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<緊縛のリアリティ>とは、教育である。 「教育とは、教えて知能をつけること、ひとの心身両面にわたって、またある技能について、 その才能を伸ばすために教えること(岩波国語辞典 第二版)」とある。 生まれたままの全裸にさせられた女体は、緊縛されることによって、 知能をつけられ、ある技能について才能を伸ばされる、ということになる。 確かに、団鬼六の『花と蛇』においても、 全裸姿で緊縛された静子夫人は、マゾヒストであるという知能をつけられ、 膣でバナナを切ったり、鶏卵を産んでみせたり、膣内で卵を割ったり、 宝石袋を直腸に収める直腸内異物挿入を行ったり、口、膣、肛門を使っての同時性交を行ったり、 犬を相手に獣姦を行ったりと技能を伸ばすことをしている。 すべては、全裸の女体緊縛があって、始めて成し得る教育ということになる。 だが、それらは、緊縛されていることが都合よく行わせているということで、 緊縛されていなくても成し得ることだとも言える。 本人が拒絶を示すことを無理やり行うには、緊縛が必要であるということで、 <緊縛のリアリティ>とは、その場合、人間から身動きの自由を奪って拘束するということである。 拘束が目的であるなら、縄を用いて緊縛する必然性はないから、 <緊縛>が教育を行うということではなくなる。 従って、どうして縄で行われる緊縛が必要であるかの必然性が示されなければ、教育はあり得ない。 このことを明らかにすることは、大して難しいことではない。 縄による緊縛は、縄を結ぶという行為であり、結ぶということについては、 「作業的結び」「装飾的結び」「象徴的結び」という三つの要素があり、 その混交である<緊縛>には、おのずと呪術的性格がこめられたものとなることによる。 呪術というのは、超自然的・神秘的なものの力を借りて、望むことを起こさせることであるから、 縄による緊縛を行うことで生じることは、知能をつけられ、技能を伸ばす教育ということになる。 身動きの自由を奪って拘束することが目的であれば、縄による緊縛の必要はない。 縄による緊縛が必要であるのは、教育があるという必然性においてでしかない、ということである。 このことをあらわす事柄を美濃村晃という人物の体験が示している。 この人物は、絵画において、文章において、雑誌編集において、<緊縛>を広める功績のあったひとである.。 その体験とは、 母親が土蔵の二階の柱に全裸のまま縛られている姿を小学三年生のときに見たことだった。 気づいた母親の方も驚愕して、「来たらいやっ、あっちへ行って!」と叫んだが、 少年の眼には、つながれた母親の足もとにぬれてたまっている尿さえ映っていたのだった。 母親の奔放な行状が叔父に折檻されてのことだった。 叔母の緊縛写真や収集された緊縛絵画を同じ土蔵で発見していたというから、 叔父という人物は緊縛を好んで行うひとだったのである。 ここで、母親は、全裸で縛られ柱へつながれるという境遇を折檻として引き受けている。 犯した過ちを正させる折檻とは言え、叔父も大胆な人物であれば、母親も大胆な人物である。 それとも、昭和初期の日本では、このようなことは、あたりまえのこととして行われていたのだろうか。 いずれにしても、その後の美濃村晃が絵画、文章、雑誌編集において、 <緊縛>を伝えることの功績があったとすれば、母親の全裸緊縛姿は教育の力を持っていたことになる。 この事柄の核心は、母親が全裸であり、縄で緊縛されていたということにある。 それ以外のありようにおいては、果たして<緊縛>を伝えることが行われたかどうか、疑問である。 つまり、<緊縛>には教育する力があるということである。 言い方を換えれば、教育する力のある<緊縛>は、伝承されていくものであるということである。 伝承と言ったのは、縄を作り出し、結びを生み出した人類創始以来のことであるからだ。 現在、それは、生まれたままの全裸の女体緊縛にまできているということである。 |
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一度味わってしまえば、 それが昇りつめられる頂上ではないという思いがさらに駆りやらせる。 妻が夫から教えられた性愛は、 生まれたままの姿を縄で緊縛されて行われるものだった。 夫婦の営みが求められるとき、 環に結ばれた一本の短い麻縄が居間のテーブルの上へ置かれることが合図だった。 夜が明けるのを永遠に迎えてはならないという願望を胸に秘めながら、 ともに生まれたままの全裸の姿になった夫婦は、 麻縄で後ろ手に縛った妻を夫が抱きしめキスをすることから始めるのだった。 夫は妻の裸身にさまざまな緊縛の意匠を施した。 彼は縄掛けの技巧に想像力が発揮できるほど勃起も激しかった。 彼女は肉体を拘束される縄掛けの熱烈さを感じるほど官能を高ぶらさせた。 勃起した先端からきらめく糸が長く尾を引き、 われめを覆うに和毛に女の蜜があふれだして濡れるとき、 ふたりは、離れることが罪悪であるかのような信頼で、ひとつに結ばれるのであった。 そのように行える相手が、そのように行ってくれる相手が、この世でなくてはならないものであり、 生まれてきたことの喜び、現在あることの幸せ、未来への確信を教えてくれるのであった。 緊縛の縄は、ふたりをきつく結びあわせるものであった。 そして、夫婦の夜の営みが重ねられていくにつれて、 縄で緊縛された妻は、身動きを封じられ自由を奪われた拘束の境遇にあることこそが、 肉体を飛び出さんばかりの官能の高ぶりを生じさせることに目覚めた女になっていくのだった。 不自由な肉体のありさまにさらされていることが、想像もできないような心の自由へと飛躍させる―― それは確かに相反するようなことであったが、 官能が至らせる法悦においては、純粋で矛盾のないものとして感じられることであったのだ。 それをみずからも熱意をもって向上しようとする夫の巧みな縄掛けが行ってくれるのだった。 彼女は、居間のテーブルに置かれた<環に結ばれた縄>を見るだけで、 甘美に疼くものを感じ、大好きな夫を思い、濡れ始めるのだった。 その夫が突然の事故で亡くなった。 二十三歳の妻は、二歳になる息子と取り残された。 それから、母は女手ひとつで子供を育てあげるのに必死になった。 生活の要求は、<環に結ばれた縄>の欲望を労働と余暇の不足で雲散霧消させていった。 性愛へ思いを至らせることの可能は余暇の多少に比例する、とは確かなことであろう。 その子供もようやく高校生となり、彼女もひと安心を感じた頃のことだった。 彼女は、ある日、居間のテーブルの上に、 きちんとした環に結ばれた一本の短い麻縄が置かれているのを発見した。 それを見たときの驚愕は、 頭のなかに描かれていた生活のあらゆる文字をかき消され、 真っ白な板のようにされたと感じたことだった。 新たに浮かび上がってきた文字は、<環に結ばれた縄>だった。 その意味を知っている者でなければ、行うことのできない事実であった。 家のなかでテーブルの上へ物を置くことができる者と言えば、息子のほかにはあり得なかった。 すなわち、息子は<環に結ばれた縄>の意味を知っていることをあらわしていた。 まさか……だが、偶然であると考えるには、それは、あまりにも甘美に疼くものをよみがえらせ、 <緊縛されて官能を高ぶらされること>と<自分>が結び付くことを、 それを教示する<環に結ばれた縄>は<息子>と結び付くことで、 見事に円環を完成させているのだった。 だが、そのようなこと……。 母は、学校から帰宅した息子に向かって、真実を問う勇気を持てなかった。 それが真実であることを打ち消したいという思いがふくらんでいくままに、 その夜、寝室にひとりになった彼女は、寝付かれないでいた。 十四年間、生活の多忙のために思い出されることのなかった夫との性愛の場面が、 真っ白な板の上に浮かんだ<環に結ばれた縄>の文字の向こう側から、 とりとめもなく、浮かんでは消え、浮かんでは消えしていた……。 そのときだった。 突然、妄想を打ち破るかのように、寝室の扉のノックされる音が運命的な響きをもって聞こえてきた。 彼女は、襲いかかる不安と同時に、性愛の甘美な疼きを激しく感じて総毛立たせられた。 それは、絶えて久しく感じたことのなかった奥深い官能だった。 芯から突き上がってくる女であることの意識を振り払って、彼女は、母の顔を保とうと必死の思いになった。 ようやく気持ちを固めて、寝室の扉を開いた。 そこに彼女が見たものは、予期していたことには違いなかったが、絶対に信じたくない光景であった。 或いは、彼女自身そうなることを心の片隅で願望していたものを、 現実は見事に見透かして立証しているとさえ言えた、幻想的迫真力そのものであった。 麻縄の束を手にして立っている息子の姿は、美しく感じられるものだったのである。 母は呆然となったまま、結び合わせる言葉を失っていた。 息子も突っ立ったまま、真剣な蒼ざめた表情を向けて、相手の反応を待っているだけであった。 母は、思わず身に着けていたネグリジェの胸のあたりを両手で押さえて、 いやいやをするように首を振り始めたが、 それに応えて、息子は、震える声音の響きをもって話し出した。 『環に結ばれた縄』と題される父の書き残した手記を発見して、 そのなかに書かれている行為で、これまで苦労ばかりをかけてきた母を慰めることができるなら、 父に代わってしてあげたいと言ったのだった。 母は、健気な息子の気持ちに心底の感動をおぼえた、抱きしめてあげたいほどのいとおしさを感じた。 だが、抱きしめることから、かつての夫婦の営みは始められたのである。 そのようなこと……母子の間で行えることでは、到底なかった。 眼の前にしている母の背丈を上回るほどに成長した息子に、 男女の性愛について、まったく無知なわけではない年齢の男の子に、 思いを言い放ってその行為を実行に移そうとする大胆さを示されたことは、 むしろ、男性という存在のそら恐ろしさを感じずにはいられないことでもあったのだ。 それは、夫が緊縛行為を初めて彼女に求めたときの大胆さに似ている、ということを思い起こさせた。 夫と息子の必然のつながり……このようになることが……もしかすると…… 母と子の必然のつながりであるのかもしれないと思わせるのであった。 だが、性愛の行為を息子と行うなど……不道徳きわまりない、ひとの道に外れたことに違いなかった。 いやよっ、お母さんは、いやっ! あなたが何と思うと、こんな非常識なこと、絶対いやよっ! そんなつまらないことを考える暇があるんだったら、もっと大学受験の勉強に精を出しなさいよ! そう言い放つなり、母は扉を激しく閉ざして、息子を拒絶したのだった。 静まり返った室内に聞こえる、遠ざかっていく息子の足音。 彼女は、ベッドへうつぶせて、こみ上げてくる哀しさに嗚咽するばかりだった。 その夜以来、ふたりの間に交わされる会話がきわめて少なくなった。 夕食後、息子と部屋を別れて寝室にひとりになると、 母はうつろなわびしさにやりきれない思いを感ずるようになった。 夫が亡くなって以来、久しく感じたことのなかった孤独感だった。 息子までもが手の届かないところへ行ってしまったのだという寂寥感だった。 哀しさばかりがこみ上げてきて、彼女は、ただすすり泣くだけであった。 泣きながら、これまでつらい思いばかりしてきた母を慰めることができるなら、 父に代わってしてあげたいと言った息子の言葉ばかりが思い出され、 その健気な男らしさがたまらなくいとおしいものに感じられるのだった。 息子のためなら、母親として、どんなことでもしてあげたい。 そう思うことが、息子を身近なものとして感じられる、ただひとつの思いとなるのだった。 思いは、恋慕にも似て、日増しに強まっていった。 息子へのいとおしさは、息子が望むように、息子の言うとおりになることが、 息子の手によって、息子の望むままに、麻縄で縄掛けされて縛られることの幸せと、 かつて夫から緊縛されて与えられた喜びの記憶とをよじり合わせるように結ばせ、 決して許される行為ではないと一方では思いつつも、 思いに抑制をかければ、それだけ高ぶらされるものであったのだった。 だが、考えているだけでは、どうにもならないことだった。 息子と一緒に見つめ合わなければならないきっかけが必要だった。 彼女が考えついたことは、息子の関心を惹くような過ちを犯すことだった。 自分に非があったからこそ、このようなぎこちない関係になってしまったことを責めてもらうことだった。 彼女は、その日から、ことあるごとに息子が腹を立てるようなことをし始めるのだった。 最初のうちは、息子も無視するような態度をとっていたが、 ついには、母親のあまりの変貌に怒りをあらわにした。 おやじの真似をしたからって、ぼくはおやじじゃない、そんなことはわかってる! そんなにぼくのことがうざいなら、口ではっきり言ってよ!! あんたは、本当は、ぼくのことをずっと、ただ邪魔な存在だと思ってきたんだろう!!! 鬼の形相になったとも思える息子の捨て台詞だった。 ああ! なんてことを!! なんてことをしてしまったの!!! 予期しなかった相手の言葉に狼狽して、母はあわてて言い訳しようと口ごもったが、 息子は背を向けるなり部屋へ閉じこもってしまったのだった。 息子から叱られることを期待して行ったことなのに、彼を本当に怒らせてしまったのだった。 彼女は、取り返しのつかないことをしたと悔やんで、その夜、一晩中泣きどおしだった。 翌朝、母は息子に、そんなつもりでしたわけではないことを詫びたが、 息子はまったく取り合わなかった。 息子の冷めきった態度に変化の様子はなかった。 母はどうしようもなかった。 やり場のないどうにしようもない思いがたどりつく場所として、願掛けにすがるしかなかった。 縄が二重螺旋を描き、そのよじり合わされた姿が陰陽ふたつのものを結び合わせる象徴とすれば、 息子との縁を元に戻すには、離ればなれになった縄の両端を結んで繋ぎ合わせるしかなかった。 <環に結ばれた縄>を作るしかなかった。 彼女は、短い一本の麻縄を環に結んで、居間のテーブルの上へそなえるのだった。 愚かなことをしているとは、自分でもわかっていた。 だが、どうにもならなかった、それしか思い付くことのできるものがなかったのだ。 毎夜、母は寝室へ入ると、ベッドの端へいずまいを正して腰掛けた。 決して起こり得ないだろうことのために、無心になって祈り、時が来るのを待つのであった。 やがて、時刻が十二時を告げると、うつろな思いのまま疲れ果てて、ベッドへ横たわるのだった。 そのようなことをし始めて一週間が過ぎた頃だった。 彼女は、願掛けをする自分の仕方が至らないことを感じた。 神社でお百度参りをするひとも、それを裸足で行うことでご利益を求めるのである。 ベッドへ腰掛けて祈るだけのことであるならば、誰にでもできることである。 自分の思いを本当にかなえてもらうには、自分の思いを心からあらわすことをしなければならない。 彼女は、一糸もつけない生まれたままの姿になると、床へひざまずき正座するのだった。 それから、両腕を背中へまわし、後ろ手に縛られる姿勢を取るのだった。 久方ぶりのありように、心臓は高鳴り、がたがた震えるほどの興奮が身体全体を覆った。 このような人目をはばかる恥ずかしい姿にさらされているのも、 自分の愚かさゆえの罰として生贄に捧げられているからなのだ。 そのように思うと、不埒な行いであるという罪悪感が徐々に薄れていき、 頬を紅潮させるほどに昂ぶった官能が気持ちよくさえ感じられることになるのだった。 素っ裸の格好のまま、十二時になるまでじっとしていた。 次の夜も、同じことを繰り返した。 あらわれるはずもない者へ、繰り返し繰り返し、心からの願掛けを行うのであった。 そう、死んでしまった者が再びよみがえるはずもない。 夫は十四年前に亡くなったのだ……あらわれる者があるとすれば……生きている息子しかなかった。 亡くなった夫に願を掛け、救いの者としてあらわれる息子を待ち続ける、全裸の女……。 何と言う、愚かで哀しく浅ましくさえある人間のありよう……。 鏡に映るみずからの姿を眺めてそう感じても、 彼女は、生まれたままの素っ裸になって後ろ手に手首を交錯させ、 正座して待ち続けること以外に、求めるものを考えられなかった。 ある夜のことだった。 母は、いつものように身につけているものをすべて脱ぎ去り、 生まれたままの姿になると、寝室の床へ正座して後ろ手に縛られる姿勢を取った。 そのままじっとしていると、やがて、静まり返った室内に聞こえる、近づく者の足音があった。 彼が来るのだ……と思うと、 彼女は、処女でもあるかのような初々しい高鳴りを感じて、母から女へと変わっていくのだった。 三十七歳になった自分のことを、彼が今でもきれいだと思ってくれたなら、嬉しかった。 瑞々しさは失われたが、魅力的な肉体だと感じてくれたなら、幸せだった。 彼にとって、なくてはならない存在だと思ってもらえることだったら、 もうどうなってもよいという決心をしていた。 足音が止まった……。 夫婦の寝室の扉は、ノックもなしに開かれた。 彼は一糸まとわぬ全裸の姿に麻縄の束をたずさえて突っ立っていた。 女は彼の妻になれる喜びに全身が総毛立つほどの思いを感じていた。 彼は彼女の背後へ立つと、立ち上がるように促して、 後ろ手に交錯されている両手首を麻縄でしっかりと縛るのであった。 それから、縄を前へまわしてふっくらとした乳房を上下からはさむような縄掛けをするのだった。 縄尻を手にしたまま、彼は妻の前へ立った。 彼女は、上気していた裸身に、冷たく厳しく食い込む麻縄の感触が快くさえあるのを感じていた。 ふたりは向き合ったまま互いを見つめあった。 彼は縄で緊縛された彼女の肉体を抱きしめると唇を求めた。 妻は求められるままに唇を差し出した。 かつて行われた夫婦の性愛がよみがえった。 夫は思いの丈をあらわすような熱心な縄掛けを妻の身体へ施していった。 それに応えて、妻の官能も一気に押し上げられていくのだった。 勃起した先端からきらめく糸が長く尾を引き、 われめを覆うに和毛に女の蜜があふれだして濡れるとき、 ふたりはひとつになることを望んだ。 そして、一度味わってしまえば、 それが昇りつめられる頂上ではないという思いがさらに駆りやらせるのであった。 ふたりは飽くことなく、毎夜、行為に耽っていった。 緊縛の手記『環に結ばれた縄』は、書き手の死亡によって中断していたが、 今、ふたりは、そのあとを行き着くところまで書き上げようとしているのだった。 男と女が創造するもの…… 想像力が造形する美意識において向かうことのできるひとつの段階…… 男は美しい存在を作り出すために最上の意匠を凝らした縄掛けを行う…… 女は美しい存在そのものとして生まれ変わるために捧げものとなる…… ともにきわみを知るために…… 性愛のエネルギーが法悦の状態を作り出し…… 形而上的な美の認識に至るまで、その真のありようを求めさせる……。 きわみを知った妻であり、母であり、女であった美しさそのものは、 きわみを知った息子であり、夫であり、男であったものの手によって、 一糸もつけない生まれたままの姿で白木の十字架へはりつけられるのであった。 波打つ長く柔らかな黒髪が美しかった。 顔立ちも年齢を特定できないくらいに愛らしかった。 女であることを知らしめるために漆黒の翳りは失われ、 白いふっくらとした丘に肉の合わせめがあざやかにのぞかされている、 両腕を左右にめいっぱい広げ、爪先までしなやかに伸ばされた姿態は、 覆い隠す手立ての一切ない女の優美さを堂々とさらけだしているのであった――。 秋の芸術祭シーズン、東京の美術館に陳列された生身のひとの造形物には、 鑑賞者から、毀誉褒貶、揶揄皮肉、罵詈雑言が浴びせかけられたが、 美神としての造形物と化した女には、すでに知る由もないことであった。 母子家庭に育った苦学の美大生によって作り出された、 『はりつけにされたヴィーナス』という展示品の背景には、 このようないきさつがあったのだった。 ☆『はりつけにされたヴィーナス』 西洋版 さて、皆様方には、この『はりつけにされたヴィーナス』というお話、 如何に感じられましたでしょうか。 |
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