W.ブレイク 画 |
はじめまして、私が麻生絵美子です。 皆様とお目にかかれて、大変うれしく感じております。 私、人と人との出会いというものを大切にしております。 この世界、人との出会いなくして、何ごとも始まらないと思うからです。 始まらないということは終わりもない、 終わりがなければ、その途中にある展開もさらにないからです。 ですので、皆様方とは今日からお付き合いが始まったということになります。 どうぞ、よろしくお願いいたします。 さて、現在、私たちは、 「脳の知的活動における性的衝動の関連と言語表出の現象学的課題」という研究を行っています。 何やら、すごくむずかしいことのように聞こえますけれど、 要するに、すけべなことを考えたり行ったりする人間が、その考えや行いを言葉としてあらわすとき、 どのようなものになるかということです。 性に関することをあからさまに表現したのでは下品に聞こえるものですから、 学問的な言葉を使って品よくあらわしているということになります。 と言うのは嘘でして、 厳密な事柄を表現するためには、やはり、厳密な言語が必要になってくることから、 そうしていることなのです。 ですから、大雑把な事柄であるのに、厳密な学問的言語を用いたりする方がいらしゃいますが、 その場合は、言語に意味があるのではなくて、ご本人の表現における虚勢であると言えることになります。 あら、はっきりと言ってしまいましたわね。 でも、実は、この点が私たちの研究課題としても、言葉の要因を検討させられる部分にあたるのです。 と言いますのも、私たちの研究には、結構、殿方からうるさく批判が寄せられているのです。 それは、研究課題の内容というよりは、研究姿勢へ向けられたものとなっているようなのです。 どうやら、女だてらに、しゃらくさい真似をしているということがお気に召さないようなのです。 確かに、研究テーマには、 「男性の勃起を誘う言語構造の解析」ですとか、その逆の「男性を勃起させない言語構造の解析」、 或いは、「男性の自意識が表象させる性的言語の二律背反性」といったものがあります。 私たちの研究室には、いまのところ女性の研究員しかいないことも事実です。 彼女たちがみな美しく優秀であるということも否定できないことだと思います。 しかし、テーマはすべて、主体を「男性」の場合ばかりでなく、「女性」の場合も行っていることなのです。 やはり、批判は、私たちの研究姿勢に向けられているということになるのでしょう。 いや、私たちの<女>という存在自身へ向けられたものである、と言った方が正しいのかもしれません。 まあ、殿方にしてみれば、そのようにお感じなるのも無理はないかな、とも思います。 本来は、殿方が主導権を握って進められる学問を女性が先端をつまんでしまったんですもの。 矛先をあちらへ向けられたやり場のなさでは、ひとり慰めるのは、憤懣やるかたなしには違いありません。 でも、それは、女性だって同じこと、辛くても我慢してひとり慰めるのは、やはり、やるせないものです。 だからと言って、無意味な批判などおやめになったらいかがでしょう、などとは言いません。 気をかけてくださるのは、とてもうれしいことですもの。 そこで、私たちも、少なくとも誤解だけは避けるために、 研究における根本姿勢を明らかにしようと、こうした講演を行っていくことを考えたのです。 それも、ご覧になっておわかりのように、どこの場所でもよいというわけにはまいりません。 ひとつは、私たちのありように理解を示してくださる主催者の存在があります。 いまひとつは、女性に対する見解に偏向が見られる表現が行われている場所であることです。 このふたつの条件は矛盾しているように見えますが、 何らの関心も示されないという絶望的状態よりは発展性のある場であることは確かなのです。 私がこちらで講演をさせていただくことをお願いしたのは、 こちらで発行されています、☆『環に結ばれた縄』というパンフレットを拝見したからなのです。 そのなかで、「女体緊縛の必然性」という章がありますでしょう。 最初の言葉は、「女体は存在しているだけで、縄で緊縛される必然性をもっている」というものです。 すでにお読みになられた方は、どのようにお感じになられましたでしょうか。 すごい定義ですわね、もう、ほとんど宣言に近いくらいの明確さで言われてしまって、 赤面しているうちに縛り上げられてしまうような強引さです。 でも、私たちの立場からすると、「女性の緊縛の必然性」を立証なさりたいのなら、 「男性の緊縛の必然性」をも立証されなければ、単なる仮説か、思い付きに過ぎないものでしかないのです。 光があれば影があるように、影を表現なさりたければ、光をあらわさなければならないのです。 これは、相対する現象を弁証法的に表象せよと言っていることではありません。 光と影との関係を作り出すためには、「もの」が介在するということを申し上げたいのです。 その三者がたとえ矛盾をあらわすありようを示していたとしても、 その全体を言語によって表出することが可能であれば、ひとは概念として把握できるからです。 その概念というものが聞いてわかりにくいものでなく、わかりやすい形のものにできるとしたら、 それを行ってはじめて、把握できるという認識行為が行われるというものです……。 少し脱線してしまいました。 こうした私たちの研究については、またお時間をいただいて、別の機会にお話させていただくとして、 今日はそのような研究に対する私たちの基本姿勢についてお話しすることがテーマなのです。 さきほど申し上げたパンフレットには作者の名前が表記されていませんでしたが、 その方が今日もしこの講演会場においでであれば、 どうぞ、これから私が申し上げることをよくお聞きなっていただきたいと思います。 皆様方は、すでにお気づきでいらっしゃいますように、 私はご覧のとおり、生れたままの全裸の姿でいます、ピアスさえつけていません。 どうしてこのような姿でいるのか。 このことをご説明することが私たちの行っている学問的姿勢をあらわすことになると思います。 皆様は…… おまえは人前にそのような姿をさらけだして恥ずかしいとは思わぬのか、とお思いのことでしょう。 法律に規定されていることに従えば、公然猥褻物陳列という立派な罪を犯していることにもなる。 おまえがありようを示している場所が<上昇と下降の館>という見世物小屋だから、 そのような馬鹿げたまねをしても、気違い沙汰の振る舞いをしても、単なる演技のひとつとして、 結局は猥褻な見世物にしかならず、言い換えれば、自家撞着をあらわしているにすぎないものだ。 女の挑発的な肉体を見せられるのは嫌いなことではないが、 そのような振る舞いをする女が並べる御託など、聞くのも馬鹿々しいものにしかならないだろうと。 何が学問的姿勢だ、ちゃんちゃん〜らおかしい、歌でも歌って見せた方がどれだけましなことかと……。 言い出していったらきりがありませんで、この辺にしておきます。 要するに、裸になどならなくても、話すだけで人には充分に伝わるものだ。 裸になることは、むしろ、その語るべきことを台無しにしてしまっているのではないかということです。 やりようはいくらでも他にあると言えることでもあります。 確かに、考えられるとおり、そのようものであるということは言えます。 ただ、そう感じられることがどこに立場を置いたものであるかによっては異なるとも言えるのです。 事柄が先にあって、それに言語が追いついていくのか、 或いは、言語が先にあってそれを事柄があらわすようになるのかでは、違いがあるのです。 「裸であること」はこれこれであるとご説明しても、 それを語る主体が裸でなければ、裸であることを想像させる言語があるにすぎません。 「裸であること」を最初にご覧にいれることは、 裸について語られることの言語のいっさいを想像することなく眼の前に見ることができるからです。 これは、「私」と「皆様方」と「言葉」という関係において作られる全体性ということでは、 さきほど述べた「光」と「影」と「もの」との関係と同じということです。 ですから、私の裸体を皆様方にお見せするというのは、私の語ること自体の成因をなしています。 言い換えますと、私は私の裸体をお見せしないかぎり、私の言葉もあらわしえないということです。 いや、まわりくどくご説明しているように見えますが、 皆様方がご覧になり続けている私の裸体においては単純な表象であるがために、 表象を概念化する言語がまわりくどく感じられるだけで、 眼の前に見ていることがすべてを物語っているということにすぎません。 では、裸体とは何かについてからお話を始めましょう。 裸体、この場合は、私のいまあるような姿での全裸ということですが、 これは生れたままの姿をあらわしていることにほかなりません。 生れたままの姿と言っても、生れたときの姿ということではありません。 体形が違います、生れたときは乳房のふくらみや濃い陰毛などありませんし、大きさが違います。 また、感覚器官の便宜性という点、思い描く力という点、知的活動としての脳の発達が違います。 違いでないところはどこでしょう、そうです、性の衝動がある点と無防備であるということです。 性の衝動というのは、性のエネルギーをもっているということです。 性のエネルギーというのは、活動しているという意味で、ただのエネルギーにすぎません。 年齢、性別に関係なく、生れたときから死に至るまで存在するものです。 それを生と死という反対に働くふたつの力として分析なされている学派もありますが、 私たちの研究の根拠としている方法では、単なるひとつのエネルギーの存在にすぎません。 ですから、それを生きるという意味の「生のエネルギー」と称することは厳密ではありません。 ただの性のエネルギーと言うことの方が正確です。 性のエネルギーはそれ自体としては見ることのできないものです、人の脳の活動にあるからです。 従って、対象と結びつくことがなければ、現象としてあらわれることはありません。 現象としてあらわれることを形態と言っています。 男性と女性による生殖行為という形態は、性のエネルギーが結びつくひとつの対象にすぎません。 多様にある対象のなかのひとつの形態が生殖行為という性の衝動であるということです。 性のエネルギーが現象としてあらわれるためには、対象と結びつかなくてはありえません。 では、どのように結びつくものであるかと言いますと、性のエネルギーがもっている志向性によります。 性のエネルギーが志向性をもっていることによって、対象と結びつくことが可能になるのです。 その志向性とは、どのようなものであるかと言いますと、 それは性のエネルギーがもっとも活動を起こしやすい対象の選択性ということになります。 しかし、この志向性を決定させる要因については、現在でも研究中です。 志向性のありようが脳の他の分野とどのように関連しているかが明らかでないからです。 形態については、これまでも性科学において真摯な分析が行われてきました。 皆様もお聞き及びのサディズム、マゾヒズム、同性愛、などなどの症例の分類研究です。 但し、この分類については、クラフト=エビングの研究からわずかに百年しか経過していない現在、 これから本格的に研究されるものであり、その場合も、性科学というひとつの分野としてではなく、 異質であってさえも必要とされる他の研究分野との結びつきにおいて行われていくものと思います。 極端に言うと、矛盾と相反の並置から異なる全体性の認識が生み出されるということになると……。 何やらわくわくさせるような試みの宣言といった感じですわね、 けれど、これはロマン主義的超脱です。 残念ながら、私たちの立場は科学にありますから、整合性のないものは幻想でしかありません。 幻想の羽ばたきは確かに魅力がありますが、高く飛び上がりすぎればイカロスの墜落になります。 私たちは、重力が存在する場所にいることも事実なのですから。 また、話が脱線してしまいました。 さて、性のエネルギーは志向性をもっていて対象と結びつく。 この活動があるために性の形態の多様化が生まれるということです。 言い換えますと、性のエネルギーがもっている志向性は、 その主体にとって、より主体を明確にさせる方向をとらせるものであると言えます。 レズビアンである女性は、性のエネルギーが志向させる対象をレズビアンとしての主体において、 より明確な主体になることへ向かわせるものとして、レズビアンとしてあるわけなのです。 しかし、レズビアンの女性であるからと言って、男性との生殖行為ができないということではありません。 主体がひとつのありようを選択するのは、レズビアンを存在理由の概念として把握したときです。 そこで、性のエネルギーが志向させる対象がレズビアンであるにもかかわらず、 主体の存在理由としての概念把握がレズビアンを否定したものであるとき、主体分裂が起こるのです。 性のエネルギーはエネルギーにすぎません、志向性をもって対象と結びつくということがあるだけです。 その志向性は、活動しやすい対象と結びつき、主体を明確化させる方向をとらせるということです。 これらの現象の形態を位置づけるためには、どのような言語が適切であるか、 また、その適切な言語が表出する活動と形態の関係はいかなるものであるか。 それを研究しているのが私たちの分野なのです。 「脳の知的活動における性的衝動の関連と言語表出の現象学的課題」を解き明かすことは、 脳における他の分野のありようについても明らかにしうる可能性をもっています。 思考をはじめとして、すべての概念表示は、目下のところ、言語活動なくしてはありえないからです。 将来、私たち人間が言語とは別の媒体を用いて概念表示を行うことになるかどうかはわかりません。 少なくとも、人間の歴史において、言語がその位置づけをもち発達してきたことは事実です。 言語が概念化する思考をもつ人間―― このことは、人間を「中心になるもの」「全体としてあるもの」といったありように、 きわめて敏感な動物となるように発達させてきました。 この敏感さを言語で概念化できるということにおいて、他の生物のありようと一線を画したということです。 「中心になるもの」「全体としてあるもの」の概念は、「群れをなす」から「群れをつくる」に変えるからです。 「群れをつくる」という社会性の成立は、ひるがえって、言語による概念化をいっそう促進させることをします。 言語は、思考を伝達する媒体としては、広範で深い内容さえも伝えることが可能なすぐれものだったのです。 皆様方は、私がこうして全裸でいることを実際に恥ずかしくないのかとお思いでしょう。 もちろん、私は恥ずかしさを感じております。 頬が赤らんでいるのは、化粧のせいではありません、私は化粧さえしていませんから……。 言語による概念的思考を発達させ群れをつくる社会にある人間ならば、全裸の羞恥は感じるものです。 繰り返しますが、ここで言う全裸とは、装飾品を一切身に着けない肉体ということです。 全裸で生活する種族がいても、彼らが頭に棕櫚を巻きつけているだけで、全裸ではありません。 巻きつけている棕櫚には、全裸でありながら全裸でない意味がまとわされているからです。 従って、全裸であって何ら羞恥を感じない人間があるとすれば、思考の機能に問題があることになります。 と言いますのは、人間にとって全裸の羞恥とは無防備であることと同じことを意味するからです。 生れたままの姿には性の衝動と無防備があると言いました、その無防備がこれにあたります。 防備というのは、外敵に対する備え、押し寄せる敵を防ぎ守ることを意味します。 無防備とは、敵を防ぐ備えが無くて、すきだらけであることを意味します。 この場合の敵とは何でしょう、主体となる人間以外のすべての存在ということです。 主体は他の存在を見ているものであり、主体は他の存在に見られているものであるというありようです。 すなわち、他の存在を見るという「中心になるもの」としての主体と、 他の存在から見られているという「全体としてあるもの」としての主体ということです。 全裸という状態がつくりだす無防備は、他の存在を防ぐ備えが無くてすきだらけであることを示し、 羞恥は他の存在に対する備え、押し寄せる他の存在を防ぎ守ることを意識させるものであるのです。 何を守るかと言えば、言うまでもなく、主体と意識しているありようです。 この羞恥が性のエネルギーの発動と結びついています。 羞恥は性のエネルギーが志向する対象のひとつの形態ということです。 ひとりでいてさえ、生れたままの全裸姿になるだけで、胸が高鳴るのを感じることができます。 無防備であることの羞恥の状態において、他の存在に対する意識が高まりを示します。 不安と恐れはそれを解消するための防備として、安穏できる他の存在を求めます。 他の存在が川面に映った自身の姿ということでも成り立つことです。、 ナルシシズムという形態が志向性の求める性のエネルギーの活動しやすい対象であればそうなります。 生れたままの全裸姿であることは、性のエネルギーの存在を明らかにすることでもあると言えるのです。 この生れたままの全裸姿でいる状態は、 外から手が加えられないという意味においては、他の生物同様に自然状態と言えるものです。 しかし、「中心になるもの」「全体としてあるもの」というありようは、無防備の自然状態を恐れます。 「中心になるもの」「全体としてあるもの」の概念的思考は、 さらに概念を思考することで衣装をまとうことを行わせるのです。 身体へは全裸であることの羞恥を衣服をまとわせることで防備するのです。 衣がより強固になれば鎧になり、防備するための道具も手から武器へと発展するのです。 人間が行う殺戮において、人間の本性としての攻撃性を分析する学派もありますが、 本性として攻撃性が人間にそなわっているから殺戮を行うのではなく、 他の存在に脅かされるのを防備するため、積極的な殺戮を行うということの方が正確ではないでしょうか。 人間も自身が生存していくために必要である以上の獲物の殺戮は行わないことが自然です。 ところが、人間が自然の状態を享受できないのは、自然の状態を恐れるからです。 他の存在は自然状態にある無防備へ放っておくと侵入してくるからです。 その侵入は主体と意識しているありよう、「中心になるもの」「全体としてあるもの」を陵辱するからです。 侵入してくることがわかっている相手なら、こちらから撲滅するに越したことはありません。 人間が行う殺戮は、同種族間のものにいたるまで、人間であるかぎり行われる生存のための活動です。 人間がいっさいの衣を脱いで、生れたままの全裸姿にならないかぎり、行われる活動です。 生れたままの全裸姿で人類が生活する、そう、エデンの園として描かれるユートピア。 しかし、そんなことは実際できるわけはありません。 衣というのは衣装ということばかりでなく、思考における概念さえも同様なものとしてあるからです。 人間の誕生以来、人間の作り出してきたいっさいは<衣>であるということだからです。 皆様方のなかには、すでにお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、 私がなぜ全裸姿でこのようなことを行っているのか、おわかりになったかと思います。 人間が脳をもち、言語による概念的思考を行い、身体がこのような肉体を遺伝的に継承している以上、 時代を問わず、現在あるというその姿においては、普遍であるということを示したかったからです。 私たちの研究の立場からは道徳的な言及は避けたいと思いますが、一言だけ言えば、 人間であることの平等の概念は、生れたままの全裸姿をあらわすことから始まるのではないでしょうか。 少なくとも、私たちの学問的姿勢はこのようなものであると言うことができます。 では、私たちの立場から、 『環に結ばれた縄』のパンフレットにあります「女体緊縛の必然性」の章へ言及してみましょう。 「女体は存在しているだけで、緊縛される必然性をもっている。 このように言うと、女性蔑視の不届き者として批判の槍玉に上がることは間違いない。 だが、事実を言っているのであって、蔑視するから緊縛される必然性があると言っているのではない」 まず、このようにおっしゃられていますけれど、ご心配には及びません。 「男性の立場」「女性の立場」と言ったところで、 生れたままの全裸からすれば、どちらにしたところで、<衣>をまとっているにすぎません。 <衣>がどのような素材の糸から、どのような意匠と色彩で織り上げられたものであるか。 これだけを思想として議論することは、時代の流行、ファッションを語っていることと同様と言えます。 フェミニズムの思想にしても、わくわくさせるような流行性があるから活発な議論となるのです。 こう申し上げると、<衣>を語るだけのことは遊戯か娯楽のように聞こえますが、 遊戯か娯楽であっていけない理由はありません、それはそれで人間を愉しませます。 最初にも申し上げたように、 大雑把な事柄なのに、厳密な学問的言語を用いたりする方がよくいらしゃいますが、 あれは言葉に意味があるのでなくて、ご本人の表現における虚勢のようなものだと言えることです。 「男性の立場」「女性の立場」を表現による虚勢で語っているならば、遊戯も娯楽もやむえないことです。 このようなことを申し上げると、今度は女性の側から、 女性の恥さらしなことをしている女のくせに、女性の立場など語る資格はないと批判を受けるかも……。 いずれにしても、この問題、<生れたままの全裸姿>と<衣>という関係に留意することなしには、 感じられることがどこに立場を置いたものであるかによって、異なるとも言えるのではないでしょうか。 『環に結ばれた縄』のパンフレットの作者の方がおっしゃていることも同様と言えます。 「手の込んだ縄掛けが行われるには、行われるだけの必然性が存在している。 それは、生まれたままの姿にある成熟した女性を眼の前にすればわかることである」 作者の方がこの私をご覧になられたら、そう感じると言うわけですね。 しかも、感じるだけではなく、私を手の込んだ縄掛けで緊縛なされれば、私が、 「たとえ、緊縛された全裸の姿で、どのような羞恥の姿をさらけだすことがあっても、 女性とは美しいものであろうとする自意識がそれを超越させ、 さらに、なぶられ続けてさえも、受苦の存在を生き続け、やがて、新しい生を産み出す歓喜に至ろうとするのである。 それが発動したエロスが官能を昇りつめるために行なわれることであると言うならば、 出産の偉大な受苦を引き受ける自負は、最大の肉体的苦痛さえ、歓喜を前提としてはいとわないということになる。 出産――この場合は、子を生むことではないのだから、何かが新しく生まれると言うことである。 それは、神に近き存在者の自意識が生まれるのである。 古来より、人間を超越するものとの交信を司ったシャーマンの自意識である。 全裸を縄で緊縛された女体は、その女性の自意識において、人間存在の意義を告げる媒介者へと至るのである」と。 この作者の方の立場は、言い換えますと、このように語っていることと同じです――、 緊縛された女性の存在はシャーマンと同じものであり、人間に託宣をもたらすものである、 人間は、もちろん、作者の方のような男性を中心に、その女性の存在によって導かれるものである、 つまり、「永遠に女性的なるものによる救い」が求められる――これはロマン主義的心情ですね。 或いは、別の言い方をしますと、男性は女性を縛るための理由として、 女性をシャーマンの存在とみなし、みずからの性の衝動を充足させようとする、 それに対する見返りとして、女性は縛られることによって、 昇りつめた性の衝動の充足をえる――これは表現主義的心情ですね。 或いは、人間にある男性的なものと女性的なものを交感させるための現象の場として、 男性は女性を縛るが、実は、それは男性のうちにある女性的なものを縛っていることであり、 真の男性を解放するためには緊縛のイニシエーションが欠くべからざるものであると、 この場合は、女性もまた自身のうちにある男性的なものを縛られることで縛り(!!)、 真に女性的なものを目覚めさせて解放させるものであるから、 この場合の男女の結合は性の交感状態としては最高のものである――これは神秘主義的心情ですね。 現象する形態を概念化する言語表出ということでしたら、まだ他にもいくらでもあるでしょうが、、 つまり、この作者の方がおっしゃっていることは、個人的心情の吐露にすぎないということです。 男性女性の区別なく、同じような嗜好や興味をもつお仲間さんには喜んで支持されるといった程度のものです。 言うなれば、「秘密の小部屋の事柄」といったことです。 実を申しますと、私も今より若い時分に、そう、女子大生のときに、全裸姿を縄で縛られた経験をもっています。 もちろん、「秘密の小部屋の事柄」として行われたことですから、 口ではとても恥ずかしくていえないような破廉恥なことをされたり、したりしました。 そのときの彼がこの作者の方とほとんど同じと言っていいくらいの考えをもっていましたが、 実際に行われたことは、SM雑誌にある読者投稿写真のような行為以上のことではありませんでした。 もっとも、そのことがきっかけで、私は現在の研究を終生の道として行おうという決心をしたのですが……。 語られることと行われることの相違は、想像と現実の相違であると改めて実感させられたのでした。 人間が重力に支配された場に生きている以上、重力に支配された考え以上のものは存在しないのです。 想像の羽ばたきが重力に抵抗してどのような表現が行われようとも、 現実の物理的現象は重力の支配を超えることは絶対にできないのです。 人間が行うには余りにも残虐であるという虐待や拷問や殺戮の行為も、 それが物理的に可能であるかぎり行われるものです。 脳は想像のかたまりと言えるくらいの神秘な世界をもっていますが、 物理的なかたまりと言えるものでもあります。 われわれ人間は、誕生以来、やっとここまで来たというところです。 これからまだ先があります。 生れたままの全裸である人間ということを見直して、 「中心になるもの」「全体としてあるもの」というありようを再検討したい、 私たちはそう考えています。 退屈な話を長々とお聞きいただいて、本当にありがとうございました。 ふたたび、皆様方とお目にかかれる機会があることを願いまして、 本日はこれでおいとまさせていただきます。 さようなら。 |
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