生まれたままの全裸の女体があり、縄がおかれていれば、緊縛は生まれる。 一糸もまとわせられない全裸の女体を後ろ手に縛り、 ふっくらと隆起した形のよい乳房の上下へ縄をまわし、 柔肌に密着する縄の刺激で乳首がつんと立ち上がる欲情を示すまで締め上げる、 そのようにして掛けられた胸縄はまだほんの始まりで、 まわされた首縄が縦へ股間までおろされることによって、 肉の切れ込みへ深々ともぐり込まされる股縄が施されることによって、 女体は一段とした輝きを増すことになるのである、 さらに、その次は……。 「婦人の裸体は神の作品である」と言ったのは、ウィリアム・ブレイクである。 「縄で縛られた婦人の裸体はもっと美しい、そして、それは人間の作品である」と言ったのは、誰か。 猥褻の表現世界では、匿名、筆名、渾名がまかり通っているから、何者であるかを特定しにくい。 だが、犯人探しをやっているわけではないから、何者であっても大した問題ではない。 それに、誰が言ったことであるにせよ、それが人間の生の一般的な命題となることは、まずあり得ない。 何故なら、緊縛された生まれたままの全裸にある女体が美しいものであると見えないとしたら、 ただ、恥ずかしく、情けなく、浅ましく、残酷で、いかがわしく、淫らなものであるとしか見えないとしたら、 美か醜かのいずれに見えるかの数値で命題を決定化するようなことは、あり得ないことだからだ。 一義であることの決定した事象の事実が命題たらしめることである。 婦人の裸体は美しい――これは、否定できない人間のありようの一般的な命題である。 縄で縛られた婦人の裸体はもっと美しい――これは、矛盾をはらんだ、命題となりにくい事柄である。 つまり、人間の手が加えられることによって、相反と矛盾が色合いを添えた表現と言えることである。 婦人の裸体はそのままであることが美しいことであり、自然であると言えることなのである。 人間の手によって造形されることがその本来の美を歪曲させるものだとしたら、 そのような仕方は稚拙なものであると言われても仕方のないことである。 緊縛は、その仕方が稚拙である限り、美を現出できるものとはならないということである。 いや、無理をして言えば、美が歪曲されたありように美を見出すことだ、と言えることである。 だが、ねじり、ひねり、こねくりまわして美の拠り所を確保しようとしたところで、 その仕方が稚拙なものであれば、所詮は、美の相反を表現している域を出ることはない。 どのような表現のありようにせよ、ねじり、ひねり、こねくりまわすという仕方の際立つものは、 人類が終末へ向かって、重力のままに七転八倒して転げ落ちていくさまを伝えているだけのものである。 それは、たとえば、鵜里基秀が作り出すような作品を見れば、よくわかる。 言語をねじり、ひねり、こねくりまわすという表現は一見複雑な様相を示しているように見えるが、 その実は、仕方が稚拙であるというだけのものに過ぎないのである。 「奴は荒唐無稽を演じているに過ぎない」とされるのが最終評価である。 エントロピーは増大するが、それに歯止めもまた掛けられないというだけのことだ。 ましてや、縄を掛けて食い止めることなど、ぶっ千切れるだけが関の山である。 縄は、せいぜい、全裸の女体を縛ることが人間の用いるその道具の美の限度であるのかもしれない。 確かに、美しい婦人の裸体が美しいままでいるには、もはや手遅れであることも事実に違いないのである。 生まれたままの全裸の女体があり、縄がおかれていれば、緊縛は生まれる。 従って、稚拙な仕方を何とか技法にまで高めることをしなければ、緊縛の存在理由はなくなる。 ただ、拘束するために全裸の女体をふんじばる、というだけのことに過ぎなくなる。 それでよいではないか、本来それだけの意味しか持ち合わせていなかった緊縛である。 緊縛は身動きの自由を奪うために拘束することである――これ以上も、これ以下もないことである。 だいたい、全裸の女体を拘束するということが非人道的なことであるのだから、 そこに、何が見出せる美だ――そのようなこと、異常な趣味を抱いた者のたわごとに過ぎない、 と言われてしかるべきである。 言い方を換えると、 「縄で縛られた婦人の裸体はもっと美しい」ということは、 ただのノスタルジアに過ぎないことである。 かつてもなかったし、いまないという、実在しない桃源郷への望郷である。 いや、現実に生まれたままの裸姿を縄で縛られた女体は存在するではないか。 その通りである、だから、醜態に美が見出せるという倒錯が成り立つのである。 価値転倒は、そのもの自体が変るのではなく、見出す意識が倒錯するのである。 自然なありようとされている美に対して、 それをねじり、ひねり、こねくりまわすという仕方で作り出される美の一切は、 倒錯する意識が見出すものであり、もっと言えば、 倒錯する意識は、現実には存在しないものへのノスタルジアをあらわしていることである。 そして、そのノスタルジアの向けられる矛先は、当然、未来ではあり得ない、 過去、それも太古、人間がほかの動物と袂をわかった時代にまで遡及することである。 倒錯する意識の現出する美は、太古の時代の意識ということである。 全裸の女体緊縛を見つめていると、ひどく古びたものを感じるざるを得ない所以である。 要するに、全裸の女体緊縛とは、極めて古臭い事柄である。 そのような古臭い事柄であれば、大半の者にとって、関心の外になる対象であるのは当然である。 時代は常に新しい未来の方向へ向かって変化している、と意識しているからである。 おっと、倒錯してはいけない、 全裸の女体緊縛は猥褻な対象であるから、あたりまえに隅の方へ追いやられているのではない。 猥褻な対象は、美の対象が必然的であるのと同様に、人間にとって不可欠の関心事である。 全裸の女体緊縛は古びた意識をあらわしているから、一般的に取り沙汰されにくいのである。 その古びた意識を<フェミニズム>といったことと結び付けて考えるのは容易である、 女性を貶めて考えるのは、古びた意識であると。 全裸の女体緊縛が女性の存在理由を貶めていると見ることは、まことに象徴的である。 だが、女体が緊縛された後に虐待を受けようが、陵辱を受けようが、 そのようなありようが女性を貶めている象徴になるはずもない。 何故なら、そのデフォルメされたありようは、<女性がある>という一点を抜きにしてはあらわせないことであり、 むしろ、女性という存在理由を剥奪されて取り扱われることの方が無価値をあらわすことだからだ。 男性と女性――差異が存在するのは、まだ、双方の存在理由を確かめられる可能性を持っているが、 差異があやふやになるということは、上昇と下降は言うに及ばず、 相反も矛盾も不分明な全体性をあらわすものでしかなくなる。 ついでに言ってしまえば、その最終のありようは、人類の未来、或いは、終末ということである。 われわれは、そこへ向かって時間を紡いでいる過程に現在位置しているに過ぎない。 人間は、性も不分明な単細胞の生命体から進化して、 再び性も不分明な単細胞の生命体へ回帰する未来を約束されているということである。 どうして、そのようなことがわかる、と尋ねられれば、 われわれの観察している天体がそれを教えてくれる。 星は、誕生し、成長し、衰退し、死滅する、 原子から誕生する物質は複雑化の過程を経て原子へと還元する。 人類も物質であるから、同様である。 われわれが意識しているのは、現在、運行中の還元への過程にしか過ぎないことだと言えるのである。 それを神の定めた予定調和と見るか、 秩序とは混沌から眼を覆い隠すための<組み立てられた迷宮>と見るかは、 各自さまざまの随意である。 少なくとも、われわれの存命中にその答えがでるわけではない。 いや、その答えがでるときは、このような言い分もまた存在理由を持たなくなるときであるから、 そのときまでは、せいぜい、人間の自由の可能性について、とことん表現する余裕があると言える。 人間の自由の可能性……よい響きの言葉である、 平和が人類の求める最終の目的であり、愛がそれを成就させると言われるよりも、 人間に内在する荒唐無稽が人間の自由の可能性を欲求させると言った方が、 相反と矛盾、胡散臭さ、支離滅裂の香気をそこはかとなく漂わせているだけに、ふくよかで美しい感じさえする。 もっとも、生まれたままの全裸の女体緊縛は、自然な裸体より、もっと美しいものだ、 と表現するほど、倒錯しているたわごとである必要があることだ。 つまりは、荒唐無稽のあらわれ……。 従って、もっと美しいとされる全裸の女体緊縛がより高い美の対象物だなどと言えるわけもない。 その美を美たらしめている、猥褻であることの肝要な部分が削ぎ落とされてしまうのであれば、 われわれにとって不可欠の関心事ではなくなるからである。 より高い美の対象物に猥褻を見ないなんて、 そのようなこと……人間しか過ぎないわれわれには、到底できないことである。 猥褻な対象は、美の対象が必然的であるのと同様に、人間にとって不可欠の関心事である。 だから、「縄で縛られた婦人の裸体はもっと美しい」ということがあたりまえの表現になってしまえば、 猥褻と美は、人間にとって不可欠の関心事であったことは立証されても―― もっとも、このことは、今更、改めて認識されていることではないが―― 芸術と猥褻という<上昇>と<下降>の蠱惑的な問題はないがしろにされてしまうのである。 芸術と猥褻――それは、需要を喚起しようとセンセーショナルに売り出すための便法であってきたからだ。 芸術と猥褻の境界線、そのようなものがどこに引かれるものであるかなど、 誰も大して重要な問題だとは思っていない、少なくとも、今日の御飯ほどには。 それが蠱惑的な問題であるのは、それが<神的なもの>と<重力>の関係をあらわしているからだ。 従って、ここでのおためごかしは、猥褻な<緊縛の>芸術的な<技法>の必然性を喧伝することにある。 それは音楽の表現において、<フーガの技法>が不可欠の表現性を意味しているのと同じくらいに、 生まれたままの全裸の女体が表現性をあらわすには、なくてはならないものである。 <緊縛の技法>とは、簡単に言えば、縄の結び方ということである。 <結び>ということには、三つの要素――「作業的結び」「装飾的結び」「象徴的結び」――があるとされる。 「作業的結び」とは、結ぶということの実用である。 「装飾的結び」とは、結ぶということの見栄えである。 「象徴的結び」とは、実用的で見栄えのある結びが見せる以上の意義をあらわすということである。 人類にとって、縄を結ぶという行動が火の使用と同じくらい起源の古いものであるのは、 これら三つの要素が混交とした<結び>というありようが、 宗教的祭儀から猥褻な緊縛まで、命綱から首吊りの縄まで、 その使用用途の広さと深さにおいて、多義多様の柔軟性を持っていることによるものである。 猥褻な<緊縛の>芸術的な<技法>の必然性とは、 ただ、素っ裸にひんむいた女性を縄で縛り上げるという作業にとどまらない、 装飾性、さらには、象徴性をあらわす全体性があってこそのものである。 日本には、室町時代後半に中国から伝来し、江戸時代に大成された「捕縄術」というものが存在する。 流派は百五十以上、縛り方とその名称は三百種類はあったと推定されている。 人間をふんじばるに過ぎないことをこのように様式化できるのは、日本特有のありようと言える。 日本は、一義の神性に基づく宗教性が色濃くない。 自然界に数多に偏在する神々の多義と多様性を一般的な宗教性としている。 善悪を超越する一義を成立させる二元論が希薄である以上、 論理に取って代わる意義が重要なものとされる、つまり、様式である。 日本においては、様式は論理と同等の意義と価値を持ったものとしてある。 自然には神が宿るのであるから、植物繊維を撚って生まれた縄には神が宿る、 結ぶということを通して現出する多様な変化には神が人間に諭す多義がある、 それらを様式として大成化していけば、超越的な神的力の秘められた自然律が存在することになる。 「捕縄術」の百五十の流派というのは、八百万の神と同じ意味をあらわしているのである。 様式を生み出す流派が多様になる傾向は、政治・経済・学術、どの分野においても日本の必然性である。 このように、猥褻な<緊縛の>芸術的な<技法>に歴史的拠り所を求めれば、 隆盛を極めた「捕縄術」ということになるが、隆盛を極めたという古い時代の事柄であって、 その流派の残存が猥褻な<緊縛の>芸術的な<技法>へと発展してきたわけではない。 「捕縄術」は、用いる縄の色から縛り方に至るまで意義をあらわし、 それは宗教性を意識するものでもあったが、それでさえも、現在に受け継がれることはない。 何故か……それらは論理ではなく、様式を表現するありようだからである。 論理は展開を導くが、様式は流行ればすたれるという内実を持っているに過ぎないことだからである。 たとえば、それは、文体の多義多様な変遷はあっても、 その論理の継承が希薄な日本文学というありようを見ても、わかることかもしれない。 論理が希薄で様式が重んじられる美意識においては、 芸術と猥褻を対比させて論じることは、もとより無意味なことなのである。 たとえ、それが猥褻であっても、様式として美しいものを芸術とする美意識の前では、 自然界にあらわれる花鳥風月、さらには人間の手が加えられたものでさえも、 それらは様式という美を生み出すための不可欠な芸術であって、 生まれたままの全裸の自然な美しい女体があり、 植物の繊維で撚り上げた自然な縄がおかれていれば、 様式美を現出させる緊縛は自然に生まれ、 縄で縛られた婦人の裸体はもっと美しい、という自然が成り立つということである。 それを日本の様式は是認できるということ、 それを作り出すための<緊縛の技法>ということである。 |
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