ロシアの作曲家ドミートリィ・ショスタコーヴィチの作品に『交響曲第四番 ハ短調 作品43』というのがある。 <上昇と下降の館>という建築物を音楽としたら、まさにこのようなものになるというほどぴったりとしている。 つまり、相反と矛盾の全体性から考え出され、作られた音楽である。 言うまでもなく、全裸にされた女性があらわれたり、 ましてや、その全裸の女体が縄で緊縛されるようなことが示されているわけではない。 そのようなことは、あり得ない。 高邁な芸術音楽に下卑た猥褻が混在することはあり得ないことである。 高邁な表現は下卑た表現とは別物であることで、その存在理由を持っているのである。 人間は、どのように下卑ていても、高邁な意識を抱くことさえできれば、高邁な存在となることができる。 下卑たことを行わせるものが肉体であれば、それを凌駕し得る精神というものがあるからこそ、人間である。 物質としての肉体が下降する重力に支配されたものであっても、 精神という非物質は神へと向かう上昇を行わせるものであり、 その混在としている相反と矛盾の存在の全体性というものは、さておいて、 取り合えず、人間はより善き存在となるための未来へと希望を投げかけられるからこそ、人間なのである。 そのようにして、人類の創始以来、やってきた。 だから、変わりようのないことであり、変わらないことであり、変えることのできないことである。 そのように考えた方があたりまえである。 皆があたりまえに考えていることをあたりまえに考えた方があたりまえに受け入れられやすい道理である。 あたりまえなことを言っている方が無難であり、むしろ、相応の共感を得ることが可能であるほど、お得なことである。 だから、めざわりな下卑た一切を精神から払拭することが万人を至福へと至らせる方法である、と言い切りたい。 ポルノグラフィなどと呼ばれる一切は、有害、不健全、下卑た存在理由を持つ以外の何物でもない。 どのような高邁な精神でも、ポルノグラフィに関われば、みずからを貶めることをしているだけのことになる。 社会には制度というものがあり、規律があって、定められた価値観に従って、人々は群棲しているのである。 すべてが<赤>だと言われているのに、<黄>だ、<青>だと言うのは、反体制ということである。 <赤>は<赤>であり、人間は人間である、とあたりまえに考えられたとおりに行うことがあたりまえの存在である。 よし、次回、生まれてきたときは、そのようにしよう、そのようなありようの方がきっと善いことが多いに違いない。 だが、今回の生は、取り合えず、相反と矛盾の全体性から人間を見つめ直すことをしよう。 どうして、また? わからん……そのような立場から見つめ直すことが人間の可能を切り開くと思えるから―― いや、単に、猥褻なことが好きな助平ということに過ぎない―― 何せよ、不変と思われている事柄を変えることが可能だと感じているから、行うだけのことである―― 不変と思われていることが変えられる? そんなことは、あり得ない……変えられないから、不変なのだ。 それを変えられるだなんて! 荒唐無稽もいいところだ!! つまりは、荒唐無稽―― 人間に内在する、みずからのありようとみずからの関わるいっさいをでたらめとするもの、 このようなものがあるから、行わざるを得ない――ということである。 高邁と下卑が混在する存在に見出せる新しい知覚の可能性…… それをたぐり寄せるための縄…… 表現としての言語…… 道具が眼の前に示されている以上、用いられる可能を追求しなければ、道具は道具の存在理由を持たない。 音楽というものが情緒に訴えるだけの存在と考えられている限りは、 ショスタコーヴィチの『交響曲第四番』は、ただ、喧騒か静謐か、 捉えどころない転変と流動を示している荒唐無稽な音楽のようにしか聞こえない。 最も近いそのイメージは、サーカスのエンターテイメント、或いは、道化が表現する笑いと悟性と狂気の音楽。 感動というものが情緒の転変と流動の如何にのみ依存していることだと考えている限りは、 決して開かれない窓、扉、出入口――つまり、環に結ばれることのない縄……。 表現の自由に社会的許容がある場所では、<黄>も<青>も表現として行うことが可能である。 だが、国家がその高邁な思想実現から、<赤>以外に表現を許容しないとなれば、 <黄>や<青>は、有害、不健全、下卑た存在理由しか持たなくなる。 その表現ばかりでなく、表現した者さえも社会から払拭されて、極寒の過酷な収容所送りとなる。 この場合、芸術表現であろうと、ポルノグラフィであろうと、<赤>でなければ、同じ意味しか持たない。 スターリン時代のソビエト社会主義共和国連邦においては、交響曲は<赤>の定義があった。 人民の果たす労働は<圧制から革命へ>、すなわち、<苦悩から歓喜へ>を意味していた。 <苦悩から歓喜へ>とは、ベートーヴェンの交響曲主題とされている。 ベートーヴェンは、交響曲という形式を物語表現化したことにおいて後代に多大な影響を与えたが、 それは音楽という感覚抽象表現が思想という概念をあらわし得るということを実現して見せたことにある。 交響曲の楽章構成は、物語の起承転結と同一の形式を意味し、その主潮は<苦悩から歓喜へ>である。 典型的に示されている作品は、最も広く知れ渡っている『第五交響曲 運命』(1808年)であるが、 器楽だけでは甘んじられず、ついには、明確な言語概念を示す声楽を伴っての『第九交響曲 合唱』となる。 この作品以降、交響曲が主義主張の物語という呪縛から解き放たれるには、 シェーンベルクの『室内交響曲第一番 作品9』(1906年)あたりを待つしかなかったのかもしれない。 管楽器が弦楽器の倍も多い、15人の奏者による独創的な表現としてある作品であるが、 ベートーヴェンの第九ほど知れ渡らないでいることは、その作品がつまらないものだからではない。 群棲する大衆を同じ方向へ眼を向かせるには、わかりやすいということが優先されるからである。 その独創的な『室内交響曲第一番』も通常の管弦楽版(1935年)に改訂されるに至る同じ時期から、 <大粛清>を行使して絶対的権力を掌握したスターリン政権が古い交響曲形式を<赤>としたのは、 音楽が思想をプロパガンダできる効力を重要なものとして考えていたからで、 だから、ショスタコーヴィチの傑作であり代表作は、 「革命」という標題さえ付けられた『第五交響曲 二短調 作品47』(1937年)であった。 『交響曲第四番』(1936年)が初演のリハーサル中に作曲者の手によって撤回され、 その後、二十五年間、陽の目を見なかったことは、ただ、作品がわかりやすいものではなかったことにある。 それは、『第五交響曲』があらわす、起承転結の明確な<苦悩から歓喜へ>という情緒の流れ、 <圧制から革命へ>という高邁な思想のわかりやすさとは、対極を成すもの、相反しているものであった。 事実、『第五交響曲』のあらわす紋切り型は、ソビエトのみならず、資本主義体制の大衆までをも魅了した。 音楽の感動に国境はない――よく言われることだが、いや、イデオロギーの境界さえもない。 革命のプロパガンダの音楽を全世界の人々が愛するのだ。 従って、わかり切っていることだが、ショスタコーヴィチにそのようなプロパガンダの音楽を作った意思はない。 何故なら、誰がどのように聴いても、『交響曲第四番』の方が『第五交響曲』より優れた楽曲である事実が示している。 でたらめだと思われるなら、是非、一度そのショスタコーヴィチの傑作を聴く機会を持って頂けたら、と思うばかり。 ちなみに、楽曲の管弦楽の編成は、 ピッコロ2、フルート2、オーボエ4(うちイングリッシュ・ホルンに持ち替え1)、クラリネット(変ホ)1、クラリネット4、 バス・クラリネット1、ファゴット3、コントラ・ファゴット1、トランペット4、ホルン8、トロンボーン3、テューバ2、 ティンパニ6(奏者2名)、トライアングル、カスタネット、ウッドブロック、小太鼓、シンバル2対、大太鼓、ドラ、木琴、 鉄琴、チェレスタ、ハープ2、第1ヴァイオリン20、第2ヴァイオリン18、ヴィオラ16、チェロ16、コントラバス14、 という内容で、指揮者も含めれば百三十名くらいは必要とされる。 百三十名の奏でる転変と流動の音響は、聴く者が環に結ぶように<縄>を提示しているものである。 (2018年5月8日 改訂) |
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