借金返済で弁護士に相談


< 転 >



生まれたままの全裸となった女性へ、男性が思いを込めた緊縛の縄の意匠を施し、
<信奉者の流儀>に従って縄の掛けられた陰茎を膣へ挿入して、ふたりが共に官能の絶頂を極めること、
その<色の道>の修行を通して、絶頂を極めた喜びの最中に生み出される想像力を切磋琢磨すること。
このような行為が公然とあらわされることは、猥褻とされるものである。
猥褻は、いやらしいこと、みだらなこと、という感受性についてのことばかりではない。
国家の法に従えば、いたずらに性欲を興奮・刺激させ、
普通人の正常な羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反することやそのさま、とされることである。
<民族の予定調和>は、われわれ日本民族の思想であり、
成人である二十歳以上の普通人の正常な羞恥心を持ち、善良な性的道義観念を抱く、
老若男女を対象とした事柄であったとしても、その猥褻は、避けることのできない事柄である。
猥褻が人間としてあることの本質的な問題、荒唐無稽をあらわしていることにほかならないからで、
<民族の予定調和>は、人間にある荒唐無稽を超克して、達成されることであるからである。
だが、大義名分などというものは、幾らでも作り出すことのできるものである。
ものは考えようであり、ものは言いようである。、
猥褻であっても、学術や芸術であると称するようなことは、数多に行われてきたことであるし、
人間を正しく診察するのが目的の病院で、
院長が女性看護師を裸にして猥褻行為を強要することが起る人間の世界である。
おためごかしということが世間の耳目を注目させる手段であることは、昔から行われてきていることである。
<民族の予定調和>と言っても、宗教性のある思想に名を借りた、好事家が猥褻を行う方法ではないか、
そのような批判を浴びるとしても、当然のことである。
<民族の予定調和>が<わが国における唯一の正統性ある猥褻論理思想>であると称する理由は、
猥褻論理思想であるから猥褻が行われるという理路整然としたありようを言っていることであるが、
<民族の予定調和>が陵辱を目的とした猥褻でないことは、言明しておくべき必要があることである。
このありようにおいてこそ、<唯一の正統性ある>ということが当てはまることだからである。
陵辱を目的としない猥褻行為、このようなことは、実際にあり得ることなのだろうか。
陵辱ということが、人をあなどって、はずかしめること、女を力ずくで犯すこと、暴行、とされることであれば、
いやらしいこと、みだらなことの限りでは、陵辱はあり得ないことであるが、
女性を生まれたままの全裸し、その身体へ縄の緊縛をするということは、
いやらしいこと、みだらなこと、とは思えなかったとしても、乱暴な行いであることには違いない。
外観は同じように見えても、その本質は同一ではない、ということが示されない限り、
<民族の予定調和>は、猥褻な陵辱を行っているだけのことであると見なされても、仕方がない。
そして、このように見なされる限りにおいては、民族全体の思想にまで及ぶことはない。
秘密結社、秘密クラブ、秘密サークル、秘密同好会、といったようなことでしか、あり得ないことになる。
秘密の集会が嗜好であるという者であれば、その秘密ということに固有の意義を認めているわけであるが、
<民族の予定調和>には、固有の秘密を持って、同朋と共有する秘密の特権などあり得ないことは、
葬式において、未亡人が生まれたままの全裸を縄で緊縛された姿を弔問者に晒して行われる、
<お披露目>ということを見ても、その開かれた教えは、成人の者が平等に共有することができるものである。
女性から、よく寄せられる問合せに次のようなことがあるが、これにも明確に答えがある。
<民族の予定調和>では、生まれたままの全裸の女性が自然の植物繊維から撚られた縄で緊縛されると、
二十歳以上であれば、老若に関わらず、女性はすべて表象となることができる、とされているが、
それには、容姿はまったく関係のないことなのか、教えとされるお話は容姿端麗の女性ばかりである。
教えとされるお話というのは、印象深く伝達されるために、文学的な仕掛けが施されたものである、
女性が容姿で区別されるものであれば、女性は陰部でも区別されるということである。
そのようなことはあり得ない、
<民族の予定調和>の表象としての自覚に目覚めた女性が美しく成長することは、
男性が<信奉者>としての誠実な行いを続けることで、美しくなっていくのと同じことで、
その場合、陰茎や容姿で区別されないことは当然のことである。
また、縄掛けされることのない女性は、表象となることができない以上、
<民族の予定調和>を歩むことはできないものなのか、という質問も投げかけられるが、
女性にも、それぞれに、家族・親族の事情、友人・恋人の事情、会社・役所・学校の事情などがあり、
表象となることがすぐには難しいということもある。
そこで、インターネットで予約を受け付けている、ということが実情である。
さらに、予約のできない女性や、その知名度から<民族の予定調和>を知らないでいる女性はどうなのか、
ということについては、女性が表象となることを希望する限り、無期限の受付が行われているものである。
このことは、<信奉者>となる男性においても、まったく同様の事柄である。
尚、<民族の予定調和>の達成される時期については、
『縛って繋ぐ力による色の道 ― 文学部出身の岩手伊作の記述による権田孫兵衛老人の黙示』
を参照して頂きたい。
だが、これだけ開かれた民族思想であっても、
日本民族のすべての女性が縄掛けされることに同意を示すことはあり得ない、
<信奉者>となる男性も、限られた者でしかない。
よくあるように、人類の愛と平和と平等を標榜していることではないが、
そのようなことは、強いて言われなくても、それが達成されない<調和>などあり得ないことであるから、
それよりも、切迫した人間の事柄が火急に語られることになる。
大衆的理解というのは、事物の本質そのものが語られることよりも、難しいことなのである。
それは、民族思想ばかりでなく、国家の政策、企業の事業、情報媒体の伝達にまで至ることである。
陵辱を目的としない猥褻行為ということは、なかなか理解されにくいことである。
誤解は、六階、七階、八階、屋上へと続くものであるかもしれない。
このことを理解して頂くには、
<導師様>である権田孫兵衛老人が<民族の予定調和>を認識されるに至った経緯をお話することが、
最も肝要なことであると思われる次第である――

われわれ日本民族の歴史として、明治時代がそれ以前とそれ以後の分水嶺となっていることは、
偉大な月岡芳年が『奥州安達ケ原ひとつ家の図』を完成させた年、
明治18年(1885年)に生を受けた権田孫兵衛老人の生涯をも決定づけることであった。
権田孫兵衛老人は、生まれながらにして、禿げ上がった真っ白な頭髪に歯のないくぼんだ口もと、
どぎつい目つきや鋭い鷲鼻、皺だらけの小柄で痩せ細った身体が険しい老いをあらわとさせた、
老人の風貌を持っていたが、それは、その出生に理由があった。
権田孫兵衛老人は、姉弟の双子として生まれた。
姉の方は、『奥州安達ケ原ひとつ家の図』の主題に選ばれて、傑作の表現として描かれたことで、
永遠の生を受けることになったが、同時に呪われた存在となった。
弟の方は、胚胎は一緒であったが、描写するに匹敵しない主題の模倣の産物とされて、
この世に生を受けることになったが、老人の老いさらばえた風貌としてであった。
姉は、『奥州安達ケ原ひとつ家の図』に描かれた主題の呪い、
かくまっていた病気の姫様の命を救うために、妊婦の腹を切り裂いて胎児の生き胆を与えようとしたが、
その妊婦が実の娘であった事実に出会うという、人間存在にある殺戮欲のあらわれを表象するものとして、
時間と空間を超越して自在にあらわれては、女性を嬲り殺すということを永遠の生として解き放たれた。
弟は、姉がそのような呪われた存在とならなければ、
思慮の深い優しさに満ちた美しい女性として生きることができたはずだと思い慕い、
それだからこそ、女性という存在は、被虐に晒されることにあって、
最も艶麗で聡明で慈愛にあふれる存在になる、という最初の認識を得ることになった。
この認識は、出生と同時のものであったから、権田孫兵衛老人の予言とも言われている。
予言は、その実証をいずれあらわすものであるから、予言と呼ばれるものである。
乳児が老人の風貌をしていることは、誰からも気味悪がられて、世話をされないということだった。
保育が行われなければ、乳児に訪れる死というのは時間の問題であったが、
身寄りがなく、眼が見えないことで疎んじられていた十六歳の少女が不憫に思い、乳児を引き取った。
十六歳の少女ひとりに養育する収入があるはずもない、可憐な容姿をしていたことを幸いにして、
容姿にも引けを取らない可憐で瑞々しさをたたえた股間を差し出し、金銭を得ることで生活を凌いだのだった。
少女は、泣き止まない乳児に乳の出ない乳房を吸わせたり、盲目の器用さで赤子の世話をして育てたが、
安い対価の過激な労働が災いして、二十歳を待たずに死んでいったのである。
育ての母がその姿を見ることができなかったために、
乳児は、風貌こそ老人のままだったが、三年間で見事な若者にまで成長していたのであった。
母は、死に際に、母の名である権田孫兵衛(ごんだまごえ)を、
権田孫兵衛(ごんだまごべえ)という男性名として名乗りなさい、と最後の言葉としたのだった。
その母の顔立ちは、被虐に晒されてきた女性にあってこそ、
最も艶麗で聡明で慈愛にあふれる女性の輝きがあるものだ、ということを目の当たりにさせられるものだった。
そして、第二の認識が生まれた。
眼に見えるものが必ずしもその本質をあらわすものではない、
それらが外観を互いに似たものとさせていたとしても、本質は同一とは限らない、
ということを得させたのであった。
権田孫兵衛老人には、養育してもらえる身寄りなどなかったから、当然、学校へ行くこともできなかった。
日清戦争で両脚を根元から失ったという、以前は学校の教師をしていた男性が読み書きを教えた。
両者の出会いは、権田孫兵衛老人がとある路地を歩いていて、通り過ぎた家の縁側に男性が座っていた、
両脚の不自由な男性は、身のまわりの世話をみずから行うために、縄を利用していた、
権田孫兵衛老人は、その巧みに操られる縄に魅せられて、立ち尽くしたまま眺め続けていた、
そこへ、男性の妻と思われる女性があらわれた、目の覚めるような美人だった、
ところが、男性が縄を用いても取るのに難儀していることを知りながら、
侮蔑しているようなまなざしを投げかけると、わざとその欲しがっている書籍を外へ蹴り飛ばしたのだった、
男性は、文句ひとつ言わずに、悔しそうな表情を浮かべていたが、
妻の立ち去っていく姿さえ見やることをしない態度には、それが日常生活であることを伺わせるものがあった、
権田孫兵衛老人は、失礼とは思いながらも、木戸を入って、庭に放り出された書籍を男性に手渡した、
男性は、お礼を述べると共に、ふたりの会話が始まった。
男性は、戦争で身体が不自由になってからは、女性を満足させることができず、妻には見放されてしまった、
妻には、すでに男ができていて、夜も戻って来ないことがあるばかりか、早く死ねと邪険になるばかりだった、
自分もそれほど長く生きられるとは思っていないが、未練が残るのは、教職をまっとうできなかったことである、
聞けば、君は読み書きすらもできないという、せめて、余生に君の教育をしてあげると言ったのだった。
男性が余生と言ったのは、半年足らずのことだった。
男性は、妻の不在の終日をあて、読み書きから始めて、蔵書のことごとくまでを教えたのであった。
だが、それにも増して、縄の扱い方を教えてくれたことは、第三の認識となることだったのである。
いつものように、男性の家を訪れたとき、玄関には、忌中の札が垂れ下がっていた。
出てきた喪服姿の美しい妻は、来たら渡してくれと遺言されたからと言って、
麻縄の束を権田孫兵衛老人の足元へ放り投げると、遺体との面会を拒絶して奥へ引っ込んでしまった。
近所の者に聞けば、男性はみずから縄で首を吊って亡くなったということだった。
権田孫兵衛老人は、食事も取らずに、形見として残された麻縄を何日間も見続けることした。
男性は、まるで、父親でもあったかのように、
ひとり立ちして生きていくために必要な思索する方法を教育してくれたのだった、
それは、結ぶ、縛る、繋ぐ、という縄を操ることがすべての答えを出してくれることである、
という認識に至らせたことであった。
<導師様>が現在も使用されている、灰色に色褪せた古びた麻縄は、その縄である。
縄を扱うことで生活していくことを決心させたことだった。
しかし、時代は、富国強兵を旗印とした国家の政策が、キリスト教の合理主義的精神から生み出された、
西洋の先端の学問と技術を導入することに躍起となっていた。
室町時代以来の伝統を持つとされる、縄を操る方法である捕縛術の存在を知ったが、
因習は消滅させられるように、百五十もあったという流派の存在を捜すことは困難を極めた。
そのときに訪れたのが第四の認識であった。
明治10年(1877年)に、エドワード・S・モースによって発掘された大森貝塚から出土した原始の遺物、
縄文土器の復元が一般公開されたのであった。
権田孫兵衛老人は、その土器の力強い形態に感動させられたばかりでなく、
表面にあらわされた縄の紋様を見るなり、
頭上から稲妻を貫かれるほどの驚異と深遠と覚醒を感じさせられて、
全身がぶるぶると痙攣し、心臓がどきどきと高鳴り、自分は死ぬのではないかとさえ意識させられた。
それは、われわれ日本民族には、その実現される将来まで確実に生存することが定められているという、
<民族の予定調和>があることを教えるものだったのである。
みずからの出生や老人として生まれてきたことの不可解の意味、
育ての母や父が教育してくれたことの意味、
縄を操ることが生きる道であることの意味を理解させたことであった。
みずからこそが<民族の予定調和>の実現を伝導する者であることを自覚したのだった。
この認識は、すぐさま、ひとつの出来事と結び付くことで、第五の認識へと至らせることになった。
古本業者であった知り合いの者から、有名な小説家の宅で開かれている定例会の席へ誘われたのだ。
小説家を慕う若手の文学者や教え子が集って、最先端の日本の思想を語り合うというものであったが、
権田孫兵衛老人は、自分のような下層の者が行くことは、とんでもない場違いであると断った。
しかし、知り合いは、奇想があるから優れた文学が生まれるのであり、
外国の文学にはそれがある、君にも奇想があるからと強引に連れていかれたことだった。
人間の抱く想像力こそが人間本来のものとしての神であるというヴィジョンを実現することを目指して、
縛って繋ぐ力による縄の道がそれを実現させることは、縄文土器が表象していることである、
その席で語られたこのような事柄は、奇想である以上の反発を受けることだった。
人間が奢り高ぶって尊い神の存在を侮辱するものである、と顰蹙を買い、
縄を縛って繋ぐ力など、陳腐な因習であって、新しい文学の想像力ではない、と非難を受け、
科学的な解明のない縄文土器の解釈など、余興にはもってこいの戯言だと大笑いされたことであった、
奇想だけでは小説は売れない、古本業者の思惑した通りの結果だったのである。
ただひとり、主人である小説家だけは、神経症を病んだような苦虫を噛み潰した顔付きを見せながら、
じっとなったまなざしを権田孫兵衛老人の老いさらばえた風貌へ注いでいるのだった。
権田孫兵衛老人は、打ちのめされた思いにあった、
誰にも理解されない思想は、所詮、思い上がりから思索しているだけの妄想に過ぎないことだとも思った。
その落胆に沈む権田孫兵衛老人の下宿へ、
小説家の奥様が訪ねてきたことは、驚愕する以外にないことだった。
夫から申し付けられて、彼は生活に困っている将来ある思想家である、
少しの援助にでもなれば、と金銭を渡されたのであった。
ほかの若手の文学者にも行っていることであるから、遠慮は要らない、と押し付けられたのであった。
生活には困り続けていたから、感謝に余りあることで、有り難く頂いたものだった。
しかし、奥様は、すぐに帰られようとはしなかった、
下宿の部屋が母屋から掛け離れた廃屋同然の様子をつくづくと眺められてから、言われたのだ。
「権田さんは、日本法医学会と春陽堂が出版した『色情狂編』という書籍をご存知ですか」
突然の問い掛けであったが、育ての父の蔵書に、それは、発禁本としてあったものだった。
「知っています、クラフト=エビングという学者の性的な精神病理についての研究の翻訳です。
それが、何か」
奥様は、端正な顔立ちに思案げな表情を浮かべられて、さらに、話を続けられた。
「では、権田さんは、マゾヒストということをご存知ですわね。
私は、そのマゾヒストというものに一度なってみたいのです。
会合で権田さんがお話になられたこと、私は、一部始終をお聞き致しました。
あなたが特別な方であるとの印象も受けました。
あなたであるならば、私の抱えている悩みを聞いて頂けるのではないかとも思いました。
私がここへ遣わされたのは、運命であるに違いない、と思えることなのです」
奥様の毅然として話される様子は美しさの漂うものであったが、権田孫兵衛老人は制した。
「待ってください、奥様、あなたは、わたしを買いかぶっておられます。
私は、いまは、みずからに悩むことで精一杯で、人様の悩みなど、まして、奥様のようなお方の悩みなど、
お聞きする身分でも、余裕もまったくないことです、奥様も、私の風貌をご覧になっていて、
私が、その思想以上に、ただの異常な人間だと思われているのではないのでしょうか」
それに対して、奥様は、じっと見返すまなざしで、優しく答えられたのだった。
「そうですわね、確かに、それほどお若いのに、それほどお年寄りなのですから。
でも、それには、きっと何かわけがあるのでしょう。
普通と思われないことには、必ずわけがあるものなのです。
外観だけでは、わからないことですわ。
私だって、初子の流産で一度投身自殺を図っているのですよ、世間にはひた隠しにしていますけれど。
夫の小説家としての苦悩にしても、
人間の自我をどのように解決しなければならないかを文章で表現するということは、
並大抵のことではないのでしょう、
それを、私や子供たちへの暴力にさえ、あらわさなければならないのですから。
私は、夫の暴力に耐えています、いや、それは喜びでさえあるのです、夫を慕い続けているからです。
被虐に晒されることに喜びを感ずる、このようなありようのことをマゾヒストと言うのでしょう。
私は、一度でよいですから、そのマゾヒストというものになってみたいのです。
そして、私の自我というものを知りたいのです。
権田さんは、おっしゃられたでしょう、
女性という存在は、被虐に晒されることにあって、最も艶麗で聡明で慈愛にあふれる存在になるものだと。
それを私に証明してください、お願い致します」
奥様は、蒼ざめているくらいの真剣な表情を浮かべて、澄んだ綺麗なまなざしを向けられていた。
若い権田孫兵衛老人を驚愕させ、狼狽させ、圧倒させる女性の迫力が感じられるものであった。
畳と土間へ互いに向かい合って、じっと見つめ合ったまま、立ち尽くしている男と女であった。
「わかりました、私にできることを最善を尽くして行います。
奥様は、私が申し上げる通りのことをなさって頂けますか」
権田孫兵衛老人がそう答えると、奥様は、しっかりとうなずかれるのだった。
麻縄が用意され、奥様は、身に着けて着物をすべて脱ぎ去るように言われたが、
女性の一念は、羞恥を漂わす脱衣には違いないことだったが、ためらいの押し殺されたものであった。
奥様は、顔立ちも端正であられたが、あらわされた生まれたままの全裸の姿態も優美な白さにあった。
権田孫兵衛老人にとっては、女性の裸体へ施す、初めての縄による緊縛であった。
そして、それは、これまでの縄の修練の結果が試されることでもあったのである。
奥様は、ほっそりとした腕の華奢な両手首をなめらかな背中へまわすようにされ、後ろ手に縛られた。
全裸の姿を夫以外の男性の前へ晒すということだけでも、大変な羞恥であったことに違いなかったが、
女性の羞恥の拠り所である乳房と股間を覆い隠す自由を奪われたということは、やはり、大きな衝撃であり、
奥様は、最初にみずからが考えていたことよりも、事は重大なことであると気づかされたように、
顔立ちは、赤く緊張に引きつって、まなざしは焦点が定まらずに戸惑い、
綺麗な唇は、言い出そうとする言葉を捜すのだが、息を継ぐのが精一杯というように半開きとなっていた。
だが、権田孫兵衛老人は、奥様が真剣に求められたことであれば、真剣にお応えするという思いにあって、
縄掛けに容赦をすることはなく、綺麗なふたつの乳房を上下から挟むようにして胸縄を掛け、
ほっそりとした首筋の左右から下ろした縄で、それを突き出させるような具合に締め上げ、
さらに、優美な腰付きのくびれを際立たせるように巻き付けて、絞り上げるのであった。
奥様は、想像していたことよりも遥かに淫猥な境遇に晒されていくことに、思いを翻弄させられるように、
立ち尽くしたまま縛り上げられていくことがこらえ切れないとでも言うように、
顔立ちを揺らめかせ、上半身をうねらせ、腰付きをくねらせていたが、
しなやかに伸びた両脚だけは、それが守るべき最後の羞恥であるように、
艶やかな太腿をぴったりと閉じさせて、かたくなにさせているのであった。
奥様の顔立ちの表情は、縄を柔肌へ掛けられて緊縛されたことで込み上げさせられる官能へ、
注意を向けようとする思いとそれから逃れようとする思いの板ばさみになっていることを伝えていた。
「奥様、両脚を開いてください」
権田孫兵衛老人がそのように言っても、
思い余っているという緊張をあらわすばかりで、まるで、聞こえていない様子であった。
「奥様は、マゾヒストがどのようなものであるかをお知りになりたいのでしょう。
それであれば、両脚を開いてください、お願いです」
強い口調が繰り返したが、奥様は、泣きださんばかりの顔立ちになって、いや、いや、と首を振るのだった。
しかし、もう、やめてください、という言葉が吐き出されたわけではなかった。
「奥様、無礼をお許しください。
これも、あなたが求められていることをあらわすためのことです」
権田孫兵衛老人は、無理やり、しなやかな両脚を開かせるようにすると、
腰付きのくびれに巻き付けていた縄の残りを、正面から縦へ下ろすようにしたのであった。
ああっ、いや、いや、とか細い声音が奥様の口からもらされたが、
割れめへもぐらされて、艶めかしい尻の方からたくし上げられていく縄には、されるがままであった。
股間へ深々と埋没させられる縄が掛けられると、奥様は、立ち尽くしていられるという状態になかった。
縄で緊縛された裸身に官能を煽り立てられて、舞い上げられていくように足元が覚束なくなり,
畳の上にへたり込もうと、なよなよと崩れかけていったが、権田孫兵衛老人は、そうはさせなかった。
奥様のなよやかな全裸を掻き抱くと、敷居の柱の方まで運んでいって、
その柱を背にさせて、立たせた姿勢で縄で繋ぎとめたのだった。
奥様は、生まれたままの全裸の姿を後ろ手に縛られ、胸縄を掛けられ、首縄と腰縄をされて、
女性の最も恥ずかしい箇所へ縄をもぐり込まされて、
それを晒しものにされるという被虐の姿にさせられたのであった。
権田孫兵衛老人は、奥様の正面に立ち、
妖しい美しさを潤いのある白さで輝かせている姿態を見つめるばかりだった。
その姿には、
女性という存在は、被虐に晒されることにあって、最も艶麗で聡明で慈愛にあふれる存在になるものだ、
ということが、願望でも、誇張でも、妄想でもないことを明らかとさせている風情があったのである。
奥様は、自然から生まれた植物繊維で撚られた縄で、目もあやに縛り上げられた全裸を、
こらえることがもはや抑え切れないというように、妖しく艶めかしくうねらせくねらせして悶えさせながら、
火照り上がった顔立ちを陶然とさせて、芳しく匂い立つ女性の色香をそこはかとなく漂わせているのであった。
男性に見つめられているということなど、念頭にないどころか、
そこが何処であるのかさえも気に掛かることなく、ひたすら、みずからの官能に思いを集めているのであった。
官能の喜びに浮遊させられているその恍惚とした表情は、
権田孫兵衛老人にとって、まさに、天女のように美しく神秘的なものであると感じさせられたことであった。
生まれたままの全裸を縄で緊縛されたというだけで、それ以上の陵辱は加えられることなしに、
奥様が妖艶な裸身を硬直とさせて、痙攣をあらわしながら、官能の絶頂を極められていったことは、
権田孫兵衛老人にとって、深い感動を持って、認識することができたことであったのである。
すべてが鎮静して、男と女の別れが訪れたとき、言ったのであった。
「奥様のあらわされたことは、マゾヒストというようなことではありません。
奥様は、女性の官能をもって、求められるものを求めて、自然に得ることができたことです。
それを助けたのは、自然から生まれた麻縄、人間にある縛って繋ぐ力によることです。
奥様が暴力を受けて耐えられることも、それが喜びでさえあるのは、ご主人を思い慕っておられるからです。
被虐に晒されることがすぐに性的な喜びに結び付けられるという考え方は、
心理探求の始まりを意味していることに過ぎません。
<民族の予定調和>は、官能があらわす<色の道>ということを通して、
女性という存在は、被虐に晒されることにあって、最も艶麗で聡明で慈愛にあふれる存在になるものである、
ということが示されるものです、奥様は、それを示して見せられたのです。
私は、今日、そのように認識を得ました、奥様のおかげ以外の何物でもありません。
感謝致します、本当に、ありがとうございました」
権田孫兵衛老人の語った第五の認識であったが、奥様は、優しく微笑みを浮かべられて、
「私の方こそ、ありがとうございました、これで勇気を頂きました」
と答えられ、そして、両者は、二度とめぐり合うことはなかったのだった――

日本の近代意識と呼ばれているありようが自我を苦悩することに根拠を置いているのは、
そのありようばかりが表現された文学が代表作とされていることを見れば明らかなことである。
この近代自我の苦悩の根拠は、それほど複雑な事情にあるわけではない。
それまでの縄の意識で歴史を継承して来た思索があるとすれば、
江戸時代と明治時代の分水嶺は、
それを西洋の合理主義的精神による方法の思索に変えようとしたことで、
軋轢と相反と矛盾を生じさせたことによるものである。
その収拾と解決がつかないことを苦悩としていることであり、
それが自分捜しなどと称されて、日本伝統の文学的主題として、現在にまで継承されていることである。
自我を苦悩することが文学である、ということを私小説的方法で行い続けている所以である。
<民族の予定調和>は、その問題にも、答えを出す用意があるものである。
小説家の偉大な奥様に教えられた<導師様>の第五の認識は、それでこそ、意義を持つことなのである。



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