4. 『S&M』 第3章 M |
静かに眼を閉じた真知子でしたが、寝付かれないままでした。 サイド・テーブルに置かれた時計は、まもなく、十一時をさすところです。 一時間も横になっていたのに、眠気が忍び寄ってくるどろか、 閉じたまぶたが、まるで、映写幕のようになって、 普段なら、考えもしないような光景があらわれてくるのでした。 息子の新一が映画の主人公のように、凛々しさにあふれ、 素敵な身なりを整えて、友人の結婚披露宴へ出かけていくのです。 落ち着いた雰囲気の広間には、某国会議員の子息とその花嫁が、 招待された数十人の若い男女に囲まれて談笑していました。 若者たちの思い思いに着飾ったきらびやか衣装は、 花嫁の純潔をあらわす純白のウェディング・ドレスを引き立てて、 若さの華やかさで、まばゆいくらいの輝きをきらめかせていました。 新一は、新郎とは普通の友人の間柄でしたが、 たっての頼みと言われて、仕方なく出席したのでした、それと言うのも、 新婦の翔子さんが是非とも新一に会わせたい親友の女性がいたからでした。 実は、そのお嬢さんも、出席には、気乗りがせずに来たのでした、 それは、翔子さんを男性に奪われてしまうことがとても辛かったからでした。 そして、ふたりは、新郎新婦に紹介されて、顔立ちを見合わせた瞬間、 大きな衝撃を受けたように、互いを見つめあったまま、立ち尽くしてしまったのです。 言ったでしょう、お似合いのカップルになるって、美男・美女のカップルの誕生! 祝福された私たちにとっては、さらに、祝福が生まれたのよ、最良の日だわ! 翔子さんは、そのように言って、親友の出会いを喜び、新郎の唇へキスをしました。 新一とそのお嬢さんには、思ってもみなかったことでした、いや、むしろ、 好きになることのできる異性など、絶対にあらわれないと考えていたくらいで、 恋愛など縁もなく、友人の結婚も、羨ましいとは感じていなかったことでした。 しかし、それが、違ったのです。 今日の招待を受けなければ、絶対にめぐり会うことのできなかった相手に、 ふたりは、友人たちに感謝を感じると同時に、その花嫁花婿姿に感動したのでした。 それから、新一とお嬢さんは、何度かデートを重ねた後、 少し遠出をして、海の見えるところまでドライブしようということになって、 人影などまるでない、秋も終わりの季節外れの海岸へと出かけたのでした。 うねりくる波の砕ける散る響きが繰り返されるほかは、ひっそりとしていました。 ふたりは、語り合うこともなく、砂浜をそっと寄り添いながら、歩き続けました。 どんよりとした曇り空の下、いまにでも雨が降るのではないかという海岸は、 灰色に沈んで、波しぶきの白さだけが眼にしみるようでした。 いや、新一には、波の飛沫以上に白く輝くものがあったのです。 ワンピースの裾をそよがせながら歩く、彼女の清楚で愛くるしい顔立ちです。 お嬢さんも、冷たい風なんか何とも思いません、彼がそばにいてくれることで、 暖かい思いが自然と身体のなかから込み上げてくるからです。 恋人たちは、どちらかともなく、立ち止まり、互いの顔立ちを見合わせると、 引き寄せられていくように、唇を重ねあったのでした。 新一には、彼女がすべてでした。 お嬢さんにも、彼がすべてでした。 砕け散る波音の永遠を髣髴とさせる響きに祝福されて、 ふたり、結婚を誓い合ったのでした。 まぶたに映し出される恋物語は、こうして、ハッピー・エンドを迎えたのでした。 うまい具合に思い浮かべることのできたお話でしたが、それもそのはずで、 これは、真知子が夫と出会い、結婚を決めたいきさつそのものだったのです。 その主演男優を、息子の新一が演じたにすぎなかったことなのですが、 息子も、素敵なお嬢さんとめぐり会えば、このようになるというお話でもありました。 それは、息子が心に抱くのは、彼女がすべてとなってしまう、ということでありました。 いずれは、自分から離れていくものだと考えると、真知子は、寂しさを感じました。 新一がいつまでも、小さな子供のままでいてくれたら、いいのに…… そのようなあり得ない思いまで湧き上がってきて、 ひっそりとした寝室の広さや、ゆったりとしすぎるベッドが、物悲しいばかりでした。 夜が急に深みを増していき、灰色のうねりを繰り返す深い海の底へ、 沈み込まされていくような深閑とした情感が広がっていくのでした。 その寂寥は、目頭だけを熱くさせて、心と身体を冷え冷えとさせていました。 切なくやるせない寂しさが暖かな慰めを求めているのは、わかり切ったことでした。 しかし、いとおしい息子には、去って行かれてしまうだけなのです…… 真知子は、ほっそりとした片方の手がネグリジェを挟んで、 片方の乳房の上へ置かれていることに、 突然、気づかされて、びっくりしました。 あら、どうして、このようなこと…… 慌てて、手を離させましたが、しばらくすると、 もう片方の手が同じ仕草をしているのでした。 どうして…… 乳房の上へ置かれた手は、安堵感を与えるものがあったのです。 彼女は、それがわかると、片手を置いたままにしたのでした。 どこか安心のできる思いが少しずつ広がってくるのは、気持ちのよいことでした。 息子のことを思っても、込み上げる寂しさは、切なさを和らげている感じなのです、 いや、それ以上に、置かれたままの手は、柔肌からのぬくもりと結ばれあって、 冷え冷えとした感じから、暖かな慰めのような感じを招いているのです、 それは、乳房が温かなものであると、明瞭に意識させることでした。 置かれていた片手は、おもむろに、それを撫でるような仕草をしたのでした。 いけないわ…… 乳房が伝えてくる、とても柔らかな感触と微妙な快感に戸惑って、 真知子は、思わず、つぶやきました。 声音にも、はっとさせられるようなものがあったのでした、 まるで、みずからの声とは、思えないような可愛らしい感じがしたのでした。 そう思うなり、どきどきしてくる、胸の高鳴りが始まり出しました。 置かれている手を離させたらよいの? それとも、このまま…… 大きな決断を迫られたときのような胸の高鳴りとして感じられたことでした。 いけないわ! そのようなこと! 真知子は、手を離させて、逃れるように半身をベッドの上へ起こしました。 両頬まで火照っているのが感じられると、恥ずかしさに苦笑いが浮かび、 いやだわ、大人げもなく…… そう言いながら、柔らかで綺麗な髪を揺らさせて、小さなかぶりを振るのでした。 ようやく、落ち着いた気持ちなってくると、 久しぶりに、お酒でも飲んで、眠ろうと思い立ち、寝室を出ました。 廊下の反対側にある部屋から、ひとのうごめく気配が感じられます。 今晩も、一生懸命、勉学に励んでいることを考えると、 先ほど、自分がベッドで行おうとしたことが、とても、馬鹿げたことに思えました。 階下にある台所まで行って、グラス一杯の赤ワインを携えてくると、 もう一度、息子の部屋の方を見てから、寝室へ戻ったのでした。 真知子は、ベッドの端へ腰掛けて、グラスを傾けました。 胃に染み渡る熱い快さが湧き上がり、 飲み終わる頃には、全身へ気だるく広がっていくのを感じるのでした。 それから、青いシーツへ横になると、 サイドテーブルの小さな明かりだけを残して、 静かに眼をつむるのでしたが、 寝入っていくのは、 間もなくのことでした……。 |
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