2. 『S&M』 第1章 M |
寝室の扉を開きながら、 真知子は、新一が夕食時に言い放った事柄で、頭が一杯でした―― 「ぼくには、夜食なんかいらないからね、今夜から持ってこないで! 学校の成績が落ちているのは、ぼくが一番よく知っていることだ、 ママにかまわれなくたって、わかってる! ぼくは、ママみたいに優秀じゃないけれど、もう、手取り足取りされたくないんだ! 放っておいて!」 息子のつっけんどんな態度に、彼女は、戸惑うというよりも、狼狽すら感じたのでした。 「何も……何も…… ママは、あなたの成績のことを言ったりなんかしていないわ、 成績が悪くなるようなことだって、時にはあるものよ、 それよりも、ママには、あなたの身体が……」 幼いときから軟弱な身体で、よく病気をしていた、 近頃、やつれている様子は心配で心配で、真知子は、優しく語りかけるのですが、 新一の口調は、激しくそれを遮るものだったのです。 「そのような、何もかもわかっているような、ママのえらぶった態度がむかつくんだ、 放っておいてよ! それから、もう、勝手にひとの部屋へ入ったりしないで!」 唖然としている母を尻目に、 息子は、慌ただしく食卓を離れると、部屋を出て行くのでした―― 寝室の扉を閉めると、 彼女は、明かりのともった室内をぼんやりと眺めていました。 いつもなら、寛いだ雰囲気を与えてくれるその広い間取りが、 ひっそりと静まり返って、寒々とさえ感じられるのです。 確かに、新一は、小さいときから、わがままで独善的なところのある子供でしたが、 それは、病弱だった身体のせい、母に甘える幼さゆえのことだと思っていたのです。 今晩のような息子の態度に接するのは、初めてのことでした。 その猛々しい素振りは、男性を意識させるものさえあったのでした。 今年、高校生になった新一も、十六歳になるのでした、 いつまでも、小さくあどけない幼子でいるわけはありません、それはわかっているのですが、 母と子のふたりだけで暮らしてきた彼女には、 父親のいない息子が不憫で、いとおしくてならなかったのでした。 真知子が二十二歳の時、新婚の年に、彼女の夫は、飛行機事故で亡くなりました。 悲嘆のあまり、彼を追って、死のうとさえ考えたこともありました、 けれど、自分が赤ちゃんを身籠っていると知ったとき、 生まれてくる子供が生き甲斐となったのです。 早産の未熟児でしたが、無事、男の子が誕生しました。 彼女の喜びようといったら、それはありませんでした。 子供には、新一という夫の名がつけられて、思いを込めた忘れ形見となったのです。 真知子は、とても裕福な育ちのお嬢さんでしたから、 ご主人に亡くなられても、生活に困るというようなことはありませんでした、 彼女は、現在住んでいる渋谷の土地と新築した家屋、 それに五十戸建てのマンションの家主という持参金を携えて嫁いだのでした。 暮らしに思いを煩わされない分だけ、 彼女の息子に対する思いやりには、あふれるばかりのものがありました、 欲しがられるままに与え、望まれるままに従い、 息子が嫌がると思えるようなことは、行うことをしなかったのです。 それで、何事もなく過ごして来たのですから、 彼女は、甘やかしすぎることを反省しながらも、何も変えることはしなかったのです。 今晩の新一の態度にしても、息子が望むように放っておいてあげれば、 朝になったら、きっと元通りになる、 そう思うと、少しは気持ちが和らぐのでした。 真知子は、寝化粧をすませようと、化粧台の前まで行って腰掛けました。 綺麗に磨かれた大きすぎるくらいの鏡を覗いた瞬間、 彼女は、思わず、自分の顔立ちを見つめてしまいました、 鏡に映し出された顔立ちは、三十八歳とはとても思えない、 十歳は若く見られる、清楚で愛くるしい美貌でした。 見慣れているはずのその顔立ちが憂いを漂わせている表情は、 彼女自身がびっくりとするほどの妖艶さを感じさせるものがあったのです。 忘れ去られていた甘美なひめごとが、突然、思い起こされたとでもいうように、 どきどきとさせることだったのです…… 鏡に映る私…… 本当に、私なのかしら…… 私って、こんなに…… 胸の高鳴りが戸惑いを覚えるくらい広がってきます、 真知子は、魅せられたように、その容貌を見続けました…… 彼女が注意を振り向けなかっただけなのかもしれません、 際立つ美貌と姿態をそなえ、家柄が良く、上品さと知性に恵まれ、 加えて相応の財産があったのです、 愛息がどれほど生意気であったとしても、 彼女は、放っておかれるような存在ではなかったのでした。 これまでにも、再婚を求める求婚者は、数多くあったのです、 しかし、今夜する寝化粧がほかの誰のためでもないように、 どの男性を喜ばせることもなかったのです、 彼女には、息子があるだけでした。 薄っすらと化粧をし終えた顔立ちを見やりながら、 真知子は、また、息子のことを思うのでした。 自分に瓜二つの女の子のように可愛らしい容貌が、 最近、とみにやつれてきているのです。 毎日、深夜遅く、ひょっとしたら明け方まで、部屋で起きているのでした、 今晩も、そうに違いありません。 成績がひどく落ち込んだことへの悩みがそうさせているのだと思うと、 息子の頑張りがいとおしくてたまらないのです。 その心遣いから、部屋を掃除・整頓したり、夜食を作ったりしてあげたのですが、 その挙句は、夕食時の怒りの爆発だったのでした。 息子の怒った顔が思い浮かぶと、真知子は、何だか、また哀しくなってきてしまいました。 脱いだナイトガウンを手にしたまま、ぼんやりと立ち尽くしているのです。 化粧台の鏡に映し出されて…… ネグリジェ姿の女がひとり…… こちらを向いているのが見えました…… 彼女は、憂いをおびた、とても美しい表情で、自分の方を見ているのでした。 なよやかな両肩には、柔らかで綺麗な黒髪が綾なすように波打ちながら振りかかり、 ほっそりとした首筋の華奢な感じは、ふっくらとした形の良い胸のふくらみを際立たせ、 のぞかせる乳白色の太腿の艶かしさとしなやかな両脚から、 腰付きの締まった優美な姿態を思い起こさせるのでした。 じっと見続けていると、甘美な胸騒ぎが込み上げてきて、 鏡の女性は、頬を赤らめているのがはっきりと見て取れます。 真知子は、思わず、誰かに見られているのではないかと意識させられて、 どきどきしながら、後ろを振り返りますが…… 広い間取りの寝室は、ひっそりと落ち着いているだけでした。 ここには、ひとりだけなのだと思うと…… 鏡の女性は、大胆にも、ネグリジェの裾をたくし上げたのでした。 取り去られた覆いがあらわとさせたのは、ふたつの美しい女の乳房でした、 ふっくらとした形の良いふくらみは、 つんとした桃色の乳首を可憐と感じさせるくらいに、瑞々しさの輝きがあるものでした。 さらに、よく見ようと、脱ぎ去られたネグリジェがあらわとさせたのは、 綺麗な形のお臍のあるなめらかな腹部、くびれた腰付きの曲線の優美さが、 子供さえ産んだことのないような若さをみなぎらせている姿でした。 剥き出しになっている艶かしい白さの太腿と両脚のしなやかさも、 女の色香がふくいくと漂ってくるのを感じさせられるほど、 官能的と言えるものがあるのでした。 鏡の女性の妖艶さには、胸の締め付けられるような甘美を意識させられるものがあり、 清楚で愛くるしい顔立ちを火照らせて、魅入らされるばかりのことだったのです、 まるで、二十二歳の処女のようなと言えば、大げさすぎることには違いありませんが、 その年齢以来、男性経験のない肉体であったことは、事実でした。 しかし、そこまでです。 鏡の女性も、ショーツまで取り去る勇気はありませんでしたから、 思わず、苦笑いを浮かべた真知子にも、それで充分なことでした、 それ以上のことなど、想像もできないことでした。 後は、寝るだけなのです。 彼女は、ネグリジェを着直すと、ベッドへ向かうのでした。 夫婦のために注文されて、華やかな花模様の装飾の施された、 今は、少し古くなってしまった立派なダブル・ベッドです。 誰かがそのベッドで待っているはずはありませんから、枕は、ひとつだけです。 そのひとつだけの枕を見つめると…… 真知子は、新一さんとつぶやきました。 自分でも、不思議だったのです、 夫の名前など、久しく口にしたことはなかったのでした、 でも、何故か呼ばずにいられなかったのです。 同じ名前でありながら、息子の名は、毎日、当たり前に呼んでいたのでした。 夫の写真であれば、額に飾られて、サイド・テーブルに置かれてありましたから、 それを見ればよいのです。 しかし、真知子は、募る思いから、夫を思い浮かべたかったのでした。 ところが、優しく愛してくれた夫の面影は、 どうしても、息子の容貌となってしまうのでした。 夫とベッドと共にしたのは、わずかに二ヵ月、 婚約期間を入れても、付き合いは一年もなく、 孤閨の日々は、十六年も送り続けきたのでした。 真知子は、化粧台の方を振り返って、映し出される女を見ました。 映し出されている女が美しいのは、 孤独でいる哀しさを秘めているからだと思いました。 鏡の女の美しさに魅入られるだけ、 自分が哀しくなっていることにも気づいたのです。 彼女は、秘密を閉じるように、向き直ると、 サイド・テーブルの小さな明かりだけを残して、ベッドへ横たわりました。 歳月が過ぎれば、小さな芽も若い茎となり、その茎にも、いずれ花が咲くのです。 母の思いをよそに、息子が自立して考えるようになることに、何の不思議もないのです。 彼女は、そのことが良くわかる気がしました。 寝室を出た同じ廊下の反対側にある自室で、 新一が今夜も勉学に励んでいる姿が思い浮かびました。 いとおしさが込み上げてきますが、今日は、息子に拒絶されたのです。 ひっそりとした寝室の広さや、ゆったりとしすぎているベッドは、寂しく感じられますが、 眠るほかはないと思いながら、 真知子は、静かに眼を閉じるのでした……。 |
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