借金返済で弁護士に相談




 日本間の様式に造られた部屋であった。
 そこにある落ち着いたたたずまいの床の間に、流麗雄渾な書のあらわされた荘重な掛け軸と、
 絵柄と色彩が幽玄をかもしだす陶の花瓶へ華麗な技法で生花された置物が配置されていた。
 ことさらではないその美しさの対照もさることながら、物的価値は、素人目にも、双方で百万円は下らない代物に思えたが、
 生花の家元なるひとや骨董の鑑定士なるひとの眼によれば、それ以上のものであったかもしれないし、
 或いは、見栄えほどのものではなかったかもしれなかった……
 実際は、そのようなものは置いてなかったので、どきどきさせるような鑑定結果の件は、ひとまず安心してよいだろう。
 置かれていたのは、端のかけた使い物にならない古臭い土器にすぎなかった。
 それが縄文土器であることを知っている者にとっては、確かに、意味のある代物に違いなかった。
 歴史的遺物というものであれば、発掘を捏造してまで、栄誉と名声と金銭を得させようとするものであるから、
 床の間に整然として置かれていた土器が本物である可能性は少なかった、見事に擬似化された模造品だったのである。
 模造品ならば、値打ちのある骨董品とも考えられることはなかったから、
 せいぜい、少・中学校の資料室に置かれている文化資料と同程度の価値のものであるとしか、見なされなかったことだろう。
 つまり、それが何であるかの説明を受けているときは関心を呼び覚ますが、
 そのようなことがなければ、死んだ過去、つまり、書庫に眠った歴史的遺物、しかも、どこにもある模造品だったのである。
 授業を受けている生徒も、説明に飽きて同じように眠りこけていたとしても、不思議のない代物だったと言える。
 縄文土器の存在理由が現在のわれわれと切り離されたありようを示しているかぎり、
 そのように見えるかもしれないということである。
 ところが、歴史的遺物が太古の時代の人々の生きざまと概念的思考を表現しているものだとすれば、
 現在のわれわれが歴史的遺物として残すだろう物との相似や同一に着目することが可能なことでありさえすれば、
 歴史は、死んだ過去ではなく、生きている過去、つまり、歴史は持続する現代史として見ることができるようになる。
 さらに、持続する現代史と見ることのできる物には、
 未来の予見、または、未来の実現が含まれていることを可能性として考えられる。
 縄文土器のあらわす縄目の文様は、植物の繊維を撚って作り上げられた縄が存在していたことを伝えている。
 縄が物と物とを縛って繋ぐことを可能にする実現は、概念と概念を縛って繋ぐ観念のあったことを伝えている。
 その同じ縄は、現在のわれわれの眼の前にも存在し、われわれの観念も、縛って繋ぐことを認識できることは同じである。
 縛る概念の対象となるものは、縄文の縄がその後どのように用いられたかを見ればわかることである。
 わが国の縄の歴史は、生活に関する実用的な使用は言うまでもなく、宗教、政治、芸術に及んで偏在することを見れば、
 たとえば、室町時代に生まれ江戸時代に隆盛した犯罪人に用いられる捕縛術なるものにさえ示されていることを見れば、
 その根拠となる観念、<縛って繋ぐ力>が民族の歴史を貫く根本思想であると言われても、あながち、不当とは言えない。
 縄文土器のありようが世界に類を見ない独創を示しているのであれば、民族の自覚と尊厳でさえあると言えよう。
 <縛って繋ぐ力>を表象する捕縛術は、明治時代以降、積極的に導入された西洋合理精神によって陰へと追いやられ、
 性的対象を縛る緊縛としてその存在理由を隠微に継承させ、やがて大正・昭和を経て、平成時代には、
 民衆の一般常識と言うくらいに、どこでも随意に見ることのできる、日常茶飯事の週刊誌的情報としてあり得るようになる。
 現代の表象として示されているこの現実をまのあたりにさせられれば、このようなことがあたりまえとなっている事実に、
 ことさら深い意味を感じないでいるありようは、それが当然至極な民族の本質的事柄であるから、
 つまり、民族の存在理由としての認識であるからだ、と言われてしまえば、反論は、歴史または認識の否定を行うしかない。
 だが、民族の縄の歴史の否定など、行うには余りにも遠大な時間であり、膨大な事柄にまで拡散しているものがある。
 神社から注連縄ひとつを抹消されることを行うだけでも、宗教弾圧としての激烈な非難を浴びることに違いない。
 従って、認識の否定である。
 価値ある歴史的遺物の縄文土器と性的対象を緊縛する縄が同一のものである、
 このような馬鹿げた偶然は、そこに同一の根拠が納得のいくありようで示されないかぎり、
 単なる思い付き、世間を知らない非常識、気違い沙汰のでたらめを越えることはない。
 縄文土器には、依然として残る謎があり、決定的な存在理由が論証されていない事実があるが、
 性的対象を縄で縛る緊縛には、非人道的・因習的・反社会的・猥褻的という決定的な存在理由が示されているのである。
 女性を全裸にして縄で縛り上げる行為には、それが表現されているどのようなポルノグラフィや美術作品を見ても、
 虐待・恥辱・屈辱・陵辱・残酷が時には嫌悪さえ呼び覚ますものとしてあからさまとなっているのである。
 つまり、性的欲望による猥褻表現以外の何物でもないということである。
 にもかかわらず、緊縛の表現行為が歪曲された至上の美や究極の愛をあらわすものであると称され、
 人間存在を表現する芸術性が示されているとされるのは、どのようなわけからであるのか。
 客観性があるとされる学術的根拠にその存在理由を決定付けられるようにされるからである。
 ただの性的欲望による異常な事態も、学術的根拠さえ明らかにされれば、
 異常な事態は正常な事態という常識の枠内において、学術的価値として共有できるようになるということである。
 この場合は、明治時代よりの伝来の西洋合理精神による性的欲望の学術であるサディズム・マゾヒズムによって、
 性的対象の縄による緊縛は、人間の生来ある性的欲望の自然なあらわれである、という存在理由が示されるのである。
 では、緊縛の表現行為が歪曲された至上の美や究極の愛をあらわすものであると称することができるのは、どうしてなのか。
 唯一神信仰の伝来の合理精神によれば、美や愛は、神の唯一の調和に従った整合性の基本原理に基づいている。
 縄によって緊縛された人体と心理の異形という形態は、その反調和・反整合性をあらわすことができるからこそ、
 異形としての美と異常としての愛を表出できるということになる。
 唯一神に拠る調和の美と正常な愛が整合性の基本原理として、<事の始まり>にあるから成立することなのである。
 西洋の合理精神によるポルノグラフィにおいて、神学を根拠としない表現を見つけ出すことは困難なことであろう。
 反対に、わが国のポルノグラフィにおいて、神学を根拠とする表現を見つけ出すことは困難なことであろう。
 わが国には、唯一神に拠る調和の美と正常な愛が整合性の基本原理としてないからであるが、
 言うまでもなく、<事の始まり>として成立することは、異なるものがあることになるのである。
 にもかかわらず、性的対象の縄による緊縛は、サディズム・マゾヒズムというカテゴリーのひとつのジャンルへ収められる。
 科学思想という整合性を見せつけられる前では、
 緊縛が縄でなくてはならない理由を決定付ける意味を示すことができないでいるありようは、ただの因習にすぎないのだった。
 わが国が伝統としてきた事柄を古臭い因習と見なして後退させたほかの分野と同様のことであった。
 つまり、明治時代以来の文明開化・富国強兵という成り行きである。
 その伝来の唯一神に拠る科学思想に追従した整合性の起承転結が開戦と終戦という戦争表現でも見事にあらわされた、
 恥も外聞もないプロット、ざるで水を掬うような綿密なディテール、奇襲にまで及ぶ奇想天外大胆な筋書きによる歴史である。
 だが、追従しているばかりでは、ろくなことにはならない。
 民族が<事の始まり>より認識する<縛って繋ぐ力>は、歴史的に実証してきた事柄が示しているように、
 伝来のものとみずからのものとを結び合わせ、ひとつの民族固有のありようとさせることにあるのである。
 追従もほどほどにしておかないと、盲目の愛奴となってしまうか、巨大ローソクの大火傷をするような結果にしかならない。
 そうは言っても、性的欲望というのは、ことによったら、戦争状態よりも火急の事柄であるかもしれないのだ。
 そこまでいかなくても、性的対象の縄による緊縛は、
 ふん縛りたいからふん縛る、これだけで行為は成立するものである。
 解明できない答えを探るようなことをすれば、もたげる陰茎も掻き立てられる膣も萎縮するだけのことになる。
 目的は、民族の自覚と尊厳ではなく、性のオーガズムへ到達するために、官能のまま、縄の導きに従うことなのだ。
 性のオーガズム立証の暁は、ひとの考える埒のあかない探求など、単なる迷妄にすぎないのではないかと思わせるほど、
 オーガズムの整合性には絶対的なものがあるのである、このことは、どうしても打ち消しがたい事実である。
 伝来の科学思想の整合性でさえも、
 オーガズムの整合性が人間の概念的思考を生成させたありように基づいているのであるから、
 人類の絶対性である。
 いや、ここでは、人類の絶対性ではなく、民族の絶対性について考えていることである。
 民族の絶対性、このことについて、八十歳余のもたげる陰茎も不確かな老人は、
 見る木は同じでも、われわれと同じものを眺めていない発言をしているのである。
 性的対象の縄による緊縛は、否定できる認識であるどころか、未来に実現されることの予見であるとされているのである。
 民族が最初に認識した<事の始まり>の<縛って繋ぐ力>は、
 民族固有の官能の美意識である<色>と結ばれあって、
 人間の抱く想像力こそが人間本来のものとしての神であるというヴィジョンを実現することを目指している、というのである。
 選ばれた者だけがそれを成し得るとはされていない、みずから選ぶ者こそが成り得るとされている。
 生まれたままの全裸を縄で緊縛された姿をあらわしている小夜子は、
 人間の抱く想像力こそが人間本来のものとしての神であるというヴィジョンを実現する表象で、
 縄文土器が啓示するわが民族の予定調和の歴史過程のあらわれである。
 小夜子は選ばれた女性であるがゆえに表象化しているものではないから、
 縛って繋ぐ力においては、縄で縛られるわが民族の女性は、すべて、予定調和の歴史過程のあらわれということになる。
 いま、その床の間に置かれた縄文土器と床柱へ晒された縄で緊縛された女の裸身の並置が、
 そのあらわされる意味であるということならば、
 少・中学校の資料室に置かれている文化資料の縄文土器の隣に女性の緊縛裸身が置かれても、
 まったく同じ意味ということになる。
 だが、そのようなことはあり得ない。
 全裸の女体緊縛姿は、たとえ週刊誌で日常茶飯事に見ることができても、十八歳未満禁止の事柄である。
 小・中はおろか、高校でさえ駄目で、大学でも、美術の写生授業としてあり得るかどうか、というところだろう。
 想像力による並置という似非現実であるならばともかくも、現実としてはあり得ないことである。
 学校で清廉潔白に教授できない事柄が、どうして、民族思想として成立するものであるか、疑問としか思えないことである。
 ただ、これまでのわが国の歴史で、<民族の予定調和>なるものが示されたことがあったかどうかである。
 作者の浅薄な知識では、思い当たるものがない、それだけ、民族の自覚が希薄だと言われてしまえば、返す言葉もない。
 やはり、老人がしゃしゃり出るポルノグラフィは、話をややこしく、まわりくどく、執拗にさせるだけのものでしかない。
 近未来のテロリストによる世界支配の話の方がすっきりとしていてよい気がする。


   ついでのおまけ ― テロリストによる世界支配の物語  暴力と純愛はあるが猥褻は一切なしのわかりやすい落ち

   時は二〇〇五年、十万人を収容するサッカー競技場を民族の世界支配を標榜するテロリストが突然占拠する。
   テロリストは、十万人の人質と交換にその国の国会議員の総数を要求する。
   数百人程度の命と十万人とでは、当然、人道的・社会的・経済的効果の観点から、
   後者を選ぶという絶対数の国民の支持を得ることになる。
   汚職する不名誉よりは、国民のために命を捧げられる公約者は、存在理由を立証するものとされたのである。
   テロリストは、競技場から議事堂へ移動するだけの手間でそれを成し遂げたのだった。
   発行株を買い占めれば、企業の器と同様に従業員までも買収できたことになるという、人質のM&Aだった。
   人質のなかには逃亡を試みる者も出たが、テロリストは、そのような者へ容赦のない残忍な拷問と処罰を課した。
   テロリストが一国家を入手した次は、相手国で人気のある当国のアイドルと相手国の政府首脳との人質交換だった。
   アイドルひとりに三千人のファンがついていれば、ひとりの政府首脳は三千人の将来への希望の代償であった。
   交渉は難航したが徐々に進められていった、新手を繰り出すテロリストの世界支配は時間の問題であったのだ。
   その最中、若い美貌の女テロリストと妻子持ちの若い国会議員との間に純愛が生まれる、ふたりは幼なじみだった。
   世界支配の中心で叫ばれるこの愛が事態を意外な方向へと展開させていくのであるが……。
   恥も外聞もないプロット、ざるで水を掬うような綿密なディテール、奇襲にまで及ぶ奇想天外大胆な筋書き。
   テロが行われた国とテロリストは、読者のお好みの立場から自由に入れ替えて差し支えないという特典設定付き。


 しかし、話を本筋から逸らしても、
 老人の現実支配が及んでいることは、小夜子が晒されている現在の状況が明らかとさせていることだった。
 落ち着いたたたずまいの床の間に整然と置かれていた縄文土器のとなりには、
 けやきの床柱を背にして、若く美しい女が全裸を麻縄で緊縛され、恥辱とも言うべき股縄を掛けられているのであった。
 小夜子の肉体も、一時は、お披露目ショーで五百三十二万円の値踏みがされたこともあったのだから、
 隣に置かれていた縄文土器の単なる模造品よりは、断然、高値の価値があったことは確かである。
 もっとも、値踏みがされたからといっても、実際の商品として流通することがなければ、
 私は五百三十二万円の価値ある女なのよ、と言ったところで、自己満足にすぎないことであろう。
 ましてや、私は民族の予定調和の表象なのよ、とほざいたとしたら、何言ってんだ、この馬鹿女、としかならない。
 自己満足にすぎないことは、自己満足のようにしか行うことができないものなのだ。
 それだからと言うわけなのか、老人が小夜子へ課したことは、自慰行為と同じことだった。
 後手に縛られ、胸縄を掛けられ、股縄を施された身上で、性のオーガズムへ達して見せろということだった。
 <縛って繋ぐ力>へ思いをひとつに集中させれば、やり遂げられるということだった――
 まるで、<縛って繋ぐ力>とは、幻想小説に登場するような古来より伝承される念力みたいではないか。
 テロリストの世界支配の話よりも、たとえば、性に目覚める年頃の純真な美少女が年老いた賢者から念力の手ほどきを受け、
 邪悪な性の念力をもてあそぶ大人たちを撃破するような話、こちらの方が余程に説得力と共感があるのではないか。
 緊縛された姿態でオナニーをするだけでは、余りにも紋切り型というか、ぶざまな展開ではないのか――
 小夜子自身も、気ままな思いから始めた気の利いた空想を裏切られる、このような下世話な展開へ身を立たされれば、
 ふてくされた気持ちになってしまったのは、当然のことであったに違いない。
 床柱へくくりつけられたままでいる小夜子は、意地でも身動きひとつしまいと思いを固めているのだった。
 しかし、時間が経過すればするだけ、割れめの肉が恥ずかしいくらいに浮き上がるほど、
 激しく縄を食い込まされた箇所が問題となってくるのだった。
 問題解決のためには、小夜子は、ひとりで答えを出さなければならないのだった……


   もう、いやっ、
   どうして、このような目にあわなければならないの、
   何なのよ、あの爺さん、わけのわからないことをひとりでぶつぶつとしゃべり続けて、
   あげくの果てに、このような縄を掛けて、置き去りにしていってしまうなんて、
   言ったことがいいじゃない、その格好で思いを遂げて見せろですって、
   何言ってんの、ばっかじゃないの、もうろくジジイ、と言いたいわ、
   明美さんは、丸太を跨がされてオナニーできたと言うけれど、そこへ敏感な箇所をこすりつけることができたわけでしょう、
   私とは状況が違うじゃない、筋肉隆々の鼻持ちならない変な男だって手伝ってくれていたし、
   私はひとりよ、ひとりぼっちなのよ、こすりつけるなんてことはできないのよ、
   ただ、締め上がってくるのを感じているだけ、
   それだって、いやだと思うから、逃れようとして、ほんの少し腰をうごめかせたわ、
   でも、ますます食い込んでくる結果にしかならないんだもの、
   こんなの、いやよ、冗談じゃないわよ、
   それを何ですって、縛って繋ぐ力へ思いを集中すればやり遂げられることだなんて、何よそれって感じだわ、
   ああっ、もう、いやっ、やめにして、こんなこと、もう、たくさんよ、
   こんな姿を夫にでも見られたら、いったい、どう思われるというの、どのような言い訳ができるというの、
   生まれたままの全裸の姿でいるばかりではないのよ、堂々と人前へ晒して、それだけだって、はしたないことなのに、
   くっきりと女の割れめがさらけ出されるように、慎ましく覆い隠す恥ずかしい毛をすっかり剃り上げられてしまっているのよ、
   その上、縄で後ろ手に縛られ、乳房を突き出させられるような胸縄を掛けられ、罪人のような浅ましい姿になっているのよ、
   いや、ただの囚われの身であるなら、その姿で言い訳が立つかもしれないけれど、
   腰のくびれを引き締められて、お臍から縦へ下ろされた麻縄が股間へ深々ともぐらされているありさまを知ったら、
   いったい、どのような弁解が立つというの、
   私は、異常者に拉致されて、無理やりこのような姿にされて、晒しものにされているのです、
   あなたが救出に来てくれるのを、いまかいまかと待っていたのです、早く、解放してください、お願いです、あなた、
   と言ったところで、夫は、本気にするかしら、
   難しいかもしれないわ、夫だって、馬鹿じゃないし鈍感な方ではないから、すぐに気づくことに違いないわ、
   私でさえ、眼を落すのが恥ずかしくて、惨めで、呆れかえる、緊縛された姿態なのに、
   それでいて、縄で縛り上げられたことで、感じさせられてしまっているのだから、
   この館へ来て、全裸になることを求められて、生まれたままの姿になったわ、
   羞恥に火照らせられた気持ちになった身体を、そう、岩手伊作さんに初めて後ろ手に縛られたとき、
   揺れ動いて定まりようのなかった恥ずかしさと不安に恐れる思いが繋ぎ留められたのだわ、
   両手首を背後で縛られて自由を奪われたことは、身体を小刻みに震わせるくらいの狼狽を呼び覚ますのだけれど、
   不思議とそれは、女の割れめの内奥を甘美に疼かせるものを意識させることだったのだわ、
   縄で縛られるなんて、とてもいやなことだった、それは本当のこと、
   全裸を縛られた女のひとの姿は、もちろん週刊誌なんかで見たことはあったけれど、まるで興味の湧かないことだった、
   世の中には、そういうことで性を満足させるひとたちがいて、そういうことをSMと言うのだとしか思わなかった、
   サディズム・マゾヒズというのは、人間であれば、だれでもが持っている性的傾向のことであるくらいは知っているわ、
   知っていなければ、雑誌のインタヴューで女優さんが「わたしはマゾッ気が強い方なんです」なんて聞かされても、
   何のことだかわからないことですもの、SMって、だれもが普通に持っている普通の性のことだわ、
   まさか、その女優さんだけが特異体質と異常心理の持ち主ということではないはずよ、
   それとも、そのように病的で特別なひとだから、一般雑誌で取り上げられたり、TV出演なんかしているの、
   そのようなことはないはずだわ、マス・メディアが異常事態を正常扱いして報道したりなんかしないでしょう、
   異常事態は異常な事態であると正常な事態で報道することで、その相違が明らかとなることですもの、
   いくら売上を伸ばしたいからといって、娯楽性に重点を置くようなことをしていたら、真実の報道の本末転倒になるだけだわ、
   悔しいけれど、あのいやらしい縄掛けをしたもうろくジジイも言ったことだわ、
   娯楽は真理探求が目的ではない……
   真理探求に似た楽しさや喜びを味わうことができるから、娯楽としての存在理由があるのだ……
   ありようの事実、真理は、喜怒哀楽の感情移入されたもの、感動とは別物であるのだ……
   それは、見たくない、知りたくない、考えたくないということとは、別物としてあるのだ……
   だから、女優さんも、売り込むための演出や演技で、誇張して行っていることに違いないわ、
   そうでなければ、全裸の女体緊縛と縄文土器の並置は民族思想を表象する、と大げさに言われているようなことでさえ、
   学校で、だれにはばかりなく、清廉潔白に教授できることじゃなくて、
   そんなこと、実際に不可能だから、あのすけべジジイ、<色の道>だなんていって、私に体裁よく行っているのじゃなくて、
   そんなこと、わかりきっていることだわ、何よ、いまさら、
   既成概念が常識の根拠であるということは、当然のことじゃない、言うまでもないことじゃないの、
   それを、あの男、権田助兵衛、私の股間へこのような縄を掛けただけの、もうろくしただけの、ただのエロジジイ、
   こんな縄、いやっ、いやよ、
   割れめへ淫らに埋没させられて、恥ずかしくて情けないばかりのありさま、それでいて、感じさせられてしまうなんて、
   いやっ、絶対にいやよ、あんな何考えているんだかわからない、エロジジイの言いなりになってしまうなんて、
   私には、わかっているわ、わかっています、
   人間であれば、だれもが持っているSMという性的傾向があるからこそ、
   性的虐待・恥辱・屈辱・陵辱・残酷として感受させられるものは、すべて、人間のなかにあるSMの照応であるということ、
   どのように、官能として、心理として、本人へ働きかけられるものとしてあるのかは、
   遺伝的性質や成長過程の影響に依るものであるために、本人には制御することが困難なことであって、
   ただ、サディズムかマゾヒズムのいずれかが強いという天秤ばかりのようなものとしてあるということだわ、
   一方へ大きく傾く性的傾向のあるひとを異常性欲者と言うのだとしたら、
   一方へ大きく傾くことのない性的傾向にありながら、双方へ強いありようを示すひとを正常と呼ぶのかどうか知らないけれど、
   縄で縛られて快感を感じるようなことがあったら、虐待されて喜ぶ被虐性向へ傾きがあらわれているのだから、
   私はマゾヒズムの性的傾向が強いということになるのだわ、
   生まれて初めて、生まれたままの全裸の姿を麻縄で緊縛された私ですよ、
   私のなかで動揺し、狼狽し、変化していくありさまを私自身が判断するには、SMの常識に頼るほかないことだわ、
   男尊女卑としてそのように取り扱われる女というだけでは、古臭い因習にすぎないことにしかならないのだわ、
   文明国の現代女性は、科学思想に基づいて、人間と世界と宇宙を考えることをしなくてはならないのです、
   だから、おまえは自分で気がつかなかっただけで、性科学思想に基づいたマゾヒストだったのだと決め付けられれば、
   めす豚とののしられることも、偉大な科学思想の前では、チャーミングな愛称に聞こえるはずなのです、
   だって、そのマゾヒストということも、事例付きの単なる精神病理学用語にすぎないことであれば、
   まるで夢のない殺伐とした薄暗い病室に閉塞された陰惨なイメージを感じさせることであるかもしれないけれど、
   おとぎばなしのような幻想淫靡な物語のように、どきどきさせられるような華麗淫乱な絵画のように、
   豪華絢爛とした猥褻夢想の映画のように、愛くるしさが現実的な美麗淫情のアニメのように、
   淫欲の演出や演技が制御可能なゲームのように、思い描く本人が納得のいくように脚色されていることであれば、
   マゾという言われ方も、どこか妖しく耽美で下半身を疼かせるような芳香さえ漂わせるものとして感じられても、
   不思議のないことだわ、しかも、加虐の相手が岩手伊作さんのように、モデルか俳優だと聞かされても嘘じゃないくらい、
   容姿端麗の精悍な男性であったら、どうするの、それも、嫌いなタイプじゃなかったら、
   その方のとても上手な縄掛けで縛られると、行われていることはいやなことなんだけれど、いやな気は起こらない、
   いけないことだ、愛する夫のある身でありながら、ほかの男性に惹かれてしまうなんて、いけないことだと思いながら、
   縄で緊縛されることは、その方に抱擁されていくような熱いものを柔肌を通して感じさせられてしまうのだわ、
   岩手伊作さんは、私を縄で緊縛するだけで――されても、構わないとは思うけれど――陵辱なんかしたりしない、
   そういうことであれば、浮気かもしれないけれど不倫ではないはず、こじつけかもしれないけれど、そう納得するのだわ、
   だって仕方ないわ、乳房の上下へ縄が掛けられて両腕ががっちりと固定させられていくと、
   割れめの内奥を甘美に疼かせ始めていたものが、外へは決して逃げていかないものだと思わされるの、
   緊縛という拘束があるからこそ身体のなかに仕舞っておけるのだ、という安心感がさらなる欲望の期待へと胸躍らせるの、
   緊縛されるなんて、とてもいやなこと、それは、本当に本当のこと、でも、うれしい感じであったことも本当なの、
   これが、虐待されているのに、喜びが感じられるということになるわけでしょう、
   性的対象から性的虐待を心理的・肉体的に受けることを嗜好し性的興奮を得られることをマゾヒズムと言い、
   その反対をサディズムと言うならば、縄で縛られた虐待を受けて喜びを感じる、マゾの目覚めということなのだわ、
   でも、それは、縄で縛られたことが余り痛くなかったことだったから、
   痛いのを我慢して、それで快感を得られることだったら、とてもできることではなかった、
   ましてや、緊縛された全裸を皮の鞭で柔肌が裂けるまで打たれ、乳首や陰唇を針で貫かれて重りを垂らされ、
   膣や肛門が広がってしまうほどの異物を挿入され、苦痛これでもかという状態のまま、
   電動装置が送り出す科学的な張形を挿入されていかされっぱなしにされる、
   そのとき、口が裂けてしまうのではないかと思えるほど、何本もの陰茎まで頬張らされ続けるようなこと、
   このような苦痛の極みが快感の極みだなんて、私には、とても耐えられることではありません、
   耐えることを支える思想がありません、
   西洋の唯一神の現世におけるあらわれは、腰の布ひとつだけの裸姿にされ、代わりに罪人という汚辱を着せられ、
   傷だらけになるまで鞭打たれ、いばらの冠をかぶせられて処刑場までの道を重たい十字架を担いで歩かされた、
   虐待・恥辱・屈辱・陵辱・残酷にまみれるなかで、人類の罪をひとりで贖罪するために十字架へはりつけにされた、
   十字架へかけられたとき、神へ哀願しなければならないほど、死に至るまでの激烈な苦痛を耐えさせられた、
   それだからこそ、死に至るまでの激烈な苦痛を耐えたことがあったからこそ、復活という栄光と至福の奇跡があった、
   唯一神のあらわれのように、復活という奇跡にまで至らないことだとしても、
   死に至るような激烈な苦痛を耐えることがあるからこそ、至上の快感が得られる、
   至上の快感といっても、実際は、単なる性のオーガズムであるにすぎないことであっても、
   激烈な苦痛ということに厳格な意味があり、苦痛を通しての快感であるからこそ、神的なものとの照応ということが起こる、
   このように考えれば、十字架への磔、鞭打ち、陰部への裂傷が救世主受難の模倣となっているのは明白としている、
   西洋には、長い間、自慰行為が禁断の行為とされてきた歴史過程があるというのも、、
   みずからの安直な方法で性のオーガズムを得ては、苦痛の存在しない不謹慎・不道徳・不健康・反宗教性をあらわすから、
   苦痛を通しての快感こそ、苦悩を通しての歓喜こそは、
   唯一神が身をもって表象したことをみずからも行うことの心構えであり、
   この心構えにあれば、加虐も被虐も、残虐を超越した性のオーガズムのなかに当事者を輝かせることであり、
   愛と正義と秩序は歓喜のなかに万民を光り輝かせることは、美しく力強い合唱曲にも歌われていることだわ、
   私もその楽曲には感動してしまう、十三人の打楽器奏者の曲よりも、毎年大晦日には聞き惚れてしまう、
   でも、西洋の唯一神信仰にとっては、厳格な意味のある苦痛かもしれないけれど、
   私は、そのような信仰を持っているわけじゃないから、いくら西洋風ぶったって、激烈な苦痛は激烈な苦痛でしかあり得ない、
   でも、クリスマスにはプレゼントをもらいたいし、セント・バレンタイン・デーにはプレゼントを差し上げたいわ、
   でも、マゾなんだから苦痛を耐えろ、そこに喜びがあると言われたとしても、
   見せ場を作り出すための映画の演出ではないし、歓喜の出演料をもらえることでもありませんから、できない相談です、
   もちろん、マゾをやり遂げられる方もいらっしゃるのでしょう、そのような方は真性マゾと呼ばれるているようですが、
   そうなると、私は真性でないマゾということになるのでしょう、
   マゾヒストのカテゴリーにもいろいろなジャンルがあるということなのでしょう、
   事物の差異を知り尽くそうと、知の細分化、知の相対性が行われ、
   カテゴリーとジャンルの一大体系に科学思想が躍起になることは、エントロピーの必然で仕方のないことだとしても、
   真性でないマゾなら、いっそのこと、マゾヒストではあり得ないと言ってしまった方が正しいのではないのかしら、
   人間にはサディズムかマゾヒズムの性的傾向がある、という考えから出発すれば、
   性的虐待・恥辱・屈辱・陵辱・残酷のすべてのあらわれがその根拠でしかあり得ない、
   虐待・恥辱・屈辱・陵辱・残酷のすべてのあらわれは、サディズムかマゾヒズムの性的傾向に関連付けてしか見られない、
   整合性に基づいた立派な思想には違いないことだけれど、その思想で人間を緊縛していることになっているのじゃなくて、
   もちろん、西洋の方々には、充分に納得のいくことであるから、それは、よろしいことに違いないわ、
   でも、数学や物理学の現象のように、心理を伴った人間の現象がグローバル・スタンダードになるものかしら、
   初めに唯一神ありきであれば、心理は唯一神に基づいて形成されるものでしかないのじゃないかしら、
   心理も数学や物理学の現象のように、科学装置を用いて感覚器官や脳の機能現象として理解しようと試みているけれど、
   同じように、性的官能についてはどうなのかしら、
   ウィルヘルム・ライヒのオルゴン・エネルギー装置が米国の連邦刑務所行きのものではないと再評価することなのかしら、
   ああ、性科学思想を研究なされている日本の方々、何とかしてください、
   あ〜あ、我慢できなくなってきているのです、この股の縄が、
   マゾであろうとなかろうと、股間を締め上げてくる恥ずかしい縄は、官能を高ぶらさせるばかりなのです、
   ますます、もどかしさを発揮して、割れめの内奥に疼いているもの悩ましく掻き立ててくるのです、
   ああ、はっきりさせてください、だれか、何とかしてください、
   あんなすけべな老人のまどろっこしい話なんて、みんなたわごとにすぎない、だれかそう言ってください、
   そうでなければ、そうでなければ、私は、この股の縄の言いなりになってしまう、
   そんなこと、私の望むことではありません、
   私は、先進文明国の現代女性でいたいのです、あんなジジイの言った因習の奴隷になんかなるのはいやです、
   確かに、創始以来、人間は同種異種への殺戮を行うことを固有のありようとしてきたわけですから、
   殺戮と殺人は人類の普遍的事柄に違いありません、これを否定する事実をいま現在見定めることはできません、
   けれど、殺戮の行為過程にあって、そこにおける苦痛のありようにどのような意味を見るかということは、
   それぞれの民族で相違のある事柄ではないかと考えられることです、
   殺戮の行為過程を民族みずからが民族研究をすれば明らかとなっていくことなのでしょうけれど、
   貧困や飢餓で苦しんでいる民族にとっては、火急の事態はそのような探求に時間を費やすことではないでしょうから、
   やはり、富める国が時間的余裕を持って研究した成果が優先権を示すことになってしまうのは、当然のことです、
   そうだとすれば、先進国並になろうと西洋化するために、生活をあくせくしているだけの貧乏暇なしで、
   民族研究に時間の余裕がないから、西洋の優先権を持つ考え方へ追従してしまうばかりのことになる、
   おまえはマゾなんだからと言われても、そうではないことを示すありようがないとしたら、
   そのように振舞うことしかできないことになる、救世主の模倣をする西洋人の模倣をする日本人ということなってしまう、
   でも、それのどこがいけないと言うの、
   真性マゾか似非マゾかなんて、経済大国へ成り上がることに比べたら下の下の話にすぎません、
   お金がなければ、充分な民族研究だってできないことでしょう、そうじゃないのかしら、拝金信仰であって、どこが悪いの、
   企業だって充分に儲かれば、民族研究に充分な資金を提供するはずです、
   拝金信仰は民族のために充分に役立つありようであることをあらわせれば、それはわかることです、
   みずからの利益のことしか考えないおためごかしのお尻の穴の小さいありようでは、
   セックスはおまんこだけに挿入してひとり勝手に思いを遂げる自慰行為のようなものでしかないのじゃありませんか、
   いや、もぐらされた麻縄に、クリトリスを押しつぶされ、陰唇を開かされ、肛門を圧迫されて感じさせられ、
   思いを遂げろと自慰行為を迫られているのは、私の方でした、至らなすぎる言葉でした、ごめんなさい、
   ああ、混乱してきている、混乱させられている、どっちがどっちなの、
   こんな淫らな股の縄、いますぐ取り外して! 熱くなってきて責められて、我慢し切れない!
   そうよ、お金と愛さえあれば、どうにかなることじゃなくて、このふたつこそは、グローバル・スタンダードじゃない、
   愛は人間と人間とを結び合わせる縛って繋ぐ力、愛に満たされた世界には戦争も殺戮も殺人もない平和があるわ、
   万人にお金があって愛がある、
   そんな世界がいまだに実現していないから、実現のために、世界の人々が一生懸命にがんばっているのだわ、
   マス・メディアの何を見たって、極彩色に大文字で、<金>と<愛>は隈なく輝いているのじゃなくて、
   それをいったいどこに書かれていると言うの、白黒の極小文字でさえないじゃないの、
   <縄で緊縛された日本女性の裸身は民族の予定調和の表象>だなんて、
   そんなの気違い沙汰のたわごとだからよ、荒唐無稽な事柄だからよ、
   私が素直になれること、それは、愛のままに導かれていくこと、それは私が女だから、
   「恋に溺れながら、私の愛は乾いていく、高ぶるほど空虚、満たされるほど孤独」ということであっても、
   愛を生きることができるから、私は日本女性なのです、
   たわけたエロジジイのもうろくした世迷言など、もう墓場行きよ、
   岩手伊作さんとの純愛、熱愛、溺愛、異常愛、成されるがままの愛、
   岩手伊作さんに愛されるままに縛られた私、縄はふたりを繋ぐ絆、縄による緊縛の愛、
   私は岩手伊作さんに従うだけです、成されるがままに、愛のために、私はマゾにもなります、あなた、ごめんなさい、
   難しいことは、もう、いいのです、せっかく高ぶらされていたときめきも雲散霧消してしまいます、
   身体が正直にあらわしているのです、百聞は一見にしかずです、
   上下の縄で突き出すようにさせられた乳房は、ふたつの乳首をつんとたち上がらせてしまっています、
   とっても恥ずかしいけれど、その恥ずかしさを意識すると、ますます、胸を締めつけるような高鳴りをともなって、
   股間の疼きは甘く切なく太腿へ降りていき、腰のあたりへ這い上がってくるのです、身体がどんどん火照ってくるのです、
   生まれたままの全裸を麻縄で緊縛されているだけなのに、
   このようなことで感じてしまうなんて、いけないことだ、はずかしいことだ、浅ましいことだ、と思えば思うほど、
   疼きは切なさからやるせなさへ変って、気持ちのよいものとさせていくのです、
   抑えようとしても、抑え切れない喜びが湧き立ってくるのが感じられるのです、
   その官能は、すべては私のなかで、私が縄で縛られ自由を奪われ拘束されているからこそ、あり得ることだと思わせます、
   精神も肉体もひとつになって湧き立つ喜びをもっと大きくしたいと望ませます、と言うとロマンティックに聞こえますけれど、
   実際は、概念的思考と肉体的官能は相乗に作用することかもしれませんが、ひとつとしてあるわけではありません、
   この過程は、ややこしく、まわりくどく、執拗に見ていくとさらにわかることなのでしょうけど、
   それをやっていたら、昇り出している官能は転落してしまいます、
   官能の快感は、それをもっともっと押し上げてくれるなら、そのようにしてくれる相手の言いなりなってもかまわない、
   そう思わせるものへ向けることでもしないと、昇りつめるなんてことをなかなかさせてはくれません、
   私は、岩手伊作さんに縄化粧された縄奴隷でかまわないと思うことで、気持ちを集中することができたのです、
   全裸を縄で縛られたくらいでそのようになるなんて、何とはしたない女だろう、ただの淫らな女にすぎないではないか、
   ひとから軽蔑されることではあっても、名誉とされるようなことでは決してないありさまです、
   それはわかっています、わかっていても、煽り立てられる官能が行き着くところまで行き着くことを求めると、
   実際に縄で縛られているのですから、縄で縛られている肉体の官能が結果を出すというのは、当然のことになるのです、
   サディズム・マゾヒズムの整合性をあらわす女となるばかりなのです、
   私の覚悟はそのようにありました、
   私は、岩手伊作さんから、マゾヒストと決め付けられ、道を学ぶために鋼鉄の檻へ入れられると告げられたとき、
   そのような虐待を受けることはいやでしたが、愛のために耐え忍ぶことをしたのです、
   けれど、岩手伊作さんは突然姿をくらまし、愛の縄奴隷である私は、明美さんに受け渡されたのでした、
   私は、愛に見放されてしまったのでしょうか、
   いえ、そのようなことはありません、
   愛は自立した思考なのです、相手さえあれば眼に見えなくても確かなものとしてあるものなのです、
   私は、愛のために、おぞましい三角柱のはめ込まれた十字架へはりつけられることさえ、受け入れることができるのです、
   それがマゾヒストであることを証明させるための単なる見世物にすぎないことであっても、
   マゾヒスト以外に取って代わることを示すことのできない私にとっては、引き受けるほかないことでした、
   私は、激烈な苦痛のなかで喜びが見出せるとは、到底思えません、私には、耐えることを支える思想がないからです、
   けれど、唯一神に拠る整合性的科学思想へ追従する以外にできない私には、引き受けざるを得ない受難なのです、
   三角木馬へ跨る箇所がはっきりと確認できるように、明美さんから股間を覆い隠す毛を剃り上げられ、
   割れめを人前へ剥き出しにさせられました、たまらなく恥ずかしいことでした、
   けれど、あからさまにさせられたことは、女を強烈に意識させられたことでもありました、
   女であるからこそ、愛がわかる女であるからこそ、喜びがわかることだと感じられたのです、
   愛のある性的オーガズムにまで昇りつめさせられることの喜びに比べたら、
   さらけ出されているみずからの人間的な低俗さなど、まるで、取るに足りないことのように思えたことでした、
   愛さえあれば、どのような性的な事象も、神的な輝きをおびる思いにすることができるのかもしれません、
   私を高みまで引き上げてくれようとする明美さんに、私は身体を委ねるのでした、
   気持ちがよかった、あんなちっちゃなクリトリスを上手にこねりまわされていくだけで、
   割れめの内奥から湧き上がる甘美な快感からは、下半身へぞくぞくとする痙攣がもたらされ、
   上下から胸縄に挟まれたふたつの乳房はふっくらと上気させられ、乳首は尖って吸って欲しいくらいに鋭敏となり、
   うっとりとなった顔立ちをあらわしていた頭のなかは、浮遊させられるままの心地よさで満ちあふれているのでした、
   気持ちがよかった、それが愛によることであれば、そうしてくれる相手が明美さんであっても、私は構わなかった、
   愛は自立した思考なのです、相手さえあれば眼に見えなくても確かなものとしてあるものなのです、
   私には、愛が私の存在理由としてあるのです、
   たとえ、明美さんと引き離されてしまった私であっても、愛ゆえに耐え続けることができるはずなのです、
   間違っても、<色の道>を歩まされる女になんかならないのです、
   縛って繋ぐ力へ思いを集中して、ひとりで思いを遂げて見せろですって、そんなこと、できるはずがないじゃありませんか
   ただ、縄が締め上がってくるのを感じているだけです、それだけで、高ぶらされていくだけのことです、
   いま、柱へ繋がれている自分の身体が求めているものは、性のオーガズムへ昇りつめることだけなのです、
   けれど、縄で掻き立てられ、煽り立てられ、高ぶらされても、それ以上がありません、
   股間の箇所へ眼を落とすことが情けない思いにさせます、
   荒々しい麻縄が割れめの肉を押し上げるくらいにまで埋没させられています、
   恥ずかしくも惨めで屈辱的な姿そのものです、
   それでいて、行き着くところまで行かなければならない思いへと私を導いていくのです、
   私は縄の導きに従っていくのです、
   縄は私を導いていくのです、
   股間へ激しく締め込まれた縄へ、私はそのあかしを示すのです、
   内奥からにじませあふれ出させた女であることの喜びが縄へうるおいの恩返しをするのです、
   夫だって、そのうっとりとしている私の顔つきを見て、甘美をあらわす滴りが太腿さえ光らせているありさまを知れば、
   私が無理やりにされて、そのような嬌態を示しているのではないことは、充分に想像できるはずのことです、
   夫は、私にマゾヒストの本性を見るのです、
   人間には、だれにもサディズム・マゾヒズムという性向があり、
   身体の構造からも、男性には陰茎というサディズムの性向が強く、女性には膣というマゾヒズムの性向が強い、
   マゾッ気の傾きにある女性だからこそ、縄で緊縛され官能を煽り立てられてオーガズムを求める、
   これは、一般世間的常識なのです、
   夫は常識に従うだけのことです、そして、夫がマゾヒストの女性を妻として好まなかったら、もう、離婚ということです、
   サディズム・マゾヒズムは、性科学思想にあるように異常性愛の世界です、
   縄で喜びを求め感ずる異常性愛者の妻は、それを喜ぶ異常性愛者の夫を伴侶とすることが尋常の道なのです、
   でも、本当は違うことなのです、性のオーガズムを求めていることにすぎません、異なった展開があり得ることなのです、
   でも、そんなことをひとり言ったって、性に狂っている馬鹿な女のたわごとにしか聞こえません、
   私は、ひとりぼっちで耐えることしかできないのです、
   何を、
   掻き立てられ、煽り立てられ、高ぶらされるだけで、いかさせてもらえないありさまをです、
   甘美に疼くものは強烈に意識させられても、気持ちのよい快感へとは向かわされないありさまをです、
   割れめへ埋没させられているだけの縄では、到底成し遂げられないことをです、
   どうあってもいかせてもらえない、やるせなさ、切なさ、辛さ、苦しさ、哀しくなってきます、
   縛って繋ぐ力へ思いを集中しろと言われたって、どのようにしたらそうできるのか、わかりません、
   できないことを言われも、どうしようもないことです、
   もう、もどかしくて、辛くて、苦しくて、情けなくて、耐えきれないことです、
   愛ゆえにと思いたいことですが、愛が救いになってくれることでもありません、
   泣き出すしかできないことなのです、
   お願いです、いかさせてください、
   もっと、私を引き上げて、この中途半端を断ち切ってください、
   もう、我慢できません、
   お願いです………


 股間を中心に責め立ててくる縄から少しでも意識を逸らせようと試みる小夜子だったが、
 意地でも身動きひとつしまいと固めていた思いをよそに、
 しっかりと閉じ合わせていた艶めかしい太腿は開き加減に悶え始め、
 優美なくびれを見せる腰付きは、じっとしているのが押さえ切れないというようにくねり始めていた。
 匂い立つような腰付きが悩ましくうねりくねりすればするだけ、割れめへはめ込まれた厳しい麻縄は食い込みを増して、
 ちっちゃな敏感な突起を押しつぶし、女の花びらを開かせ、すぼまった菊門を圧迫するのであった。
 その縄の感触は、熱い体温を持ったとげとげしい生き物が割れめ深くへ埋没してうごめいているとさえ思わせることだった。
 高ぶらされた官能が一気に押し上げられて思いを遂げてしまえば、
 そのもどかしさ、辛さ、苦しさ、情けなさは、耐えるだけ喜びへと転化できるものであったに違いない。
 だが、いきたくても、いかさせてもらえない苦悩は、責められ続ける苦痛でしかあり得なかった。
 それがいつまで続けられることであるか、小夜子には見当がつかないことだったが、
 そのような先のことを考えるよりは、いまは、ただ、泣いて耐えることでしかなかったのだった。
 女は、すすり泣きを始めていた。
 やがて、耐え切れない責め苦は、泣きじゃくる女の声音へと変化させていた。
 女の物悲しいとも、物苦しいとも、悩ましいとも、甘美とも言える泣き声が広い日本間の静寂に取って代わっていた。
 ついには、生まれたままの全裸を縄で緊縛され、立った姿勢で床柱へくくり付けられていた女は、
 可能な限りに姿態をうねりくねりと悶えさせながら、哀願をあらわすような啼泣を始めるのだった。
 艶めかしい腰付きを縦に割って埋没させられた股の縄は、
 吹き出させた女の汗とあふれ出させた女の蜜とで変色を始めていた。
 その啼泣と股縄を身動きもせずにじっとなったまま見守り続けていたのは、隣に置かれていた縄文土器の模造品だった。
 これが<女の啼泣>と呼ばれたいきさつであった。




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