般若の思想 ―礼・節・法の官能― <般若の女> 借金返済で弁護士に相談






<般若の女>



礼・節・法の三人の女性が被ることを求められた、般若の面であった、
目と歯に鍍金がはめられ、二本の角をもってあらわされる、鬼女の顔立ちは、
<人間が真実の生命に目覚めた時にあらわれる、根源的な叡智、
     世界の窮極的真理を知ること、智慧>があらわされていた、
全裸を後ろ手に縛られ胸縄を施され、<じゅずつなぎ>に繋がれている、
礼・節・法の三人の女性がみずから被るという行為を許されない、般若の面は、
<あの方>の手で被せてもらうことの厳粛にある以外の何物でもなかった、
だが、<あの方>は、癌で亡くなってしまった、
葬儀も滞りなく行われ、納骨も無事済まされたことにあれば、
般若の面が被せられることのあり得ないばかりか、
縄による緊縛という表現行為は、縛者と被縛者が存在して、
その相対関係を縄掛けというありようが繋ぐものにある、
縛者は、被縛者の存在なくしては、その存在理由をあらわさない、
被縛者は、縛者の存在なくしては、その存在理由をあらわさないという平等の関係にある、
その相対関係を繋ぐ縄掛けということも、両者のいずれかが失われれば、
その存在理由をあらわさないものにある、
そして、<じゅずつなぎ>というありようも、また、失われることにあるのだった、
縛者は、執政者による国家体制、被縛者は、国民、
縄掛けは、憲法と法律による制度として見ることが可能であるということからすれば、
この場合、類推としては、<あの方>というのが<天皇>であれば、
<縄掛け>は、<憲法による天皇制>にあるというありようが考察できることにある、
<天皇と天皇制>が失われた日本国家は、
どのような展開へ導かれるものにあるかという問題に立たされることにある、
<天皇と天皇制>の撤廃は、革命を意義する過激な行動へ向かうことがあり得なくても、
天皇条文の撤廃という<憲法改正>に依って実現することが可能なことにある、
<憲法改正>の是非は、<国民投票>の如何に依存することであるから、
つまりは、国民は、<求めるありようをあらわす存在にある>ということにある、
多種・多様・多義のあらわされる、
日本人・日本民族の求めるありようがあらわされることである、
それは、みずからという思いのなかであらわされる、
ということが実践されるだけで、可能なありようとしてあることである、
<あの方>という縛者の失われた、礼・節・法の三人の女性においても、
みずからという思いのなかであらわされることが求められるのは、必然であった、
納骨を終えて住居へ戻り、慣れ親しんだ居間の床へ車座に正座した、
礼子と法子と節子は、眼の前に置かれた、
<あの方>の位牌、
<あの方>がみずから麻から綯った縄束の数々、
鬼女の恐ろしい形相をあらわす、三つの般若の面、
それらの置かれた床があらわす、遺産として残された二階建ての古い建築物、
それを無言のまま、ただ、眺め続けるばかりにあるのであった、
縛者を失った被縛者の方途の見えないありようがあらわされていたとするには、
ただ、哀しみや感慨や追憶にあって、<あの方>を思う三人の女性ではなかったことは、
<じゅずつなぎ>を通して、知るべきことを知っていたことにあったからだった、
共存する意識にあっては、認識を共有することが可能なことにあったからであった。

法子は、突然、思い立ったように立ち上がると、唇を真一文字に引き締めて、
礼子と節子の方へ顔立ちを向けてしっかりとうなずいた、
おもむろに着付けている黒の喪服の帯締めへほっそりとした指が掛けられると、
帯締めは外され、帯揚げも解かれ、指先は、帯へと掛かっているのだった、
帯が手際よくするすると外されていったことは、伊達巻や腰紐も難なく解かれることにあった、
裾前が大きく割れた着物は、躊躇なく両肩からすべり落とされて、
純白の長襦袢姿になった、法子は、<あの方>の位牌をはっきりと見据えていた、
長襦袢は脱ぎ去られ、肌襦袢が取り払われ、ふたつの愛らしく膨らんだ乳房が露わとされて
ショーツひとつとなった姿があらわされた、
みずからの脱衣を厳粛な沈黙をあらわして見つめ続ける<あの方>の存在を意識しては、
法子は、腰付きに着けているショーツを躊躇なく脱ぎ去って、
ふっくらと茂る漆黒の陰毛を覗かせた全裸の姿態をさらけ出させたのであった、
腰付きを屈めると、最後の着衣である、足袋を取り去って、
その場へ全裸の姿態を正座の姿勢としてあらわすことをしたのであった、
その両手は、背後へまわされて、両手首は重ね合わされ、
縛られるのを期待するというありさまを明確にさせたことにあったのである、
その潔い脱衣は、出発となる一歩を踏み出させたと共感させるものがあったことは、
礼子においても、節子においても、同様に、着付けていた喪服を脱衣させたことにあった、
法子が正座する両隣へ、礼子は右手に、節子は左手に正座の体勢となり、
全裸にあって、両手首を後ろ手に重ね合わさせた、同様の姿態をあらわさせたのだった、
一糸もまとわない生まれたままの全裸を晒した、礼・節・法の三人の女性は、
しっかりと顔立ちをもたげたまま、その澄んだまなざしを<あの方>の位牌へ向けていた、
縄で縛られることを待つ思いを露わとさせている、その姿は、
お迎えする<あの方>が縄を携えて眼前にあらわれることを待望する、
それまであった日常のありようのように、
礼・節・法の三人の女性の意思が表明されていることでしかなかった、
位牌のあらわす象徴的存在はあり得たことかもしれなかった、
だが、実存する縛者が存在しないことは、現実であった。

縛者が存在しなければ、被縛者という存在はあり得ない、という単純な論理である、
<天皇>が存在しなければ、<被縛者>という<国民>もあり得ないということである、
その相対関係を繋ぐ<縄掛け>ということも、両者のいずれかが失われれば、
<天皇制>は、その存在理由をあらわさないものにある、
<縛者と縄掛け>は、 <執政者による国家体制>が失われれば、
<憲法と法律による制度>も失われるということにある、
そこからは、<国民>の概念は、新しく創造されることが求められることから始まる、
新しい<国家体制>と新しい<憲法と法律による制度>の創造へ導かれることにある、
日本人・日本民族のありようは、此処が原点にあるということである、
それらを創造できるのは、みずからという思いを考えることにおいて、
多種・多様・多義のあらわされる、人間としての日本人・日本民族にあるということである、
この日本人・日本民族の本来のありように対して、
<一億総何々>という<一義>にある<国民>の概念が押し付けられ続けることは、
相反・矛盾・軋轢・相克・苦悩から<みずから>の喪失が生じることの因果にある、
<みずから>を喪失して、他者へ隷属することになる、<一義>は、
いじめ・不登校・引きこもり・家庭内暴力・幼児虐待という自己表現となって、
増大するばかりの数値にあらわされることは、<一義>に統括されることの歪みのあらわれにある、
みずからという思いのなかであらわされる、多種・多様・多義のあらわれ、
みずからのなかにあることならば、同様に、他者にもあるということの当然の認識は、
<一義>に置かれることの脆弱な想像力のありようでは、果たし得ないことである、
感情による<自然観照の情緒的表現>である<もののあはれ>にあるだけでは、
人間関係に始まり、すべての事象は、喜怒哀楽の対象以上のものにはならない、
喜怒哀楽にあることを感動と考える以上のものにはならない、
<もののあはれ>にあることで、国民を<一義>の認識に置いた、戦争をすることを目的とした、
国民をひとつに統括するという戦前の国家体制と制度のありようでしかない、
そのようなありようを教育の現場から始まって、省庁や企業、個人の家庭に至るまで、
まかり通ることを許容する、現在の日本国家は、
それを<天皇>の存在理由のお墨付きで行い続けているという実態からは、
日本国家は、何処へ向かって転がり続けていくことにあるかという問いにあることである、
日本国家にある国民は、喪失してる<みずから>を覚醒する以外にないことが求められる実情である、
≪みずからが存立するまわりを取り巻くすべての対象に対して神を認識できるというありよう、
これは、<八百万の神>と称される、日本民族固有の事情としての宗教性にあることである、
日本人は、この認識において、老若男女、十人十色、千差万別という多種・多様・多義にあって、
すべての者が<八百万の神>を<神的存在>とすることで、平等な人間としてあり得ることにある≫
という共存の認識にあって可能となる、宇宙と自然と人間の認識の覚醒である。

全裸にあって、両手首を後ろ手に重ね合わさせて、
もたげさせた顔立ちの真剣なまなざしを<あの方>の位牌へ投げ掛ける、
礼・節・法の三人の女性にあった、それは、長い時間続けられたことにあったが、
突然、礼子が思い至ったように言い放った言葉は、次のようなものだった、
「節子さん、あなたの経験と技量が役立つときが来たのです、
みずからの身体に対して、みずからの縄で、みずからの縄掛けを行う、
自縛というありようは、私たちの進むべき道としてあり得ることだと思います、
節子さん、法子さんと私に手本を示してください」
そのような自意識を聞かされた、法子は、すぐさま、
「私にも、理解できます、
<あの方>がみずから綯った麻縄は、霊力をあらわし、霊感がもたらされるものにあります、
私たちの進むべき方途を明らかとさせてくれることは間違いないのです、
節子さん、私たちに<縄掛け>の仕方を教えてください」
ひらめいた明るい表情を浮かべながら、そのように畳み掛けるのだった、
節子は、礼子と法子の言葉を噛み締めていた、
彼女に言葉はなく、深く考えているという様子にあった、
それから、納得がいったように頷くと、床から立ち上がって、置かれた縄束へ向かった、
<あの方>がみずから自然の植物繊維である麻から綯った麻縄は、
使い古されて灰色に脱色した姿をごっそりとした縄束であらわしていた、
節子は、その縄束を九つ取り上げると、振り返るのだった、
そこには、すでに、床から立ち上がって、女性の優美な全裸の姿態を露わとさせた、
礼子と法子が隣り合わせに直立した姿勢をあらわしていた、
節子は、ふたりの前へ九つの縄束を置き、そのなかから、三つをそれぞれに手渡すのであった、
「私が<あの方>に代わって、<縄掛け>を教えることは、分不相応なことにあります、
<あの方>から賜った縄による緊縛に対しては、
私が行っていた自縛行為は、ままごとのようなものでしかありません、
私は、自己満足の自慰行為を行っていたに過ぎなかったからです、
しかし、<あの方>が亡くなられた今、礼子さんと法子さんが求められる意味は、
私も<じゅずつなぎ>にある女性として、理解できることにあります、何故なら、
私は、<あの方>の<縄掛け>によって成長させられたことにあるからです、
<あの方>の霊力のある麻縄を用いて、
私が示す<縄掛け>がどのような霊感をあらわすかは、その成長の成果にあります、
私は、自縛による<縄掛け>において、最も高ぶらされる意匠を考えました、
それをこれから、礼子さんと法子さんと一緒に行いたいと思います」
節子は、そのように言うと、手にしていた縄束をほぐして、続けた、
「縄の使い方は、一本の縄をふた筋とさせて、用います、
平均にしてふた筋とさせた曲がりの部分を縄頭と言います」
節子は、そのようにした麻縄を指し示した、
礼子も法子も、節子に指導されるように、同様のことを行うのだった、
節子に導かれるまま、自縛のありようをあらわした<縄掛け>は、
最初に、<あの方>の一本の麻縄がふた筋とされて縄頭というものを作られ、
その縄頭がほっそりとした首筋へ掛けられた、
正面へ垂らさせた縄へ、首元から下腹までの五箇所、
首元、乳房の間、鳩尾、臍の上部、臍の下部に等間隔の結び目が作られた、
艶やかな太腿が開かれて、縄の残りが股間へ通された、艶かしい尻の亀裂からたくし上げられて、
その際に、女性をあらわす割れめへ縄がはめ込まれるように整えられた、
残る縄は、首筋にある縄頭までたくし上げられて引っ掛けられると垂らされた、
更に、<あの方>の二本目の麻縄が取り上げられた、
ふた筋とされて出来た縄頭が背後へ垂らされているふた筋の縦縄を背中の中央でまとめて、
結ばれたふた筋は、左右へと振り分けられ、身体の正面まで持ってこられると、
左右からそれぞれに、首元と乳房の間にある結び目の間へ通されて、
再び、背後へ引かれるようにされた、そこには、綺麗な菱形があらわされた、
この菱形が残りの三箇所の結び目の間へ順次作られていった、
乳房の間と鳩尾、鳩尾と臍の上部に菱形を浮かび上がらせた、
二本目の麻縄の残りは、背後の縦縄へ縄留めがされて終わった、
<あの方>の三本目の縄も、ふた筋とされて、その縄頭が背中の縦縄へ結ばれ、
左右から正面へもってこられ、臍の上部と臍の下部にある結び目の間へ菱形を作り出す、
残る縄は、臍の上部と臍の下部のために掛けられた横縄と背中の縦縄の交錯へ結ばれた、
首筋に掛けられて垂らされた縄も、その交錯へ結ばれて、残りは縄尻となった、
通称を<亀甲縛り>と呼ばれる<縄掛け>が独りで行われたことにあった、
白い柔肌を絡めるように施された、綾なす菱形の紋様も鮮やかな縄による緊縛は、
可憐な乳首を立たせた、ふっくらとしたふたつの乳房を縄で囲むようにして際立たせ、
愛らしい臍を際立たせ、漆黒の色艶を帯びた陰毛が隠させる、
柔和な女の小丘に覗かせる割れめを分け入って食い込まされた箇所を麻縄が際立たせたことは、
女性の官能がかもしだす匂い立つような妖美を漂わせることにあった、
それは、自縛の<縄掛け>により、三人の優美な全裸をあらわす女性が直立して、
横並びに互いの手を取り合いながら立っていることで、あらわされるものにあった、
礼・節・法の三人の女性は、みずからを供物として捧げる思いにあって、
もたげた真顔の顔立ちを<あの方>の位牌へしっかりと向けているのであった、
<あの方>がみずから綯った麻縄の霊力は、真のものにあることが示されるように、
<亀甲縛り>と呼ばれる<縄掛け>にある三人の女性は、
柔肌を圧迫される菱形の紋様の<縄掛け>に官能を高ぶらされていたことは、
股間にはめ込まれた股縄が上半身の上気に伴って食い込むようになっていることで示された、
女芽と膣口と肛門は、<あの方>の縄が直に触れて刺激を与えられることにあるのだった、
<あの方>に縄で縛られて、女性の羞恥の割れめを愛撫される、
その思いをはっきりと自覚させられることにあったのである、
<あの方>は亡くなった、<あの方>の縛者としての実在はない、
<あの方>は、位牌のなかに存在するということでしかない、
だが、高ぶらされる性的官能にあって、
礼・節・法の三人の女性は、それとはまったく異なる思いを高ぶらされていたのである、
<縛者>と<被縛者>と<縄掛け>、
このありようは、実在する者の固有の事柄としてある限りは、個人の趣向の域を出ない、
同様にして、国家も、個人の趣向の域を出ない、
縄文時代に発祥して、日本人・日本民族の歴史の生成を貫く、縄の存在、
それがあらわす<結びの思想>という認識に立つことがなければ、<あの方>の縄の霊力が、
<人間が真実の生命に目覚めた時にあらわれる、根源的な叡智、
     世界の窮極的真理を知ること、智慧>という霊感をもたらすということはあり得ない、
互いに手を取り合って共存をあらわす、全裸を縄で緊縛された、礼・節・法の三人の女性は、
女性の羞恥の割れめに食い込まされた麻縄が一段と埋没することを意識させられると、
ああ〜という三重唱は、<あの方>の縄を湿らす愛液を漏れ出させることにあった、
その悩ましく疼く官能の高ぶりは、<あの方>の縄で緊縛されているからこそあり得る、
新たな方途への開放にあることだった。

万世一系の固着した歴史にある日本、行く末も同様にあるという日本、
その<一義>が民族の存在理由としてあるだけの国家、
国民という概念は、その<一義>を超えるものにはないということにおいて、
国民であるという被縛者をあらわしていることにある、
そのありようを受容するか否かは、
多種・多様・多義、十人十色、千差万別というありようにある国民であるから、
ひとつの答えが出ることにはない、
つまりは、日本人・日本民族は、ひとつに統合される国民にあることでない、
<もののあはれ>という感情による<自然観照の情緒的表現>、
これは、観念による<自然観照の合理的表現>の相対でしかない、
日本人・日本民族の哲学・芸術・美学をあらわすものではない、
<国学>と称されるものに日本人・日本民族の根拠を置いている限りは、
<自然観照の情緒的表現>と<自然観照の観念的表現>という相対にある人間、
その実相を見ることはできない、<国学>が果たした役割は、
人間にある<自然観照の情緒的表現>を明確にしたということであって、
<自然観照の観念的表現>が極度に流入する西洋思想の受容にあっては、
明治時代よりの<欧化主義>としてあらわされたことにあるにもかかわらず、
日本国家が<天皇>を統合の象徴として行った対外戦争は、
<もののあはれ>という感情による<自然観照の情緒的表現>でしかあり得なかったことである、
このありようを<天皇制>という明治維新以来の国家体制として、
敗戦国家となった戦後から現在に至るまで継承維持しているということは、
ただ、日本人・日本民族の隷属性が露わとされていることにあるに過ぎない、
そのような国家が作り出す<一義>に隷属することではなく、
ひとりひとりにある日本人・日本民族にある者は、
みずからという思いにおいて、自己実現できる人間としてあることは、当然のありようである、
≪みずからが存立するまわりを取り巻くすべての対象に対して神を認識できるというありよう、
これは、<八百万の神>と称される、日本民族固有の事情としての宗教性にあることである、
日本人は、この認識において、老若男女、十人十色、千差万別という多種・多様・多義にあって、
すべての者が<八百万の神>を<神的存在>とすることで、平等な人間としてあり得ることにある≫
ということを考えれば、当たり前の日本人・日本民族にあるというだけのことである
戦争のない平和の状態を受容することは、
いじめ・不登校・引きこもり・家庭内暴力・幼児虐待を受容するありようと等価にある、
この現実の相反・矛盾を考察することがあり得ない限り、
日本人・日本民族と日本国家は、没落の一途を辿るしかない方途を進むしかない、
難しいことではない、
各々がみずからに覚醒することである、
多種・多様・多義、十人十色、千差万別にあるみずからを自覚するというだけである、そこからは、
≪みずからが存立するまわりを取り巻くすべての対象に対して神を認識できるというありよう、
これは、<八百万の神>と称される、日本民族固有の事情としての宗教性にあることである、
日本人は、この認識において、老若男女、十人十色、千差万別という多種・多様・多義にあって、
すべての者が<八百万の神>を<神的存在>とすることで、平等な人間としてあり得ることにある≫
という認識を通して、各々がみずからの希望とする目的の実現へ向けての切磋琢磨があるだけである。

礼・節・法の三人の女性は、
床へ置いてあった般若の面をそれぞれにみずからの手で被るのだった。



☆NEXT

☆BACK

☆九つの回廊*牝鹿のたわむれ