集団的自衛権に関する改憲に反対する 借金返済で弁護士に相談





集団的自衛権に関する改憲に反対する


2014年7月1日、安倍首相が閣議決定によって、集団的自衛権に関する憲法解釈の変更を宣言した。
これによって、現行の第九条に基づく平和憲法が改憲されるに至ることは、
日本国家は、みずからの意思で武力行使を行うことを正当化させる根拠が作り出されることになる、
どのような意義が示されようとも、戦争行為をみずからの意思で行うことを可能とさせることにある。
日本民族の自立の意思を問題としてきた立場からは、武力行使で自立が生まれることがあり得ないことは、
大東亜戦争・太平洋戦争の対外戦争の前例を見れば、
日本民族における者であれば、歴然とした事実としてあることからである、
「脳にはびこるインポテンツの妄想」>に表現した通りである。
私は、集団的自衛権に関する改憲に反対する、
その表明をここに掲げるのは、事態の深刻さを閲覧者の方々に知ってもらいたいという思いにあって、
関連法案の成立に反対する世論の一人にありたいと希望することに依るものである。
安倍晋三首相が<戦後レジームからの脱却>を標榜していることを知ったとき、
<日本民族の自立の意思>が示されることであれば、素晴らしいことだと受けとめた。
しかしながら、国会での充分な審議もなく、強引な採決に依って、
2013年12月13日に公布された、<特定秘密保護法>に続いて、
今回の<集団的自衛権>にも、再び、同様の強引な独善性があらわされたということでしかなかった。
<集団的自衛権>と<特定秘密保護法>という表裏一体は、
国家が国民への情報開示を斥けて、独善的に戦争行為を正当化するための方策にある、
それが一首相の独善性によって推進されていくことにあるとしたら、独裁国家の様相を呈するものである。
<戦後レジームからの脱却>とは、<米国からの自立>では当然になく、
従来の<米国への依存>というありようを脱却して、
<米国への隷属>を日本国家の存在理由とする奴隷根性を明白にさせたという意義が示されることにある。
<戦後>とは、<尊皇攘夷>に依って対外戦争に勝利することのできなかった、日本国家は、
<日本民族の自立の意思>を放棄して、米国の要求や使役や被虐に晒されても、
経済的満足に喜びを覚えるだけのマゾヒストの道を最終としたことにあると言えることにある。
いずれ、二つの法が実施されることは、
日本民族の自立の意思を問題とする、こうした猥褻表現などは、ポルノ規制の対象として、
取締りが行われることの可能にあるということでしかない、未来である。
人間存在には、<感情>に依る<自然観照の情緒的表現>、及び、
それと相対する、<観念>に依る<自然観照の合理的表現>という知覚作用があり、
いずれが主潮となってあらわれることにあるかという問題がある。
今日の<日本的>と称するありようは、
<自然観照の情緒的表現>の主潮にあると見なすことができることは、本居宣長の提唱した、
<もののあはれ>という認識に当てはまるありようにおいて示されていることにある。
<もののあはれ>とは、森羅万象を相手にして存在する人間は、
どのような知覚をもって、それを知ることにあるかを解き明かした表現にあって、
<もの>という客観的対象を<あはれ>という主観的感動で捉えて認識し、
調和のとれた優美繊細な情趣をあらわす、芸術意識にあることが示されたことにある、
それは、<知覚作用である>と述べられていることにあるのは、
森羅万象に対して、その自然という本質を見極めるには、
事に触れて起こる様々の微妙な感情を率直にあらわすことをする、というその意義は、
喜怒哀楽といった、感情の変化に対してだけではなく、それを徹底して、
<日常性の知覚>において行われるすべてを<もののあはれ>という認識としたことにある、
美しいは、<もののあはれ>にあるから、そこはかとなく美しく、
良いは、<もののあはれ>にあるから、しみじみと良い、
それは、<日常性の知覚>にあると認識されることにおいて、
日本民族に<固有の知覚>としてあることを示すものとなり、
日本民族は、異民族に模倣・追従・隷属することなく、<自主・独立・固有の知覚>をもって、
森羅万象を認識し得るとされることにあった、
<自主・独立・固有の知覚>を持つ、日本民族という自負であり、矜持であり、
尊厳の示されることにあったのである。
従って、日本民族は<自主・独立・固有>にある、という意識が破壊される事態が生じることは、
自負・矜持・尊厳もまた打ち砕かれるということになる。
大東亜戦争・太平洋戦争は、そのような事態になることを招いた戦争にあった、
国土を焼夷弾の絨毯爆撃によって焦土と化され、核兵器という原子爆弾を二発も落とされ、
無条件降伏という惨憺たる敗戦によって、敵国の占領下に統治される、
隷属のありようが示されたことであった。
この事態に置かれたことには、原因はひとつのふたつの事実が存在することに留意する必要がある。
ひとつは、結果が敗戦に導かれたことにあるのであるから、
軍部である、大日本帝国陸海軍に対して、どのような見方が可能なことにあるとしても、
軍部の主要な構成員は、日本民族における者にある以上、
<もののあはれ>という<感情>に依る<自然観照の情緒的表現>を主潮としているありようにあって、
状況判断・戦略・戦術という軍事行動は、そのありようから行われたという事実である、
言い方を換えれば、<日本的>では、勝利に終わる戦争とすることができなかったことにある。
もうひとつは、戦後、アメリカ合衆国を主体とした、連合国軍の占領下における国家再建にあって、
日本民族は<自主・独立・固有>にある、という意識を打ち砕かれたことにあったとしても、
自負・矜持・尊厳が失われたことにあったとしても、
国民の主要な構成員は、日本民族における者にある以上、
<もののあはれ>という<感情>に依る<自然観照の情緒的表現>を主潮としているありようは、
それが知覚作用にあるということから、変わらないままにあるという事実である、
言い方を換えれば、今日、<日本的>と称されることの<自然体>にあるということである。
そして、この<自然体>にあることを<自然体>にあることだと認識している限りは、
自負・矜持・尊厳をもって、
日本民族は<自主・独立・固有>にある、という意識を抱けないでいることは変わらない、
脱却も超克も脱構築もできないままにある、現状を持続させていく以外にあり得ないことにある。
何故ならば、敗戦に終わった戦争の原因は、
<もののあはれ>という<感情>に依る<自然観照の情緒的表現>を主潮としていたことにある以上、
そのありようを脱却・超克・脱構築することがない限り、
ただ、同じことが繰り返されるということでしかないからである。
従って、<戦後レジームからの脱却>ということが軍備拡張や国家権力の行使増大に依る、
<戦前レジームへの復古>をあらわすような政治的方策が示されることは、
<日本的>と称されることの<自然体>にあることの限界が露呈されていることでしかない、
即ち、戦争のできる国家になったところで、同様の<敗戦>の結果を生むことにしかならない。
日本民族が自負・矜持・尊厳をもって、<自主・独立・固有>にあるという意識を抱くためには、
世界にある、異民族と同様な立場に立つことに懸命になることではなく、
異民族が解決できない問題を日本民族が脱却・超克・脱構築するということにある、
戦争は二度と行わないという平和憲法を持っている唯一の国家にあるならば、
<個別的自衛権>と称されるものがあれば充分であり、自衛隊が軍隊に成り代わる必要はない、
平和を維持する方法を創り出す、唯一の国家であることの存在理由を強力に示すことにある、
そのためには、言語による概念的思考を行う、人間存在としては、
知覚作用の変革を成し得る、文学作品の多種・多様・多義が強烈に展開されていくことを、
日本文学の存在理由とすることにある、今日の日本文学において、
<近代文学の終わり><小説の終焉>といった見解が提唱されるに至っている事実は、
<もののあはれ>という<感情>に依る<自然観照の情緒的表現>を主潮とするありようでは、
もはや、限界があることを露呈していることにあるからである。

(2014年8月17日 脱稿)


 縄による日本の緊縛