである。 思考は、段階を進ませると、<整合性>の度合いを深めていく過程となることは、 <整合性>は、相互間の相対・矛盾を無くすることによって成立するものであるから、 知ることの対象の増加は、<整合性>の要求の強さへ比例することになる。 それは、知ることの寡少は、知らないことの多大を認識させるということになり、 <整合性>を求めるという単純化は、複雑化を招くという経過となる。 知覚する対象のことごとくを<整合性>を持って認識することが求められて、 それが果たされない状態は、足元の覚束ない、 不安と恐怖の感覚を呼び覚まされる、まとまりのないものでしかなくなる。 そこから、知ることのできない存在がある、という<不可知>は、 知っている限りの<整合性>の背後に横たわるのは、 <不可知>という<混沌>であることの認識へ至らせることになる。 この<混沌>というありようを認識することは、 人間という存在を思考する、すべての探求の始原とさせたことであったのは、 人間が行う、思考活動は、<整合性>を求めながら、<でたらめ―混沌>を作り出す、 という<相反・矛盾>をあらわすことを認識させることになった。 このありようから、人間における、<宗教性>が形作られていったことは、 <不可知>の存在は、<整合性>のない、<混沌>を呼び覚ますものとしてある、 その足元の覚束ない状態は、不安と恐怖の感覚に置かれることであり、 <整合性>のある、<秩序>を作り出す思考へ置くことが求められる、 しかしながら、それが実現不可能な対象に対しては、作り出すことができない、 そこに、無いものを有ると考えることができる、 <想像力>という<思考作用>が生まれたことは、 <無いものを有ると考えること>が必然的な要求となった場合、 思考は、<有り得るだろうこと>が示されるということであった。 しかしながら、対象が依然として実現不可能な存在としてあることは、 <想像力>は、<希望・願望・祈願>という思考方法によって、 忍耐するというありようを作り出させることを<整合性>とさせる以外になかった、 人間にとっての<宗教性>とは、 <希望・願望・祈願>という思考方法によって忍耐するという<想像力>となることであった。 そこから、<宗教性>にある、思考方法は、 <不可知>の存在が<混沌>を認識させることが前提であれば、 <混沌>を認識することは、<全知することは不可能なことにある>という認識を導いた、 そして、<不可解・謎・不可思議>にある、<未知の存在>が<有り得るだろうこと>になり、 この<未知の存在>は、<人知を超えた存在>として思考されることに至っては、 <神的存在>として作り出されることになり、その<整合性>は、 <宗教性>という思考方法を用いた、<宗教>という<秩序>を作らせることになった。 従って、人間から<宗教性>を取り去ることは、 <不可知>の存在を知覚することがあり得ない場合となることでしかない、 <宗教>を信仰することがなくても、<宗教性>がないというわけではないことにある。 <縄>に対して、<宗教性>にある、思考方法を持って接することを慣習とすれば、 例えば、掲げられた<縄>に対して、礼拝を行うような慣習に置かれれば、 <縄>には、<秩序>の<整合性>があることを知覚させられるようになる。 それが<注連縄>という存在の意義を知らない場合であっても、 <縄>という存在に接すれば、それには意義があり、 意義は、<不可知>の存在ではないことを教えるものとなる、 <神道>を信仰することがなくても、<注連縄>は意義のあるものと知覚する。 <縄>に意義があることを慣習とする思考は、 <縄>に<道具>以上の事柄を知覚するということにあって、 その<事柄>に<整合性>のある<秩序>的な構造を作り出すことをすれば、 室町時代に発祥し江戸時代に大成を見た、<捕縄術>というようなものとなる、 <縄>に依る<宗教性>にある、日本民族の固有の展開である。 <捕縄術>は、犯罪における、被疑者や罪人の拘束を目的として考え出されたものである、 明治時代の文明開化を境として消滅させられた<秩序>にある、 それを現代において復活させても、その<秩序>に<宗教>を意義しなければ、 <縄による人体の拘束技術>を復元しているということにしかならない所以である。 <縄による人体の拘束技術>は、<縄>を<道具>としているだけのことにあれば、 それを意義する<概念>は、<整合性>のある理解に依るものである限り、 どのような意義を持って見ることをも可能とさせることにある。 人間は、属性としてあるように、<宗教性>を持っている、 その打ち消し難い思考方法に依って、宇宙と世界と人間の<秩序>を形成してきた、 しかしながら、それが縛られた<周期性>としてあることならば、 そこから解放されるための思考が始まることも否定できないことにある。 人間の進化は、思考の<整合性を求め・あらわす活動>によって、 <周期性>という<整合性>からの解放を目指しているということにあれば、 思考の始まりより、<相対・矛盾>した状態に置かれていることにある。 <相対・矛盾した状態にある人間>という認識は、 <整合性を求め・あらわす活動>にあることから生じることで、 <過渡>の状態にある思考があらわされていることであって、 <最終>の状態の思考が示されていることにはない。 人間の言語による概念的思考において、<絶対>と<最終>が存在しないことは、 <絶対>と<最終>は、<整合性>を求める<思考作用>による因果、 <不可知の認識>の原因と<想像力>の結果に依ることにある、 <不可知の認識>は、<想像力>をもたらすという活動にあることである、 それは、<整合性>をあらわすための暫定的結論と言える。 <絶対>と<最終>をあらわす表現が果たす意義は、 <相対・矛盾した状態にある人間>という<個>の認識に対して、 ばらばらな<個>を<ひとつ>に統一させるための<整合性>を作り出すことにあって、 <有意義>を作り出すことにある。 人間認識、及び、世界認識において、<絶対>と<最終>は、存在しないことは、 <有意義>がばらばらに群棲する人間を<ひとつ>の集団とさせることにあって、 <有意義>の<絶対>と<最終>の<概念>は、 <ひとつ>の目的にある集団を共存させるための<指標>となることが実際であり、 それをあたかも変更不可能のように認識させることがあるとしたら、 それは、<ひとつ>の集団となった人間を<ひとつ>の目的へ向かわせる場合にある。 その状況は、<一義>の<周期性>に縛られた、動物存在となることがあからさまとなって、 動物が<囲い>に入れられて、群棲を<ひとつ>にまとめられて育成されるように、 <絶対>と<最終>の概念の<囲い>に入れられる、人間は、 <ひとつ>とされる教育と育成にある存在に置かれることである、 政治的、宗教的、或いは、因習的な<絶対>と<最終>が拘束の縄となることにある。 言語による概念的思考において、<絶対>と<最終>が存在しないように、 <ひとつ>だけしか存在しない、<概念>ということもあり得ないことは、 <相対・矛盾した状態にある人間>を解消するためには、 選択肢が多義にある状態の<混沌>よりも、 <整合性>ある<秩序>が作り出されることで、 <ひとつ>の概念が有効であることが用いられるということにある。 これらは、<個>と<全体>における問題であるから、 これまでの人類史が明らかとさせているように、<全体>を優先させれば、 <全体>から作り出される意義が優先的に有効であると見なされるということである。 <国家>や<社会>や<或る集団>が<全体>と見なされることにおいて、 <有意義>を作り出す、<ひとつ>ということにある、 <混沌>を<秩序>に変える<整合性>が求められるということにある。 <混沌>は、まとまりがないという認識にあって、静的ではないことは、 その動的な状態とは、常に動揺する無秩序にあることを感覚させるものとしてある、 生きて活動している、人間は、知覚する対象に対して、 鴨長明の洞察ある表現に示されるように、 <ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず、 淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし>、 という留まることのない流動・転変にあって、 不変の状態にあり続けるわけではないことに依る。 にもかかわらず、<混沌>を不変の事柄として、考えることをするのは、 <全知することは不可能なことにある>という認識を超えることができないことにある。 これは、<絶対的な状況>にあることでしかないと見ることをすれば、 <全知することは不可能なことにある>―人間、 <全知することは可能なことにある>―神的存在、 そのようにして作り出される両者の相対関係には、 <絶対>という意義が<最終>のありようへ置くことをさせる。 <神的存在>における、この<一義>の絶対性的概念は、 それが前提とされた思考にあっては、<絶対>と<最終>が<整合性>の骨格であり、 <唯一の存在>がその<秩序>を支配するようにして構造化されるものとなる、 その構造化される<秩序>は、動揺しない不変としてあることは、 同様に、<混沌>も、不変にあることの<整合性>から求められることになる。 そこから、<一義>の絶対性的概念に依る、<宗教>という<秩序>の<整合性>は、 可能な限り、<相反・矛盾>を排除することで成立するものとなる、 それでも生じる、<相反・矛盾>については、 <神的存在>に依る、人知を超えた、<神秘>や<奇跡>として相殺されることになる。 これに対して、<多義>の概念に依る、<宗教>という<秩序>の<整合性>がある、 <八百万の神>と考えられる、自然界に行き渡って、 それぞれに固有の<神的存在>があるとするものである。 このありようは、自然界を人間界にまで押し広げられるに至っては、 人間も、<神的存在>と成り得ることが示されることになり、 <人間>と<神的存在>は、相対関係としてあるものではなく、 従って、<神的存在>の支配下にある、<人間>という<直列>の構造ではなく、 <神的存在>と<人間>は、同格でさえある、<並列>の構造をあらわすものとしてある、 それは、<絶対>と<最終>の概念を希薄なものとさせている。 この<一義>と<多義>のいずれが正当性にあるかを論ずることは、 そのいずれに属して思考する立場にあるかを明らかとさせていることでしかないことは、 人間の打ち消し難い思考方法にある、<宗教性>に依る限り、 際限のない議論へ導かれるか、<一義>としてある場合の立場の相違からは、 暴力や戦争において、その論争を表現するということが行われてきたことである。 鴨長明は、流動・転変の認識をあらわした、『方丈記』(1212年)の後、 晩年に、仏の道を求めた隠者の説話を集めた、『発心集』(1216年以前)を編著した、 <ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず、 淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし>、 という自然界において、人間を生きる、それが答えとされたことにあった。 自然界と人間界にあって、<万物は流転する>ということを、 これほど美しい表現であらわしたものはないが、 この表現が<思考のありよう>も示唆していることは、 <発心>は、<悟りを得ようとする心を起こすこと>を意義していることで明らかである、 <思考の流れは絶えることがなく、しかも、もとの状態にはない、 試行錯誤・紆余曲折する、様々の思い付きは、消えていく事柄もあれば、実る事柄もある、 その活動は、いつまでも、同じ形にあることではない>、 この洞察ある表現は、<発端の認識>となって、常に、啓発するものとしてある。 縄文時代を起源とする、<綯われる一筋の縄>は、 この鴨長明の<発端の認識>があらわれたことで、日本民族における、 自然認識、人間認識、及び、思考認識の本然を明らかにさせたと言えることにある。 そして、月岡芳年に依って 『奥州安達ケ原ひとつ家の図』(1885年)の表現があらわれたことは、 人間を生存へ導くための四つの欲求(食欲・知欲・性欲・殺傷欲)の存在を明確とさせたことで、 人間の全体性を考察するための根幹を与えられたことにあると言える。 この両者の<発端の認識>がひとつに撚られることは、 <結びの思想>にあれば、展開がもたらされるための必然的経過として、 自立した民族のありようからの考察、<綯われる一筋の縄>の表現となることにある。 <ひねる>という<異化>は、 <並置される、異なるふたつ以上の事象を比喩で絡めて、 ひねるという作用として行うものにある>、 食欲・知欲・性欲・殺傷欲という<四つの欲求>の活動は、活動そのものがあるだけで、 その活動の意義は、人間を生存へ導くための進化の原動力にあって、 それは、<善・悪>の彼岸として存在するものである、<四つの欲求>に対して、 その<あらわれ>を<善・悪>として考察するのは、此岸においてのことである、 その両岸の間には、 <ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず、 淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし>、 という大河が流れている、 この<流動・転変>をあらわす大河は、人間という動物存在をあらわす限り、 <誕生・成長・衰退・死滅>という過程を<循環・回帰>の<周期性>とさせている、 『方丈記』と『奥州安達ケ原ひとつ家の図』が並置される、 という<異化>に始まる考察である。 人間の心理は、誕生から、成長、衰退、死滅という、 身体の変容のなかに存在するものとして見ることをすれば、 時系列の変化として、<直列>の流れをあらわしているものにあると考えることができる。 子供は、無垢で幼稚であり、大人は、成熟して狡猾である、というような見方にあって、 両者の相違は、そこへ至るまでの時間の変化にあるということになる。 従って、身体が成熟している度合いに従って、心理も成熟している、という見方が自然となる。 この<自然>は、日々の生活の慣習から作られる<見方>として、 その条件とされている生活に適合する考え方が優位に置かれることにあっては、 生活に適合する点では最適にあるが、<一義>化するありようにあることも避けられない。 この<見方>が根拠となって、世代として継承・維持されながら、 形作られて現在に至ったものが<因習>としてあるが、 その<因習>が<善行>にあるか、或いは、<悪弊>にあるかは、人間の進化における、 <周期性>からの解放を阻止させていることにあるか否かに依存する問題である。 人間には、食欲・知欲・性欲・殺傷欲という<四つの欲求>があるという見方も、 それが<因習>という点から見られることにあっては、食欲や知欲は、必然にあっても、 性欲や殺傷欲に関しては、<悪弊>となっている<あらわれ>を見るばかりことにあれば、 宗教的戒律、政治的法律、社会的良識の<縄>に緊縛されて、 <檻>へ収められるばかりのことになる。 <四つの欲求>は、人間を生存へ導くためにあって、 進化の原動力としてあることは、否定できない事実であるにもかかわらず、 それは、充分過ぎるほど理解されていることにありながら、 人間がみずからをしっかりと統御できるというには、未だに幼稚な存在であることから、 <悪弊>となる<欲求>は、抑圧されることで、 <正義の秩序>が維持されるということに置かれる現状にある。 この状況は、人間の心理を<直列>として見ている限りは、 変わりようのないものとしてあり続けることは、 <直列>は、時間に依存するだけの見解以上にはならないことに依るものとしてある。 無垢で幼稚である、<子供>は、時間が経過すれば、成熟して狡猾である、<大人>になる、 <子供>の心理は、肉体的生育に従って、段階的に、<大人>の心理に成長する、 そうして成長した心理にある、<大人>であっても、 <四つの欲求>をしっかりと統御できない、<大人>であることをあらわすものにあれば、 <子供>のあらわす<四つの欲求>と<大人>のあらわす<四つの欲求>の間に、 相違は存在しないということは、どのように時間が経過したことにあったとしても、 <四つの欲求>は、<誕生・成長・衰退・死滅>という過程にあって、 不変のありようが示されているということでしかない、 人間を生存へ導くための進化の原動力という本然があらわされていることでしかない。 それは、人間は、<誕生・成長・衰退・死滅>という過程にあって、 <四つの欲求>の活動に導かれて生をまっとうするだけの動物存在にある、 ということがその存在理由としてあることが如実となるだけのことにある、 心理や思考の問題は、そのなかにあって、<知欲>のあらわれを示していることにおいて、 <四つの欲求>の全体をしっかりと統御するだけの強靭さを未だに獲得できない状況は、 <知欲>の問題を<性欲>や<殺傷欲>と切り離して考察する方法を主流とさせている。 肉体的生育と平行する、心理の成長があるとする、 <直列>の<見方>にあるだけでは不充分であるとすれば、 <並列>という<見方>が導入されるのは、必然的経過となることにある。 この<並列>の見方において、<一万三千五百年の縄の執着>という歴史過程を持つ、 日本民族にあっては、<結びの思想>という見地をあらわすことができる。 肉体的生育過程に同調する心理的成長は、<自然な過程>としてあることではない、 <大人>に成長することのない、<子供>の心理に置かれたままにある、 <大人>の存在は、<不自然な過程>にあるとは言い切れないものにあるからである。 日本民族における、<綯われる一筋の縄>ということも、 この<直列>の成長過程にあるだけのものだとしたら、 どのように時間が経過した状況にあったとしても、 <人間の昇華のありよう>の体現は、到底覚束ない、絵空事にしかならない。 <ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず、淀みに浮かぶうたかたは、 かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし>という表現は、 <直列>とした<自然な過程>をあらわしたものと読み取るだけにあっては、 その<美>をかもし出させている、<流動・転変>の意義は、浮かび上がってこない。 <並列>とは、<直列>の<時間>に対して、<空間>を意義するものにある。 この<空間>は、<心理>という状況をあらわすものにある。 この<心理>という<空間>は、<知覚><意識><認識>から形成されるものにある、 <知覚>とは、<ただ感覚する>ということである、 <意識>とは、<知覚>されたものを<印象として実感する>ということである、 <認識>とは、<意識>されたものを<言語化する>ということである。 <言語よる概念的思考>と称することは、<知覚・意識・認識>における活動にあって、 言語化される<概念>を作り出している状態を<思考する>と言えることにある。 言語化される<概念>には、二種類のものがある、 一つは、<知覚>された対象が<意識>されて、 <認識>によって<名前>を付され、<概念という記憶>となるもの、 もう一つは、<概念という記憶>の組成に依って作り出される、<言語による概念>である。 <概念という記憶>とは、例えば、山岳の光景を視覚することによって、 その<知覚>を<印象として実感する>ことで<意識>したとき、 <地の表面が著しく盛り上がった状態>を<山>とされる<概念という記憶>としていれば、 <山>という言語が付されて作られるものにある、 それは、<富士山>という<山>であることを知れば、その<名前>が付される、 或いは、付される<名前>があり得なければ、<不可知の認識>ということになる。 <知覚>される対象は、<意識>されると、何らかの<名前>が付されて、 <概念という記憶>として作られることにある。 この付される<名前>は、必ずしも、一つにあることではないことは、 <知覚>は、対象を視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚・性的官能を通じて取り込むことにあって、 その複数において、<印象として実感する>ことが<名前>と結び付くことに依る。 その<名前>にしても、日本語の場合であれば、 品詞と呼ばれる、名詞、代名詞、連体詞、副詞、接続詞、 感動詞、動詞、形容詞、形容動詞、助詞、助動詞の相応するものが用いられることにある。 <山岳の光景>は、<単語>にある場合も、<文>にある場合もあるということになるが、 この付される<名前>は、その時点までに、 どのような<名前>による<概念という記憶>を持っているかに依存することにある。 <並列>にある<空間>としての<心理>と言えるのは、 そうして作り出された、<概念という記憶>は、 <平面>に置かれたように、<並べられて存在するもの>としてあることからである。 <概念という記憶>は、<直列>とした<時間>による、 重層する蓄積にあることではなく、 <並列>として、<平面>に置かれ続けるものとしてある、ということである、 <並列>にある<空間>が時間経過に従って、 <概念という記憶>の量を増やし蓄積していくことにある。 これは、<現在>の<思考する>時点から見れば、 <知覚・意識・認識>の過程を経て作られる、<概念という記憶>は、 すべて<過去>のものとなることには違いないが、 時間の長さに依って、<古い>ものが<新しい>ものに取って代わられることにはない、 一度置かれた、<概念という記憶>は、残存するものとしてある。 <思考する>は、この<並列>に置かれた<概念という記憶>を操作する活動にあって、 <結ばせる作用>をもって行われることにある。 <結ばせる作用>とは、<概念という記憶>のそれ自体、 或いは、<概念という記憶>と<概念という記憶>の相互間において、 それらに付された<名前>を<整合性>のある関係とする活動にある。 この<整合性>を求める所以は、 <性的官能>が感覚させる<知覚>が<印象として実感する><意識>として、 <快感の最高潮にある状態>を<整合性>としていることから、 <概念という記憶>として存在するものにある。 但し、適した言語にあるということで、<整合性>と言っていることにある、 その<整合性>の<概念という記憶>に付された<名前>がないことは、 <整合性>の<概念という記憶>が、<名前>を付されて置かれた、 すべての<概念という記憶>と結び付く可能にあるということで示唆される、 <快感の最高潮にある状態>を目指しての<結ばせる作用>にある。 このように、<名前>を付すことのできない、<概念という記憶>というものがあり、 それは、<不可知の認識>の対象となることにあるが、 それを<本能>と言うことも可能なことにあるが、 <名前>を付することができないというこのありようは、 人間の進化における、展開へ向かう、常なる課題としてきたことである。 視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚・性的官能を通じて、 <知覚>された対象が<意識>として実感されると、<名前>を付されて<認識>され、 <概念という記憶>となって、<心理>という<空間>に<並列>に置かれる、 この並置された、<概念という記憶>は、<結ばせる作用>によって、 <整合性>を求める、<思考する>という活動をあらわすことになる。 もう一つの<概念という記憶>の組成に依って作り出される、<言語による概念>は、 <概念という記憶>に付された<名前>を<結ばせる作用>によって組み立て、 <整合性>のある<言語による概念>として作り出すものにある、 この作り出されたものが<概念という記憶>になることは、 <心理>という<空間>に<並列>に置かれることも同様にある。 <言語による概念>として作り出された<概念という記憶>は、 品詞の組成だけで成り立つものであるから、 それを<結ばせる作用>によって組み立てることは、 <言語による概念>と<言語による概念>を結ばせるということは、 新たな<言語による概念>を作り出させることを可能とさせて、 それは、求められる<整合性>によって、<意義>をあらわすものとなる。 この<意義>を作り出す活動は、<象徴>というものを生み出すことになるのは、 <言語による概念>は、<名前>という品詞の組成だけで成り立っていることにある。 品詞という<個>は、<全体>を組成させる<象徴>としてあることは、 その<個>が<全体>をあらわすための<意義>を示すことにある。 <象徴>は、<個>があらわす<全体>の<意義>ということにあることは、 <象徴>に依って<思考する>ということを可能とさせて、 作り出される<意義>に、より確かな<整合性>をもたらすようにさせる。 <思考する><意義>が不明であったり、不確かであったりすることは、 この品詞の組成による<象徴>が作り出す<意義>に、 求められる<整合性>が希薄なことにある。 <整合性>の所以が性的官能のあらわす<快感の最高潮にある状態>にあれば、 <快感の最高潮にある状態>が<知覚・意識・認識>されるという課題は、 人間が<言語よる概念的思考>を行っている限り、重要な問題としてあることになる。 <概念という記憶>から<意義>と<象徴>を作り出すことの可能は、 <結ばせる作用>を運動的に有用な働きとさせることへ導いていることは、 <学習>の能力ということであらわされているが、 <快感の最高潮にある状態>を<学習>の能力としてあらわすことが可能か、 <言語よる概念的思考>から生み出される、人間の<表現>に問われる問題である。 <心理>において、<象徴>と<意義>が作り出されるということは、 <結ばせる作用>が<比喩>という結ばせ方へ導かれることにある。 この<比喩>という結ばせ方は、<結びの思想>があらわす存在理由としてあることで、 それが有用となることにあるか否かは、 日本民族が問われ続ける、<心理>の常態としてあることである。 日本民族という自覚において、<綯われる一筋の縄>という認識が明瞭にあれば、 この<心理>の常態は、必然的な思考の展開をもたらすものにあることは、 <結びの思想>は、<異化・変化・昇華>を行うために、 <縄を綯う>という思考をすることにあり、 <縄を綯う>ということは、二つ以上の相対、或いは、相反する、 <概念という記憶>を撚り合わせることに始まることにある。 <縄を綯う>ということは、<比喩>という結ばせ方をもって、 <結ばせる作用>を活動させることにあるから、 <表現の可能>として、<多義・多種・多様>へ至らせるものとなる。 このために作り出された言語である、<結びの思想>の具現としての<日本語>は、 <漢字・ひらがな・カタカナ・ローマ字>の組成において、 <表現の可能>の最適をあらわすものとしてあるということである。 <言語による概念的思考>において、 <知覚>される対象は、<意識>されると、何らかの<名前>が付されて、 <概念という記憶>として作られることにあるということは、<品詞>において、 <漢字・ひらがな・カタカナ・ローマ字>の<多種・多様>が用いられることは、 日本民族が独創として思考して表現できることは、 <多義・多種・多様>にあって、その本然をあらわすということが示されることになる。 これは、<花鳥風月>に代表される、<自然観照の情緒的表現>において、 有効な表現としてあったことは、 日本民族のこれまでの歴史が明らかとさせていることにあるが、 <結びの思想>が如実となった、<現段階>にあっては、 <自然観照の情緒的表現>が日本民族の思考の<唯一性>にあるということにはない、 むしろ、<自然観照の情緒的表現>を強調するあまりに見過ごされたきた、 <縄を綯う>という思考から生まれる<表現>を再評価することは、 <綯われる一筋の縄>が過去を未来へ繋ぐということから必要不可欠な事象となる。 <結ばせる作用>を運動的により有用な働きとさせることへ導くには、 <表現の可能>に挑戦し続ける以外にない、 <綯われる一筋の縄>の実現は、 日本民族における者がそれぞれの思考にあって、 隷属したように、<一義>に縛られて<思考する>ことではなく、 <多義・多種・多様>の<表現の可能>を知ることにおいて、 <多義・多種・多様>の<表現の可能>を実践することにある。 これが日本民族にできることである。 (2013年3月9日 脱稿) |
☆13.縄による緊縛という結びの思想・四十八手 (10) ☆13.縄による緊縛という結びの思想・四十八手 (8) ☆縄による日本の緊縛 |