< 起 > 宇宙がそのありようを示す以前は、混沌とした荒唐無稽であったことは、 その生成過程として誕生した人間の本質を考えてみれば、充分に想像のつくことである。 宇宙の原初に混沌とした荒唐無稽があったから、生成過程の人間の本質は混沌とした荒唐無稽なのである。 このことは、不変の事象としてあるかぎり、原罪とされるようなことであっても仕方がない。 原罪と言えば、罪を負っていることであるから、罪が最初から悪を意味することであるならば、 それは、穢れであると言い換えてもよい、善悪を彼岸する事柄に、大した意味の相違は生まれない。 人間の誕生というものには、善もなく悪もなく、 それは、ただ、宇宙の生成過程の事柄としてあるに過ぎないことである。 誕生したものは、何物かに成り変ろうとすることで、負わされている原初の束縛があるということである。 原罪であれ、穢れであれ、それは、浄化されるためのものとしてある、ということである。 原罪や穢れを浄化することは、人間の誕生から、すでに予定されているものとしてある、ということである。 人間としてのわれわれ日本民族は、 その予定調和を宇宙の誕生と同時に定められたものとしてある、ということである。 この事柄は、何も疑わずに信じることから始めなさい、というようなことではあり得ない。 定められて歩まねばならない道というのは、盲信する事柄の前提など、必要としないことだからである。 それは、定められて進む以外にない道であるから、予定調和なのである。 疑問を感じる、不審を持つ、謎を抱く、というありようは、人間にとっての必然の事柄であるから、 この思索の過程を抑圧したり、遮断したり、禁止したりすることからは、 さらなる、疑問、不審、謎が生まれることになるだけで、それは、ことさらに、ひねくれたものにしかならない。 疑わずに信じることから始めよ、ということは、人間存在の進行に対しては、逆行していることでしかない。 ひとつの権力のもとに、多数を結集させ行動させる目的で、そうした盲信が行われることからは、 人間の残酷、悲惨、恥辱というようなことが結果となるのは、人間存在に逆行していることによるのである。 人間は、謎を意識する動物であり、そうした思索を行うことが人間なのである。 人間は、謎を抱き、謎を解明することで成長し続けるものである、このようにさえ言いたいことである。 しかし、すでに、人間の歴史が明らかとしているように、謎を解明することで成長し続ける人間存在は、 同種及び他種への殺戮ということさえ放棄することができないでいることは、その成長にも疑問が生まれる。 謎を抱き、謎を解明することが人間を成長させていないとされても、否定できないことである. どうして、このようなことが起るのであろうか。 それは、人間の本質が荒唐無稽ということにあり、その宇宙の生成過程を進行していることだからである。 謎は、解明されるためには、さらなる、謎を生まなければならない、ということがあるからである。 人間が宇宙の事象を全知しているものではないということから、起こることなのである。 理解できない、理解が及ばない、理解の対象とならない、ということは、事柄を知らないということである。 事柄を知らない人間にとって、無理解があるということは当然のことであって、 宇宙にある事象を全知することのできない人間という存在は、 宇宙のひと隅にあって、それが宇宙の全体であると思い込むことがあっても、当然のことなのである。 全知することのできない人間が事柄を考察・認識するということには、 展開される事柄の考察・認識には、必ず不可知という謎が伴うものとしてあるということである。 この不可知の謎は、全知することのできないということから、みずから作り出しているものであるから、 謎を解明するために、再び、謎が生み出される、ということが繰り返されていくことになるのである。 人類がこれまでに生み出してきたあらゆる叡智というのは、 謎を解明するための謎を作り出して、表現として伝達することを行ってきた、ということに過ぎないものである。 それは、謎を解明するための真理の探求、とされていることではあるが、 全知することのできない謎を解明するための謎として、探求していることにほかならないのである。 謎を解明するための真理の探求とは、考察・認識の方法を表現していることでしかないのである。 ただ、人間の種族保存と維持に用いられることが可能となった謎の解明が答えとしてあるだけなのである。 その実際的な謎の解明の答えの寄せ集めを、現在は、科学と称していることなのである。 科学が宇宙の全知には決して及ばないことは、それが人間の荒唐無稽に端を発していることであるからで、 答えは寄せ集めに過ぎないことであり、 寄せ集められたものは、ひたすら整理分類されるだけのものだからである。 しかも、その寄せ集めは、人間が考察・認識する謎の総体からすれば、ほんの僅かなものであるに過ぎない。 科学が万能であり、それがおしなべて人間存在を解明すると考えることは随意であるが、 宇宙のひと隅にあって、それが宇宙の全体であると思い込むことのできることは、 人間として誕生した存在の荒唐無稽の姿なのである。 人間は、荒唐無稽な存在であるからこそ、人間を超越するという存在を思索し、必要とするのである。 科学的な考察・認識とされることが行われるのと同程度に、 人間を超越する存在についての考察・認識が行われるのである。 民族の予定調和ということが、何も疑わずに信じることから始めなさい、ということであるとしたら、 全知することのできない人間存在であるからこそ、全知は神という存在においてのみあり得ることである、 とされることであったとしても、うなずくしかないことである。 人間を超越する神という存在を謎として疑ったところで、 もとより、全知することのできない人間存在に、その謎の解明があり得るわけもないことである。 神は存在するものであるか、それとも、否か、 このような疑問そのものが、謎を解明するための謎を作り出していることに、ほからないからである。 神は存在するものであるとすれば、そこから展開される考察・認識の方法が表現されるということであり、 神は存在しないとすれば、そこから展開される考察・認識の方法が表現されるということに過ぎない。 民族の予定調和に神ということがあるとすれば、 人間の抱く想像力こそが人間本来のものとしての神であるというヴィジョンを実現すること、 という意味においてでしかない。 われわれは、全知する神と同じ想像力を持つに至ることが予定調和の実現ということである。 人間存在としてあることで、このようなありようを不遜と思うか否かは、 神は存在するものとして、そこから展開される考察・認識の方法をあてはめるということでしかない。 人間には、数多の謎が存在するように、思索の方法は唯一のものが存在するわけではないのである。 唯一の宗教だけが人間を救済するものではない、 いずれの方法が選ばれるか、ということがあるだけである。 それは、その方法を選ぶことで、どれだけのお得があるかを訴え掛けられる宣伝と集客のありようである。 苦悩、病気、悲惨、残酷、死から救済されるために、選んで行うという思索の方法に過ぎないことである。 神は存在するものであるとする思索の方法において、 おしなべて人間における性をその思索から排除する理由は、 初めに言葉ありき、ということによる思索の方法にある。 表現の伝達は、言語によって始められ、言語で思索が行われることであるが、 人間の思索が言語という概念的思考をもって行われることであれば、これは避けられないありようである。 言語による概念的思考が謎を生むものとしてあれば、 何も疑わずに神を信じろ、ということになる所以なのである。 言語による概念的思考は、謎を解明するという整合性を目的として活動するものであるから、 何も疑わずに神を信じる、ということが答えとされれば、 神の言葉とされるものは、すべて、答えとしての整合性があるものとされる。 神の言葉によって語られる宇宙と人間は、整合性のある秩序をあらわすものとされる。 人間は、宇宙の始りである混沌とした荒唐無稽から、神の手によって成長を遂げるもの、 それを疑わずに信じる人間をその荒唐無稽の本質から救済するものとされることが最終の答えとなる。 しかし、それで救済が実現されるほど、人間の荒唐無稽は、生やさしいものではないのである。 信仰する神のありようは、初めに言葉ありき、ということで始められた、 言語による概念的思考を行っていることに過ぎないのである。 人間にあっては、謎を解明するための思索が日常的であるのと同様に、 その性的官能は、日常茶飯事、常時働いているものであり、それは、火をつけられて燃え立たせられれば、 昇りつめるところまでいくことを定められているものであり、何としても、昇りつめようとするものである、 性の最高潮、オーガズムは、整合性のある答えを必然としているものだからである。 そして、この性的官能が至らせるオーガズムは、 謎を解明するための思索をまったく必要としないで、果たし得ることなのである。 言語による概念的思考を一気に飛躍した整合性を、喜びの快感を持って実感できるものなのである。 人間存在が知覚できる整合性の実感においては、 性のオーガズムの円満具足とした快感に匹敵するものは、ほかにないのである。 しかも、思索という方法に比べて、その安易さは、人間において、おしなべて平等なものがあるのである。 この人間存在の事象を神の考察・認識へ導き入れれば、 神の言語によって構築されている宇宙の秩序は、原初の荒唐無稽を露呈せざるを得ない。 人間は、人間を超越する神を思索することなしに、 神のあらわす整合性を、快感の喜びを持って、おしなべて平等に感受できることだからである。 このことは、人間の当初から、理解されていたことである。 人間における性行為は、その外観からすれば、ほかの動物が行うありようと同様なものがあるばかりでなく、 人間は、人間を相手とする<まぐはひ(交接)>や<上通下通婚(親子婚)>だけではなく、 <馬婚、牛婚、鶏婚、犬婚(獣姦)>さえも行うことは、『古事記』にもあらわされていることである。 人間は、殺戮と同様に、人間という同種だけを相手としてだけではなく、 異種のほかの動物とも、快感と喜びを分かち合えるのである。 ほかの動物との共生が人間の愛をあらわすものだとしたら、これ以上のことはないのである。 神を信じることに取って代わる、人間とほかの動物の共生とは、 獣姦に至ることであるのは、原初から理解されていることなのである。 人間をほかの動物とばかりでなく、人間という動物と相反させることなしには、 神の言語は、その整合性を性のオーガズム以上のものとさせることはできないということである、 動物というのは、おしなべて性のオーガズムを実感できるものだからである。 人間の思索から生まれる、相反するすべての二元論の由来は、 性のオーガズムの事象を抑圧したり、遮断したり、禁止したりすることから生まれたものである。 思索の持つ整合性への活動と同じ意義のある性のオーガズムを相反することにより、 最初から、誤謬と矛盾のある思索を行うことをしていることから、 その誤謬と矛盾の展開は、当初の二元論としての答えが求められる以外にないのである。 その二元論が絶対的なものとはならないということも、思索が整合性を求めて謎を考察・認識するありようは、 性のオーガズムの整合性を否定することから始っているかぎり、 到達するところは、荒唐無稽にしかないということになるのである。 実際的な謎の解明の答えの寄せ集めが二元論から生まれていないことは、 決して偶然の事柄ではないのである。 性のオーガズムは、人間の本質を荒唐無稽なものとして露見させるものである、 このような見方がされれば、 ポルノグラフィと呼ばれる性のオーガズムの表現の一切は、 人間が行う思索においては、悪でしかないものである。 神の秩序、人間の秩序、社会の秩序、倫理、政治、経済、軍事の秩序は、 荒唐無稽が露見されることを厳格に排除することなしには、成立し得ないものだからである。 だが、こうしたことは、宇宙の生成過程にある人間にとっては、過渡の事柄に過ぎない。 われわれ日本民族は、民族の予定調和を進行しているのである。 宇宙の誕生と同時に定められた事柄へ到達しなければならないのである。 |
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