第11章 入口は出口となり、出口は入口となる |
冴内谷津雄は、手遅れになるかもしれないという焦燥の思いに駆り立てられて、 急ぎ、<山伏公園>を後にして、<桜花堂>まで戻るのであった。 だが、家屋は古すぎて、台風でもげ落ちた看板はすでに失われ、 出入口は木製の桟のガラス戸で、そこにかすれた文字で、 ようやく、<桜花堂>という店名を読むことのできた店舗は、廃屋同然にあった必然性の故なのか、 すでに、解体工事は終了していて、その場所は、綺麗な新地となっている状態にあったのである。 それは、言葉も出ない、唖然とさせられた、事実であった。 <桜花堂>は失われてしまい、 <その存在は、平屋建てという建物にあって、二階へ通じる階段の上にあるようなもの、 その一階にあっては、地下へ通じる階段の下にあるようなもの、 天国のようなものであると言えば、そうであり、冥府にあることなのかと言えば、そうでもある、 つまり、実在はしないが存在はする、 まるで、人間の≪心≫のありようと同様なものにあると見なすことが可能と言える>とされる、 そのような三層の構造からは、<三重層の密閉の構造>にあると言って差し支えない、 <財団法人 大日本性心理研究会>の入口が消滅してしまい、 その遺品とも言うべき、唯一の雑誌である、 『SMクイーン 十月号』が手に握り締められているという状況が示されたことにあった。 途方に暮れた思いからは、『縄掛けが奏でる琴の調べ』を開くしかなかった、 そこにある、白紙のページが連綿と続いているだけという結末を眺めやるありようしかなかったのである。 冴内谷津雄は、『<財団法人 大日本性心理研究会>の謎』をそのようにして終了させると、 パソコンの電源を切り、書斎となっている部屋を出た。 それから、かつては、夫婦の寝室として使用されていた部屋の扉を開けるのであった。 ベッドのシーツの上には、みずからの縄掛けで緊縛された肢体をあらわした、 冴内谷津雄が横たわっていた、生まれたままの全裸を麻縄で後ろ手に縛られ、 縦に四つの菱形の紋様も鮮やかな亀甲縛りの縄化粧をされ、その上、 陰茎を露わとさせる恥ずかしい股縄を施された痴態をあからさまとさせている姿にあるのだった。 その縄に封じ込められた我が身、 マンションの一室において、縄で緊縛された全裸の肉体にあって、 悩ましく高ぶらされるばかりの思考に集中させられていたことでは、 <三重層の密閉の構造>に置かれていたことをあからさまとさせていることにあったが、 部屋に入ってきた人物の存在さえも気づかないことにあったばかりか、 赤々と反り立たせている先からは、きらめく滴の糸を引かせているありさまにも、 それは示されていることにあったのだ。 着衣の冴内谷津雄は、全裸緊縛姿の冴内谷津雄を見つめながら、 脱却・超克・脱構築ということは、新しい構築が行われるという経過でしかなく、 白紙のページが示されていることにあれば、真っ白なキャンバスが示されているように、 それは、そこへ描き出される新しい表現が求められていることでしかないと実感させられることにあった。 それから、衣装戸棚を開けてスーツを取り出すと、着替えながら腕時計を見て、 約束の時間には、まだ、小一時間あることを確認すると、しっかりとうなずくのであった、 そして、マンションを出たのである。 向かった先は、台東区北上野の浅草まで続く長い商店街の一角に所在する、 <ブックス パフューム>という店舗であった、そこの女主人である、安達由香に会うためであった。 <ブックス パフューム>という店舗は、書庫となる地下室を備えた、二階建ての建物の一階にあった。 店主の趣味をあらわすように、小ぢんまりとした、きちんと整頓された、明るく清潔な趣きにある、 女流の手になる古今の文学書・美術書・音楽書だけを揃えているという古書店であった。 由香は、この店舗を叔父から貰い受けたことにあったが、 叔父というのは、大衆受けのする書籍であれば、どのようなものでも扱ったことに比べると、 大きな考え方の相違が見られたが、それは、経営の結果にもあらわれていた、 口伝えによって、<ブックス パフューム>の存在は、遣り繰りできるだけの固定客を持ってはいたが、 それは、独身の由香が生活していくだけで精一杯の状況でしかなかったことだった。 しかし、彼女は、それで充分満足していた、 みずからが女性であることを主張できる仕事を行えることに矜持を持っていたからであった、 三十二歳になる、由香には、固有の身上があったのである。 その身上を小説として書いた作品があり、冴内谷津雄と知己の関係になった経緯も、 その小説が切っ掛けであったことは、 いずれは、読者へ提示されることにも充分な必然性があることだと考えられる、 その表題は『緊縛の因縁』と言ったが、 今は、冴内が物語創作の参考に彼女から借りた、『SMクイーン 十月号』を返すことが先決だった、 それから、由香が聴いてみたいと望んだ、ブゾーニの『ピアノ協奏曲』のCDを渡すことがあった。 フェルッチョ・ブゾーニの『ピアノ、管弦楽、男性合唱のための協奏曲 ハ長調 op.39』(1904年)は、 『ピアノ協奏曲』と通称されている、 全五楽章から成る構成にあって、ピアノと三管編成の管弦楽と男声合唱に依る演奏は、 総勢百余名という人員、及び、七十五分という時間を要する規模において、 演奏可能であるピアノ協奏曲としては、<史上最大の楽曲である>とされているものにある。 <空前絶後のピアニズムへの記念碑である(R.スティーブンスン)>という技巧を要求される、 ピアノ奏者を始め、統括する指揮者と管弦楽及び打楽器奏者が果敢に挑む楽曲にあるという栄誉は、 果敢に挑んで聴き続ける聴衆にもある栄誉ということが言える作品である。 第一楽章は、ピアノが登場するまでの長い前奏によって始まる、管弦楽に提示される<教会の主題>は、 敬虔に満ちた眼差しで仰ぐ、大伽藍を想起させる壮麗さをあらわして、 登場したピアノが強靭に表現する、響き渡る鐘の音は、信仰に基づく意思を明確とさせる感動を伝えて、 そこから展開される、ピアノと管弦楽の協奏は、ロマン派の音楽が特徴とする、 両者の対立といった様相を一蹴して、<交響>という意義の全体性的音楽を露わとさせている、 構築することを決然と意志した、その協奏の展開は、高山へ登攀する力動において、 全体性的一体感という感動の伝わってくる、圧倒的な表現として示されている。 続く、第二楽章は、冗談を意義するスケルツォ(舞曲)である、曲想は、前楽章と対照的で、 ひねられた、ねじられた、幻想的と言える発想は、この世に存在しない怪鳥が羽ばたくように、 縦横無尽に、自由に、際限がないように、ピアノがさえずる、その中間部分において見事に示される、 あらわれるイタリア民謡の主題は美しく、美とグロテスクの対照が印象的なものとなっている。 第三楽章は、全体で最も長く、開始より内省的な深刻さがあらわれることでは、前楽章と再び対照を成す、 沈思黙考が示されていることは、ピアノに導かれる楽曲にありながら、その協奏的な響きには、 中間部分で激しい盛り上がりを見せても、深刻さを感情の極みにまで至らせるということがない、 つまり、重要なことが思案されているが、苦悩することがあらわされているわけではないという印象がある、 或る<啓示>が示唆されることにあるのは、響き渡る鐘の音を奏でる管弦楽を伴奏に、 ピアノが前楽章のイタリア民謡の主題を提示し、更には、<教会の主題>があらわれて最高潮へ達し、 終楽章へ導かれるための様々な素材の渾然一体となる様相が表現されていることにある、 最後は、最初の繰り返しの静謐に終わるが、それは、予定を導く、完結性を感じさせないものである。 従って、そこから、終楽章が始まることは必然的にあると感じさせられるが、<イタリア風に>と題された、 第四楽章のタランテラ(ナポリの舞曲)の爆発という対照が示されることは、そのように予定させる、 しかも、明朗快活を表現して、その放埓とも感じられる豪快さは、イタリア民謡が提示されることに依って、 突き抜ける青空、太陽の燦燦と輝く緑の山々、黄昏の赤い陽光にある海といった自然を想起させながら、 明るさと暖かさに満ちた舞踏があらわされている、 それは、ついには、豊穣と酩酊の喜びの表現、バッカナーレ(酒神賛歌)の狂乱となって、 ピアノの妙技が示される、カデンツァも用意されてのクライマックスとなる、 最高潮があらわされるが、これがフィナーレでないことは、その終わりの完結性の希薄で示される。 第五楽章の開始が対照的な静謐にあることがそれを余分な感情として感じられてしまうのは、 楽章を追うごとに対照的な感情を揺さぶられてきたと感ずる聴き手にとって、 第四楽章の最高潮以上のものがあり得るのかという疑問の呼び覚まされることにある、 男声合唱に依って歌われる賛歌は、<教会の主題>をもって信条告白が表現されることで、 第一楽章から繋がる統一感をあらわすことにあるが、 それまでの楽章に提示された様々な素材があらわれることは、 混然としているという印象を免れない、造物主アラーの全能の神性を讃える内容の詩であるが、 共感を可能とさせるほどの説得力は、ピアノの控えめな使用が削いでいるとさえ感じられるのは、 前楽章との対比が余りにも明確なものとして感じられることに依る、 七十五分という演奏時間からのカタルシスは弱いと感じられれば、中途半端と謎が残るばかりとなる、 初めて聴いた印象は、大体このようなものになることにあると、<怪作>と評価されても不思議はない。 この作品を繰り返し聴くことに難儀を覚えるとしたら、五楽章として示されている全体性において、 各楽章は、それぞれに見事な自己完結性を表現していることにあるが、 連続する楽章が強い対比に置かれてあることは、それを聴き続けることは、 渾然一体となっている素材の提示が<起・承・転・結という整合性>を希薄とさせていることにある、 つまり、楽章を連続して聴かされているということに<謎>があることが理解できる。 この<謎>を解き明かすことがこの作品を<怪作>よりは<傑作>であるとすることであれば、 常識にとらわれない、怪しげで不思議な作品として鑑賞できる見方に、更に入り込むしかない。 各楽章は独立した楽曲として聴くと、感動をもたらす、自己完結性があるという事実がある、 これは、五楽章が時間的には連続した状態にあるが、並置された状態にあると見ることができると、 <意義>の浮かび上がってくることにある、1906年出版の総譜にある、 次の表題画は、ブゾーニが描いた下絵を画家が仕上げたもので、 それがこの<意義>を明確なものとして考えさせる契機を促すものとしてある。 ブゾーニ自身に依れば、この絵画は、楽曲について、次のことが示されているとされる。 『三つの建物は、それぞれ、第 一、三、五楽章。 その間に来るのが二つの「生きもの」の楽章, スケルツォとタランテラがある。 スケルツォは、魔法の花と魔法の鳥で表された造化の戯れとして、 タランテラは、ヴェスヴィオ火山と糸杉の木で表されている。 「入り口」 の上には太陽が昇っていて, 最後の建物の扉には印章がついている。 右端の翼の生えた生きものは, エーレンシュレーゲルの合唱でうたわれる、自然界の神秘だ。 (ブゾーニの妻への手紙から 1902年 長木誠司 訳)』 三つの建物は、それぞれ、ギリシャ・ローマ、エジプト、バビロニアの様式にあって、 この発想がすでに様式の混然をあらわしていることは、各楽章へ反映されたものとしてある。 五楽章の構成は、全体で<神殿>を構築していると見ることができるのは、 楽章の配置が<緩(静)・急(動)・緩(静)・急(動)・緩(静)>というアーチ構造に示されて、 最初の建物の「入り口」と最後の建物の扉から、 この巨大な全体性的建造物における、<ピアノ>の役割が<協奏的>にあるということは、 <ピアノ>が「入り口」から入り<神殿>を案内する者という見方を可能とさせる、 それは、スフィンクスの<謎>が中央にあるということは、更に、<ピアノ>は、 <謎>へ導かれる<縄>、<謎>があるという迷宮から脱する<縄>にあると見ることができる、 つまり、<ピアノ>は<縄>にあると見ることができると、 ピアニストに依る<縄掛け>が行われている表現にあると考えることができるのである、 では、その<縄掛け>は、どのような様相をあらわすものにあるのかということである。 ブゾーニは、フリードリヒ・ニーチェに傾倒していた、ニーチェの『音楽の精神からの悲劇の誕生』には、 <アポロ的なもの>と<ディオニュソス的なもの>という対立の概念が示されている、 <アポロ的なもの>とは、造形芸術、夢の世界、理性、合理主義が意義され、 <ディオニュソス的なもの>とは、非造形芸術、陶酔の世界、情動、反合理主義が意義される、 芸術は、この双方が対立し融和することにおいて、悲劇という最高の表現形態とされる。 五楽章の構成は、<緩>を<アポロ的なもの>、<急>を<ディオニュソス的なもの>として見れば、 双方は、対比としての位置付けを与えられていることになり、それらを連続して聴くという時間経過は、 第一楽章から第四楽章までの終止の希薄さが融和を求める生成過程ということになる。 このありようは、ニーチェの反キリスト教思想にも共鳴していたということから、 フィナーレのアラーの神の<賛歌>は、<謎>に対する答えの明確さとして、 その詩が生の賛歌として示されていることの必然性を如実とさせることになる、 スフィンクスの<謎>の答えとは人間であるから、人間賛歌の整合性のある表現と言えることになる。 このように見ることの可能からは、再三、再四に、この楽曲に接する機会があれば、 混然としてばら撒かれているように感じられる素材も、見事に嵌め込まれたモザイクがあらわす絵画、 ブゾーニ自身が描いた表題画が浮かび上がってくる感動に出会うことのヴィジョンとなり、 『ピアノ協奏曲』がその独創性において、傑作の所以の示されていることが理解できることになる、 そして、聴く度に生まれ変わる、<脱構築する音楽>という魅力が未来へ投げ掛けられるのである。 グスタフ・マーラーには、一九〇五年に完成させた<交響曲第七番>という楽曲があるが、 ブゾーニの<ピアノ協奏曲>の一年後にあって、この作品も、音楽という時間の連続性に対して、 並列に並べられた楽章が表現する、<脱構築>する世界観は、次のような構造として示されている。 第一楽章 「ゆるやかに」 忍び寄る夜の静寂と闇、夜へ深く沈潜していく意識にあらわれるもの、 第二楽章 「夜曲」 夜に行われる葬列の行進曲、死が生を浮かび上がらせるという自然への認識、 第三楽章 「スケルツォ 影のように」 影のように掴みどころのない不可知の存在が暗躍する、 第四楽章 「夜曲」 慰めと諦めがセレナーデとなって奏でられる、 第五楽章 「ロンド・フィナーレ」 バッカナーレ(酒神賛歌)と言える、真夜中の祝祭である。 決して明けることのない<夜>を描いた音楽ということでは、 すでに、交響曲第三番の第四楽章において、その一節が用いられていることから、 真夜中が語りかける、ニーチェの『ツァラトゥストラ』の「酔歌」との関連を想起させるものである。 <ピアノ協奏曲>においても、<交響曲>においても、<起・承・転・結の整合性>は脱却されて、 時間と空間は、新たな見地から見ることを可能とさせるに至ったことが示されているのである。 我々の知覚作用としての観念に基づく<自然観照の合理的表現>、及び、 感情に基づく<自然観照の情緒的表現>というありようは、総体的なものとしてあることである、 我々は、いずれを主潮とした知覚作用から判断しているかということがその差異であって、 いずれかの一方だけを活動させていることでないことは、 それは、その知覚を思考作用の俎上に昇らせるときの差異のあらわれということにあって、 思考作用が言語に依る概念的思考にあれば、 それは、言語概念の差異として、相対的に見ることを可能にさせるということに依る。 道具という創造が人間の生存の持続にとって必要不可欠のありようにあるという意義において、 言語は、人間にとっての道具である、 道具の弛まぬ創造なくして、人間の生存の持続はあり得ないことは、 人間が表現を行う場合は、道具を媒体とすることなしにはあり得ないことに依って示されている。 更に、言語は道具であり、その使用される方法は<縄掛け>のようにあると見ることができれば、 <自然観照の合理的表現>は<男性の縄>、及び、 <自然観照の情緒的表現>は<女性の縄>にあるという比喩へ自然と導かれることにある。 ブゾーニの『ピアノ協奏曲』は、最初の建物の「入り口」と最後の建物の扉を持っている、 <入口は出口となり、出口は入口となる>ということを可能とさせる存在にある。 このありようにあることが<起・承・転・結という整合性>を希薄なものとさせて、 表現の並置における、<相反・矛盾の認識に依る整合性>を生み出すことになる。 <一義>として理解することは容易である、<多義>として理解することは困難をもたらす、 従って、<一義>にあることに<秩序・整合性・統治>を見い出すことは容易であり、 <多義>にあることに<混沌・矛盾・混乱>を見るということには困難がなくなる、 表現の並置における、<多義>をあらわす、<相反・矛盾の認識に依る整合性>というありようは、 それ故に、<一義>の認識を超克するという地点におけることでしかない。 芸術の存在理由は、人間の知覚作用の拡大・深化ということにあることは、 芸術の理解を<自然観照の合理的表現>及び<自然観照の情緒的表現>の偏向に依ることではなく、 その知覚作用を有用にさせるための方法を持って行われることが求められるということにある、 そのために機能する原初の知覚として、<異化・変化・昇華>を生成する<結びの思想>がある。 <表現>として具現されることにおいて、その原初の知覚は機能するということにある以上、 <表現>における、<多種・多様・多義>は必要不可欠なものとしてあることは、 地球上に数多存在する、人類における民族のそれぞれの<多種・多様・多義>が意義されることであり、 <制度>のあらわす<一義>だけが唯一性をあらわすことではないことを超えさせるありようである、 それが<近代的自我>を超克した者にとっての森羅万象に対する認識の実践ということである。 <制度>は、人間の生存の有用な目的のためには、変革されることが存在理由としてある、 未だに及ばない状態としての人間の言語活動の未発達ゆえの暴力表現が続けられ、 考え合って、語り合って、書き合って、解決できない幼稚さゆえの戦争表現が終わりを告げない、 人類は、絶滅しない限りは、進化の途上にある動物に過ぎないものである以上、 知覚作用の変革という必要不可欠は、必然的に要求されるということでしかない。 <日本民族>の場合、<初期の段階>として終えてしまったありようには、 懐かしく、郷愁的に、感傷的に、回顧することは、想像力において可能なことではあるが、 再び戻ることのできない実際ということにおいては、 果たされた<近代的自我>の超克は、新しい構築が行われるという脱構築でしかない、 それは、自然災害や戦争被害があったという現実と同様に消し去ることのできない事実として、 直視して、分析して、思考して、判断して、新しい体制へ向かわせることでしかない、 新しい体制が<初期の段階>の復古となる体制ということがあり得ないことは、 人間は、誕生・成長・衰退・死という不可逆の過程を動物として生きるものにある以上、 人類のありようも同様であることは、ひとつの民族のありようも、また、その例外となることではない。 従って、<復古となる体制>が造られるような民族は、自滅することにある予兆をあらわしている、 地球上に数多ある民族のいずれが自滅していく民族にあるか、 少なくとも、みずからが所属している民族がそれに該当しないという保障のないことは、 生存することへ貪欲な生のありようだけが生き残るための淘汰としてあるからである。 動物は、生存し生き残るために生まれてくる、 食欲・知欲・性欲・殺傷欲は、生存し生き残るための欲求にある、 それが遺伝子として受け継がれてきていることにあれば、 遺伝子自身の操作が行われない限り、動物にある人間は、そのありようを変えられない、 変えることの可能は、生存し生き残るための方法だけである、 従って、新しい体制へ向かうこと以外に方途はないということになる、 その方途に、常に、立たされ続けているということにある。 <入口>は、大伽藍の壮麗さをあらわす、<神殿>と称される建築物にあった、 開いている扉としてあったことは、そこへ入る者を制限することはないということがあらわされていた、 音楽で言えば、聞く者を選ばないということであり、 美術で言えば、見る者を選ばないということであり、 文学で言えば、読む者を選ばないという意義で、そこにあるものであった。 望む者であれば、誰でも望むままに入ることができる、開かれた扉があるということでは、 <神殿>は、芸術作品と同様のものにあった、 それは、その建築様式に見事にあらわされていた、 特定の民族における、或る時代の様式という様相を見ることのできない、 言い換えれば、特定の民族における、或る時代の様式という様相の数多が見い出されて、 多種・多様・多義が示されるという相反・矛盾があからさまとなっていることにあった、 その掴みどころのなさは、荒唐無稽という印象を抱かせるものでしかなかったが、 美とグロテスクの混然とした超然が威容を表現しているものにあったことは確かだった、 <神殿>とは称されても、<神的存在>を奉る場所ではなかったからである、 一つの宗教の教義があれば、その<一義>は、厳然と他の<一義>を異教と見なすことをする、 特定の様式の数多は、多種・多様・多義が示されることにおいて、 正教も異教もない、<多義>があらわされているということでしかなかった、 それこそが<神殿>と称されたのである、 どのようなありようで示されようとも、<神的存在>は存在しないという<神殿>であったのである、 従って、その<神殿>へ入場する者が向き合う<謎>というものも、 <一義>では推し量れないありようを示すものであったことは必然的であった、 ましてや、その<入口>が木製の桟のガラス戸であったとしても、不思議のないことにあった、 <縄による緊縛>ということがあったとしても、その用いられる<縄>は、 <一義>として、<神道の注連縄>に結び付けられて意義されるものではなかった、 そのような<神殿>を探し出すことが<近代的自我>を超克した者の方途としてあることだった、 失われた<桜花堂>の入口の消失は、希望を絶たれたということではなく、 <入口は出口となり、出口は入口となる>ということにおいて、想像力に依って甦るものにあった。 「その通りですわ」 安達由香は、澄んだ瞳のまなざしで答えた。 それから、艶やかに波打つ黒髪を揺らせながら、しっかりとうなずくと、 「私の『<もののあはれ>という呪縛―<近代的自我>の超克―』からの論理的帰結としては、 冴内様の展開は、奇抜なものですけれど、前例が前例の方法で超克できない因果にあれば、 超克するためには、前例にない方法で行われるというのは道理に違いないと思います、 聴いて分かったことは、ブゾーニの『ピアノ協奏曲』は、啓発的な素晴らしい作品だということです、 この音楽に提示されている事柄は、芸術の存在理由は人間の知覚を発展させることにある、 ということを見事に表現していることにあります、その点では、 ロシアのソ連時代における、社会主義作曲家と見なされている、ショスタコーヴィチの楽曲にも、 『交響曲第4番 ハ短調 op.43』という素晴らしい作品があります、 交響曲という形式にありながら、その<起・承・転・結>という完結性を超越した音楽性は、 流動と転変、静謐と激動を大胆に表現して、<脱構築>を促すものを認識させてくれます、 作曲の最中に、マーラーの交響曲第三番と第七番の総譜を手元に置いていたとのことですが、 社会主義という厳格な国家体制にあって、<反体制>の楽曲と見なされたことは当然のことで、 <体制>に構築される人間は、同時に、<脱構築>することにある人間である、 ということを明瞭に強烈に、交響楽の楽器の数多で提示した芸術が示されていることにあります、 膠着している<体制>の下に生活する者にあっては、 ブゾーニの『ピアノ協奏曲』もショスタコーヴィチの『交響曲第4番』も、 人間を自由な展開へ導く、繰り返しの鑑賞を求めさせる、 <脱構築>の表現があらわされていると言えます、 それは、日本民族の芸術においても、必要不可欠の表現のありようにあると思います」 |
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