縄による緊縛写真 女性、或いは、男性が自然の植物繊維から撚られた<縄>で緊縛されている情景、 これを撮影して、静止画像の映像表現としたものを<縄による緊縛写真>と言う。 <縄による緊縛写真>の特徴は、映像が静止しているという点にあるが、 その意味では、絵画表現と等しく肩を並べるものとしてあるにもかかわらず、 実際の情景がそのまま写し撮られているという<直截な表現>が通常としてあることで、 もとより、縄で人体が緊縛されている情景というものが猥褻へ向かいやすい事情から、 <猥褻の度合い>が絵画表現に比べて強いと見なされている。 写真と絵画とでは、いずれが<猥褻の度合い>を明瞭に表現できるものであるかは、 表現における<芸術の度合い>という事柄と並列させると、 実に興味深い問題であることは、われわれの審美の意識と関係していることにある。 <審美の意識>というのは、美醜を見分けるということであるが、 <猥褻の度合い>においても、<芸術の度合い>においても、 それは等しく対象に対して活動しているものである。 猥褻は、 「いたずらに性欲を興奮・刺激させ、普通人の正常な羞恥心を害し、 善良な性的道義観念に反すること。また、そのようなさま」と法的に示されているが、 いやらしいこと、みだらなことは、羞恥心と関係していることであれば、 恥ずかしく感じることは心の問題である以上、<審美の意識>はおざなりとされる。 人間の問題においては、心のありようは優先課題であるから、 心が猥褻と断定すれば、何が審美だ、胡散臭い、というだけのことになる。 従って、<縄による緊縛写真>が猥褻を表現するものであれば、 そこには、猥褻以上の事柄は見出されることはなく、せいぜい、 心の問題である性的異常心理学から、サディズム・マゾヒズムがあるだけとなる。 はい、お仕舞い。 それでは、身も蓋もないから、 <縄による緊縛写真>にも絵画表現と同じくらい芸術性があるとするために、 猥褻を意味する<直截な表現>を手の込んだ工程を経たものへと加工して、 <直截な表現>から差し引かれる猥褻の分だけ、 芸術性が浮かび上がるという表現方法が行われたりする。 猥褻もエロと言わず、エロスと言い換えられ、芸術もアートなどと称されて、 エロス・アートの<縄による緊縛写真>は、猥褻写真であることはおろか、 ポルノグラフィでもなく、言うなれば、ファッション写真の展開型にあると見なされると、 正常な羞恥心と善良な性的道義観念を抱く普通人に読まれる一般週刊誌に出現する。 時代の価値観の転変流動、表現の多種多様性にあっては、 <猥褻>と<芸術>の相対は意義を持たない現在の事柄となっていることであるが、 さて、人間にある<審美の意識>が消滅させられたわけではない。 猥褻が直裁に表現されている<縄による緊縛写真>にも、 その<審美の意識>を考察させる糸口があるのではないか。 その疑問を感じさせる優れた写真表現を以下に紹介するものであるが、 正常な羞恥心と善良な性的道義観念を抱く普通人にあっては、 ただ猥褻に変わらないことは、言い添えるまでもない。 思考が抱く<概念>は、独立してあるものではなく、相関している所以である。 尚、掲載される写真作品が百二十五点にとどまることは、 これがすべてであることを意味しているわけではないので、 未掲載写真に関しては、鑑賞者における展開とされることを望むものである。 (2008年11月11日 脱稿) ☆掲載写真 1 〜 5 ☆掲載写真 6 〜 10 ☆掲載写真 11 〜 15 ☆掲載写真 16 〜 20 ☆掲載写真 21 〜 25 ☆掲載写真 26 〜 30 ☆掲載写真 31 〜 35 ☆掲載写真 36 〜 40 ☆掲載写真 41 〜 45 ☆掲載写真 46 〜 50 ☆掲載写真 51 〜 55 ☆掲載写真 56 〜 60 ☆掲載写真 61 〜 65 ☆掲載写真 66 〜 70 ☆掲載写真 71 〜 75 ☆掲載写真 76 〜 80 ☆掲載写真 81 〜 85 ☆掲載写真 86 〜 90 ☆掲載写真 91 〜 95 ☆掲載写真 96 〜 100 ☆掲載写真 101 〜 105 ☆掲載写真 106 〜 110 ☆掲載写真 111 〜 115 ☆掲載写真 116 〜 120 ☆掲載写真 121 〜 125 ☆ 土蔵にあった長持のなかより発見された緊縛写真 ☆ 縄による日本の緊縛 |