第3章 連作絵画 『縛めの変容譚』 借金返済で弁護士に相談




第3章  連作絵画 『縛めの変容譚』







『鏡のヴィーナス』
ディエゴ・ベラスケス(1599−1600)





『キューピッド』
ウィリアム・アドルフ・ブグロー(1825−1905)





『ヴィーナスの誕生』 
アレクサンドル・カバネル(1823−1889)






冴内谷津雄は、『終焉なき悪夢』の原物を読み終わるのと同時に、
腰掛けているベンチの前にひとの気配があることを感じていた。
ふと、顔付きを上げて、相手を見た。
驚愕は、背筋を一気に這い上がって、恐怖すら呼び覚ますほどに総毛立たせるものがあった。
「誠に失礼なことを申し上げますが、
あなたさまがお持ちになっている雑誌は、私の持ち物になります。
私が<桜花堂>の御主人に予約を入れて、保管して戴いたものになります。
どうかお渡しくださいませ」
たったいま、見ていたばかりの『終焉なき悪夢』の典子夫人がしとやかな物腰で、
落ち着いた澄んだ声音の美しさを漂わせながら、語り掛けてきたのであった。
冴内は、ただ茫然となって、開いた口も塞がらないといった表情で、
眼をひん剥いて、相手を凝視するしかないという状態にあった。
件の雑誌をしっかりと掴んで、何らの返答もせずに、睨み返しているだけの男性に、
女性は、美しい顔立ちの表情は真顔のまま、優しい口調で重ねて言った。
「あなたさまにとっては、突然のことで、お気を悪くなされることかもしれません、
しかし、私にとっては、それは、なくてはならない雑誌なのです。
その雑誌に掲載されている、『縛めの変容譚』という絵画作品は、
この世に残存する最後のものとなるからです、
私の夫が精魂込めて描き上げて亡くなった、遺作の唯一の複写にあるからです、
お願いでございます、どうか、お渡しくださいませ」
典子夫人は、波打つ艶やかな黒髪を柔らかく揺らせながら、深々と頭を下げるのであったが、
驚愕の醒めてきた冴内は、今度は、当惑に目覚めたように、眼を白黒させるのだった。
眼の前に立つ、紫地に咲きこぼれる純白の百合の描かれた瀟洒な着物姿にある女性は、
写真から窺わせた、清楚な美貌と姿態の優美さ
肩まで掛かる艶やかに波打つ黒髪の髪型がそのままで、
美しい顔立ちも、写真と変わらない、若々しさをあらわしているのであった。
世の中には、自分にそっくり似た人物が三人はいるものであると言われていることにあれば、
その三人の中のひとりと遭遇したことであると考えることはできる、
現実は、幻想ではないのだから、現実を幻想のように見ることは、
頭がおかしくなっているということにしかないのである。
眼の前に立つ女性は、瓜二つではあるが、まったくの別人ということに違いなければ、
雑誌に掲載されている絵画のどうのこうのというわけの分からない話も、納得がいくことだ。
冴内は、結論を確かめるために、ようやく、恐る恐る、問い返したのであった。
「……失礼は、私の方にありますが……差し支えなければ、
あなたのお名前を、お名前を聞かせては戴けませんか……
ぼくには、いま、大きな謎があって、それがつかえて、進めないのです、
あなたは、某私立大学の英文科の教授夫人である、
典子さんとおっしゃられる方ではないでしょうか?」
言い終わった瞬間、冴内は、とんでもないことを喋ってしまったと後悔した、
公開される風俗雑誌に実名をあらわす、
某私立大学の英文科教授とその夫人などあり得ないことにあるからだった。
問われた女性は、美しい顔立ちの真顔の表情のまま、優しい口調で答えるのだった。
「いいえ、私の名は、百合と申します。
私の夫は、英文科教授ではありません、画家でした。
これでよろしいですか、どうか、その雑誌をお渡しください、お願い致します」
冴内は、疑問の晴れた思いにあったが、雑誌を手渡そうと掲げた手はとまっていた。
百合と称した、美しい夫人がそこまで執着する絵画とは、いったいどのようなものであるのか、
それを見たくてたまらないという思いが鋭く込み上げてきたからであった。
縄で緊縛されている女性が様々に表現されている、専門の風俗雑誌である、
執着する絵画もそうしたひとつに違いなければ、
美貌と優美な姿態をあらわした百合夫人と関係がないとは、絶対に言えないことにあった。
「奥様、不躾で、誠に失礼な申し出ですが、
奥様のおっしゃられる絵画というのを私に拝見させては戴けないでしょうか、
私は、冴内谷津雄と申します、文筆業者です、
芸術については、それなりの知識と鑑賞力があるのを持ち前としています、お願い致します」
冴内は、その申し出を断られるだろうと思って、はっきりとした言葉で言ったが、
百合夫人は、美しい顔立ちの表情は真顔のまま、優しい口調で答えるのだった。
「主人の絵画に興味を持って戴けるなど、光栄なことにしかありません、
主人の描いた作品は、芸大の日本画の出身であったにも関わらず、
画廊には一度も買い入れてはもらえず、唯一、編集長が知己であったために、
あなたさまがお持ちになっているその雑誌へ掲載の機会を得ただけのことにあります、
それは……どうぞ、雑誌をお渡しくださいませ……
ここに、あります」
夫人のほっそりとした白い指先は、冴内の手にある雑誌をそっとつまむと、
みずからの手の内で、ぱらぱらと目的のページへ向かっていくのであった。
そうして見せられた、『縛めの変容譚』という表題の絵画だった。


ヴィーナス、
この世でもっとも美しい女性を意味すると同時に、もっとも愛のありようを体現する女神。
その彼女が生まれたままの姿を後ろ手に縛られ胸縄を掛けられた姿にある。
彼女の燦然とはなつ美と愛が陵辱されるのをあらわしている姿にいる。
しかも、その陵辱される生贄を差し出しているのは、
いたずら顔の幼い息子キューピッドである。
彼が彼女を緊縛した縄尻を取っているのである。
荒涼とした灰色の大地を背景に、その地へ正面を向いてひざまずかせられたヴィーナス。
金色に波打つ長い髪の柔和さは、抜けるような純白の柔肌とあいまって、
芳香さえ匂い立つようであった。
大きな瞳をなまめかしく輝かせ、開き加減の美しい唇からは、
甘い吐息のぬくもりさえ伝わるようであった。
愛らしい乳首をつけたふっくらときれいな乳房と永遠を描くような優美な曲線にふちどられた、
肉体の栄光、
その壮麗な肉体に荒々しい麻縄が掛けられているのであった。
自由を奪われたあかしのように両手を背後にまわされて後ろ手に縛られ、
両腕をさらに不動にさせられるかのように、雁字搦めに幾重にも縄を巻きつけられ、
美しいふたつの乳房は、上下の縄にはさまれて、
まるでみだらな思いをあらわすかのように、乳首をとがらせて突き出させられているのだった。
美と愛の永遠の守護神たるヴィーナスの尊厳は、
その顔立ちと姿態に申し分なくあらわされていたが、緊縛された姿にあるということで、
その美貌と肉体は、魔性の誘惑をもつものであることも示されているのであった。
そのような女神の相反・矛盾したありようを如実にさせているのは、
彼女を緊縛している縄尻を取る者の存在だった。
背中に小さな羽を生やし、可愛らしいペニスをのぞかせた、
あどけない、いたずら顔の裸姿のキューピッドである。
彼はヴィーナスのとなりに立ち、画面のこちらへ向かって、
彼女を差し出すように、縄尻をもたげた仕草を見せている。
キューピッドの存在がなければ、
或いは、被虐の姿にある屈辱的な美神として見ることもできたかもしれない。
だが、キューピッドの女衒のような存在感は、
淫欲の受容者としてのヴィーナスをあらわにさせているのだった。
しかも、キューピッドのペニスが心なしか立ち上がっているように表現されていることに及んでは、
ヴィーナスの愛美の神聖と官能の淫蕩は、
相反・矛盾しながらもひとつにあるものだと感じざるをえなかった。
それは、彼女の白くふっくらとした股間にのぞく神秘的な黒い亀裂が、
天上の神聖と地上の淫蕩という遠近の焦点を合わさせていることでもあるようだった。
ふたりの彼方の地平には、太陽が顔をあらわしているのを見ることができたが、
それが曙光なのか、日没の光なのか、
灰色の荒涼とした雰囲気からは、区別のつかないところがあった。
その全体性が伝えてくるものは、
物語はこの場面から始まるといった印象だったのである。


絵画の印象を冴内はそのように受けとめた、白昼の太陽の下、
こじんまりとした公園のベンチに腰掛けていることが信じられないというくらいに、
絵画の灰色の荒涼とした雰囲気には圧倒的なものがあるのだった。
それにも増して、ヴィーナスとして表現されている女性の存在感には、強烈なものがあった。
ギリシャ・ローマ神話にある、ヴィーナスという象徴をあらわしていながら、
柔らかに波打つ髪は金色をしていても、その美麗をあらわす顔立ちと優美な乳白色の柔肌は、
まったく日本女性を示しているという表現にあったのである、
それは、キューピッドの描出においても、同様のことにあった、言わば、
西洋が描かれていながら、日本があらわされているという相反・矛盾があるのであった、
表現媒体は、日本画のものにありながら、手法には、双方のねじれた混在があるのだった。
そのような見栄えに対して、その内実は、更にどのようにあるのかを考えようとしたが、
それ以上に、冴内にとって、気掛かりになる表現が意識されていた、
それは、眼の前に立つ女性の存在をいっそうの現実感をもって迫らせていた、
ヴィーナスの愛美に輝く顔立ちは、百合夫人の美しく匂い立つ顔立ちと瓜二つにあったのだ。
食い入るように、絵画を眺め続ける冴内の様子に、夫人は、優しい口調で語り掛けていた。
「そのように真剣に見て戴いて、
亡き夫も、感謝を感じているはずです、ありがとうございます。
七点からなる『縛めの変容譚』の最後にあたる作品をこうして手に入れることができて、
夫も、私も、幸せを感じております、これで、心置きなく、旅立つことができるはずです」
最後の言葉に、冴内は、思わず、顔付きを上げて相手を見やった。
眼の前に立つ、紫地に咲きこぼれる純白の百合の描かれた瀟洒な着物姿にある女性は、
髪の色こそ違っていたが、肩まで掛かる艶やかに波打つ黒髪の髪型はそのままで、
絵画に表現されたありようとまったく変わらない、若々しさをあらわしていた、
女神くらいに美しいと称しても、言い過ぎにはならない、神々しさが艶麗に漂っているのだった。
「『縛めの変容譚』は、全部で七点あるのですか、
残りの六点は、どのようにすれば、見ることができるものにあるのでしょうか。
これは、大傑作です、ぼくは、すべてが見てみたいのです」
冴内は、丁寧に閉じた雑誌を相手に手渡しながら、
見つめ続ける百合夫人の壮麗な美しさにのぼせ上がってしまったように、
誘われるように、躊躇することなく問い掛けている、みずからを意識させられていた。
「家の廊下に、残されたままに飾られてあります、
私は、これから、この雑誌のページをその最後に飾るために、戻ります。
あなたさまさえよろしければ、ご一緒なさって……
作品をご覧になって戴けますか」
思い掛けない返答が超然としているようにさえ感じられる美しい顔立ちの真顔からもれるのだった、
大きな瞳をなまめかしく輝かせ、開き加減の美しい唇からは、
甘い吐息のぬくもりさえ伝わるようにあるのだった。
冴内は、思わず、腕時計を見た、
古本屋のおやじとの約束の一時間がとっくに経過していることを気付かされた、
一度は、<桜花堂>へ戻らなければならないと思った、
だが、いま、ここで、夫人との繋がりを中断させることは、
永遠に関係は生まれないと感じるさせることでもあったのだ。
相手の動向など一向に気にせずといった素振りで、夫人は、すでに公園を出ていた。
冴内は、後を追って、百合夫人に従うために向かうしか方法がなかった。
歩きながら、夫人が語り掛けてくるようなことはなかった、
冴内も、大人しく追従するしもべのように、話し掛けることをしなかった。
ふたりは、ただ、黙々と目的の場所まで歩き続けるだけにあったが、
公園から昭和通りへ出て、それを渡ると坂道にぶつかるまで進み、
緩やかに長々と続く坂を登っていくと、上野駅を左手に見ながら、JR線の各線を跨いだ橋を渡って、
それからは、鬱蒼とした上野公園の緑の道を真っ直ぐに進んでいくのであった。
人類の創始から現代の宇宙旅行までをパノラマに展示する国立科学博物館、
日本のみらず諸外国の国宝級の美術品の展示が行われる東京国立博物館、
歴史の風雪を漂わせる、どっしりとした木造の門構えの旧因州池田屋敷表門、
西洋音楽の最初の導入が演奏された旧東京音楽学校奏楽堂、
その後ろに、日本の最前衛の美術を展示する東京都美術館などを左右に過ぎて、
東京芸術大学の美術部と音楽部の校舎を両脇にして抜けていくと、
そのまま、道なりに突き進んでいくのであった。
太陽が燦々と輝く日中にありながら、辺りには人気がまったく見えず、その場所には、
百合夫人と自分のふたりだけしかいないのではないかという恐ろしいくらいの静寂に、
冴内が奇妙さえ感じたときであった。
夫人は、突然、立ち止まり、美しい顔立ちを真顔の表情にさせたまま、
大きな瞳をなまめかしく輝かせ、開き加減の美しい唇から、綺麗な声音で話し掛けてきた。
「以前は、世田谷の砧に住まいとアトリエがあったものでした、
しかし、火事ですべて消失してしまい、現在は、谷中七丁目が住所です。
さあ、こちらです、遠慮なさらずに、どうぞお入りください」
そう言って、夫人が案内したのは、古めかしい煉瓦造りの家だった、
門構えもきちんとしている、立派な住まいであった。
鉄柵の門を開くと、緑に覆われた短い庭を通ったところに、がっしりとした木製の扉のある玄関があった。
案内されたなかは、外観同様に古めかしかったが、きれいに整頓され清潔な感じがした、
かすかな芳香さえただよっていた、
そのかぐわしい香りが百合夫人からかもしだされてくるのは、間違いなかった。
玄関を上がると、奥へと続く、幅広く長い廊下を前にして、
夫人は、真顔の表情の美しい顔立ちを冴内の方へ向けると、語り始めるのだった。
「この廊下の突き当たりにある部屋が主人のアトリエになります、
廊下の左右の壁に、三点ずつ、『縛めの変容譚』が飾られてあります、
主人は、明確な意図を持って、絵画表現を行いました。
主人が習得したのは、日本画の手法でしたが、その日本画の手法で、
日本画の画材をもって、明治時代以来、導入されてきた西洋思想の表現方法を、
<ひねる・ねじる・よじる>という、遥か縄文時代より連綿と継承される、
因習としてある日本民族の矜持の自意識、
<結びの思想>をもって、独自の表現とさせたことにあったことでした。
作品は、手前より順に、<自然主義>、<写実主義>、<浪漫主義>、
<象徴主義>、<表現主義>、<超現実主義>という副題をもっております、
明治の文明開化以来、大東亜戦争の終結に至る時代までに、
西洋から導入された芸術の表現方法が<結びの思想>と対峙したことがあらわされています。
『縛めの変容譚』とは、縄文に起源を持つ、人間が人体を縄で縛る行為、
縄による日本の緊縛という因習的・伝統的・歴史的なありようにあって、
<結びの思想>の<ひねる・ねじる・よじる>という<異化・変化・昇華>させる方法が、
西洋思想との対峙から変容して昇華へと向かわせるという意義と、
実際の縄の縛めの対象となる女性にあっても、求められる変容が昇華を生み出す意義にあるという、
人間の存在意義が込められて名付けられたものにあります。
主人には、明治時代以来、大東亜戦争を経験してさえ連綿と継承される、
<欧化主義>に反発する立場にあってのことでした。
主人が心から尊敬していた先人が岡倉天心様であったことは、当然過ぎることでした。
しかし、主人の表現は、独りよがりの産物と見なされることでしかありませんでした、
社会性において、猥褻と不道徳を理由に、画廊からは、まったく相手にされず、
買い入れられることはおろか、展示さえ許されることにありませんでした。
芸術思想と猥褻表現が一体としてある、言わば、精神と肉体は分離したものではなく、
一体としてあることの全体性表現は、畢竟、猥褻には違いないと見なされることでしかなく、
友人や知り合いも、主人のその創作姿勢の一徹に対しては、離れていくばかりのことにありました、
唯一、或る風俗雑誌の編集長の好意から、最後の作品が雑誌へ掲載されたことがあっただけでした。
それが、この一九七三年刊行の『SMクイーン 十月号』という雑誌です。
最後の作品には、<矛盾表現主義>という副題が付けられています、
それは、そこに、日本民族の固有の表現があるという主張によるものでした、
そして、主人は亡くなってしまったということでもありました。
死者は蘇ることはありません、
残された作品だけが後の人々に有用にあれば、蘇るということがあるだけです。
あなたさまに有用であれば、あなたさまによって、展開されるだろうことがあるだけです。
主人と私、それに、亡くなった私たちの子供にとって、作品を鑑賞されることは、大きな喜びです、
どうぞ、私たちの命を燃やし精魂を込めた作品をよろしく見てくださいませ。
私は、<矛盾表現主義>を飾るために、先に、アトリエの方へ行っております」
語り終えると、百合夫人は、しなやかな着物姿の姿態を振り向かせ、廊下の奥へと向かうのであった、
その優雅な立ち振る舞いは、こちらの存在さえも無視した、超然としたものを感じさせた。
アトリエの扉の前へ立った夫人は、艶やかに波打つ黒髪を揺らせながら肩越しに振り返ると、
なまめかしく輝かせた大きな瞳を冴内へ投げて寄越した、
その誘いかけるような仕草は、開き加減の美しい唇から綺麗な声音で、
必ずいらしてくださいね、と聞こえてくるような媚態を感じさせるものがあるのだった、
それから、鍵を使って開くと、雑誌を手にしたまま、なかへ入っていった。
アトリエの扉が静かに閉められ、廊下にひとり立たされた冴内は、
それまで感じていた落ち着いた雰囲気がかもし出させる静寂が一気に沈黙へ変化した気がした、
両眼は、壁に掛かった最初の作品を鑑賞するために、
集中させられるばかりになっていた。


<自然主義>と副題された作品は、次のように表現されたものにあった。
古来より、<天女>という存在が言い伝えられている、羽衣伝説というものが一般的であり、
天上より羽衣をまとって飛来した天女が湖水で水浴びをしていると、
その姿を見た男があまりの美しさに心を奪われて、返すまいとして羽衣を隠してしまう、
天に帰れなくなった天女は、男と結婚して子供をもうけ幸せとなる、
やがて、羽衣を見つけ出した天女は、天上へ帰っていく。
日本各地に残る言い伝えにあることで、同様な人物や結末とは限らないことにあるが、
美しい全裸の姿で水浴びをする、天女の発端は、変わらない。
この絵画がその<天女>の水浴びを描いていることは、空は抜けるように高く青々とした天をあらわし、
鮮やかな緑の木立に囲まれた、深く澄み切った大きな湖があって、
その清水に足先を浸して、生まれたままの優美な曲線を際立たせた全裸の女性が立っていたが、
その顔立ちは、この世のものならぬ、艶麗で気高い美しさを輝かせていることにあった、
<天女>は、漆黒の艶やかさを柔らかく波打たせながらなびかせた長い髪をした、
百合夫人そのものである目鼻立ちとして示されていることで、明瞭にあらわされていた、
近くの木に掛けられた、綺麗な羽衣が風でそよいでいるありさまがそれを確かなものとさせていた。
日本民族の伝承的な自然の情景が表現されていると感じさせるものにあったが、
それだけには留まらない違和感がこの絵画にはあるのだった。
それは、<天女>の顔立ちが漂わせる表情と立ち尽くす姿態の形に見ることができた。
<天女>の大きく開かれた綺麗な両眼は、空ろとも言えるくらいの無垢を見つめる純粋なまなざしとなって、
形の良い美しい唇をしっかりと結ばせ、小首をかしげさせ、身体を幾分か斜めにさせて、
しなやかに伸ばさせた両脚の右足を浮かせ、左足だけで身体を支えているありようとさせていた、
右手で胸のあたりを押さえていたが、左の美しい乳房は、乳首も可憐にあらわとされて、
左手が長く垂らさせた黒髪を掴んで、下腹部を覆い隠させているという姿態にあったことは、
西洋の有名な絵画を想起させずにはおかない、相似の感じられることにあった。
その相似とは、ルネサンス期のフィレンツェ派を代表するボッティチェリの<ヴィーナスの誕生>である、
貝殻に乗り海から誕生したとされる、ヴィーナスの顔立ちの表情と姿態のありさまと同様にあったのである、
ただ、西洋と日本との肉体における見栄えの違いということが明確に示されているのであった。
この相似を確かなものとさせていたのは、ちょうど、ボッティチェリの絵画で、
産まれたばかりのヴィーナスへ絹布を掛けようとする、時の女神であるホーラの存在と同じように、
右手に位置して、ふくよかな全裸のキューピッドが描かれていることにあった。
このキューピッドは、日本人の顔立ちをした、五、六歳の幼児としてあらわされていたが、
柔らかに縮れた金色の髪をして、背中に生えた羽で空中を舞いながら、
長々と衣のように垂らされている縄を両手に掴んで、掲げている姿にあるのだった。
縄の存在、それが場面を一気にねじるように緊張へ赴かせていたことは、
湖に水浴びをする<天女>は、脱ぎ捨てたみずからの羽衣の代りに、
あらわれたキューピッドが手にする縄を羽織らされるという情景に見えることにあった。
この<ヴィーナスの誕生>の意義は、<天女>と<キューピッド>が描かれている、彼方の湖の端に、
煙突から黒煙を上げる、四隻の<黒船>の存在が見えることで、俄かに明瞭をあらわすものとなっていく、
情景は、伝承や神話の時代のように見えたが、江戸時代末期ということが特定されているのであった。
そこから、<誕生>とは、黒船来航に始まる幕末から明治維新の文明開化を想起できることは、
<ヴィーナス>は、<西洋>の象徴にあれば、
日本の伝承である<天女>が<ヴィーナス>に変容して誕生するとは、
日本が西洋化することが予定されると見ることができた、
それは、西洋の<キューピッド>の姿態にあって、日本の幼児のあどけない顔立ちをした、
<西洋風の日本>が縄で<天女>を縛ろうとしていることで、明確にあらわされていると見ることができた。
<天女>は、<西洋風の日本>に縄で縛られるという事態は、
日本の伝承が拘束に晒されるということで、文明開化における、<西洋思想>の産物の積極的な導入は、
本来ある日本の事柄を緊縛に置くという状況が作り出されたことが示唆されていることにあった。
しかし、これだけのことでは、<自然主義>が意義する、
自然の法則や遺伝や社会環境の因果律にある人間を表現するという主旨との対峙は、見えてこなかった。
艶麗で気高い美しさを輝かせている<天女>の顔立ち、
生まれたままの優美な曲線を際立たせた、全裸の麗しさを眺めて満足するようなことでしかなかった。
そのときであった……
<天女>の顔立ちは、百合夫人そのものにあることが想起させたことがあった、
絵画の中央に位置して、<天女>が縄で縛られることになる状況……
縄による緊縛の行為……
それが要となる事柄としてあることは、
<縄による緊縛>に意義を見るということなしにはあり得ないことにあった。
百合夫人が語った、画家の創作意図は、
縄による日本の緊縛という因習的・伝統的・歴史的なありようにあって、
<結びの思想>の<ひねる・ねじる・よじる>という<異化・変化・昇華>させる方法が、
西洋思想との対峙から変容して昇華へと向かわせるという意義にあった。
<縄による緊縛>を単に拘束の意義にしか受け取らなければ、
本来ある日本の事柄が緊縛に置かれるという被虐の状況にしかならないが、
縄に意義を見る思考にあれば、日本の縄による緊縛が<結びの思想>の実現ということになり、
それは、因習的・伝統的・歴史的なありようをあらわすものになることにある、
自然の法則や遺伝や社会環境の因果律にある人間を表現するものになることにある、
画家の表現は、そのように示唆していることにある、と読み解くことができたのである。
だが、それは、縄に意義を見る思考になければ、理解できることにはない……
そこで、<天女>の大きく開かれた綺麗な両眼は、
空ろとも言えるくらいの無垢を見つめる純粋なまなざしとなって、形の良い美しい唇をしっかりと結ばせ、
誕生する思考と知覚と官能にあることを伝えているかのようにあることは、
<縄による緊縛>で変容することが暗示されていると感じられたのである、
百合夫人をモデルとした連作絵画は、そのようにして始まるものとしてあったのだった。
それにしても、想像するばかりのことにあるが……
全裸の姿にある百合夫人の顔立ちと姿態の美しさは、
蠱惑的とも言える艶麗を漂わせるものにあったことは、いつまで見ていても、見飽きないことにあった、
その優美な姿態に縄が掛かるのを期待させるばかりのことにあったが、
夫人が実際の縄、初縄を受けたのは、幾つの年頃のことなのだろうか、
<ヴィーナス>の顔立ちからすれば、二十二、三歳の頃なのか。


次に掲げられていたのは、<写実主義>と題された作品であった。
それは、知る者が見れば、一目瞭然とした相似を理解することができた。
相似の対象は、月岡芳年の『奥州安達ケ原ひとつ家の図』という絵画である。
ひとつ家は日本家屋であり、場所は室内である、天井は煤で黒ずみ、壁はひび割れて、
漆喰が数箇所に渡って大きく剥げ落ちている、柱にも酷い腐食があらわされ、
開け放たれた出入口は、木戸か障子が失われているほど老朽化していることが示されている。
その廃屋において、手拭いで猿轡をされた、腰巻ひとつの若い妊婦が縄で後ろ手に縛り上げられ、
艶やかな黒髪を長々と垂らさせて、天井の梁から逆さ吊りにされている、
その真下には、激しい炎と煙の立ち上る囲炉裏があって、老いさらばえた半裸姿を晒した、
険しい形相の鬼婆が妊婦をにらみつけて包丁を研いでいる、
これが芳年の表現にあれば、その絵画は、このようにひねられているものにあった。
廃屋の室内描写は、模写と言えるほど、そっくりに表現されていたが、
天井から逆さ吊りにされている女性は、柔らかに波打つ金色の髪を長々と垂らさせていた、しかも、
その目鼻立ちの整った艶麗な百合夫人の顔立ちは、まるで、置かれている状況から超然としているように、
大きく綺麗な両眼は彼方を見つめ、美しい唇を真一文字とさせて、
尊厳さえ漂う、気高い輝きの放たれている表情にあるのだった。
女性の全裸の姿態があらわす曲線とは、このように優雅なものにあるのかと思えるほど、
ほっそりとした首筋から柔和な両肩、すらりとさせた両腕の二の腕、くびれの際立つ優美な腰付き、
艶かしい双方の太腿からしなやかな両脚の足先に至たるまで、柔肌を乳白色のなよやかさで匂い立たせ、
臨月と思われる、張り出させた孕み腹は、
健やかさを如実とさせた、初々しさを漂わせたものにあるのであった。
<天女>は、妊娠したことで、金色の髪の<ヴィーナス>に変容した、と感じさせられることにあるのだった。
その<ヴィーナス>に、<縄による緊縛>が施されているのであった、
姿態の優雅さに引けを取らないくらいに、見事な意匠をあらわす、日本の縄掛けに晒されているのであった。
掛けられた首縄から縦に降ろされた縄に拵えられた等間隔の結び目が左右からの縄に引かれて、
ふっくらと綺麗な隆起をあらわすふたつの乳房から小丘のある下腹部へ至るまで、
亀の甲羅の紋様を模したところから、亀甲縛りと呼ばれている、緊縛の意匠に包まれているのであった。
ふたつの美しい隆起をあらわす乳房は、それぞれの亀甲の紋様に収められて際立たせられるように、
可憐な乳首をあらわなものとさせられ、張り出させた孕み腹においては、
ひと際大きな亀甲の紋様が臍を中心にしてせり出させるように掛けられていて、
初々しい妊娠が強調される姿とされていたことにあった、更には、
下腹部にある縄の結び目からは、陰毛のない、ふっくらとした白い丘に深々とした亀裂をあらわす、
剥き晒された女の割れめへ向かって、縄が伸びて埋没させられているのであった、
その様子は、見て取れるほどに、精緻とも言える写実的な描写としての股縄が表現されているのだった。
両手を後手に縛り上げられて、晒されている被虐の身上にあって、
置かれているありさまと顔立ちがあらわす表情の違和感は余りにもはなはだしく、
相反と矛盾を感じさせずにはおかないものがあるのだった。
その相反と矛盾を一層浮かび上がらせていたのは、
<ヴィーナス>が逆さ吊りとされている、その真下にある、火の気も煙もない囲炉裏のそばに、
日本の幼児の顔立ちをした全裸の<キューピッド>がおもちゃをいじるあどけなさの表情で、
小さな弓と黄金の矢を手にしている姿が対峙されていることにあった。
その矢が<ヴィーナス>の縄で緊縛された姿態へ向けられていたことは、すでに、
心臓のある方の綺麗な乳房には、小さな矢が一本突き刺さっていることで明らかであった。
突き刺さったキューピッドの黄金の矢は、激しい恋情を植えつける、ということにあるとすれば、
<ヴィーナス>は、恋慕する情感に高ぶらされた思いから、
官能に舞い上げられた、恍惚とした表情にあったとしても、
不思議ではない表現として見ることができたが、そうではなかったのである。
艶やかな太腿を揃えさせて、しなやかで綺麗な両脚を伸ばさせて、
束ねられた華奢な足首から縄で天井の梁から逆さ吊りにされている、
写真のように精緻に描かれたその表現は、
<天女>が<ヴィーナス>としてあらわされた姿は、
全裸の妊婦の虐待という悲惨・残酷・淫虐を感じさせることにあって、
立ち昇ってくるのは、意義の捉えどころのない、意識の擾乱とも言えるようなことにあるのであった、
或いは、荒唐無稽と言ってもよいものにあるのだった。
芳年の再現と言えば、場所は日本家屋であり、廃屋の状況設定が同様にあるに過ぎなく、
作品は解釈を拒絶しているところにその存在理由を持っているとさえ感じさせたことは、
その異様な情景が更にねじられていることにあった。
木戸か障子が失われて開け放たれた出入口から、
テールコートを着た男性とイブニングドレスを身にまとった女性のふたりの西洋人が高潮させた笑い顔で、
<ヴィーナス>と<キューピッド>を覗いている姿が描かれていたのである。
見事な口髭を生やした男性は、ズボンの中から伸び出させた勃起を片方の手で握り締め、
もう片方の手を胸が開いた女性のドレスの乳房のあたりへもぐり込ませていたが、
美麗な顔立ちの女性の方も、片方の手でスカートをたくし上げ、
もう片方の手の指を掻き分けた茂みの割れめの奥へと忍ばせているという描写にあるのだった。
それは、男女の西洋人が官能を高ぶらせて見守るのは、弓を弄ぶ<キューピッド>の黄金矢の次の標的は、
<ヴィーナス>の初々しい孕み腹にあることを想像せざるを得ない表現として感じられることにあるのだった。
これが<写実主義>とされるものにあれば、
精緻を極めた画家の技量には感銘させられるところがあったが、<写実>とは、空想に依らずに、
現実をありのままに捉えようとする美術や文学の表現方法にあることだとすれば、
その見栄えに対して、内実は、ますます擾乱を来たすものとして感じられるばかりのことにあった。
そもそも、『奥州安達ケ原ひとつ家の図』という絵画は、
写生を重んじた月岡芳年が想像で描いたとされる作品にある、
想像で描かれた表現を題材にして写実で描写するということならば、
<ヴィーナス>と<キューピッド>は神話の空想に依ることであるから、題材そのものに矛盾がある、
むしろ、芳年のその絵画から啓発された、伊藤晴雨が妻をモデルにして行った、
妊婦の逆さ吊りという写真撮影の方が<写実>にある。
理解することの難しい、<写実>表現にあるようであったが、
ただひとつの事柄において、<写実>が全体として明確にされていることがあった。
それは、この絵画作品が性的事象を明確に描いていることである、
正しくは、<縄による緊縛>による性的事象が全体をまとめていることである。
性欲と性的官能の表現において、つまり、見るからのありのままの猥褻において、
西洋と日本の混在は同一の事象となる、という認識が全体をひとつよじらせていることであった、
つまり、ポルノグラフィとして、ひとつに表現されていることだった。
そこから読み解くと、次のような表現にあると見ることができた。
<ヴィーナス>は、百合夫人としてある顔立ちと姿態が物語るように、
<天女>が妊娠したことにより変容して、<日本>が<西洋化>したありようが示されている、
それは、妊娠が新しい事柄を産み出すための比喩としてあることは、
<西洋風の日本>である<キューピッド>の激しい恋情を植えつける矢に心臓を射抜かれたことによる、
明治維新に始まる、日本の近代化は、本来ある<日本>を変容させてまでの<西洋化>にあれば、
激しい羨望・恋情・思慕の対象となる、<西洋思想>の産物の模倣・追従を邁進させたことにあった、
『奥州安達ケ原ひとつ家の図』は、明治18年(1885年)の作品にあれば、その頃の状況と言えることにある。
<西洋化>した<日本>は、縄で緊縛されて天井から逆さ吊りにされるという被虐に晒され、
そればかりか、あどけない幼児の<西洋風の日本>から、
孕み腹を矢で射抜かれようとする危険にさえあったことだった、
これは、本来ある日本の事柄が西洋化による破壊にあっての被虐が示されている状況と、
欧米の植民地化政策の危険に晒されている状況が示唆されていることは、
そうした日本の実情を眺めて、興味と関心と喜びの自慰行為に耽る、
西洋人の男女の存在に依ってあらわされている。
しかし、見事な意匠をあらわす、<縄による緊縛>を施されている<ヴィーナス>の顔立ちは、
その置かれている状況から超然としているように、大きく綺麗な両眼は彼方を見つめ、
美しい唇を真一文字とさせて、尊厳さえ漂う、気高い輝きの放たれている表情にあったことは、
初々しい全裸の妊婦姿を縄で緊縛された、美神としての<ヴィーナス>の被虐に晒された姿態は、
そこはかとなく、妖しく、美しく、高貴にさえあると感じさせられることにあって、
言わば、聖なるものと淫蕩なるものとの混在の<写実>であるかのようにあったことだった。
<縄による緊縛>は、聖なるものと淫蕩なるもの、
その双方を現出させる、道具による行為としてあることが示唆されるのだった、
この場合、聖なるものとは<日本化>であり、淫蕩なるものとは<西洋化>である。
性的事象は、公的にあからさまとなることにあれば、猥褻とされるものにある、
公的事象は、人間があからさまとなることがあれば、真実とされるものにある、
人間の性欲と性的官能が四六時中活動していることにあっては、
公的事象は、性的事象の比喩と見ることの可能が生まれることは、
画家が<写実>と感じている、それが猥褻と言えることの描写にあることのようだった。
それにしても、想像するばかりのことにあるが……
百合夫人に掛けられた初縄が、
妊婦の逆さ吊りという過激なものにあったかどうかは分からないが、
その<写実>的な描写からは、妊婦姿で縛られたことがあったことは、間違いないと思われる、
艶麗な顔立ちを全裸にある羞恥に染めて俯かせ、後ろ手に縛られることから始まる緊縛に、
孕み腹の子を気遣いながら、縄の縛めが増すごとに官能を煽り立てられていく、
夫人の滲ませるその女の美しさは、匂い立つように妖艶であったことだろう。


<浪漫主義>と称された作品は、次のようにあらわされていた。
古い時代の日本の繁華街の日中が描かれている、右手に五重の塔と本堂の瓦屋根があることや、
奥の方には、特徴ある尖塔と円形の展望柵を二段に持つ、角ばった構造の高層建築が見えることから、
その場所が浅草の歓楽街として描かれていることが想起されることにあった。
十二階の凌雲閣の崩落は、関東大震災のときのことであるから、大正12年(1923年)以前の光景と言えた。
数多ある劇場が極彩色ののぼりを立てながら立ち並んでいたが、
そのうちの一軒の劇場の看板がひと際大きく掲げられていることにあった。
通りすがりながら、その大きな看板絵を楽しそうに笑って見やっているのは、
着物姿や洋服姿の連れ立った夫婦、杖にすがる老人や老婆、元気いっぱいの小さな子供の手を引く親子、
派手な服装の若い男女の独り者などで、大道は、あふれるばかりの老若男女の集まる雑踏にあった。
その看板絵に描かれていた、<ヴィーナス>と<キューピッド>の姿であった。
百合夫人の顔立ちの<ヴィーナス>は、生まれたままの優美な全裸の姿にあって、
後ろ手に麻縄で縛られ、乳首も可憐に綺麗な隆起をあらわすふたつの乳房を際立たせられた、
上下から挟むように掛けられた胸縄を施されただけの姿態にあった。
張り出させた孕み腹にはない、そのなめらかな柔肌がふっくらとさせた、
陰毛のないなよやかな小丘をあからさまとさせていたが、
その深い亀裂のありようをさらけ出させられるように、左右へ立つ白木の太柱へ繋がれて渡された、
一筋の麻縄を跨がされていたことは、縄が腰付きよりも高くあり、等間隔に拵えられた縄の瘤のあることは、
歩み進めば、女の股間の敏感な箇所を責め立てられるという具合にされていることにあるのだった。
鋭敏な責めであることは、<ヴィーナス>の姿態は、突き上げられる官能の激しさに耐えかねて、
くびれをあらわす艶かしい腰付きをひねらせながら、双方の足先を床へ爪先立ちとさせて、
艶やかな太腿から伸ばさせた、しなやかな両脚を直立させ続けている姿にあらわされていた。
その金色に波打つ長い髪に縁取られた、艶麗な顔立ちの表情も、柳眉の眉根を激しく寄せさせて、
細めた綺麗な両眼を虚空へ凝視させながら、真一文字に美しい唇を噛み締めては、
股間を責められて込み上がる、快感と苦痛を懸命にこらえているという、困惑さえ滲ませたものにあった。
その快感と苦痛は、いずれが優るものにあることなのかと思わせたのは、<ヴィーナス>のそばに立つ、
金色の縮れ髪の<キューピッド>がにこやかな日本の幼児の微笑を浮かばせながら、
縛り上げた縄尻を取りながら、乗馬鞭でヴィーナスの優美な尻を打ち据えている描写としてあったからである。
そして、この<ヴィーナス>の責め苦の場面は、
後方に描かれている存在に依って、意義の明確な事柄として感じられることにあった。
山高帽子にフロックコート姿の恰幅の良い日本人がにんまりとしながら、分厚い札束を数えていた、
その前には、弁髪をした中国服の老人が片手に書類を差し出して、その札束を受け取る素振りにあった、
よく見ると、大道にあふれるばかりの老若男女に向かって、
おさげ髪にチマチョゴリの可憐な少女がこの劇場の呼び込みを行っている姿が描かれていた。
<ヴィーナス>が淫虐な見世物にされて、しかも、それは収益を上げている興行にあることが分かると、
連作絵画の流れからすれば、この状況は、次のような事柄が示唆されていることにあると見ることができた。
明治維新の文明開化以来、脱亜入欧の欧化主義に依る富国強兵策は、
後進世界としてのアジアを脱して、西洋の列強国に並ぶ目的で、
<西洋思想>による産物の模倣・追従に邁進したことは、利潤の成果を上げたことにあった、
それは、やがて、朝鮮半島や中国への侵略に展開していったことが<興行の運営>としてあらわされている、
フロックコート姿の恰幅の良い日本人は興行主で、弁髪の中国人は興行開拓の手先としての人物で、
おさげ髪にチマチョゴリの可憐な朝鮮人の少女は、支配下に置かれた下働きという構図になる。
しかしながら、利潤の成果を上げる興行とは、西洋へ変容した、日本の<天女>を全裸とさせて、
<縄による緊縛>を施した姿態を股間責めと鞭打ちに置くという、快楽と苦悩へ同時に晒される、
富国となる快楽と伝統喪失となる苦悩へ立たされるありようであったことは、
張り渡された一筋の麻縄を股間渡りさせられる姿が綱渡りを想起させることにあれば、
危険を伴った、緊張に満ちた、後戻りのきかない状況を浮かび上がらせている、
無邪気な心情にある、<西洋風の日本>である<キューピッド>は、
<ヴィーナス>の尻を鞭打って邁進させる、子が母を虐待する倒錯として示されているのであった。
<ヴィーナス>として西洋化しても、主体は、日本の<天女>にある以上、
どのように淫靡で過酷な責め苦に晒されようと、
美神は、尊厳を守る矜持のありようを示すことこそが真美のあらわれということにしかならないことにあれば、
<ヴィーナス>は、晒される責めを懸命に耐えるしかないことだった。
しかも、それは、看板絵にあるという、<宣伝>として示されているのである。
これが<浪漫主義>であるとされていることは、いったいどのような意義においてのことなのか。
<西洋思想>にあっては、個人としてあることの根本的独自性や自我の欲求を重視したことから展開して、
<教条主義>としての既成の概念、キリスト教倫理や古典主義と明確な対立を創出する芸術運動にあった、
しかしながら、明確な対立をあらわせなかった、日本の芸術においては、
森鴎外の『舞姫』(1890年)に始まり、高山樗牛の『美的生活を論ず』(1901年)あたりで終わる、
僅か十年程度の<浪漫主義>文学の短命が物語るように、模倣に終わるだけのようなことでしかなかった、
この絵画の淫虐な責め苦の場面の何処に<浪漫主義>があるのかと言えば、まったくない、
ないのは、日本に根付くことのなかった思想にあったからである、
画家は、そのように表現しているように感じられる。
そして、更に、穿ってみれば、夢や幻想に熱中することが<ロマン主義>の特質とされることにあるならば、
<脱亜入欧>や<欧化主義>が熱中する夢や幻想にあるものかどうかという問い掛けである、
それは、連綿と継承された夢や幻想として、現在の平成の時代まで持続される、
日本の方向性を問われていることにあると考えられることでもある、
<脱亜入欧>や<欧化主義>が日本の<浪漫主義>だとすれば、
危うく淫らな股縄渡りにあることは、変わらないということにある。
因みに、この絵画に描かれている、十二階の凌雲閣は、
イギリスの技術者ウィリアム・バルトンの設計になるものであった、
そこに日本初の電動エレベーターを設置することは、構造強度において、
設計者の猛烈な反対があったにもかかわらず、日本人の意思で行われたことだった、
関東大震災時の崩落は、起るべくして起ったとされていることにある、
<想定外>と言えるようなことにはなかった、
入場客を増やすという夢や幻想として、商売の種にすることの方が現実より優っていただけにある、
<浪漫主義>の看板というのは、宣伝効果を目的としたものでしかないという、傀儡・木偶である。
<縄による緊縛>も、股縄渡りをさせられ、尻を鞭打たれる、という拘束の目的にしかなければ、
被虐をあらわす意義以上のことはあらわせないと見るしかないことになる。
その<ヴィーナス>と<キューピッド>の看板の下には、
劇場の入口が扉を大きく開いて待ち受けていた、
看板の見栄えに対して、内実を知りたければ、
金を払って、遠慮なく、劇場の中へ入って、見てくださいと言うように、
内部の扉も大きく開かれていることにあるのだった、
看板を見れば、高ぶらされる情感のままに、入る以外にしかないというように。
それにしても、想像するばかりのことにあるが……
百合夫人が縄の似合う女性としての姿態を持っていたことは、
体型は、太り過ぎず、痩せ過ぎず、乳房は、小さ過ぎず、大き過ぎず、
縄がしっくりと馴染む、脂肪のついた乳白色の柔肌は、
首筋から腰付きのくびれ、艶麗な尻や艶やかな太腿、しなやかな両脚や華奢な両足へ至る、
優美な曲線に縁取られた、芳香の匂い立つ優雅さを如実とさせて、
陰毛のない、ふっくらとした小丘にのぞかせる、くっきりとした女の亀裂は、蠱惑の深淵として、
喰い込まされ埋没される縄を誘うような妖艶にあったことは、
恐らく、実際の生活にあっても、陰部は剃毛されていたに違いない。


劇場の入口が扉を大きく開いて待ち受けていた、
入口を入り、開かれた内部の扉を抜けると、
<出し物はこれにあり>とでも言うように、
<象徴主義>と副題された絵画作品は、次のように表現されたものにあった。
長く垂れ下がって引かれた緞帳を左右にして、板敷の大きな舞台が描かれていた。
全裸の<ヴィーナス>が中央に正座していた。
そのもたげた百合夫人の艶麗な顔立ちは、大きく綺麗な両眼は、憂いをおびて彼方を見つめ、
美しい唇を真一文字とさせて、女性があらわす悲哀の情感を漂わせた、美しい表情にあった。
全裸にまとわされている縄掛けも、織り成される紋様の綾も美しい、見事な亀甲縛りにあった、
きちんと正座させた姿態でいたが、なめらかな柔肌がふっくらとさせた、陰毛のない、なよやかな小丘は、
艶やかな太腿の奥にある深い亀裂のありようを埋没させた縄で如実とさせていることも示されていた。
だが、後ろ手に縛られた姿態にはなかった、
自由な両手で、刃をきらめかせる、小刀の抜き身をみずからへ向けて握っているのであった、
鋭利な切っ先を下腹へ当てている格好は、まさに切腹しようとしている様子をあらわしているのであった。
それを確かな表現とするように、そばに立つ<キューピッド>は、
大刀の抜き身を上段に構えて、介錯を施す姿勢としてあらわされているのであった、
しかし、金色の縮れ髪の小さな頭に被った、大き過ぎる日本軍の軍帽は、
まなざしを覆うほどに目深であることで、振り下ろされる刃の位置が不確かなことがあらわされていた、
仮に、まなざしがはっきりと向けられたにしても、五、六歳の幼児の介錯では、
首を刎ねて本懐を遂げさせるありようにはないことは、この切腹がどのようないきさつのことにせよ、
意義のまっとうされない、荒唐無稽な行為であることが示されているのであった。
ふと気付くと、部屋を模した舞台装置の中央の奥には、大きな格子の窓があったが、
そこからは、闇夜にあって、真っ白な雪が激しく舞い降りているのが見て取れた。
降りしきる雪が日本軍の軍帽と結び付けば、ましてや、切腹となれば、
二・二六事件という未遂の軍事クーデターを想起させることにあったが、
それは、左手の暗い場所に描かれた存在を俄かに注視させることになるのだった。
その場所には、暗闇に隠れされた、ぼんやりとした亡霊のような表現で、
日本軍の軍服を着た大勢の若者が正座した姿で並んでいるのを見ることができた。
彼らは、一様に、真剣な顔付きをしっかりともたげて、
<ヴィーナス>と<キューピッド>を凝視していたが、
その手には、各々に、小刀の抜き身がみずからへ向けられて握られているのであった。
それと相対して、右手に、同じように暗闇に隠れされて、ぼんやりとした亡霊のような表現で、
大勢の白装束の若い女性たちが各々に小刀の抜き身を咽喉元へ向けて握り締め、
真剣な顔付きをしっかりともたげて、
<ヴィーナス>と<キューピッド>のありようを凝視している姿があるのだった。
それは、死を前にした、暗鬱な緊迫感を漂わせる表現としてあったが、
麻縄で淫靡に緊縛されている、<ヴィーナス>の乳白色の全裸があらわすまばゆい輝きは、
傍らに立つ<キューピッド>のむっちりとした無垢の全裸の白さと相俟って、
荒唐無稽な切腹介錯と壮絶悲愴な集団自決の相対・矛盾を作り出しているようにあるのだった。
フランスのジュルジュ=アルベール・オーリエの『絵画における象徴主義』(1891年)の定義によれば、
<象徴主義>とは、次のようにあるものとされている。
 <芸術作品は、第一に、観念的であるべきである。そのただひとつの理想は、観念の表現であるから。
第二に、象徴的であるべきである。その観念に形を与えて表現するのだから。
第三に総合的であるべきである。諸々の形態や記号を総体的に理解される形で描くのであるから。
第四に、主観的であるべきである。
事物は事物としてではなく、主体によって感受される記号として考えられるのであるから。
第五に、装飾的であるべきである>
絵画がこの定義を踏襲しているものにあることは、このように見ることができるものとしてあった。
<昭和維新・尊皇討奸>を掲げて、千四百八十三名の青年将校が決起した、
昭和11年(1936年)の二・二六事件という未遂の軍事クーデターは、仮に成し遂げられたとしても、
旧来の政権に取って代わる、新しい指導者も政治理念も政策もなかった以上、
義憤の殺人行為をあらわしたということでしかなかった、
その義憤は、武力を持って元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、
政財界による政治腐敗や農村の困窮が収束すると考えてのことであったとされている。
二・二六事件の決起は、日本国家の現状と行く末を憂いてのことにあれば、<憂国>の心情であり、
その<憂国>は、三島由紀夫が市谷駐屯地で自衛隊員に向けて投げた、『檄文』に同様のものとしてある、
従って、初めから成し遂げられないクーデターにあれば、切腹介錯を終焉とする以外にない、
何故なら、心情からの義憤の行為であれば、言語表現よりも感情表現に重点が置かれることにあって、
思考の整合性としての論理性など無視された、
荒唐無稽とも言える行動が正義を意味することにさえあるからである、
<ヴィーナスとキューピッド>と<軍服の男性と白装束の女性>の対照において、
<荒唐無稽な切腹介錯>と<壮絶悲愴な集団自決>は、
自害の自己表現ということにおいては、相対・矛盾することなく、あり得ることになるからである。
これは、<武士道>という思想が前提としてあるということにおいての<日本的解釈>である、
正しくは、<武士道>を解釈したことによって形作られた、
自害・自決・自殺の行為を意義あるものと認める見方の表現である。
従って、<武士道>を思考の前提としなければ成り立たないことにある。
明治の文明開化を分水嶺として、武士の存在は、事実上消えたものにあったが、
<日本的解釈>を意義あるものとするためには、根拠とする思想が必要とされた、
その根拠の思想は、長年に渡り、日本を支配的としてきた思想でなくてはならなかった、
それが<武士道>という思想として、残存することになった、
言わば、<武士道>は、八百万ある信仰対象を持つ日本人の多神教にある、
ひとつの信仰のあらわれというものになったことは、
それを根拠として、死を潔しとする、<死>に意義を見い出すありようを善とさせたことにある。
<武士道>が<八百万の信仰>にあることならば、
<縄による緊縛>というありようも、<八百万の信仰>のひとつとしてあり得ることは、
<縄>は、縄文時代に由来して、縄文のアニミズムや呪術が神道の注連縄へ昇華したものと見れば、
<縄による緊縛>とは、注連縄が掛けられたありようにあると見ることができる。
更に、その<縄>は、亀甲縛りという装飾的紋様を描き出すことにあるばかりか、
なめらかな柔肌がふっくらとさせた、陰毛のない、なよやかな<ヴィーナス>の小丘においては、
艶やかな太腿の奥にある深い亀裂のありようを埋没させた<股縄>としてあからさまにさせる、
淫猥をあらわして、性と性的官能の所在が明瞭となる、<生>が如実に示されることにある。
全裸を縄で緊縛された<ヴィーナス>が切腹の姿勢にあるありようは、
<武士道>のあらわす<死>と<縄による緊縛>があらわす<生>の対峙ということになる。
この<死>と<生>の対峙は、人間にある欲求である、<殺傷欲>と<性欲>の相対であることは、
<殺傷欲>も<性欲>も、生存を目的として活動するだけの欲求としてあるに過ぎないことは、
<ヴィーナスとキューピッド>のあらわす<切腹介錯>が<荒唐無稽>にあることで示されている。
従って、そこには、<死>と<生>が相対をあらわすばかりか、
観念による合一の不可能な矛盾までもが露呈される表現となっていることにある、
<荒唐無稽>を抱く、人間存在が示唆されている。
人間存在が殺傷するとき、その対象が他者であろうとみずからであろうと、
四六時中活動している性的官能が関与していることは避けられないことにある、
そこから、殺傷という加虐の暴力行為に性的官能の高ぶりを感じることがあれば、
性欲が絡んであるという見方ができる、
<死>と<生>は、<殺傷欲>と<性欲>の合一にあるとまで考えられる。
こうした見方があるとすれば、この絵画は、それに対して、矛盾を提出しているのである、
<縄による緊縛>を矛盾を表現する道具としているのである、
画家の<象徴主義>は、<観念的・象徴的・総合的・主観的・装飾的>事象の表現は、
<縄による緊縛>に依って示し得るとしていることだった。
それにしても、想像するばかりのことにあるが……
百合夫人が画家を語ったその言葉には、夫に対する尊敬が充分に伺えた、
それは、画家としての才能に対しては言うまでもなく、縛者としても、同様であったことは、
夫婦の<縄による緊縛>行為は、日々行われていたことにあったからであろう、
縛られることに初々しかった夫人も、度重なるつれて、手の込んだものとなっていく緊縛には、
縄によって女をあらわされ、成長させられる女であることの矜持が自覚されたことは、
みずからの変容を自負できる、夫人の言葉が明確にそれをあらわしていた。


それから、連なる作品が<表現主義>となっていたことは、意味深長だった。
<表現主義>は、その対立する語にある<印象主義>が古典主義的な写実を斥けて、
事象から受ける感覚的で主観的な印象をそのまま作品に表現するという意図にあるのに対し、
感情を作品中に反映させて表現する、つまり、その本能的なありようからすれば、
人間にある、食欲・知欲・性欲・殺傷欲という四つの欲求を反映させて表現するという意図にあると言える。
少なくとも、画家がそのように理解していたことは、
その作品を見るなり、一目瞭然とさせられたことにあった。
<キューピッド>を中央にして、
左右へ六人ずつの男女が交互に立ち尽くして、十三人の宴会が催されていた。
宴会と言えるのは、前に置かれた長いテーブルには、純白のテーブルクロスが掛けられて、
そこに銀製と思われる長大な皿が置かれていて、酒瓶とグラスと皿が所狭しと並べられていることにあった。
西洋造りの部屋の背景が<キューピッド>を消失点として、一点透視図法で描かれていたことは、
構図としては、レオナルド・ダ・ヴィンチの<最後の晩餐>を相似させたものにあることは、歴然としていた。
その長大な皿の上に、生まれたままの全裸の姿にある、<ヴィーナス>が寝かされていた、
真っ直ぐに仰向けになった格好にされて、乳白色の輝きを立ち昇らせる柔肌を惜しげもなく晒し、
可憐な乳首をつけた美しい隆起のふたつの乳房や、なめらかな腹部に形のよい臍をのぞかせて、
くびれの優美な曲線の腰付きから、すらりと伸ばさせた両脚のしなやかさを足先まであらわして、
陰毛のない、下腹部のふっくらとした小丘には、
これ見よがしの蠱惑な深淵をくっきりと艶かしくさらけ出させているのであった。 
身体に沿わせたほっそりとした両腕は、二の腕までが見えるだけで後ろ手にされていることにあったが、
縛られているのは、揃えさせられた華奢な両足首には、麻縄が厳重に巻き付けられていて、
腰付きのあたりからも、後ろ手を縛った縄尻がのぞいていることで確認できた。
乳白色の柔肌に輝く、温かみを漂わせる、生々しい、美しいばかりの生き物……
他には、食物と呼べるものは一切描かれてはいなかったから、
これが宴会の料理として出されていることは明らかだった、
それは、<ヴィーナス>の女体盛りと言ったようなありようではなく、
<ヴィーナス>そのものを食するというありさまにあることは、
描かれた人物たちの所作から歴然としていた。
中央に位置する、日本の幼児のあどけなさの顔立ちにある、全裸の<キューピッド>は、
金色の縮れ髪に楽しそうな笑い顔で、小さな両手を大きく広げて、さあ、召し上がれと勧めている。
それが主人の仕草に見えれば、残る十二人の西洋人として描かれた成人の男女は、
タキシード姿の男性とイブニング・ドレス姿の女性としてあらわされていたから、賓客ということになる。
賓客の両手には、すでにナイフとフォークが握られていて、
一番左手にいる男女のカップルは、<ヴィーナス>の片方のふっくらとした乳房についた可憐な乳首を、
戯れるようにフォークで取り合いをしていたし、そのとなりにいたカップルは、
笑いながら、もう片方の乳首へナイフを当てて切り取ろうとしていた。
更に、そのとなりのカップルのフォークとナイフは、形の良い臍のあたりへ突き立てられていて、
<キューピッド>の右隣になるカップルに及んでは、なめらかな腹部を切り裂かんとするばかりにあった。
画家に表現の容赦のないことは、そのとなりのカップルにあっては、
男性が<ヴィーナス>の割れめをナイフとフォークを使って押し広げる内奥へ、
女性がナイフを挿入している描写にあらわされていた。
そのとなりにいるカップルは、微笑ましそうに肩を寄せ合いながら、その様子を眺めていたが、
最後の右手にいたカップルに至っては、女性がスカートをたくし上げてあらわとさせた女の割れめへ、
下半身をさらけ出せた男性が反り上がった陰茎を挿入しているありさまが描かれているのであった。
このような状況に置かれている、<ヴィーナス>はと言えば、
柔らかに波打つ金色の長い髪に縁取られた、百合夫人の美しい顔立ちをした、<天女>であり<女神>は、
大きく澄んだ両眼の瞳を悩ましく空ろにさまよわせ、綺麗な唇を半開きとさせて、
極みにまで高ぶらされた性的官能の恍惚に浮遊させられた、この上ない妖美の表情にあるのだった。
『縛めの変容譚』のこれまでの文脈からすれば、
<天女>から変容した日本の<ヴィーナス>が西洋に食されるという比喩にあって、
それを恍惚とした喜びとしていることは、正体をさらけ出させたことにあると見ることができた。
そのさらけ出させた正体とは、<西洋思想>へ模倣・追従して、<ヴィーナス>の振りをしても、
尊厳ある美神として見られるようなことは、まったくあり得ないことでしかなく、
せいぜい、酒の肴となるありようにあるか、
性交のつまみになるようなことでしかないことにあるということだ。
<ヴィーナス>がそれに有頂天となる喜びを感じていることは、
守るべき身体を縄で拘束されて、勝って放題に、いじくりまわされていることにあるからでしかなく、
言うまでもなく、<天女>のありようとして、賞賛されるようなことではないことは、
ましてや、<ヴィーナス>への変容のありようではないことは、
倒錯にあることを暴露させていることでしかない、
無邪気でおめでたい、<西洋風の日本>である<キューピッド>の招いた、
復活の予定のない、<最後の晩餐>ということになるのだろう。
そして、この<謝肉祭>は、その文脈に沿えば、
世界大戦という戦争状態の比喩が示されていることにある、
それが明治維新の文明開化以来の脱亜入欧の欧化主義に依る富国強兵策の流れにおける、
答えとなったことにあるとすることは、
淫猥で残虐で諧謔で滑稽でさえある、状況にあるということになる、
戦争状態は、淫猥で残虐で諧謔で滑稽でさえあると言っていることだ、
まさに、画家の<欧化主義>に反発する一徹の姿勢を見せられていることにあると言えた。
それは分かる気がした、
だが、性的官能の恍惚に浮遊させられている<ヴィーナス>は、
何という妖しく美しい表情にあるのだろう。
その美しさに見惚れていると、
この表現が<表現主義>としてあることの意義が立ち昇ってくるのだった。
<表現主義>という本能的なありようからすれば、
食欲・性欲・殺傷欲があからさまに表現されている、
それは、人間を超越する神的存在というものがあり得なければ、
人間は、ただの生々しい動物存在としてあるだけのことでしかないことを、
女神の<ヴィーナス>を食することで、殺傷することで、
人間の性交が行われることで、あらわされている。
その人間のありようは、人間が絶滅に至るまで引きずり続けて行かなければならない、
欲求という因習に従うだけの野生動物に過ぎないことがあらわされている。
戦争が行われるのは、知欲によって、どのような理由付けが成されようと、
人間にある、四つの欲求を満足させるために行われる、生存をあらわす活動でしかないということだ。
食欲・性欲・殺傷欲からの表現に、知欲が問い掛けられるのは、
人間性とは如何にあるかということは、野生動物からの離脱の大きな一歩の思考となることにあって、
知欲による、言語による概念的思考は、欲求の全体性を何処まで表現できるかを求めさせることにある、
それは、喜怒哀楽の感情に促された事象に見るだけのものではなく、
厳然とした、食欲・性欲・殺傷欲に促された事象に見ることにある、
何故ならば、野生動物が文明化し文化を創出させることは、
<ヴィーナス>がこよなくあらわす、
性的官能の恍惚に浮遊させられた、この上のない、生の喜びにあることだからである、
そのように思わせる、表現にあるのだった。
それにしても、想像するばかりのことにあるが……
百合夫人を生まれたままの全裸とさせて縄で縛り上げてみたい、
そのように望む男性があれば、誰彼の区別なく、
夫人はみずからを生贄のように差し出すことにあるに違いないと思われるのは、
夫人の艶麗な顔立ちと優美な姿態は、
<縄による緊縛>にあって、変容という昇華を生む存在としてあるからで、
その意味では、<天女>であり、<ヴィーナス>という美神にあることだと言えた。


門構えもきちんとした、古めかしい煉瓦造りの家が描かれていた、
百合夫人に招かれて入った、この家の外観が見事に描写されたものにあった、
その壁面の一部がざっくりとえぐり取られて、
家の内部があからさまとなる表現とされていた。
あからさまとなっていたのは、一階と二階の上下になる部屋で、
そこで行われていることが精緻を極めた技法で示されていることにあった。
二階の洋間造りの部屋には、大きなベッドが置かれていて、そのシーツの上に、
百合夫人の顔立ちをした<ヴィーナス>が艶やかに波打つ長い金色の髪に縁取られて寝ていた、
その姿態は、全身に行き渡って乳白色を輝かせる柔肌があらわとされた、
一糸もまとわない生まれたままの全裸の姿にあったが、<一糸もまとわない>は、語弊がある、
美しさの象徴である<ヴィーナス>は、ほっそりとした両腕を後ろ手にされて縛られ、
その縄は、ふっくらと綺麗なふくらみをあらわすふたつの乳房を上下から挟んでの胸縄とされていたという、
淫猥な衣装を身にまとわされていたからである、それを淫猥と言うのは、
優美な<ヴィーナス>は、そうして仰向けとなって横たわっていただけにはなかったからで、
しなやかな両脚の両膝を立てて、大股開きとさせている姿態にあったばかりではなく、
艶やかさを放つ太腿の間に、跪いた姿勢でいる、金色の縮れ髪をした全裸の<キューピッド>を迎えて、
後ろ手に縛られた縄尻を愛息に握られながら、
幼く可愛らしい陰茎を幾層もの美麗な花弁を開かせた美の深淵の内奥へ受け入れて、
交接しているありさまにあることだったからである。
それは、近親相姦という禁断の描写にあると感じさせられることよりも、
その勃起させたあどけなさにあっては、射精もままならないことにあるだけでなく、
挿入された快感さえ及ぼさないだろうと思わせることから、
言わば、荒唐無稽があらわされたものと感じさせられたが、
にもかかわらず、<ヴィーナス>のあらわす表情は、
ほっそりとした首をのけぞらせ、大きく澄んだ両眼の瞳を悩ましく空ろにさまよわせ、
綺麗な唇をよがり声が聞こえてくるような半開きとさせて、頂上にまで高ぶらされた、
性的官能の法悦に浮遊させられた、この上なく妖艶な顔立ちにあるのだった、
それに応えるように、天を仰いだ<キューピッド>の顔付きも、
背中に生えた翼を広げさせて、快感の極みという喜びの表情にあるのであった、
つまりは、母と子の性行為の絶頂という表現にされていたことにあった。
それが<ヴィーナスとキューピッドの性行為>ではなく、<母と子の性行為>を意識させたのは、
すぐその真下の部屋にいる男性の存在に依ることにあった。
男性は、こちらへ背を向けていたので、顔付きを知ることはできなかったが、
真っ白な紙の貼られた大きなパネルを前にして、画筆を握っている様子から、画家であることが分かり、
床には、写生に使う小下図や下絵を本紙と同じ大きさに描くときの大下図、絵の具や墨、
様々の画筆や刷毛、梅皿や乳棒などが見えることから、日本画の画家であることが分かり、
その部屋は、荒涼とした灰色の大地をあらわす情景となっていたことは、
『縛めの変容譚』の作者であることを確認できた、
つまり、画家は、百合夫人の夫があらわされていることになるわけで、そこから、
<ヴィーナスとキューピッド>は、画家の<妻と息子>が扮装しただけの姿に見えてしまうということだった。
それでは、いったいどうした理由で、夫であり、父親である者の存在が見ていないところで、
<母と子の性行為>が行われていることにあるのか。
その答えとなることがその建物のまわりに描かれている光景にあるものなのか。
煉瓦造りの家のまわりは、一面の火の海にあった、それは、上方に飛来している、
それと明確に分かる、アメリカ軍のB29の編隊が雨あられと焼夷弾を落としている爆撃によるもので、
逃げ惑う人、炎に焼かれている人、無数の老若男女があらわす阿鼻叫喚、
という地獄の様相にあるのだった、
従って、建物の壁面の一部がざっくりとえぐり取られていることも、爆撃の影響にあると見ることができた。
東京大空襲の真っ只中という未曾有の惨劇にあって、母と子は、淫蕩な近親相姦に耽溺し、
画家は、みずからの表現の事柄へ熱中するばかりで、家内の出来事はおろか、
屋外の凄惨な出来事にさえも、無関心でいる、超絶したありようがあらわされているのであった。
ここに、ひとつの結論が感じられることは、
始まりの<自然主義>にあらわされた、嘉永6年(1853年)のアメリカ軍の<黒船>の来航は、
<明暗>で言えば、日本の<開国の明>をあらわすことにあるとしたら、
昭和19年(1944年)に開始される、同じアメリカ軍の<B29>の飛来は、
<西洋の占領下になる暗>となることにある、
爆撃の余りにも凄惨なありようは、それが日本の主要都市へ同様に行われたことにあり、
その上、長崎や広島へ投下された原子爆弾がある、国土は焦土と化されたのである、
明治維新に始まる、脱亜入欧の欧化主義に依る富国強兵策の結果があらわされたことである。
ひとつの結果が出た以上、それに依拠することは、同様の結果を招くことでしかないとすれば、
そこから超絶したありようにある以外、本来ある日本の事柄を継承・持続させることは難しい、
画家の一徹の姿勢は、そのように表現しているように見える。
そして、 この絵画は、<超現実主義>とされていることにある。
<超現実主義>は、神の不在を前提とした、西洋における画期的な表現方法として、
絶対と終末のない世界観にあって、相対・矛盾するものを同一の事象として表現することを意図した、
人間の知覚の可能性へ限りなく挑んだ、思想の実践であったと見ることができる、
芸術の存在理由とは、人間の知覚の可能性へ限りなく挑戦することにあるとしたことである。
画家は、それを<縄による緊縛>で行うことが可能であることをあらわしている、
<縄>による思考で行うことが可能であることを示している。
<ヴィーナスとキューピッドの性行為>は、
<ヴィーナス>が全裸を後ろ手に縛られ、胸縄を掛けられた姿にあって、
その縛られた縄尻を<キューピッド>に握られて、交接に及んでいる描写にある、
不自由に拘束された身上の縄尻を取られて行われているというありようには、強姦と映らせるものがある、
しかし、それが強姦でないことは、しなやかな両脚の両膝を立てて、大股開きとさせている姿態にあって、
ほっそりとした首をのけぞらせ、大きく澄んだ両眼の瞳を悩ましく空ろにさまよわせ、
綺麗な唇をよがり声が聞こえてくるような半開きとさせて、
頂上にまで高ぶらされた、性的官能の法悦に浮遊させられた、
この上なく妖しく美しい顔立ちにあることにあった。
<縄>は、拘束の目的にあって、拘束以上の事柄を生み出すものにあることが示されている、
それは、百合夫人の語った言葉にある、
<実際の縄の縛めの対象となる女性にあっても、求められる変容が昇華を生み出す>という意義である、
<縄による緊縛>の存在理由は、人間の知覚の可能性へ限りなく挑戦することにあるということである。
<母と子の性行為>という淫蕩を表現する絵画は、
そう語り掛けているようにあるのだった。


冴内は、百合夫人が待っている、アトリエの扉の前へ立っていた、
扉のノブを握ったが、回すことに激しい緊張を感じていた、
それは、画家が差し出した最終の答えにある、見なくてはならない最後の絵画作品、
<矛盾表現主義>があるのだという胸を高鳴らせる期待、それと同時に、
見てはならないものを見るのではないかという不安と恐れが混在した心理にあったことからだった。
扉は、開かれた。
冴内は、あらわれた室内の光景に圧倒されるばかりに、ただ呆然となって立ち尽くすだけにあった。
雑誌に掲載された絵画にあったのとまったく同様の灰色の荒涼とした大地がそこに広がっているのだった。
部屋の実際の大きさはどれくらいのものであったかは分からなかったが、
天井は天空のような高さを感じさせ、大地は遥か彼方に地平線を思わせる遠近があるのだっだ、
<超現実主義>においては、画家が立っていた部屋に過ぎないと思われたものが、
そこは、まるで、屋外へ出てしまったような現実感がひしひしと迫るものがあるのだった、
彼方の地平には、太陽が顔をあらわしているのを見ることができたが、
それが曙光なのか、日没の光なのか、
灰色の荒涼とした雰囲気からは、区別のつかないところがあった、
それは、あたかも、人類の出現以前の地球の創生期をあらわしているようでもあり、
或いは、<超現実主義>からの作品展開にあるとすれば、
空襲で焼け野原とされた、帝都東京の地と見ることもできることにあった。
冴内は、思わず見とれたままでいたが、ふと、気付くと、
そこには、アトリエにいると言ったはずの百合夫人の姿が見えないことを知るのだった。
彼女は、何処へ行ったのだ、
途方に暮れる思いは、あたりを彼方を眼で追って捜させたが、見つかるのは、沈黙ばかりであった。
そうした振舞いに、どれくらいの時間が経過したかは分からなかったが、
百合夫人の姿を思い浮かべようとすると、それは、
紫地に咲きこぼれる純白の百合の描かれた瀟洒な着物姿にあって、
波打つ艶やかな黒髪をした、清楚な美貌にある女性ではなく、
<自然主義>に始まる変容として表現された、
全裸の優美な曲線を惜しげもなくあらわとさせた姿態にあって、
白無垢の股間にくっきりと女の割れめさえのぞかせる、
柔らかに波打つ金色の長い髪をした、<ヴィーナス>のあれやこれやの姿態になってしまうのであった。
では、変容の第七番目の作品にある、<ヴィーナス>は何処に存在するのか、と思ったときだった、
地平の彼方からこちらへ向かってやってくる人影が見えるような気がした。
それは次第に大きさを増して、
長い衣をまとった女性が小さな子供を連れて歩いてくるのだということがわかった。
はっきりと顔立ちを知ることのできる距離まで近づくと、思わず叫んでいた。
「ヴィーナス!」
眼の前に立った美と愛の女神、
大きな瞳をなまめかしく輝かせ、開き加減の美しい唇からは甘い吐息のぬくもりを伝え、
金色に波打つ長い髪の柔和さは、抜けるような純白の柔肌とあいまって匂い立つ芳香に満ちている女。
「あなたのお望みのとおり、私は参りました。
 あなたのお望みのとおりの姿になって、あなたに愛でられるために、私は私をあらわすのです」
澄んだ美しい声音が威厳に満ちた響きをおびて聞こえてきた。
<ヴィーナス>は純白の長い衣をまとっていた。
その衣をそばに一緒についてきた裸姿の<キューピッド>が一気に剥ぎ取った。
ヴィーナスはみずから衣を脱ぎ去ることができなかったのだ、
彼女の身体には縄が掛けられていたのだ。
愛らしい乳首をつけたふっくらときれいな乳房と永遠を描くような優美な曲線にふちどられた肉体の栄光、
その壮麗な肉体に荒々しい麻縄が掛けられているのであった。
自由を奪われたあかしのように両手を背後にまわされて後ろ手に縛られ、
両腕をさらに不動にさせられるかのように雁字搦めに幾重にも縄を巻きつけられ、
美しいふたつの乳房は上下の縄にはさまれて、
まるでみだらな思いをあらわすかのように乳首をとがらせて突き出させられているのだった。
その緊縛された<ヴィーナス>の縄尻を、背中に小さな羽を生やし可愛らしい陰茎をのぞかせた、
あどけないいたずら顔の<キューピッド>がしっかりとつかんでいるのだった。
遠目に見たときは、<ヴィーナス>が<キューピッド>の手を引いてやってくるように思えたことは、
幼い息子に縛られた裸身の縄尻を取られて引き立てられた母の姿だったのだ。
「どうして、そのような姿に、あなたはそのままでも充分すぎるほどに美しいというのに!」
言葉が沈黙となるように、疑問も答えとなるように、意味がないことはわかっていたが、叫んだ。
「あなたが望んでいられることを、どうしてあなたが否定なさるのですか。
 あなたがご覧になりたい私は、もっとも崇高な美のなかに、もっとも卑俗とされる淫欲が存在する私。
 私が縛られてどのような淫蕩な姿をあらわしても、私にある至上の美を見ることがあなたにはできること。
 なぜなら、卑俗な淫欲など存在しないからです、あるのは官能……
聖なる官能があるのみだからです」
あからさまにさせた彼女の白くふっくらとした股間にのぞく神秘的な黒い亀裂が、
天上の神聖と地上の淫蕩という遠近の焦点を合わせたような言葉だった。
「そうです、望まれれば、愛しきわが幼子にさえ、私を捧げることにやぶさかではないのです」
神聖の傲慢とも受け取れるような発言だった。
緊縛された母の縄尻を取った、いたずら顔の<キューピッド>のあどけない陰茎も思わず立ち上がるのだった。
「だが、われわれは神ではない、人間だ。
 神には許されても、人間には許されない尊厳というものがあるはずだ」
ヴィーナスの愛美の神聖と官能の淫蕩に、このままずるずると引き込まれていくのがただ恐ろしかった。
「何をおっしゃいますの、あなたがお望みになるように私はなりますと申し上げたはずです。
 あなたが望まれているから、私がこのようにあるのです、私はあなたのヴィーナスなのです。
 私を淫蕩に取り扱おうと、神聖に取り扱おうと、あなたのお望みになるまま。
 私は、自由を奪われ、愛しきわが子に縄尻を取られた屈辱な姿にあって、
生贄としての身を差し出しているのです。
 愛るするも愛さないも、あなたの思いのままひとつ、それこそが私のヴィーナスとしての尊厳なのです」 
女神は、縄で荒々しく緊縛されたしなやかな姿態をもどかしそうにしながら、
大地へひざまずいていくのだった。
それは、あの絵で見た光景そのままのものだった。
<キューピッド>が立ち尽くすばかりの冴内へ近づいてきて、彼のズボンを降ろし始めた、
その下のトランクスまで下げられても、彼は、気にさわるような仕草ひとつ示さず、されるがままにあった、
みずからの意思を発揮することは、無粋とさえ言える、雰囲気をぶち壊す醜態に感じられて、
剥き晒された下半身にもたげる陰茎こそが主体の表現を行っているように思えたことだった。
<キューピッド>は、握り締めた縄尻を引っ張って、<ヴィーナス>を彼の腰までにじり寄させた。
縄で縛り上げられた全裸の美神は、美しい顔立ちを真顔の表情にさせたまま、
大きな瞳をなまめかしく輝かせ、開き加減の美しい唇を寄せて、
冴内の赤々と反り上がっている陰茎を口へ含んでいくのであった、
そして、後ろ手に縛られた姿態をもどかしそうにくねらせて、更に顔立ちを寄せさせると、
頬張った陰茎を柔らかな熱い舌を使って愛撫し始めるのだった、
それから、綺麗な形をした唇の間で締め込むと、思いを込めた、優しく激しい抜き差しを行うのだった。
その伝わってくる感触からは、これ以上はないという快感と満たされる思いが込み上がってきたが、
冴内は、ただされるがままになっているばかりであった。
口中への抜き差しが段々と早められると、
ほとばしり出る快感が下腹部へ集中していき、左右の太腿をぞくぞくと這い上がらさせて、
極みにまで押し上げられていくのだった。
このままでは、いかされてしまうのは、時間の問題であった、
だが、何という高潮とした快感、満たされる思いの快さ!
ああっ、ああっ、愛しい!
愛しい、私の愛しいヴィーナス! ヴィーナス! 
ああっ、ああっ、ああっ、小夜子!
絶頂の快感はついに眼の前を覆い、真っ白なキャンバスのようなものが見えるだけになった。




















そこに、あなたみずからの絵を描くのですわ……
百合夫人の美しく澄んだ声音の優しい口調が聞こえてきた。




次回へ続く


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<章>の関係図


上昇と下降の館