悩ましい夢 1 美しいふたり連れ 借金返済で弁護士に相談








夢というのは、夢を見ているそのこと自体にあっては、
どのように奇妙奇天烈であっても、奇妙奇天烈を感じることはない。
言語による概念的思考が始められることによって、
筋道の立てられる整合性へと向かわされて、
折り合いを付ける、辻褄を合わせる、収拾を付ける、整合性を成す、
という答えが求められようとしたとき、
その夢を概念的に思考する際の言語表現が適合するだけの整合性を示せないことが
不可解や不可知を感じさせ、
或いは、その不可解や不可知こそ、
みずからの知ることのできない、神の託宣である、という考えなどを生ませる。

『因習の絵画表現』 「修行」より










 美しいふたり連れ >



隆行の運転する車は、くねくねと曲がる山道をゆっくりと昇っていたが、
前方へ注意を払わなければ、危険と隣り合わせといったガードレールのない小道は、
すれ違う車もなく、自転車に乗るひともなく、歩く通行人さえなかった。
<辺鄙な山奥にある風光明媚な静謐な旅館>、
それを謳い文句とした宣伝に惹かれて、東京から長野までやってきたのだが、
国道から県道へ入り、名もない道路へ至る頃には、
確かに、眼に染みるような美しいばかりの緑だけが周囲を覆い尽くして、
それを助手席に座りながら、窓越しにじっと眺め続けている綾子の顔立ちさえも、
緑色に染め抜いているかのようだった。
ふたりは、言葉を交わすこともなく、ひたすら、目的地へと向かい続けていたが、
やがてたどり着いた、立派な門構えの木造の旅館であった。
<みどり旅館>という木彫りの看板は、旅館の由緒をあらわすように、
深い色艶を放って、客人を待ち受けていた。
綺麗に砂利の敷かれた玄関脇の空き地へ車を停車させると、
隆行は、手荷物を下げ、綾子の手を取って、玄関へ向かった。
ふたりが開け放たれた大きなガラス戸をなかへ入ると、
出迎えたのは、年齢が三十歳くらいの白い割烹着姿の女性であった。
「わざわざ、東京から、このような辺鄙な山奥の旅館まで、
遠いところをよくお越しくださいました」
女性は、ふくよかな美人と言って差し支えのない容姿に、
その色っぽい身のこなしには、旅館の女将を思わせる風情さえあったので、
隆行は、丁重な言葉遣いで、名前を告げるのだった。
「今朝、予約をいれました、東京の内田と申します。
ご厄介になります」
白い割烹着の女性は、隆行がなかなかの美男であることに、
顔立ちには、媚を滲ませた微笑を浮かべ、色っぽいまなざしを投げ返すのだった。
それには、隆行も、どきっ、とさせられたが、
同様のまなざしは、美男の隣へ寄り添うように立っていた、連れ合いにも投げられた。
綾子は、疲れているという様子で、無感動に立っているだけであった。
「まあ、お美しい若奥様でいらっしゃること。
おふたりは、新婚さんでいらっしゃいますね、もう、一目見ただけでわかります、
初々しくて、仲むつまじいご様子で。
でも、いらっしゃるのに、だいぶご無理をなさったご様子ですわね、
奥様、お顔が蒼白く、すごくお疲れになっているみたい。
でも、ご安心ください。
<みどり旅館>のお風呂は、天然の出湯でございます、よく、天然と宣伝して、
出湯を真水で薄めたお湯割りのようなインチキではございません、
それはもう、ご婦人方のお肌には、美容効果は抜群ですし、
殿方の痔には、薬効がございますこと、評判です。
お疲れの奥様も、そのお美しい裸身を<みどり湯>へお浸しになれば、
夜は、旦那様に愛されるばかりに、お元気溌剌……」
ふくよかな色っぽい女将は、喋り続けようとしていたが、
それを遮るように、左手の帳場から、別の人物が顔をのぞかせるのだった。
「奥様を一番お疲れさすのは、あなたじゃない。
須磨子さん、あなた、そのようなところで、いつまでも独りで喋っていないで、
早く、お客様に上がって戴くようにしたら。
どうも、申し訳ありません、気が利かない仲居で。
さあ、どうぞ、お上がりくださいませ」
帳場からあらわれたのは、年齢は、四十歳くらい、
細面の端正な顔立ちをした美貌の女性で、同じく白い割烹着姿であった。
ふくよかな色っぽい女将のような女性のおしゃべりに、
寄り添うようにして、聞かされるままになっていたふたり連れだったが、
新たな人物の登場は、救いだった。
「この旅館の女将さんですか」
隆行は、細身の女性の品のある風格に、思わず、尋ねていた。
だが、相手は、着物に割烹着姿の端正な姿態をその場へ両膝をつかせると、
「いいえ、私は、仲居の多貴子と申します。
当旅館のご主人様は、早くに奥様を亡くされて、お独りでいらっしゃいます。
こちらには、女将さんは、おいでになりません。
さあ、どうぞ、お上がりくださいませ」
と言って、三つ指をついて、会釈をするのだった。
それには、ふくよかな色っぽい仲居も、
慌てて隣へ居並ぶと、同様な振る舞いをあらわすのであった。
それから、細身の端正な仲居は、美貌の顔立ちに、品のよい微笑を浮かべて、
奥の方へ声をかけるのだった。
「百合子さん、お客様をお部屋へご案内して」
間もなく、着物姿の若い仲居があらわれた。
その仲居を見た瞬間、隆行は、見つめたままになってしまっていた。
年齢は、十八歳くらいの少女だった。
一緒に立つ年上の仲居ふたりでさえ、そのふくよかな色っぽさと端正な容姿は、
ともに引けをとらない美人と言って、申し分のないものであったが、
その少女の美しさは、さらに際立っていたのだった。
艶やかで長い黒髪を両肩まで垂らし、大きな黒目がちの瞳に愛らしい鼻筋、
紅もささない清楚な口元は赤く、抜けるような雪白の顔立ちにあって、
瑞々しく輝いていた、若いながら、着付けの整った着物姿は、
しなやかな女性の初々しさを芳香のように立ち昇らせているのだった。
美少女の仲居は、床へ両膝をつき、三つ指で挨拶をした。
「ようこそ、お越しくださいました。
お部屋へご案内申し上げます」
それは、金の鈴を鳴らすような愛らしい声音と言えば、ありきたりであれば、
天女といった空想の産物が奏でる、この世のものとは思えない、
美しい響きの楽音であった。
一目惚れということであれば、隆行は、胸の高鳴りさえ感じさせられたのだった。
その若く愛くるしい仲居に導かれながら、
隆行と綾子は、旅館の奥へと向かわされた。
長い廊下を通らされたとき、大きな池のある庭園がのぞまれた。
緑あふれるなかに、ひっそりとしたたたずまいをみせる風情は、
思わず、足を留めて眺めずにはいられない、見事な景観であった。
長野県の辺鄙な山奥にぽつねんとある旅館としては、
木造の二階建てであったが、広さもそこそこにあり、
その庭園は、見事と言うばかりのものであるばかりか、
応対する仲居は、女優やアイドルに引けを取らない美人揃いで、
温泉も本物の自然湯ということであれば、後は、酒と料理が絶品だとしたら、
秘湯の桃源郷とさえ言える場所なのではないかと思えた。
いまは、晩夏でもあり、旅館には、ほかに客がいないというほど閑散としていたが、
季節ならば、スキー客などで賑わう場所であるとも思えなかったのは、
庭園の片隅にのぞいている、土蔵のような建物の存在だった。
はっきりと見ることはできなかったが、異様を感じさせるものがあったのだ、
この旅館は、ありきたりのものではない、という雰囲気のある……。
二階にある<みどりの間>へ案内された、隆行と綾子であったが、
その部屋へ至るまでのどの部屋にも、
<みどりの間>と表札されていたことに、奇妙を感じさせられた。
だが、客間の日本間作りの小奇麗で立派な様子は、驚くほどのもので、
これで、宿泊料が夕食・朝食付きで、ひとり一泊七千円であるというのだから、
恐らく、宿の主人は、一徹の経営理念を持った人物なのであろう、
と隆行は、考えさせられた。
「お申し付けがございましたら、こちらの呼び鈴をお押しください。
お風呂を召されるのでございましたら、
本日は、ほかにお泊りのお客様がおいでになりませんので、
ご一緒なさって戴いて結構ですと、宿の主人が申し上げております」
きちっと正座した畳へ三つ指をつきながら、
愛くるしい顔立ちを上げて申し述べる少女の表情が、
最後の言葉の方で頬を赤らめさせたようだった。
じっと見れば見るほど、美しい容貌と可憐な肢体をあわらした少女だった。
隆行は、その少女の愛くるしい様子に、言葉をかけずにはいられなかった。
「この旅館では、どこの部屋でも、<みどりの間>なのかい。
同じ名前の部屋であったら、客もそうだけど、仲居さんも間違えて大変だろう」
少女は、大きな瞳をしっかりと相手へ投げ返して、答えた。
「お客様は、ほとんどお出でになりません、間違われることもありません。
もし、間違われたとしても、そのお部屋で呼び鈴をお押しになれば、
仲居がお伺いして、ご案内申し上げます」
隆行には、首をかしげるところもあったが、話題を変えてみた。
「この近くで、どこか遊ぶところはないんだろうね」
美少女は、大きな瞳をしっかりと相手へ投げ返して、答えるのだった。
「申し訳ございません、お近くを散策なされるくらいしか……。
この宿には、遊興施設はございませんので、もし、お出かけなされるのであれば、
車で一時間ほど降りたところの町にございます」
隆行は、相手を見つめながら、首を振って答えた。
「ああ、ここへ来る途中に通った町のことだろう、
たいして栄えていなかったな、車で一時間行くには、遠すぎる……
ところで、先ほど、庭園に面した廊下を通ったとき、
奥の茂みに土蔵のようなものが見えたけれど、あれは、何なの」
愛くるしい少女は、その質問に、どっきとさせられたように、
しなやかな身体つきをこわばらせた。
可憐な顔立ちは、困惑を滲ませて、言葉を詰まらせていた。
ようやく、言いかけようとしたときだった。
「あなた、もう、いいでしょう。
仲居さんに下がってもらってください、私、疲れているの」
手荷物の片付けを終えた綾子が口を挟んだ。
愛くるしい顔立ちの仲居は、まるで、自分が悪いことをしたとでも言うように、
申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「わかったよ……
仲居さん、いろいろとありがとう。
それでは、用事があったら、呼びます」
美少女の仲居は、丁寧に挨拶をすると、静かに部屋を出て行くのであった。
落ち着いた風情のある客間に、ふたりだけになると、
隆行は、窓辺に置かれた肘掛け椅子へ腰掛けた。
それから、開かれた窓から広がる、山並みの景観を眺めながら、煙草をくゆらせた。
綾子は、整理し終えた手荷物へ、ぼんやりとした視線を落としたままだった。
夕闇が迫っていたが、部屋の明かりもつけずに、
ふたりは、互いに、押し黙ったままじっとなっていた。
しばらくして、隆行が綾子の方を振り返って、声をかけた。
「風呂にでも行こう」
綾子は、思いつめた表情を浮かべながら、相手を見つめやって返事をした。
「あなた、先に行って……
私、疲れたから、もうしばらく、休んでからにするわ」
隆行は、椅子から立ち上がると、
綾子の前まで来て、彼女のなよやかな両肩へ、両手を置いた。
「くよくよ考えても、始まらないよ。
きみには、ぼくがついているから」
そう言いながら、隆行は、綾子の顎を捉えて顔立ちを上げさせると、
唇を求めるのだった。
綾子は、重ねられるままに、隆行と唇を合わせると、両眼を閉じた。
「愛しているよ、綾子、
愛しているよ、愛しているよ」
隆行は、相手を抱きしめながら、言い聞かせるように繰り返し、
熱烈に唇を押し付けていった。
ようやく、唇が離れたとき、綾子は、震える声音で応えていた。
「隆行さん、お願いだから、私を離さないでね」
「あたりまえだよ、あたりまえだよ、
絶対に、きみを離さないよ」
隆行は、相手のそれ以上の言葉を封じるように、激しく唇を重ねると、
のぞかせた舌先で、綾子の唇を割って忍び込ませるのだった。
女は、男へ身体を預けるようにすると、されるがままとなって、
ふたりの長いくちづけは、絡まり合い、もつれ合いして続いた。
山並みにのぞいていた、橙色の夕日も、すでに没していた。
薄闇の立ちこめた日本間で、
男と女は、飽くことのない、くちづけと抱擁を繰り返すのであった。



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