第13章 冴内谷津雄の『平成墨東奇談』の原文 借金返済で弁護士に相談




第13章  冴内谷津雄の『平成墨東奇談』の原文




場所は、漆喰の崩れかけたあばら家である。
赤い湯文字ひとつの裸姿の妊婦が、猿轡をされ後ろ手に荒縄で縛り上げられて、
天井の梁から逆さ吊りにされている。
そばには、皺だらけの老婆が半裸姿で床に座り込み、
包丁を研ぎながら女の顔をにらみつけている。
臨月に間近い妊婦は、その膨れ上がった腹に荒縄さえ掛けられて、
否応にも妊婦を誇張されていた。
尖った乳首のついた豊かで張りのある乳房は瑞々しく、
長々と垂れている髪も黒々として艶やかだった。
剥き出しにされた肌の白さは、女のみなぎる若々しさをあらわしていたが、
脱がされて衝立に掛けられた着物の柄からも、それは見て取れた。
逆さ吊りにされた身体には、揃えた裸の足首、湯文字をまとった両膝、
ほっそりとした二の腕、そして、首へと締め上げるような縄が巻きつけられている。
口を布で猿轡されているために、眉を八の字にしかめながら薄目を開いている顔の表情が、
恐怖と苦痛におののいている様子をよく伝えていた。
老婆の方はと言えば、骨と皮という老いさらばえた姿を黒ずんだ肌で剥き出している。
乳首の萎んだ乳房が、皮だけという醜さでだらしなく垂れ下がり、
禿げ上がった真っ白な頭髪と歯のないくぼんだ口もとが
どぎつい目つきや鋭い鷲鼻と相まって、老いた険しい形相をあらわにしていた。
男のように立膝をして、皺だらけの手に持った大きな包丁を砥石で研いでいる格好が、
まさに、鬼婆の執念のようなものを感じさせる。
その包丁で逆さ吊りにした妊婦の胎児を料理するのは、
いろりからもうもうとたなびいている煙や、
水を張ったたらいなどが置かれていることで、充分に想像できた。
これが、月岡芳年の『奥州安達ケ原ひとつ家の図』という錦絵だった。
明治十八年(一八八五年)に発表されたこの錦絵は、政府により発禁処分となった。
題材は、能や浄瑠璃に出てくる人喰い鬼婆の話である。
残虐な恐怖感をあたえることが目的なのだろうが、
絵から受ける印象は、恐怖よりもエロティシズムの方が漂ってくる。
その理由としては、若い女が妊婦であるということ、ふたりのコントラストが、
嫁と姑という伝統的な≪家≫にまつわる因縁の関係、
≪嫁いびり≫をも連想させていることにあるのではないかと思われる……
「まあ、君の説明は、そこまででいい。
おれもその絵を知らないわけじゃない。だから、何だって言うんだ。
その芳年の絵が傑作であろうとなかろうと、
いまのおれには、失業していることの方が大問題なんだよ。
今日も、これから、採用募集の面接に行かねばならないんだ。
早いところ、用件を言ってくれるとありがたいよ」
北岡昇は、少々苛立ちながら、テーブルの向かいに座る冴内谷津雄へ答えていた。
「いや、君がいろいろと苦労しているようだから、気休めにでもならないかと思ってね。
実は、その芳年の絵に描かれている鬼婆そっくりの婆さんに、今朝、出会ったんだ。
新宿の中央公園で、高々とそびえ立つ都庁の建物を眺めていたときにだ」
失業者は、あきれたように首を振って、思わず口を挟んだ。
「暇をもてあそぶ余裕のある奴は、することが違うな。
都庁見物かあ、あやかりたいね」
冴内は、チタン・フレームの眼鏡を直しながら、笑い顔を見せた。
「まあ、そう言いなさんなって。
おれだって、小説の筋を思いつかなくて、困っているところなんだ。
それに、おれに暇があるのは、女房に逃げられたというだけの違いじゃないのか。
三十七歳になって、夢精した自分のパンツをしみじみと洗濯する思いなど、
君には分かるまいに……おっと、悪い、急いでいたんだっけ。
さてね、おれがベンチに腰掛けていると、その婆さんが近寄ってきたんだ。
年齢は八十歳を超えていただろう。見た瞬間は気が付かなかったが、
家に帰って絵を見直してみて、本当に絵に描いたように瓜二つだった。
気味が悪いくらいにね。それから、その婆さん、
近寄ってきたばかりでなく、話しかけてきたんだ。何と言ったと思う?
『五千円出せば、おもしろい見せ物を見せてあげるよ。
おまえさん、きっと、そういうものがお好きなおひとだ。
その気になったら、今晩、九時に東向島駅に来るといい』
言葉遣いもかくしゃくとして、そう言ったのさ。どう思う?」
「どう思うと言われたって。やっぱり、君の顔は、すけべえそうに見えるということか。
それにしても、どこだって? 東向島? 確か、東武線の駅じゃないのか。
昔、玉ノ井とか言って、遊郭のあった場所だろう。
何だか分からないが、遣り手ばばあみたいな婆さんにしろ、待ち合わせの場所にしろ、
何を見せるんだか知らないが、いまどき、五千円で見せるという代物にしろ、
何もかも、古臭いなあ。おれは、いま、暗く長い失業者の心境にいるんだから、
古臭くてカビの生えているようなのは、好かない」
小説家の方も、同感とばかりにうなずいていた。しかし、残念そうではあった。
「滅多にお目にかかれないような偶然のチャンスで、おれには少し興味があるんだが、
ひとりで行くのは、正直言って、恐い。あの婆さんの顔付きでは、
絵にあったような大きな包丁でも持ってきて、たたっ殺されないとはかぎらないもんなあ。
しかし、君が行く気がないというのであれば、仕方がない」
北岡昇は、着ていた濃紺のスーツの襟を正すと、背筋を伸ばして立ち上がった。
「行かないとは、言っていない。おれも何を見せられるか興味がある。
しかし、いまのおれに、五千円はきつい。冴内、三千円貸してくれるなら、
八時半に、東向島駅で待ち合わせよう。もう、時間だ。行かなければ」
冴内谷津雄も立ち上がりながら答えていた。
「承知だ。おっと、この喫茶店の勘定は、おれが持つよ。
君がちゃんとしたサラリーマンでいた頃は、随分とおごってもらったからなあ。
面接、頑張れよ」
失業者は、真顔になって返事していた。
「ありがとう。いまだって、ちゃんとした営業マンさ。ただ、身体を休めているだけだ」
ふたりの友人は、渋谷の雑踏のなかを別れていくのだった。


待ち合わせの時間には、北岡昇の方が先に着いていた。
季節は、灼熱とした夏も終わり、秋にさしかかろうとしている九月の下旬であったが、
駅の改札口近くに立っているだけで、汗がにじんでくるほど蒸し暑かった。
その上、北岡は、昼間のスーツ姿のままだったから、
待たされる時間が長引いてくると、ついには、上着を脱ぐはめになっていた。
自分の腕時計を見て、駅の構内の吊り時計を見るが、
どちらも、ぴったり九時五分を指している。
安達ケ原の鬼婆に似た年寄りの姿も見かけなければ、
近眼の冴内谷津雄さえ、時間どおりに来やしなかった。
賑やかな感じとは裏腹な駅前の商店街は、すでに、
主婦や子供が行き来するという時間ではなく、閑散とした心寂しさが相応に漂っていた。
場末の人情の哀歓を伝える下町風情と言えば風流だが、
マクドナルドやケンタッキーもないような場所では、とにかく、若い者は集まらない。
やはり、古びた感じがどうしてもつきまとうのだった。
失業中でなければ、これほど、寂寥とした思いに駆られることはないのかもしれない。
まして、今日の採用面接は、
よい結果が期待できるというような内容のものではなかったのである。
北岡は、ぼんやりと夜空の月を見上げながら、
九時二十分まで待って友人があらわれなければ、家に帰ろうと決めていた。
そのときである。あわてふためいた足取りで階段を駆け降りながら、
冴内谷津雄が到着したばかりの電車から一番降りしてきたのである。
「ごめん。遅れて、ごめん。乗る電車を間違えてしまった。
こちらの方面は、どうも、不案内で駄目だ。
それで、婆さんは、あらわれてしまったか?」
北岡は、怒った様子もなく、疲れた表情で首を横に振っていた。
「そうかあ、もう、九時を十五分も過ぎているというのに。
君が見かけて分からないというような風采じゃないんだから……
もしかすると、あのばばあに、おれはだまされたのかもしれないな」
「どのばばあにだまされたって?」
突然、冴内の背後から、しわがれているがはっきりとした口調で老人の声がした。
ふたりはびっくりして、そこに立つ着物姿の老婆を見やるのだった。
まるで、路地の暗闇から音もなく忍び寄ってきたように、
彼らのまったく気が付かない間に立っていたのだった。
「おまえさんが来るのは、分かっていたよ。
だから、わしは、ちゃんと待っていたんじゃないか」
鋭い眼光でふたりを見据えながら、鷲鼻をひくつかせている老婆は、
幾らか背が曲がっているものの、骨ばった身体付きのわりには、
機敏そうにさえ見えるのが不思議だった。
「さあ、ついておいで。見物料のひとり一万円は、先にもらっておくからね」
婆さんは、下駄の音を響かせながらせっせと歩いていた。
「あれ、婆さん、今朝は、五千円だと言ったんじゃないか?」
冴内は、思わず立ち止まって、
相手の抜け落ちた白髪頭を見下ろすようにして問いかけた。
「馬鹿をお言いでないよ。いまどき、五千円で何が見せてもらえるね。
それに、一万円だって安いくらいだね。あんな別嬪、ざらにいないよ。
なにせ、いいとこのお嬢さんだったんだからね。
さあ、早く、ふたりで二万円だね、お出し」
道は路地に入って、あたりに人影がまったくないどころか、
立ち並んでいる住まいの明かりも乏しく、
その造りも古びた木造の板張りのような家ばかりになっていた。
男たちは、顔を見合わせていた。
老婆の方は、薄暗いなかにじっと相手の様子を窺っている。
「分かった、払うよ。ああ、北岡、いいよ。おれが誘ったようなもんだ。
こんなところまで来て、おめおめと帰っても仕方あるまいに」
冴内が財布から取り出した札を老婆の皺だらけの手に渡しているのを、
北岡は、難しい顔をしたまま見つめていた。
それから、荒川が流れている方角へ向かって、三人の人影は黙々と歩いていった。
やがて、狭い路地が行き止まりとなった場所へ着いた。
あたりは、その漂っている臭気から、
化学製品の工場と思われる建物の高い塀で塞がれていた。
婆さんは、まさに崩れかけたあばら家と言っていい、
硝子戸の玄関を辛うじて保っている住まいへ案内したのだった。
「遠慮なく、お上がり」
入口の土間から畳へ、難儀する様子もなく、老婆は上がっていく。
部屋には、四十ワットの裸電球がひとつ吊り下がっているだけだった。
埃で汚れているということはなかったにせよ、遠慮を感じるほど、
立派な住まいとは言えなかった。畳は赤茶けてけばだっていたし、
壁はまだらのしみだらけで、天井にいたっては黒ずんでさえいるのだった。
「こちらだよ、入ったらきちっと閉めておくれよ。
金を払わない者にまで聞かせることはないからね」
建て付けの悪い襖を開いた次の間は、八畳ほどの広さの居間になっていた。
片側には、まがりなりにも小さな床の間があり、
反対側には、もうひとつの部屋が色褪せた絵柄の襖で仕切られていた。
冴内と北岡は、黙って案内されるにまかせていたが、
その床の間を背にして小さな卓が据えられている場所へ座らされた。
「そこにある酒はサービスだよ。好きに飲んどくれ」
卓の上には、ワンカップの酒が二本とかきの種を乗せた小皿がひとつ、
そして、ティッシュ・ペーパーの箱が置かれてあった。
部屋の照明は一転して、蛍光灯の白色がまばゆく感じられるくらいに明るかったが、
部屋の古臭さは変わらず、窓は毛布のようなカーテンで覆いがなされていた。
蒸し暑い晩だった。
部屋が閉め切られているために、なおさらむっとするような空気が淀んでいた。
けれど、貧弱で粗末な家のせいだろう、時折、
隙間風が入ってくるような感じが何とも奇妙に感じられるのだった。
ふたりは、ひとわたり置かれた状況を窺い知ると、
見合わせた顔を正面になる部屋の襖へ向けるのだった。
そこには、鋭い眼光と鷲鼻に皺だらけの口もとを引き締めた老婆が、
前口上でも申し述べたいとばかりに、こちらを見据えていた。
小説家と失業者は、かいていたあぐら姿の背筋を思わず伸ばして見やった。
「始めるよ。存分に楽しんでいっておくれ」
そう言い終わると、婆さんは、閉じていた襖を両開きに大きく開いた。
その部屋には照明が灯っていなかったが、こちらから差し込む明かりで、
畳に座らされている人物の姿がぼんやりと浮き上がっていた。
俯いているために、顔ははっきりと見えなかった。
着物を羽織らされて、正座させられているという姿だった。
婆さんは、近付いていって、抱き起こすように相手を立たせると、
ちょうど鴨居のあるあたりまで連れてきた。
「さあ、その綺麗な顔を上げて、見せておあげ。
おまえを見たくて、わざわざ来てくれたお方たちだよ」
その女性が近付いてきたときから、
何とも言えないふくよかな匂いが漂ってくるのを意識できたが、
顔をおずおずと起こした瞬間には、
芳香は胸を詰まらせるくらいに甘美なものとして感じられるのだった。
それほどに、眼の前に立った女性の顔立ちは美しかった。
その美しさは、こうした場所で見せものになるように作られた美しさとは裏腹な、
或いは、映画女優やテレビ・タレントが作り出している派手な美貌とも違う、
ずっと素人っぽいものであったが、恐ろしく垢抜けしていたのだった。
年齢は二十四・五歳くらい、すらっとした身体付きは、百六十センチほどの身長があった。
肩まで掛かる柔らかなウェーブのついた髪は、艶やかな栗色に染められ、
はっきりとした長い眉の下には、黒く澄んだ大きな瞳
通った鼻筋の可愛らしい小鼻の下には、
朱色をおびたほどよい形の口もとがしっかりと結ばれていた。けれど、
その表情には、はにかんだ様子と一緒におののきを意識している狼狽が感じられた。
顔をまっすぐに起こしてはいるものの、ふたりの男性観客にじっと見つめられる視線を、
その綺麗な眼差しは避けているのだった。
「綺麗なのは、顔ばかりじゃないよ。身体付きも立派なものさ」
老婆は、羽織らせていた安手の着物を剥ぎ取っていた。
若い女は、いやっ、とかすかな声を漏らしたが、
俯くだけで、抵抗する素振りを見せるようなことはなかった。
それもそのはずで、されるがままに脱がされていくと、
あらわれた白い素肌には、荒々しい縄が巻かれているのだった。
「言ったとおりに、おし! 顔は上げているんだよ!」
婆さんの口調は、強い調子をおびていた。
若い女は、堪え切れないとでも言うように、
幾らか身体をよじりながら美しい顔をもたげたが、
両頬を火照らせたその表情は泣き出さんばかりになっていた。
見ず知らずの男たちの視線の前へ、
鮮やかな朱色の湯文字が腰を覆っているだけの裸姿で晒される羞恥。
しかも、その白い柔肌には、手垢で黒ずんだ麻縄が屈辱的に掛けられている。
後ろ手に縛り上げられ、綺麗なふたつの乳房は、
上下に挟まれた胸縄であられもなく突き出させられているのだった。
その羞恥が演技などではなかったのは、
すでに、粟粒のような汗が素肌に浮き上がってきていて、
立っている身体がもどかしいというくらいに、震えているのが見て取れたからだった。
そのいじらしい様子には、ピンク色に光る乳首がいたいけなくらいに可憐に映っていた。
そのときだった。パシッという鋭い音が鳴り響いた。
若い女の愛らしい表情に見とれていた冴内谷津雄も北岡昇もびっくりして、
思わず背筋を伸ばして眼の前を見直すのだった。
「まだ、始まったばかりだというのに、この娘ったら!」
手練手管を心得ているといった婆さんは、
ふらふらし出している若い女の尻を思い切り平手打ちしたのである。
ぶたれた女は、顔を歪めながらも、仕込まれているといったようにシャンとなるのだった。
それから、婆さんは、古ぼけた木製の踏み台を押してくると、
若い女の背後から垂れている麻縄を手に取って、台の上へ昇っていった。
そして、格子のはまった欄間へ縄尻を通すと、反対側からゆっくりとたぐり寄せるのだった。
冴内も北岡も、代わってやりたいと思うほどのろくさとした年寄りの動作だったが、
たぐられていく縄が張られるにつれて、繋がれている女の顔に緊張の影が差してくるのを、
ふたりは見逃さなかった。
若い女の身体が爪先立ちになるまで、その繋がれた麻縄は、
老婆の信じられないような力で引き寄せられるのだった。
「やれやれ、ひと仕事だよ。
これで本当にいい思いをするのは、わしじゃないんだから、損な役まわりだね」
柱に縄尻を繋ぎ留めた婆さんは、ぶつくさ言いながら、
ふたたび、踏み台へ上がっていくのだった。
そして、着物のふところから取り出したくしゃくしゃの手拭いを両手で伸ばし始めた。
古びた豆絞りの柄がようやく分かるほどに伸ばすと、
今度は、鉢巻きを作るような具合に折っている。
「ほうれ、口をあ〜んと開くんだよ。
そんな、いいとこのお嬢さんみたいな開き方じゃ、駄目だろう、もっと大きく開くんだよ」
うむむ……うむむ……うむむ……
婆さんは、その薄汚れた手拭いを相手の綺麗な唇にあてがっているが、
若い女は、顔を幾らかそむけながら抵抗を示していた。
「おまえの好きな猿轡なんだよ、さっさと噛みな!」
老婆は、素直にならない女の乳房を骨ばった指先で鋭く鷲掴みにしていた。
あっ、あっ、あっ。
若い女は、泣きじゃくりながら、言いなりになっていくのだった。
「そうだよ、いい娘だよ。好きなんだから、遠慮することないんだよ。
そおれ、くわえたら、噛み締めな! 女のとってもいい味がするだろう。
猿轡をされれば、お前は、もう、ただの女なんだよ。
いいとこのお嬢さんでも、何でもありゃしない、
乞食女や売女が女であるように、お前は、ただの裸の女なんだよ!」
澄んだ両眼が大きく見開かれている女の美しい顔には、
染みで汚れた猿轡が惨たらしく施されたのだった。
老婆の方は、踏み台から降りるとそれを隅の方へ押しやって、
代わりに、古びた竹製の三尺の物差しを携えて女のそばへ立っていた。
「おまえのここがご覧になりたいと、お客人は、先ほどから、ずうっとお待ちかねなんだよ。
おまえは、ここも綺麗ですってところを見せてあげなくちゃ、
お客人は、きっと怒るよ」
物差しの先が、鮮やかな朱色の湯文字の合わせへ潜り込んで、
たくし上げるように上向いている。
女は、懸命になって、両眼を閉じているだけだった。
後ろ手に縛り上げられ、欄間から吊り下げられて爪先立ちさせられているその格好では、
逃れようにも、身体を回転させることくらいしかできなかったのだ。
冴内も北岡も、一万円という見物料と遣り手ばばあの風情から、
恐らく、へちゃむくれな女が出てきて、膣でバナナ切りをしたり、ゆで卵を飛ばしたり、
煙草なんぞを吸ったりする花電車でも見せられるのではないか、と予想していた。
それは、温泉町でも、
いまどきなかなか出会えないノスタルジアをおびた光景であるに違いなかったし、
この東京下町の場末にあって、あばら家のような場所で行われることにしても、
もってこいとも言える淫らなショーであったかもしれないのだ。
だが、予想は裏切られた。婆さんは、見せるとか、お客人とか、
口では言っていても、まるで見せ物にしている雰囲気が感じられなかった。
情の薄い老婆が、これから、若い女と入っていこうとしているのは、
ショーなどとはまるで違う世界であることが、漂ってくる緊張感から分かるのだった。
いま、ふたりの男がこの場を立ち去っても、
老婆の若い女に対する行為は続いていくに違いなかった。
それは、冴内にしても、北岡にしても、
その美しい女が、ただの普通の女性であるという実感からきていた。
どうして、そこにいるのかは知らない。しかし、姓名も、年齢も、本籍も、現住所も、
家族も、親戚も、出身校も、趣味も、恋人も、何もかもが、やましいところなく、
明らかにできる女性であることが分かるのだった。
そのような普通の若い女に、棺桶へ片足突っ込んだような老婆が、
いったい、どのような行為を迫るというのだろうか。
北岡は、眼の前にあるワンカップの酒を開けて、半分ほど呑み干していた。
冴内も、同じように、酒に口をつけている。
蒸し暑い上に、その部屋のただならぬ熱気が、
胃に染みわたって広がってくる酔いを普通以上にまわらせていた。
そのどんよりとしたふたりの眼差しの前へ、老婆の皺くちゃな手で、
鮮やかな朱色の湯文字の腰紐が解かれていき、
女の下半身から無造作に剥ぎ取られていくのだった。
うぅ、 うぅ、 うぅ……
女は、泣きじゃくって抗議の声を上げようとするが、
非情な猿轡の隙間からは、くぐもった呻き声が漏れるだけだった。
「綺麗な毛並みじゃないか。だけど、若いときは、みなそうさ。
おまえのだけが、艶々としているんじゃないよ」
そう言いながら、婆さんは、優美な曲線を描いて縁取られた腰付きの中心にあたる、
女の小さな丘のあたりを三尺の物差しの先でつついている。
うぅ、 うぅ、 うぅ……
「女に変わりはないのさ。ここがこうしているところはね」
白い太腿の付け根にふっくらと密生している漆黒の和毛を、
折れた刃先のような物差しの先端が掻き分けていた。
それが割れめに触れたときには、女は思わずくの字に折れ曲がろうとしながら、
伸びている両脚を必死に閉じさせるのだった。
うぅ〜、 うぅ〜、 うぅ〜。
薄い竹の切っ先が、柔らかな肉の奥へ、ねじ込まれるように押しつけられている。
婆さんの顔は、絵に描いたように無表情だった。
醜い干乾びた皮膚の上には、折れ曲がった鷲鼻、くぼんだ口もと、
ぎょろっとした眼差しがあるだけだった。
しかし、その骨と皮だけの腕には、恐ろしく力があった。ふっくらとした黒い繊毛の奥へ、
三尺の竹差しの先端が沈み込んでいる様子がありありと見て取れるのだった、
うぅ〜う、 うぅ〜う、 うぅ〜う……
ついに、堪え切れなくなったように、女は俯いていた顔をおもむろに上げた。
大きな黒い両眼には、涙が満ちあふれ、頬をつたわって滴り落ちている。
「そんでも、先っぽが入るのが嫌なんだね、この娘は。
いいよ、仕込んでやるからさ。若い女は、生意気に決まっているからね。
つんと澄ましていたって、女は、女だからね」
老婆は、女の股間から物差しを引き抜くと、
吊り下がっている相手の背後へのろのろとまわっていった。
異様な熱気にぼうっとなって、血走った眼だけを向けるふたりの男には、
欄間から吊り下がった女の全裸姿しか見えなかった。
突き出させられた綺麗な乳房、覆う手段もなくあからさまにのぞかされた悩ましげな恥毛、
女の曲線の優美さを見事にあらわしたその姿態は、
後ろ手に縛り上げられた非情な麻縄や爪先立ちにさせられた苦しい格好がなくて、
普通に眺められても、充分に魅力だったに違いない。
しかし、愛らしい朱色の唇に挟んで、
食い入るほどに噛まされた薄汚れた手拭いの猿轡が、
ただでさえ哀しげな表情を浮かべているはずの美しい顔を、
悲痛なまでの形相に変えさせていた。
それは、見るだけで、わけも分からず、思わず欲情がそそり立たずにはおれない、
残酷で妖しい女の美しさをあらわしていたのだった。
冴内も北岡も、身近でいなから素性を知らないというだけのその女性に、
見物客であるという意識を離れた愛しさを感じていた。
彼女が自分たちの前へ、あからさまにしてくれる羞恥のものがあれば、
それだけ強い親近の情が感じられたのだった。
ところが、彼らの思いとは裏腹に、女の眼差しには、
見守り続けて男たちへの関心がないように感じられた。
求め訴えかけるような眼差しを、一度だって投げかけてはくれないのだ。
男たちなど、まったく無視しているかのようにである。
行き場を求めてそそり立っている欲情を相手に感じているだけに、
その女の態度は傲慢なものに映るのだった。
まるで、見せられて感じている自分たちの性欲が、
淫らで浅ましいものだと見下げられているようにさえ思えるのだった。
身近でいたはずの女性は、そのとき、突然、
許しがたいものに変わっていた。
恥ずかしげもなく、乳房も恥毛もあらわにして、
これ見よがしに緊縛された全裸姿をさらけ出している女は、
特別な女でも何でもなく、
男に淫欲をそそるだけのただの裸の女にしか過ぎないのだった。
そのただの女が、うっ、と気張ったかと思うと、
爪先立ちした裸身を思いきりのけぞらせるのだった。
バシッ、という激しい音が鳴り響いていた。
肉を引き裂くようなその音は、続けざまに響いた。
バシッ……バシッ……バシッ……
その度に、ううっ〜、と呻き声を漏らしながら、女の身体は気張ってのけぞっている。
婆さんが、手にした例の三尺の物差しで、女のふくよかな尻を打擲しているのだった。
それが分かったとき、冴内にしても北岡にしても、
不思議と女が鞭打たれて可愛そうだとは思わなかった。
むしろ、思いを袖にするような傲慢な女は、折檻を受けて当然なのだと感じていた。
苦痛に歪む彼女の顔こそが、愛らしいとさえ感じたのだった。
ヒュ〜、と竹がしなって風を切る音が、淀んだ空気を伝わって聞こえてくる。
そして、バシッと鋭く乾いた音を立てて、竹の鞭は柔らかな皮膚へ破裂するのだった。
それが、力まかせに行われていることは、
気味悪く唸る老婆の激しい吐息からも充分に察することができた。
折檻される女は、両肩を震わせて泣きじゃくっていたが、当然、声にはならなかった。
彼女が上げる悲鳴は、実際、凄まじいものだったに違いない。
鞭打たれる度に、白い輝きを放つ柔肌から吹き出した汗が、
全身に流れ落ちるほどだったのだ。
しかし、女に猿轡がされているというだけで、
すべて、この部屋だけで起こっている事柄にされてしまった。
男たちは、唖然としながら見物しているだけだったから、
部屋を取り仕切っているのは、まさしく老婆だった。
その年取っているはずの女は、手を休める様子など少しも見せず、
打たれる若い女の具合などいっこうに構わず、
相手の尻めがけてひたすら鞭打ち続けている。
バシッ……うっ〜。 バシッ……うっ〜。 バシッ……うっ〜。
語り掛ける醜い老婆と答える美しい娘の対話は、これだけだった。
これだけの単純な会話でも、眺めている男たちには、
全身の血が沸騰したかのような異様な興奮が見舞っていた。
大きく見開いた血走った両眼で、
吹き出さんばかりの淫欲をそそり立たせていたのである。
バシッ………う〜。
若い女の答える声がか細くなっていた。
欄間から吊るされているその身体が、
爪先立ちになっている姿勢が堪えられないとでも言うように、
少しずつ右に左に揺れ始めている。
うなだれている顔には、汗でおどろに乱れた栗色の髪がしなだれ掛かっていた。
バシッ……。
ついに、声の出なくなった愛らしい朱色の口もとからは、
代わりに、よだれの滴が流れ出して、長い銀色の糸を引いて畳へ落ちていた。
麻縄で突き出させられたふたつの乳房には、
ピンク色の乳首が欲情のしこりで立ち上がっているのが見えた。
それでも、老婆の打擲は終わらなかった。
終わらないどころか、女が失神するかのようにふらふらしているのを知って、
さらに、激しい鞭を加えようと唸りが高まっているのだった。
ヒュ〜、バシッ!
折檻を続けられる女の全裸姿が、苦痛を逃れるように、無意識に回転していった。
こちらへ向けた優美な形をした白い尻には、
掻きむしられたような赤い条痕が無数に浮き上がっている。
桜色に火照って、真っ赤に腫れ上がろうとしているところだった。
バシッ!
その女の裸身が激しい硬直を示してのけぞった。
柔らかな髪を左右に揺らし、いやっ、いやっ、とかぶりを振っている。
バシッ!
今度は、全身に激しい震えを示して、
女はその爪先立ちの辛い姿勢で哀願をあらわしているようだった。
くぐもった声が、やめてっ、と聞こえてくる気さえした。
バシッ!
裸の女は、尻よりももっと柔らかい箇所を鞭打たれているのだった。
それは、綺麗な膨らみを見せていた乳房かもしれない、
愛らしいピンク色の乳首かもしれない、
或いは、ふっくらとした股間の小丘のあたりかもしれなかった。
打ち手の正面を向いてしまった女の急所は、
容赦なく竹の鞭で打たれるだけだった。
その老婆の腕力は、信じられないものだった。
とても、八十歳を超えた老人の行為とは思えなかった。
やめることを知らない執念は、鬼気そのものだった。
バシッ!
汗で光るなめらかな背中の上で、麻縄で厳しく後ろ手に縛られた女の両手が、
爪が食い込んで血がにじむほど固く握り締められている。
深く切れ込んだ亀裂も悩ましい優美な尻は、赤く腫れ上がって、
恥ずかしげもなく突き出されている。
支えている両脚には、もはや、閉じ合わせる力がまったく失せているようだった。
「女なら、悦びを示したら、どうだい! 遠慮することなんか、ないんだよ。
ほうれ、欲しかったんだろう! 女なら、みんな欲しがるのさ!」
老婆は、気味の悪い声音で怒鳴りつけていた。
それと同時に、女の艶めかしい太腿の間に、竹の先端がのぞいた。
三尺の古びた物差しが、刃のように薄い目盛りの部分を上にして、
そろそろと差し込まれてくるのだった。
女には、抵抗する気力がまったくなかった。
「そうれ、くわえてみな! しっかりとくわえて、今生の悦びを味わえ!」
老婆は、ありったけの力を込めて、刃のような竹の箇所を上向かせていくのだった。
うっうぅ〜、うっうぅ〜。
女の最も敏感な部分へ食い入らせるようにねじ込まれながら、
三尺の物差しは、さらに上へ上へとあがろうと、悩ましい尻の亀裂に揺れている。
うっうぅ〜、うっうぅ〜。
女の全裸は、されるがままに、苦悶の爪先立ちとなって受けとめているだけだった。
栗色の髪を打ち振るいながら、ふらふらと頭を揺り動かしている様子が、
恍惚とし始めている状態を漂わせていた。
それが事実であったのは、女のあふれ出させた悦びの花蜜があらわしていた。
力まかせに上がりきった長い責め具は、尻のある方へ少し傾斜していた。
その傾斜をつたわって、どろっとしたぬめりが流れてくるのである。
それは、畳に滴り落ちても続いているのだった。
うぅ〜う〜。
突然、女は大きく呻いた。
老婆が、その歯の抜けた皺くちゃの口もとで、女の瑞々しい乳首を頬張ったことが、
容易に想像できた。しかも、その乳首をくちゃくちゃと噛んでいることも、
聞こえてくる音で分かるのだった。
うっ、うっ、うっ、というくぐもった声音とともに、女の全裸は震え出していた。
物差しから滴り落ちる悦びのしずくが、ぽた、ぽた、と音さえ立てている。
その竹の責め具に、また一段と力が込められて、突き上げられたときだった。
う〜う〜う〜う〜。
長い叫び声を上げながら、できるかぎりに裸身をのけぞらせて、
女は絶頂へと昇りつめていった。
それから、息絶えたかのように頭をがっくりとうなだれたが、
欄間から吊るされた全裸は、悦びの痙攣でぴくぴくと震え続けているのだった。
冴内谷津雄と北岡昇は、思わず立ち上がっていた。
女が吊るされている向こうの部屋には、裸電球が灯っていた。
それで、ふたりは、その部屋のありさまをまざまざと見ることができたのだった。
「出すものを我慢できなければ、
そこにあるティシュを使えばいいんだよ!」
白い吊るしものになっている女の裸体の背後から、
老婆がひょこっと顔をのぞかせて怒鳴った。その顔付きは、
月岡芳年の『奥州安達ケ原ひとつ家の図』という錦絵に描かれた鬼婆そのものであると、
冴内も北岡も感じたのだった。
ふたりは、どちらからともなく、玄関へ向かう襖を開けて部屋を出ようとしていた。
鬼婆が自分たちを呼び止めるとは思えなかった。
「いまに、もっといい思いにさせてやるからさあ」
鬼婆は、休むことなく、つぎの自分の仕事に取りかかっていたからだ。
小説家と失業者は、あわてふためきながら履き物を着けると、
建て付けの悪い硝子戸を何とか開けて、戸外へ出るのだった。それから、
言葉を交わすこともなく、黙々と東向島駅の方角へ向かって歩いていくのだった。
夜空には、月が冴え冴えと昇っていた。
東京の夜景にしては、瞬いている星の数も多いくらいだった。
少し蒸し暑かったが、静寂に満ちた初秋のよい晩だったのである。
だが、ふたりには、そのようなことはどうでもよかった。
信じがたいものを見たという思いが帰途をはやらせるだけだった。
彼らは、震えてさえいたのだ。
あれは、エロな見せ物なんかではない。あの鬼婆は、何もかも本気なのだ。
冴内も北岡もそう感じていた。それでなければ、
どうしたわけで、水を張ったたらいや大きな包丁、砥石さえがもあったのだ。
向こうの部屋には、火を起こす七輪だって見えたのではないか?
ふたりは、美しい女のことを思うといたたまれなかった。
彼女があのまま、老婆に切り刻まれてしまうなどとは、考えたくもなかった。
そんなことがあるはずがないのだ。
あばら家を離れるにつれて、
或いは、彼らの思い過ごしかもしれないという考えにもなってきていた。
北千住駅へ向かう東部電車に乗った頃には、
居合わせる乗客の人々の何でもないような日常が感じられて、
そんな<鬼婆>などという非現実的な存在が、
ほとんど絵空事とさえ思えるようになっていた。


それでも、小説家と失業者には、あの美しい女のことがどうしても気掛かりになっていた。
そのうち、どちらからともなく話が出て、
もう一度、あばら家へ行ってみようということになった。
あの夜から、五日後のことだった。
太陽がまばゆく輝く日中をわざわざ選んで、ふたりは、連れ立って出かけて行った。
営業マンだった北岡は、道順にはかなりさとい方であったから、
彼らは、難なくその場所を発見することができた。
あばら家は存在していた。
ふたりの思惑には、もしかすると、
あの夜の出来事は幻想であったのではないかという思いもあった。
だが、建て付けの悪かった硝子戸は外れてしまい、
玄関は開け放しの状態になっていたが、家は実在したのである。
彼らは、思い切ってなかへ入っていった。
見物させられた八畳の部屋へ入るところの襖は、
ほとんど木枠だけのありさまという破れようだった。
問題の部屋は、窓を覆っていた毛布のようなカーテンが失われて、
ひどく汚れた窓ガラスからおぼろげな光が差し込んでいた。
部屋が薄暗くても、白色蛍光灯は畳の上へ落ちて使いものにならなかったし、
襖が開かれたもうひとつの部屋の照明も、裸電球はなくなっていた。
若い女の痕跡を示すようなもの、羽織らされていた着物、
鮮やかな朱色の湯文字、皺くちゃな豆絞りの手拭い、何ひとつなかった。
彼女が吊るされていた欄間はあったが、
吊り下げた麻縄はなかった。
一方の老婆の痕跡と言えば、たらいや大きな包丁や砥石はなかったものの、
古ぼけた木製の踏み台や、何よりも、三尺の竹製の物差しが見つかったのだ。
しかし、それは、半分から折れて腐食していた。
別物であると言われれば、そうかもしれないと言えるような代物だった。
そして、冴内と北岡をもっとも奇妙がらせたのは、
彼らが座った小さな卓がそっくりそのまま置かれていたことだった。
飲みさしのワンカップの酒が二本と手つかずの皿、
乗っているかきの種がすっかり萎びていた。
使われずにいたティッシュ・ペーパーの箱。
これらだけが、ひどく現実的だったのである。
結局、部屋でふたりが見たものには、
あの美しい女の気掛かりを解決するようなものはなかったのだった。
そこへ、体格のよい五十歳なかばくらいのおばさんが姿をあらわした。
「あなたたち、建築屋さんの関係のひとですか?
いえね、先ほど、近所のひとがここへ入っていくのを見かけたというものだから」
つやつやと血色のいい顔に笑みを浮かべながら尋ねるのだった。
説明に困ったところ、
冴内が、それらしくチタン・フレームの眼鏡へ手をやりながら答えた。
「いえ、違います。勝手に上がり込んで、申しわけありません。
ぼくたちは、郷土研究のために、東京下町の情緒を見てまわっているところなんです。
ずいぶんと古びた家が路地裏にあったものですから、つい。
本当に失礼しました。もう、おいとましますから」
中年のおばさんは、ふたりの身なりを見比べながら、笑顔を崩さなかった。
「いえね、そんなことなら、いいんですよ。
この家も取り壊すばっかりなんだから。
崩れかかっているんで、早く来て欲しいんですが、
こんな狭い路地の奥じゃ嫌がるのか、
建築屋さん、なかなか来なくて、あたしは、てっきり、来たんだと思って」
おばさんの感じのよさにつられて、北岡は、思い切って尋ねてみた。
「つかぬことを聞きますが、ここに、お婆さんは住んでいなかったですか?」
相手は、何がおかしいのか、笑い声まで上げた。
「は、は、は。よく、分かりますね。
うちの姑が十年前まで住んでいましたよ。
みんなに好かれた、それは気立てのいいお婆さんでね。
縫い物がとても上手だった。
八十五歳で亡くなったんだから、往生と言えるわね」
失礼しましたと告げながら、冴内と北岡が玄関へ立ち去ろうとしたとき、
背後から声が聞こえていた。
「あれ、また、誰か勝手に上がり込んでいる。
浮浪者かね、酒など飲んで、嫌だね。だから、早く取り壊して欲しいのに。
片付けもしないで、まったく」
ふたりは、思わず叱られた子供のように首を縮めるのだった。
「まったく、狐につままれたような話だな」
路地を歩きながら、冴内が話しかけていた。
「けれど、二万円なくなったのは、事実だろう……
待てよ、いま、ちょっと思い付いたんだが、小説のネタを捜しているんだろう、
これを物語にしてみたら?
世紀末・墨東奇談、芳年の錦絵から甦った非情の<鬼婆>、美女をいたぶる、
なんていうのさ」
そう喋っているわりには、北岡の顔は真顔だった。
「おもしろいかもしれないけれど、その先の筋が思いつかんな。
それに、アナクロな感じがしすぎる。
江戸川乱歩がいま人気かもしれないけれど、おれにはなあ、
それにしても、あの女、本当に美人だったな」
冴内が感慨深げに言えば、北岡も同調するのだった。
「ああ、いい女だった。
ましてや、あんな凄い姿、なかなかお目にかかれないよ」
ふたりは、苦笑しながら、東向島駅へ向かう道をゆっくりと歩いていくのだった。




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上昇と下降の館