それは、次のようなひとつの書状から始まった―― |
2003年6月30日 成瀬薫 殿 前略 貴殿がエルスホエア商事にて海外事業部第三課課長に在職していた折、 貴殿の達成された営業実績を私共は高く評価することにおいて、この拙状を御送付申し上げる次第である。 貴殿におかれて、現在、私共企業十社の共同開発事業になる<プロジェクトT>への御関心があれば、 下記の日時の指定会場へ面接にお越し頂ければ幸いと存じ上げる次第である。 日時 : 2003年7月7日(月) 2:00PM 会場 : 東京都港区港南五丁目 PTE 東京事業所 尚、本件は私共から貴殿に専用の事項としてお伝えするものであることから、貴殿におかれて、 不要と思われる御判断を成された場合、速やかに本状を破棄して頂けるようお願い申し上げる次第である。 早々 プロジェクトT・エンタープライズ 統括本部長 専務取締役 牛尾俊樹 事業開発本部長 常務取締役 熊田作造 人事開発本部長 常務取締役 猪木政明 |
――成瀬薫にとって、それはわけのわからない依頼を提示されていることであった。 会社名に聞き覚えはなかった、<プロジェクトT>なる事業も知らないことだった、 列記されている取締役の名前にもまったく見覚えはなかった、要するに何もかも不明の事柄だったのである。 唯一の事実のように思えたことは、彼らが自分の経歴を知っているということだった。 成瀬の事情が普通の状態であったら、そのようなわけのわからない書状、その場で破棄していたかもしれない。 或いは、「プロジェクトT」や「専用の事項」や「破棄」という語から、 まるでスパイ小説かミステリー小説の始まりのような秘密めいたわくわくする印象を楽しんだかもしれない。 だが、成瀬の事情では、その書状は就職をほのめかす以外の何ものでもなく、 涙が込み上げてくるほどに、ありがたく受け取ることのできるものでしかなかったのである。 そのくらいに、彼がこの一年間失業者でいたことの暗澹と辛苦は計り知れないものがあったのである。 書状は、成瀬にとって、新しい人生の始まりであり、絶望的な失業者生活の終わりを提示していたのであった。 手短に回想すれば、次のようなものだった。 一年前、半年間のブラジル事業所の赴任から東京本社へ戻った彼は、想像もしていなかった事態と遭遇した。 事業不振により本社事業部の大幅削減が実施されるというものだった。 その削減人員の対象に自分が選ばれていることが勧告によって明らかにされたのだった。 彼には納得のいくことではなかった、営業成績の会社への貢献度は常に評価されてきたのであり、 四十五歳の年齢で来年には部長職へ昇格するとさえ言われていたのであった。 彼は入社以来懇意にしている一之瀬常務取締役に相談した。 取締役は渋い顔をしながら、 「仕方がないな、役員会で決まったことだ。 ところで、君は反町専務に何か気にさわるようなことでもしたのか。 専務は恨みでもあるような態度で、君のことをいの一番に解雇しろと口に泡を吹いていたぞ。 専務は会長のご子息だ、次期社長だ、そのひとの心証を悪くしたんじゃ、もうどうにもならないよ。 君が営業成績で会社へ貢献してきたからと言ったって、そんなもの、上から見ればたいしたことじゃない。 君ひとりが会社を支えているわけじゃないんだから、君がいなくなったら確かに損失かもしれないが、 いまの会社の業績不振からすれば、焼け石に水のようなものさ。 それよりも、大株主である専務がこの会社を抜けたら、どえらいことになるという道理だ。 まあ、身から出たさびだと思って、諦めるんだな」 と答えるだけであった。 会社における処遇が変わったというだけで、何とも冷たい物言いだったが、 身から出たさびとはどういう意味だ、自分が専務の心証を悪くするような何かをしたと言うのか。 思い当たるふしがなかった、ただ、わけのわからないまま、勧告退社させられるという事実があるだけだった。 それから、上流から下流へ流れる水のように失業者の境遇へ押し流されたのだった。 会社関係のつてを頼んで再就職先を当たってみたが、そこでも、断る理由に反町専務の名が出てくるのだった。 専務は余程に腹に据えかねているらしいが、原因が何であるのかさっぱりわからなかった。 思えば、一度、入社したての若い女子社員の尻を専務が撫でさすっているところを見かけたことがあるが、 それだって、女子社員はまったく嫌がっている様子を見せず、専務自身にも気づかれたことではなかった。 専務室で行われていたことであったにせよ、セクハラと言うよりは、双方合意の行為に思えたことだった。 まさが、それが原因とは思えないが……。 いずれにしても、いつまでも尾を引いていても仕方のないことだった。 彼はやむなく、公共の求人募集へ職を求めたのだが、これが何らの結果も生まなかったのである。 彼の就職条件を悪くしているのが給与の点にあることは明らかだった、だが、それは譲れないことであった。 大学二年になる医学部へ通う長男と医学部を目指す高校二年の次男と医院を営んでいる実家を持つ妻を養うには、 それまでそうであったように、馬車馬のごとく遮二無二なって実績をあげ、過分な給与を勝ち取るしかなかった。 しかし、彼自身の思惑はそうではあっても、四十五歳の失業者というのは世の中に過分にあふれていた。 低い給与に甘んじでさえ職を求めることが困難であるという状況のなかで、 彼が就職先へ売り込みをかけているありようは、矛盾と相反の存在理由を明らかにさせているだけのことだった。 その夫に対して、妻の麗子は、夫の不条理な解雇には夫の犯した夫の失態に夫の原因があると思っていた。 もとより、無知な夫の失態からつまずいた結婚だったと考えていた。 大学の合コンで初めて成瀬と出会ったとき、 どきどきさせるような美青年であるという印象を感じた麗子は、酔った勢いからホテルで一夜を共にしたのだった。 まさか、たった一度きりのことで、妊娠するものだとは思ってもいなかった。 失態は無知な彼が生身で挿入したことにあると悔やんだが、後の祭で、 祭りの前では愛欲の喜びもなかったわけだが、 行きすぎた喜びの代償としては、子供を下ろすことで清算するほかはないと一方的な結論を下した。 結論を聞かされた成瀬は猛反対した、彼は成り行きの愛欲だとは考えていなかったのだった。 麗子は、わがままなお嬢さんという性格だったが、美人でもあったし、心根も悪くないと感じていた。 ふたりで明かした一夜は、ふたりの付き合いの始まりであると思うことができたのだった。 そのふたりで作った命だった。 気まぐれの結果のように簡単に破棄してしまうことに、彼は激しい罪悪感を感じるのだった。 しかし、医療技術の跳躍な進歩は精神的な深さよりも優っていると思わせるほど、安易さを身近にさせていた。 麗子の家は大きな医院を営んでいた、彼女のふたりの兄も医者だった。 父親とふたりの兄の三人ががりで行う大手術という必要もなく、 堕胎は速やかに簡単に行うことができるものだった。 結局、成瀬は結婚することを麗子に約束させて、子供は下ろされた。 麗子も、そこまで彼女のことを思ってくれる相手にばら色の思いが抱けるほど、初心な気持ちのある年齢だった。 堕胎の夜、彼は吐き気をもよおすほどの罪悪感に責め苛まれ、激しい幻像を心に刻み付けられた。 淀んだ水のなかに浮かぶ小さくてぶよぶよした白い肉塊が真っ赤な下水へ押し流されていくという幻像だった。 だが、ふたりのロマンティックな将来の約束を麗子の両親は認めなかった。 ふたりの学生結婚には反対だった、と言うよりも、結婚そのものに反対だった。 麗子には生まれたときから、医者と結婚させるというレールが敷かれていたからだった。 それを妊娠と堕胎という医学の中心主題を娘が実施体験するために成瀬駅へ降りたのは致し方ないとしても、 目的地を変更される乗換えは許されることではなかった。 その親を説得したのは麗子だった。 愛に生きるロマンティックなヒロインを演じられる機会は、そう人生にざらにあるものではない。 両親からの承諾は得られた、但し、条件として、生まれる息子は医者に育てられることとされた。 このように世襲に執着するのは、因習と言うよりは、よき遺伝子の継承という医学的な判断によるものである。 結婚も大学卒業後と決められた。 彼の就職先も決まり、ふたりの結び合った思いの結婚生活が始まった。 結び合った思いの結婚生活は、毎夜の夫婦の営みを激しく肉体で結び合わせるものでもあった。 麗子は、俗に四十八手と呼ばれる交接の体位をことごとく試すことを夫に求め、 彼も若さの体力にまかせて、その頃はまだ職務の疲労も低かったことから、精一杯応じるのであった。 四十八手もあれば、人間の性の営みとして、それこそ、奥深いものが展開されるに違いない。 しかしながら、相手がその度に異なるというのであるならばともかく、 同じ相手であっては、四十八手は四十八の体位のありようしかなかった、多様性には限度があった。 性の奥深さが人間にはあるとされるならば、体位の多様性に限度があるとは一概に決めつけられないだろう。 それも、性に対して神秘や幻想やロマンティシズムを抱くことが可能な場合であったら、その通りであろう。 そのような計り知れない性の秘密めいた事柄は、実施検証する機会の少なさに応じては、説得力があるものだ。 しかし、男女の交接が所詮は快感を求めて行われることが実際だと認識されれば、 そこにどのような高貴な幻想の目的が掲げられようとも、穴へ茎が入ることの気持ちのよさしかないのであり、 四十八手は四十八の多義性をあらわすものではなく、四十八の形態を意味するものでしかないのである。 相応に時間が経過すれば、彼は言うに及ばず、麗子でさえ倦怠を覚えるような行為でしかなかった。 そうした折、幸か不幸か、息子が次々と誕生し、明確な目標を示すレールの方が明らかとされていくのだった。 彼も職務にかまけなければならない年齢となり、麗子も妻であり母である職務に忙しくなっていくのだった。 しかし、成瀬が男であるように、麗子も女であり、その女であることが妻と母と同格の位置付けを持っていれば、 彼女が実家の仕送りで家政婦を雇い、奥様のお遊び三昧を暮らすようにしても何ら不思議はなかった。 彼は営業の仕事柄、出張で家をあけるときが多く、収入の増大は主人の不在と同じ意味を持っていたのだった。 このままレールに沿って進んでくれれば、何ごとも問題はないと麗子は考えていた。 何ごともないという意味は、円満具足とした生活があるということだった。 彼女は、言うまでもなく、夫には内緒だったが、幼なじみで医者になった男性と肉体関係をすでに持っていた。 クラス会で再会した成り行きから、相手が初恋の男性だったというノスタルジアから結ばれたことだった。 幼なじみの男は、将来、必ずふたりは結婚できると思い、現在も独身を通しているのだとノスタルジアを煽った。 貞節、そのような言葉は、愛の人間における何たるかを知らない不感症の女が取りつくろう言い訳にすぎない、 愛はあらゆる諸悪から人間を救う、崇高にして永遠不滅の人間であることの尊厳を示すものである、 ひとを愛すること、すべてはそこから人間の平和は始まるのだ、 といったことを麗子が感じて、そうしていたかは微妙なところだが、 高まる愛、欲情の積極性だけは見事にその行動にあらわれていた。 夫が妻の不倫を知ったら、それこそ、激怒のあまりに虐待しかねないところだったが、 彼はいつも遠い出張場所で仕事をしていて、手が出せなかったどころか、気づきさえもしなかった。 戻る家には、わがままではあるが美しい妻と伸び盛りの子供たちと安らぎがあったのだ。 もっとも、安らぎと言っても、出張から家に戻った彼は、休日の大半を寝床のなかで安らいでいた。 ましてや、半年間のブラジルへの単身赴任は、地球の反対側だったのである。 家族をじっくりと見つめる余裕など、まるでなかったのだった。 それがいまや、じっくりと見つめる余裕どころか、穴のあくほど眺める時間的余裕ができたのだった。 それまでは、ほとんど会話さえ満足に行うことのできなかった、妻と息子たちと家族団欒ができたのである。 失業者とは、かくも生活における時間的保証を請け合うものだった。 しかし、妻と息子たちが対話を求め、家族団欒を望んでいたかどうかは別問題だった。 息子たちは放っておいても、家政婦と学校と塾が育ててくれていた。 幼いときに遊んでもらったという記憶のない息子たちには、 いまさら遊んでくれようとするおやじに記憶を植え付けられたいという思いはまるでなかった。 日課である自分たちの勉学と遊びとで手一杯で、失業者のように為すべき仕事がなかったわけではなかった。 妻も同様であった、会話をするということは、余計なことまで言わなければならないことだった。 一日中夫が家にいるということは、自分を見つめてくれるというよりは、監視されているも同然のことだった。 出かけようとすれば、どこへ行くのかと尋ねられ、幼なじみとの逢瀬でラブホテルへ行くとは当然言えなかった。 いままでは、嘘をつかなければならない相手が家にいなかったから、嘘をつく必要がなかった。 言わば、清廉潔白な身の上として、白昼堂々不倫を行うことができた。 失業者の境遇が長引けば長引くほど、麗子の将来に対する不安な思いは欲求不満を伴ったものとなっていったが、 生活の不安というのは、彼女の場合、夫に職がなく収入が途絶えているという見通しではなかったのだ。 出戻ることのできる実家は、いつでも病院の門を開いて救急患者を待ち受けてくれていた。 決心さえすれば、息子ふたりを連れて、白と赤のBMWに乗って駆け込めばよかった。 だが、それは世間体のよいことでは決してなかったのだ、離婚は今すぐ行うには自尊心を強く傷付けすぎた。 それ見たことかと、両親を始め、親戚、友人、幼なじみの男に至るまで、異口同音に言われることだったのだ。 もとより、夫がコンドームを装着しなかったという失態から、つまずいた結婚だった。 不条理な解雇を聞かされたとき、何を装着し忘れたかは別にしても、夫の失態に原因があると思えたことだった。 この何年間、夫のものに比べて、太くて長くて激しいものを濡れそぼったところへ差し入れられて、 尻を突き立てて行われるお好みの体位で、子宮の奥にまで触れるように沈められる電撃的な快感は、 何度放出が行われようとも、一度だって妊娠するような失態を生じさせることはなかったのだ。 如何に彼女の欲望が道理にかなっていて、幼なじみの医者が適切な処置を行っているかのあかしだったのだ。 それに比べ夫は暗かった、採用面接と不採用通知を繰り返すだけの埒のあかない日々を送り続けるうちに、 いつしか、精悍だった表情は先行きの見えない暗澹とした絶望感が中心を占めるように冴えなくなっていた。 同じ暗さでも、妻の表情は、反り立つ太くて長い陰茎の見えなくなったもどかしさが、 黒々とした洞穴のやるせなさとなっていることをあらわすような焦燥感を漂わせるものとなっていた。 間もなく失業して一年が経過しようとしていたとき、 一通の書状が届き、それが就職の可能性をほのめかすことを感じさせれば、 成瀬が涙を浮かべて喜んだように、麗子も割れ目をにじませて喜びをあらわしたのは当然のことだったのである。 喜びの点では、ふたりはまさしく夫婦一心同体だったのだ。 そのふたりが再び離れ離れになっていくのは、 <プロジェクトT・エンタープライズ>の面接の日、 夫は会場である港区港南五丁目へ向かったが、 愛想よく連れ合いを送り出した妻は久々の逢瀬へ出かけたことに始まることだった。 ここまでが手短な回想である。 さて、成瀬は、面接会場が東京税関のある品川埠頭にあって、保税上屋が立ち並ぶ場所であることを知っていた。 そのような場所で行われる就職の面接であるのだから、もしかすると、現場作業の仕事であったかもしれなかった。 だが、業務の内容がどのようなものであろうと、或いは、給与の提示額が希望に合わないものであろうと、 ここに至って四の五の言っていられる状況ではなかった、自己の人格も家庭もこのままでは崩壊されそうだった。 救いの手であったのだ、ましてや、その救いの手は、評価された人材としての自分を求めてさえいるのだった。 このような奇跡的な幸運な機会は、生涯にほとんど一度しかないような転換点であると思えたことだった。 どのように調査され選ばれ求められたかはわからないが、そのようなことを事前に行うことがきるだけ、 企業十社の共同開発事業になるプロジェクトというものが確かな仕事と感じられるのだった。 あれこれと考えをめぐらせているうちに、品川駅から乗ったタクシーは目的の場所へ到着していた。 「PTE」と記された大きな倉庫が眼に入ったとき、偶然であるかどうかわからなかったが、 それが<PRIVATE>を意味する略号であることを想起させた、<機密>とは文字通りの感じだった。 建物は道路側に玄関がひとつあるだけで窓はなく、側面に貨物の入出庫口があったがシャッターは閉ざされていた。 見るかぎりでは人気というものがまったく感じられず、他の上屋の人影が彼方のことのようにさえ思えるのだった。 玄関は二重にあるガラス張りの自動扉だったが、覗かれることを防ぐように色の入ったものであった。 室内へ入った途端、別世界へ迷い込んだような驚きの印象を感じさせられた。 深々とした絨毯の敷きつめられた静寂と趣味のよい装飾品、落ち着いた照明のかもしだす雰囲気以上に、 待ち受けていたように立っていたひとりの女性が投げかけてきた存在感だった。 彼はその女性を見た瞬間、造形された人形とも思えるような美しさにはっとさせられ、圧倒されるのだった。 しかし、すぐに、その美しさは描かれたような理想の美のようなものではなく、 むしろ、よがり泣かせてみたいと思う美貌、 或いは、そのような趣味があるなら、縛り上げて恥辱に泣きじゃくるのを見てみたいと思う美貌、 一夜を共にしたいと願望させる顔立ちと姿態をひしひしと感じさせるものだったのである。 「成瀬さんでいらしゃいますね、お待ちしておりました。 わたしはお世話させて頂きます、秘書の中村と申します。 宜しくお願い致します」 女性は、大きな眼を愛くるしいまなざしで向けて、きれいな声音を響かせながら会釈するのだった。 成瀬は、ただでさえ就職面接の緊張感を感じていた上の驚きに、どぎまぎまとした返事しかできないでいた。 どぎまぎの本質は、これほど一度で好きになれるような女性に出会ったことはないと感じたことだった。 だが、いまはそのようなことが先決ではない、就職を決めなければならないのだった。 「こちらへいらしてください、役員の方々がお待ちでいらしゃいます」 中村秘書に導かれるまま、成瀬は建物の奥へと向かう廊下を歩き始めたが、人影を見ることはそこでもなかった。 ただ、女性らしい優美な曲線を際立たせて前を歩く、秘書のなまめかしい尻の動きに眼を奪われるばかりであった。 木製の重々しい扉の前まで来たとき、彼女は、はにかんだような微笑みを浮かべながら言うのだった。 「こちらをお入りになって下さい。 なかは真っ暗で最初は驚かれるかも知れませんが、大丈夫です、ホーンテッドマンションではございませんわ。 企業ですから、何もかもが方針に従って行われていることです。 それをご承知頂ければ、成瀬さんだったら、すぐにご判断できることと思いますわ。 それでは、どうぞ」 ほっそりとした美しい指先をドアのノブへ絡ませると、彼女は静かに扉を開くのだった。 ひとりでなかへ入らされた成瀬は、その部屋が扉を閉められると真の暗闇になることを知らされた。 静寂と暗闇のなかで感じさせられるのは、おのれの息遣いと着ていたスーツの衣擦れの音だけであった。 そうして突っ立たせられたまま、どのくらいの時間を待たされただろうか、時間感覚があやふやになっていた。 少なくとも、嫌になって入って来た扉を出て行くことは可能だと思えるくらいに、長かったことは事実だった。 彼はひとりで置かれている境遇を我慢したのだった、それも何も、採用されたいという一心からのことだった。 突然、前方に強烈なスポットライトの太い帯が浮かび上がった。 眼がくらむなか、甲高い男の声が室内全体へ響きわたるように聞えてきた。 「成瀬さん、お待たせしました、早速面接を始めたいと思います。 中央の光の輪のなかまで進んでください」 彼は言われた通り、天井から放射されるまばゆい光の輪のなかへ入っていった。 「わたしは人事開発本部長の猪木です。 私共の事業へ就職希望されてお越し頂けたこと、ありがとうございます。 面接と言っても、我々の方から一方的にあなたを見るだけですので、観察と言った方がいいのかもしれませんが、 いずれにしても、我々が現在行っている事業の性格上、このような方法を取らざるをえないことをご理解ください。 我々は、あなたがエルスホエア商事を解雇された日から、約一年、ずっとあなたを調査し続けてきました。 あなたのことについては、あなた以上に知っていると自負できるくらいです。 その点では、あなたはすでに第一次試験を合格しているわけで、今日ここにいる事実がそれを証明しています。 あとは、第二次試験をあなたが合格するかどうかで採用が決定するわけですが、 それについては、事業開発本部長の熊田から説明がなされます」 成瀬は、声の主が間違いなく別の部屋にいることを感じた。 このような常識を外れた面接を行う企業や事業がどのようなものなのか、見当もつかなかった。 頭上から眼のくらむような強烈な光を浴び続けていると、不可解だ、異常だという意識さえも薄れていくのだった。 考えあぐねる暇を与えられてはいなかった、矢継ぎばやに変わった語り手はすでに話し始めていた。 「成瀬君、では、そこで身に着けているものを一切取り去って、裸になってくれ」 太い声はそのように言っていた、成瀬には言われたことの意味が一瞬つかめなかった。 「全裸になれと言っているのだよ、何をぐずぐずしている、言われたことができないのか」 太い声は強迫的な響きさえおびていた。 「成瀬君、君も営業で長い間飯を食ってきた男だ。 営業で仕事を取るということの厳しさをよく知っているはずだ。 客先で土下座をして注文を取ったり、接待の席で太鼓持ちをしたり、裸踊りをして見せることなど、当たり前だ。 会社に属し、上からの指示で言われた通りの成果をあげるためだったら、営業は何でもするのではないか。 それは、会社のために行っているように見えるが、実は、その者自身のために行っていることは、 あげられた成果に対しては、企業はそれに見合う報酬を与える、君も経験済みのことだろう。 わたしが今さら言うことさえ、おこがましいことだ。 君が目的のためなら、人前で全裸になることなど大したことではないことは、君が一番よくわかっているはずだ。 さあ、さっさと脱ぎたまえ、できないなら、第二次試験はここで中止だ」 成瀬はためらっていた。 そのためらいは、会社を信じて遮二無二働いた結果、わけもわからなく解雇されたという不信があったからだった。 今置かれている状況で、そのような恥ずかしい姿になれるほど、相手を信用できるかどうかわからなかったのだ。 「成瀬さん、我々からの最後の申し出です、あなたが全裸になれないなら、この面接は終了します。 我々は、あなたが信頼できる人物であるかどうかを判断するために、真剣に行っていることなのです。 ですから、あなたも真剣に答えを出して欲しい」 甲高い人事開発本部長の声が念を押すのだった。 成瀬は選択肢はないと思っていた。 躊躇している自分がそれこそ恥ずかしいと感じていた。 脱げば採用されるのだ。 彼は思いっきりよく、上着を脱いでネクタイを外し、シャツを取ってズボンを下ろした、 靴を脱いで靴下を取り去ると、上下の下着を身体から捨て去っていくのだった。 中年の脂肪が腹を肥やしている感じのない筋肉質の裸身は、精悍な顔付きをしているだけに、 四十六歳になろうとする男の全裸としては、そこそこの見栄えがあった。 「やはり、君は我々が人選した通りの男だ。 スーツ姿も悪くないが、生まれたままの姿になった君はなかなか美しいよ。 付けているものも、品よく、太すぎず長すぎず、その歳で皮を半分かぶっているところなど、素晴らしいね」 事業開発本部長の言葉は、褒めているとも揶揄しているとも取れるような、優しい喋り方だった。 そして、新たな人物の声がしわがれた響きをもって聞えてきた。 「成瀬君、床へ四つん這いになって、尻を突き立てて見せなさい」 成瀬には、その声の主が統括本部長であるという直感が働いていた。 ここに至って、上司の命令に従えないようであれば、 何のために恥ずかしい思いをして全裸になったのか、わからなかった。 生まれたままの姿になって、四つん這いの姿勢で尻をおっ立て、肛門をあからさまにさせるなど、 屈辱そのものの姿であるに違いなかったが、企業に属することができるという喜びはそれに優っていた。 「もっと穴がはっきりと見えるように、尻を高く立てなさい……そうだ。 君は、いまそこに恥ずかしげもなく、これ見よがしにさらけ出している穴へ、 異物を挿入すると言われたら、はい、喜んでお受けしますと答えられるかね、 どうだね?」 彼はそのような格好になって、恥辱を感じている自分を意識していたつもりだった。 だが、上司の言いなりになるにつれて、 言われたことへ結果の出せる自分という存在が自負さえ感じられるものになっていた。 「はい、おっしゃられるままに、喜んでお受けします」 とはっきりとした返事となってあらわれるのだった。 「よし、合格だ、成瀬君。 おめでとう、君はいまから、我々プロジェクトT・エンタープライズの一員だ」 しわがれた声は採用を決定した。 「あちらの扉から退出してください……いや、脱いだ服はそのままで結構です」 人事開発本部長の声が指示を与えていた。 成瀬は床から立ちあがると、開かれた扉の光が見える方角へ、少々おぼつかない足取りで歩いて行くのだった。 長い時間の緊張が採用という安堵感で一気に堰を落とされたという感じだった。 だが、光のある部屋へ入った瞬間、彼はあらためて緊張させられる羽目になった。 あの美しくて好感の持てる中村秘書がそこに待っていたのである。 彼は思わず両手で下腹部と胸を覆うようにしたが、 秘書は手にしていた白いローブを広げながら近づくと、微笑みを浮かべながら言うのだった。 「成瀬さん、おめでとうございます。 今日からあなたと仕事をご一緒できるなんて、とってもうれしく思います。 宜しくお願い致します」 間近に近づいてローブを着せてくれる相手の漂わせるふくよかで優しい香りは、 美しい顔立ちの愛らしいまなざしと絡み合って、 おめでとう、という言葉を心から喜ばしいものとさせるのだった。 「ぼくの方こそ、宜しくお願いします。 わからないことばかりが多くて、面倒をかけますが」 彼女はコーヒーを入れて持ってくると、そこにあった事務机の前の椅子へ腰掛けるように手招きした。 「そうですわね、わからないことが多いのは、<プロジェクトT>の性格上、やむをえないことですわ。 わたしだって、命じられるままに動いているだけで、何もわからないのも同然ですもの」 向かい合わせの椅子へ腰掛けて、しなやかできれいな両脚を組みながら、彼女は説明を始めた。 「まずは、事務的なことを片付けてしまいましょう。 成瀬さんの眼の前に置かれてあるのが、プロジェクトT・エンタープライズの入社誓約書です。 書かれている内容をよくお読みなって、サインの上、拇印を押してください」 彼はその文書の内容を熟読するには、喜びにうわついているところがあったので、 大して読みもせず素早く手続きを済ませるのだった。 「次に、これから、福島にある研修所へ向かいますが、そこで約三ヶ月間の研修が行われます。 その間、ご自宅へ戻ることはできませんので、奥様の方へ連絡を取られるのでしたら、ここからお願いします」 中村秘書は電話機へ手招きした。 成瀬は自宅へ電話をかけた。 呼び出し音が繰り返されるばかりで応答がなかった。 「あれ、外出したのかなあ……面接の結果連絡を待っていると言ったのに。 仕方がない、携帯にかけてみよう」 しかし、携帯電話も圏外という応答しかなかった。 彼は、用件をまとめてメッセージとして残すと、思わず中村秘書の方を見やった。 彼女は、それとはなしに、電話をかけている相手の様子を見守っていた。 眼と眼が合ったとき、成瀬はその表情に思いやりのある優しいまなざしを意識した。 「奥様、お出かけでいらっしゃますの? 予定通りの福島へ向けての出発で、大丈夫でいらっしゃいますか? いずれにしましても、後ほど、猪木部長がご自宅へ事情を説明にあがります。 どうか、ご心配なさらずに」 彼は妻の不在が少し気になって暗い気持ちになっていたが、中村秘書の言葉は大きな励ましとなるのだった。 「わかりました、大丈夫です……これまでも、急な出張で家をあけたことはありますから……ありがとう」 「では、そろそろ出発致しましょうか。 隣の部屋に成瀬さんのお脱ぎになったスーツ一式が揃えてあります、お召し換えになってください。 福島へは車で行きますけれど、わたしの運転です、よろしいですか。 成瀬さんはわたしに命を預けること、できます?」 彼女は、にっこりと微笑みながら言うのだった。 その明るい笑顔を見つめていると、これからの旅がわくわくするようなものに感じられてくるのだった。 「もちろんです、喜んで乗せてもらいます」 ふたりは、 思いをひとつにしたように、笑い声をあげるのだった。 そして、福島研修所へ向けて出発するのだった。 |
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