般若の思想 ―礼・節・法の官能― <じゅずつなぎ> 借金返済で弁護士に相談






<じゅずつなぎ>



土蔵の二階で待っていた、三人の全裸の姿にある女性は、
三十九歳になる礼子、三十四歳になる法子、三十一歳になる節子だった、
共に手を繋いで、横並びに立ち尽くす、三人は、
自然の植物繊維を綯った麻縄を手に携えた<あの方>が眼の前に立つと、
互いを繋いでいた手をおもむろに放させた。

礼子が一歩前へ出るのだった、
礼子は、<あの方>の顔付きをしっかりと見据え、それから、
艶やかな黒髪を揺らせながら、なめらかで白い背中を<あの方>の方へ向けさせた、
両手がそろそろと背後へまわされて、双方の手首が重ね合わされるのであった、
縛ってくださいと身を差し出す、そのような姿勢を執った瞬間から、
すでに、一糸もまとわない全裸にある身上は、込み上がる羞恥が官能を高ぶらせて、
縛られるのだという思いは、決断する思いへ向かわされるのだった、
それは、<あの方>の縄に導かれるままに、知るべきことを知らされる、
みずからというものがあることだった、
手首へ麻縄が巻き付けられた感触を意識させられただけで、思わず、
ああっ、という声音が漏れ出てしまうほど、身体全体が縄を欲しているのだった、
<あの方>の縄掛けは、痛くも苦しくもなく、むしろ、もっと掛けて欲しいと望ませるほど、
柔肌へしっくりと馴染むことを経験させられてきたが、
それであっても、いつも、初縄として掛けられたときの初々しい感覚があることは、
三十九歳になる礼子に少女にあるような思いがもたらされることでもあった、
二度の離婚暦があり、男性経験も豊富な年増女が何を勘違いしてとみずから思うが、
重ね合わせた両手首を縛られた麻縄が身体の前へ持ってこられ、
ふたつの豊かに膨らんだ乳房の上部へ掛けられていくと、
顔立ちが火照るほどの羞恥が込み上げてきて、
縄に対して素直な気持ちがあらわされていることにあると感じさせられるのだった、
しっかりと二度巻き付けられると、手首の縄へ戻されて縄留めがされる、
新たな縄が手首の縄へ結ばれて、身体の前へ持ってこられると、
今度は、乳房の下部へ縄掛けが行われ、同じように二度巻き付けられると、
背後へ戻されて、腋の下から前部の縄へ絡められ、それが左右に行われたことは、
豊かに膨らんでいるふたつの乳房がみずからの両眼にも分かるほど、
突き出すような具合になっていたことは、
薄紅色のふたつの乳首がしこりを帯びているさまが露わとなっていることも知れた、
手首の縄で縄留めがされ、<あの方>に縄尻を取られたことは、
その場へ正座をするように促されたことを意味していたから、
礼子は、恭順をあらわすように、優美な腰付きを落として、
片膝を付きながら、おもむろに正座の姿勢を執っていくのであった、
生まれたままの全裸を後ろ手に縛られ、胸縄を掛けられた姿態に置かれ、
艶やかな太腿を慎ましく閉ざさせて、顔立ちをもたげさせた、
その表情は、毅然としているくらいの真顔をあらわして、
ただ、ひたすらに、寡黙になることは、
肉体が込み上げさせる官能の高ぶりへ精神を同調させようとしていることだった。

礼子が床へきちっとした正座の姿勢をあらわしたことを見て取った、
法子は、一歩前へ出るのだった、
法子は、<あの方>の顔付きをしっかりと見据え、それから、
艶やかな黒髪を揺らせながら、なめらかで白い背中を<あの方>の方へ向けさせた、
両手がそろそろと背後へまわされて、双方の手首が重ね合わされるのであった、
縛ってくださいと身を差し出す、そのような姿勢を執った瞬間から、
すでに、一糸もまとわない全裸にある身上は、込み上がる羞恥が官能を高ぶらせて、
縛られるのだという思いは、決断する思いへ向かわされるのだった、
それは、<あの方>の縄に導かれるままに、知るべきことを知らされる、
みずからというものがあることだった、
手首へ麻縄が巻き付けられた感触を意識させられただけで、思わず、
ああっ、という声音が漏れ出てしまうほど、身体全体が縄を欲しているのだった、
<あの方>の縄掛けは、痛くも苦しくもなく、むしろ、もっと掛けて欲しいと望ませるほど、
柔肌へしっくりと馴染むことを経験させられてきたが、
それであっても、いつも、初縄として掛けられたときの初々しい感覚があることは、
三十四歳になる法子に少女にあるような思いがもたらされることでもあった、
男性経験がなく、ずっと独身を通している女のやんちゃな心持ちとみずから思うが、
重ね合わせた両手首を縛られた麻縄が身体の前へ持ってこられ、
ふたつの愛らしく膨らんだ乳房の上部へ掛けられていくと、
顔立ちが火照るほどの羞恥が込み上げてきて、
縄に対して素直な気持ちがあらわされていることにあると感じさせられるのだった、
しっかりと二度巻き付けられると、手首の縄へ戻されて縄留めがされる、
新たな縄が手首の縄へ結ばれて、身体の前へ持ってこられると、
今度は、乳房の下部へ縄掛けが行われ、同じように二度巻き付けられると、
背後へ戻されて、腋の下から前部の縄へ絡められ、それが左右に行われたことは、
愛らしく膨らんでいるふたつの乳房がみずからの両眼にも分かるほど、
突き出すような具合になっていたことは、
桃色のふたつの乳首がしこりを帯びているさまが露わとなっていることも知れた、
手首の縄で縄留めがされ、<あの方>に縄尻を取られたことは、
その場へ正座をするように促されたことを意味していたから、
法子は、恭順をあらわすように、優美な腰付きを落として、
片膝を付きながら、おもむろに正座の姿勢を執っていくのであった、
生まれたままの全裸を後ろ手に縛られ、胸縄を掛けられた姿態に置かれ、
艶やかな太腿を慎ましく閉ざさせて、顔立ちをもたげさせた、
その表情は、毅然としているくらいの真顔をあらわして、
ただ、ひたすらに、寡黙になることは、
肉体が込み上げさせる官能の高ぶりへ精神を同調させようとしていることだった。

法子が礼子の隣へきちっとした正座の姿勢をあらわしたことを知ると、
節子は、一歩前へ出るのだった、
節子は、<あの方>の顔付きをしっかりと見据え、それから、
艶やかな黒髪を揺らせながら、なめらかで白い背中を<あの方>の方へ向けさせた、
両手がそろそろと背後へまわされて、双方の手首が重ね合わされるのであった、
縛ってくださいと身を差し出す、そのような姿勢を執った瞬間から、
すでに、一糸もまとわない全裸にある身上は、込み上がる羞恥が官能を高ぶらせて、
縛られるのだという思いは、決断する思いへ向かわされるのだった、
それは、<あの方>の縄に導かれるままに、知るべきことを知らされる、
みずからというものがあることだった、
手首へ麻縄が巻き付けられた感触を意識させられただけで、思わず、
ああっ、という声音が漏れ出てしまうほど、身体全体が縄を欲しているのだった、
<あの方>の縄掛けは、痛くも苦しくもなく、むしろ、もっと掛けて欲しいと望ませるほど、
柔肌へしっくりと馴染むことを経験させられてきたが、
それであっても、いつも、初縄として掛けられたときの初々しい感覚があることは、
三十一歳になる節子に少女にあるような思いがもたらされることでもあった、
独身を通しての自縛行為の常習者であった自惚れた心持ちとみずから思うが、
重ね合わせた両手首を縛られた麻縄が身体の前へ持ってこられ、
ふたつのふっくらと膨らんだ乳房の上部へ掛けられていくと、
顔立ちが火照るほどの羞恥が込み上げてきて、
縄に対して素直な気持ちがあらわされていることにあると感じさせられるのだった、
しっかりと二度巻き付けられると、手首の縄へ戻されて縄留めがされる、
新たな縄が手首の縄へ結ばれて、身体の前へ持ってこられると、
今度は、乳房の下部へ縄掛けが行われ、同じように二度巻き付けられると、
背後へ戻されて、腋の下から前部の縄へ絡められ、それが左右に行われたことは、
ふっくらと膨らんでいるふたつの乳房がみずからの両眼にも分かるほど、
突き出すような具合になっていたことは、
可憐なふたつの乳首がしこりを帯びているさまが露わとなっていることも知れた、
手首の縄で縄留めがされ、<あの方>に縄尻を取られたことは、
その場へ正座をするように促されたことを意味していたから、
節子は、恭順をあらわすように、優美な腰付きを落として、
片膝を付きながら、おもむろに正座の姿勢を執っていくのであった、
生まれたままの全裸を後ろ手に縛られ、胸縄を掛けられた姿態に置かれ、
艶やかな太腿を慎ましく閉ざさせて、顔立ちをもたげさせた、
その表情は、毅然としているくらいの真顔をあらわして、
ただ、ひたすらに、寡黙になることは、
肉体が込み上げさせる官能の高ぶりへ精神を同調させようとしていることだった。

左手に礼子、中央に法子、右手に節子が正座の姿勢を整然とあらわしていた、
三人は、互いの柔肌を触れ合わせるくらいにして隣り合わせとなっていた、
<あの方>の一本をふた筋とさせた麻縄は、
それぞれの女性の後ろ手に縛られた手首を繋いでいくことにあった、
そのようにして、<じゅずつなぎ>とされたことは、顔立ちをもたげ、寡黙になって、
肉体が込み上げさせる官能の高ぶりへ精神を同調させる身上を集中させるのだった、
一糸もまとわない生まれたままの全裸の姿にあって、
両手の自由を奪われて、その奪われた自由を更に拘束されるように、
ふたつの乳房を上下から挟まれた胸縄を掛けられたことに依って、
両腕は、がっちりと胴体へ固定されたありように置かれていた、
その上、窮屈な正座の姿勢を執らされて、一蓮托生の一本の縄で繋がれていた、
女性たちが全裸に剥かれて、縄で緊縛されている被虐があらわされている、
その状況にあると見えたとしても、不思議はなかった、
だが、見えるものは、それを片側としたならば、
反対側となる見えない側にも、意義は存在する、
<じゅずつなぎ>は、その見えない側の意義を明らかとさせるありようにあった、
従って、<じゅずつなぎ>に置かれた、三人の女性は、
被虐に晒されているという思いなど微塵もなく、覆い隠すものひとつない全裸にあって、
縄による緊縛を施されたことで、むしろ、そのようなありようがあり得なければ、
感受することのできない身上にあることを自覚していた、
人間の肉体は、外部からの刺激に対して、興奮を呼び覚ます、
人間は、みずからを意識するということから生じる羞恥を覆い隠すために、
他の動物一般が裸の状態にあることを差別する意識から、
衣服や装飾品を身にまとう、それも、高価であればそれだけ、
差別意識が他の動物ばかりでなく、同等の人間に対しても優位の意識を生ませて、
みずからを意識するということから生じる羞恥は覆い隠される、
そのありようを<文化>と称している、
<文化>とは、人間が全裸にあることを覆い隠すものである、
<文化>が作り出す<人間性>とは、覆い隠すことの切磋琢磨である、
しかしながら、覆い隠しているだけのものであるから、
剥ぎ取られれば、人間が他の動物一般と大差のないことがあらわされる、
そのようにしてある、生まれたままの全裸にある肉体の状態は、
外部からの刺激に対して、興奮を呼び覚ますことは、
みずからを意識するということから生じる羞恥が剥き出しとなることにある、
みずからを意識する、このありようは、置かれた状況に依存することで、
人間は、一般的な生活では、みずからを意識することは、ほとんどない、
みずからを意識せざるを得ないという状況へ置かれることであり得る、
一糸もまとわない、装飾品の一切も身に着けない、
生まれたままの全裸にある姿態へ置かれて、
身体の自由を奪われる縄による緊縛という状態へ置かれて、
みずからを意識せざるを得ないという状況にあることは、
身体に巻き付けられて、柔肌を圧迫する縄の刺激に対して、
呼び覚まされた興奮は、更に、高ぶらされるものとなることは、必然であった。

肉体の自由を奪われ拘束された状態に置かれたからこそ、
精神は解放され、更なる次元の思いへ導かれることにある、
このような相反・矛盾した表現が見えるものを片側としたならば、
反対側となる見えない側に存在する意義にあることは、
人間の精神と肉体の可能性を示唆されることである、
<じゅずつなぎ>がそのひとつの方法であることは、
人間においては、羞恥に高ぶらされる性欲と性的官能があるからこそ、
それが牽引する力動にあることが意義される、
正座の姿勢を整然とあらわしていた、<じゅずつなぎ>にされた、三人の女性は、
慎ましく両腿を閉ざさせた体勢をもじもじとさせる素振りにあらわすようになっていた、
それは、悩ましい疼きが女性の羞恥の源泉に湧き起こり、清廉な水をもれ出させる、
その水が熱くなっている羞恥の割れめを濡らすことが始まっている予兆であった、
すでに、両眼を閉ざさせて、込み上がってくる悩ましい疼きを感受するままに、
優美な腰付きをもどかしそうにくねらせていたことは、
突き出させられたふたつの乳房においても、乳首が尖っていることであらわされていた、
抑えようにも抑えられない、悩ましく疼き上がる高ぶりであることは、
礼子の綺麗な形をした唇を開かせて、あっ〜、あっ〜、という声音を漏らさせたことは、
隣に繋がれている、法子や節子にも、堰を切らせたことにあった、
三人の女性は、あっ〜、あっ〜、あっ〜、という甘美な三重唱を始めたことにあったが、
その声音は高まるに従って、全裸を後ろ手に縛られ胸縄を掛けられた姿態をうごめかせた、
高ぶらされる官能は、美女たちの顔立ちを火照らせているばかりでなく、
うねりくねりさせる肉体を上気させるまでになってくると、
突き上げられる官能から、ひねる・ねじる・よじる肉体は悶えるが、
後ろ手に縛られた手首を互いに一本の縄で繋がれていたことは、
みずからの思い通りのうごめきをあらわさせなかった、
それは、三者が一蓮托生にあるという実感を確認させたことにあった、
礼子は、みずからが先頭を切って、官能の快感の絶頂を極めようとは思わず、
法子は、高ぶらされるばかりの悩ましさにあって、堪えに堪えて、
節子は、到達するならば、三人は一緒という官能を押し上げられていた、
羞恥の割れめは、あふれ出してくる清廉な水で濡れそぼって、
開き加減となっている双方の艶かしい太腿の間に、
しずくのきらめきを見ることができるまでになっていたが、
女性たちの甘美をあらわす声音が、ああ〜ん、ああ〜ん、ああ〜ん、と変化したことで、
火照り上がらせていた顔立ちは、突き上がってくる快感に漂わされるばかりになり、
黒髪を揺らせながら、気持ちの良さの頂上へ至ろうとしていた、
礼子は、いきます、と発すると、
法子も、私もいきます、と叫び、節子も、私もいきます、と同調をあらわすのであった、
<じゅずつなぎ>に繋がれた、三人の女性は、
縄で後ろ手に縛られ胸縄を掛けられて正座の姿勢をあらわした姿態を硬直させると、
ぶるぶると両腿を痙攣させながら、喜びの官能の絶頂がもたらす、
この上ない快感に舞い上げられる状態にあるのだった、
そして、彼女たちが知ったことは……。

全裸にさせられた女性が肉体を縄で緊縛され、
高ぶらされる官能の絶頂から精神を解放されることにあるという見解は、
縄と人体が存在すれば、いずれの民族にあっても、可能なことにある、
日本人に固有のありようではない、
縄による緊縛のパフォーマンスというグローバルな認識と言えることにある、
人類の共有認識が経済化を生み出すという実際からすれば、
グローバルに共有できる認識は、どのようなものであれ、優先される実情にある、
従って、縄による人体の緊縛という事象が見える面においては、
それは、成り立つことにある、
だが、見えるものは、それを片側とした場合、
反対側となる見えない側にも、意義は存在するということからすれば、
縄による緊縛は、それぞれの民族のありようをあらわすことにある、
縄による人体の緊縛行為を行う者は、
みずからの民族のありようをあらわす表現行為を行うということである、
その意義を理解することができなければ、
サディズム・マゾヒズムの性向を満足させるための行為以上のものはあり得ない、
人類は、人間は、その性欲と性的官能に対する認識を昇華させることはできない、
礼子・法子・節子に対して行われた、縄による緊縛の行為は、
三者が各々生まれたままの全裸を縄で縛り上げられて、
横並びに正座させられる体勢に置かれ、
一本の縄に繋がれて一体をあらわす、<じゅずつなぎ>があらわされている、
三者が同時に性的官能の絶頂へ至るということからは、
礼子・法子・節子の統合において、その存在理由が示されることにある、
<じゅずつなぎ>は、生まれたままの全裸にある日本人の存立意識、
多種・多様・多義、千差万別、十人十色にある日本人が共有できる意識、
<八百万の神>のありようを認識できる原点が示されている、そこからは、
性的官能の頂上に浮遊させられる、三人の女性が更に見い出すものとは何か、
という事柄が導き出されるということでしかない。

<あの方>から賜る縄は、縄文時代に、日本民族が作り出した縄にあります、
<あの方>が自然の植物繊維である麻をみずから綯って作り出した縄にあるからです、
縄文時代の日本民族が一万三千五百年に渡って執着した縄の認識は、
みずから綯って作り出された麻縄に込められた霊感にあるという意義です、
日本には、<神道>という宗教性がありますが、
<神道>が成立する以前のありようである霊感として、<あの方>が述べられた、
≪みずからが存立するまわりを取り巻くすべての対象に対して神を認識できるというありよう、
これは、<八百万の神>と称される、日本民族固有の事情としての宗教性にあることである、
日本人は、この認識において、老若男女、十人十色、千差万別という多種・多様・多義にあって、
すべての者が<八百万の神>を<神的存在>とすることで、平等な人間としてあり得ることにある≫
というお言葉にあらわされているように、
男性と女性の平等が明確な立場として示されていることにあります、
このありようを理解することなしには、見えるものは、それを片側としたならば、
反対側となる見えない側にも、意義は存在する、
<じゅずつなぎ>は、その見えない側の意義を明らかとさせるありようにある、
ということは、ただの荒唐無稽が表現されていることでしかないということになります、
縄による緊縛は、<神道>以前の宗教的認識にあります、
縄による緊縛は、西洋の学術である、サディズム・マゾヒズムへ結び付けられれば、
加虐・被虐の様相をあらわす、人間にある性向を説明している以上のものにはなりません、
それは、加虐・被虐の様相に宗教的認識を抱くことのできる、
イエス・キリストの磔刑にあらわされる象徴を感得できるか否かというありようです、
同様です、縄による緊縛は、加虐・被虐の様相をあらわす、
だが、その宗教性は、民族固有のものがあらわされるということでしかないということです、
縄による緊縛は、縄文時代に発祥したものであるという認識に立てば、
西洋の学術に準じたり、<神道>に根拠を置くといった見解の無意味さは、
縄による緊縛は、何を現出させることにあるかという設問を浮かび上がらせます、
<あの方>の縄が導く認識は、縄に込められた霊感に依ってもたらされることにあります。
両手を背後へまわさせて、双方の手首を重ね合わさせて、
後ろ手に縛られる素振りをあらわす、
それは、<あの方>から賜る縄を求めるということでしかありません、
縄文時代の霊感の込められた麻縄が重ね合わさせた両手首へ触れた瞬間から、
その霊力は、柔肌を通じて肉体へ滲み込んでくるものとしてあります、
両手の自由を奪われた後ろ手縛りにされたことは、
その霊力に依って導かれる自由の境地への出発となることにあります、
ふたつの乳房を上下から挟まれた胸縄を施されることは、
柔肌を圧迫される麻縄の感触を確かなものとさせて、
両手と両腕を胴体へがっちりと拘束されたことは、
常識にある自由を奪われた姿態にされたことを明確に自覚させることにあります、
みずからを意識するということから生じる羞恥を覆い隠すための着衣はなく、
一糸も身に着けない生まれたままの姿態にある人間という自覚は、
みずからがその羞恥と率直に向き合うことにあります、
顔立ちは、羞恥から火照っています、掛けられた縄の刺激で、上半身も上気しています、
羞恥は、両手の不自由から隠すことを許されない、
ふたつの乳房と女性をあらわす深い亀裂のある下腹部の漆黒の茂みを露わとさせ、
顔立ちと上半身の火照りは、腰付きから両脚にまで及び始めたことは、
ふっくらとさせた小丘に集中していくことが意識されることにあります、
全裸を縄で縛られた境遇に依って作り出される、霊力の世界の始まりです、
縛り上げた縄尻を取る<あの方>に促されて、床へ正座の姿勢を執ることは、
肉体を圧迫して拘束の実感が伝わってくる、縄による緊縛が高める瞑想の世界です、
女性の羞恥の源泉が悩ましく疼きだして、官能は、高ぶらされるままにあって、
縄の霊力は、ひたすら、高みへと導いていくものあります、
それは、解き放たれて浮遊させられている、甘美と気持ちの良さにあることです、
女性の羞恥の割れめから、おびただしい量の愛液が漏れ出していることが分かりますが、
そのありようは、もはや、羞恥の意識にあることではなく、
人間としてあることの矜持と喜びとしてあることです、
縄の霊力がもたらす法悦の思いは、高ぶらされる快感の絶頂において、
縄の霊感として、はっきりと知らされることにあったのでした。

縄による緊縛という表現行為は、縛者と被縛者が存在して、
その相対関係を縄掛けというありようが繋ぐものにあります、
縛者は、被縛者の存在なくしては、その存在理由をあらわしません、
被縛者は、縛者の存在なくしては、その存在理由をあらわさないという平等の関係にあります、
その相対関係を繋ぐ縄掛けということも、また、両者のいずれかが失われれば、
その存在理由をあらわさないものにあります、
このありようを支配と被支配という関係から見ることをすれば、
縛者は、執政者による国家体制、被縛者は、国民、
縄掛けは、憲法と法律による制度として見ることが可能であります、
しかし、縛者と被縛者は平等の関係にあるとされることにあれば、
支配と被支配という関係も、また、存在しないことにあります、
<じゅずつなぎ>は、
多種・多様・多義、千差万別、十人十色にある国民が共存できる国家があらわされている、
人間は、みずからを意識するということから生じる羞恥を覆い隠すために、
他の動物一般が裸の状態にあることを差別する意識から、
衣服や装飾品を身にまとう、それも、高価であればそれだけ、
差別意識が他の動物ばかりでなく、同等の人間に対しても優位の意識を生ませて、
みずからを意識するということから生じる羞恥は覆い隠される、
覆い隠される羞恥があからさまとなることを通しては、
そのありようは、もはや、羞恥の意識にあることではなく、
人間としてあることの矜持と喜びとしてあることへ至ることにあります、
性欲と性的官能の高揚は、それをもたらすための力動にあることは、
縄掛けの意義が問われ、確かなものとする方法と実践が必要不可欠となります、
<あの方>が行った縄掛けは、<じゅずつなぎ>を作り出すものとして、
礼と節と法の統合をあらわすものにあったことでした、
礼とは、社会の秩序を保ち、他人との交際をまっとうするために、
人として行うべき作法のことです、
節とは、言行などが度を超さず、適度としてあるふるまいのことです、
法とは、物事に秩序を与えているもの、法則、真理、根本的な規範のことです、
この三位は、群棲している人間を文明化させるために欠くことのできない、
一体を意味していることであり、欠くことのできないこの一体においては、
人間を超越する神的存在というものを必要としないで成り立つ、
多種・多様・多義、千差万別、十人十色にある、
国民が共存できる国家というものを想像できることにあります、
<国家の象徴であり国民統合の象徴>という一義の幻想にあることではなく、
他人任せにする共同意識が国民の総意であると考える倒錯にあることではなく、
<自主・独立・固有の知覚>にあることからの主体的創造におけることです、
<じゅずつなぎ>にあることは、<礼・節・法の三位一体>にあります、
一糸もまとわない、生まれたままの全裸をあらわすことは、自然のありようです、
その自然のありようを縄文時代を起源とする霊力を示す麻縄に依って、
礼・節・法の統合を示す縄掛けが行われることは、
その縄掛けが加虐をもって支配を意義するものであれば、圧制です、
しかし、<あの方>に施される縄掛けは、
縄掛けをされる者を熱く抱擁する、思い遣り・心遣い・愛情に満ちたものでしたから、
被虐に晒される思いには至らないことでした、
むしろ、自然のありようにある全裸にあって、高ぶらされる官能は、
<新しい国家>もあり得るという方途へ導かれることにありました、
悩ましく疼いている女性の羞恥の源泉は、滲み出す愛液をともなって、
<新しい国家>を想像することに対して、快感と気持ちの良さと喜びが感じられ、
突き上がる甘美な疼きに燃え立ち、燃え上がり、燃え盛る肉体においては、
柔肌を圧迫している手首に巻かれた縄と両腕を固定された胸縄は、
何と、確固として信頼のおける強靭な拘束を意識させられることにあったのでしょう、
向かわされる快感の絶頂へ舞い上げられていくことは、
何と、縄掛けがもたらす喜悦の素晴らしさを知らされることにあったのでしょう。

<あの方>の縄は、ただ、従うばかりの恭順にあるだけでは、真価をあらわしません、
全裸にあり、後ろ手に縛られ、ふたつの乳房を上下から挟んでの胸縄を掛けられて、
床へ正座の姿勢を執らされるだけのことであれば、
その俯き加減の顔立ちからは、縄を打たれた女性の被虐の様相が漂うことにあって、
自由を奪った縛者は、自由を奪われた被縛者を好き勝手にできる、玩具扱いをする、
<あの方>は、ただの一度も、そのような振る舞いに及ぶことはありませんでした、
<あの方>は、ただ、みずから綯った麻縄で、身体を緊縛するだけでした、
それだけのことでした、にもかかわらず、
全裸を縛られた三人の女性が横並びに正座して、
一本の縄で繋がれるありように置かれることは、
<じゅずつなぎ>をあらわすことへ置かれることは、
想像もしたことのないような思いがもたらされる、不可思議にありました、
全裸にある羞恥からの高ぶらされる官能が身体へ縄掛けされている縄と絡み合って、
螺旋を描くような具合にして、天上へ昇っていくありさまにあることでした、
従うばかりの恭順にあるだけでは、真価をあらわしませんというのは、このことなのです、
遥かな高みにある塔の最上階にある眺望所、
そこを目指して、塔の内部の壁に沿って作られた螺旋階段を上っていくことにあったのです、
全裸を後ろ手に縛られ、胸縄を掛けられ、一本の縄で繋がれた三人の女性は、
礼子・法子・節子の順番に、階段を踏みしめて行くことにありましたが、
<じゅずつなぎ>をあらわす一蓮托生の縄は、
三人の女性の思いをひとつにした共存へ置いていることは、
そのうちのひとりでも協調が乱れれば、三人は、階下へ転落する危険にありました、
三人がひとつの思いにあることが<じゅずつなぎ>だったのです、
そして、三人が上りながらひとつにして考えたことは、みずからの日本人の所以でした、
我々が今ここに存在することは、遥か彼方の祖先に始まることにあります、
その祖先も、先を辿れば、人間としてあることの進化を遂げた時期にまで遡ります、
人類における民族というのは、この時期があることから始まるものだとすれば、
本を正せば、ひとつでしかなかったことにあります、
人類に多種・多様・多義の民族が生まれたことは、
その民族が求めるありようのあらわれにあることであれば、
日本人・日本民族にも、求めるありようのあらわれがあることです、
従って、日本人・日本民族が求めるありようとは何か、ということがあります、
それは、過去に存在した事物に所以を求めることはできます、
過去は存在したことにあるのですから、当然のことです、
しかし、過去にあった事物も、
そのあらわれは、求めるありようのあらわれにあることは、
現在にある我々が求めるありようをあらわしたとしても、不可思議はないことです、
日本人・日本民族は、現在において、求めるありようをあらわす存在にある、
多種・多様・多義のあらわされる、日本人・日本民族のありようは、
求めるありようがあらわされることにある、
それは、みずからという思いのなかであらわされることである、
このありようが知らされることは、上るばかりにある官能が更に押し上げられて、
これ以上はないという快感と喜悦に打ち震える浮遊にあって、
上り続けている螺旋階段の先には、差し込む光が見えてくることでした、
そして、上りつめた眺望所でした、
眺望所には、ある物が置かれていました、
礼・節・法の三人の女性が被ることを求められている、仮面でした、
目と歯に鍍金のはめられた、二本の角をもつ、鬼女の顔立ちをした、
<人間が真実の生命に目覚めた時にあらわれる、根源的な叡智、
     世界の窮極的真理を知ること、智慧>をあらわす、
三つの般若の面でした。



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