借金返済で弁護士に相談



見つめている。
そこに打ち捨てられた縄を見つめている。
幾十本もの細い植物の繊維が撚り合わされてできている縄。
なまめかしく螺旋をえがくその姿は、
ひとの細胞にあるとされるわれわれの歴史を遺伝するDNAと同じ形状をしている。
その縄をひとは結ぶ、
その縄でひとは結ばれる。



わしは老婆だ、鬼婆とも呼ばれている。
老婆だからといって、老婆がすべて鬼婆ということではない。
鬼婆と呼ばれるには、それだけの存在理由がある……存在理由、そうだ、すごいだろう。
このようなむずかしい言葉を使える老婆はそう滅多にいない、だから、鬼婆なのだ。
わしの姿を見れば、禿げ上がった真っ白な頭髪に歯のないくぼんだ口もと、
どぎつい目つきや鋭い鷲鼻、皺だらけの小柄で痩せ細った身体が険しい老いをあらわにしているが、
人間というのは外見だけで判断してはならない、とはよく言うだろう。
このような冷酷非情な風采をしていても、中身は菩薩のように慈悲深く寛大なのだ。
これは嘘だが、人間なんていうのは、大方、外見だけで判断できるものだと言ってよい。
まあ、そんなことはどっちだって大差のないことで、
それよりも、人間というのは人間と絡んでこそ、そのありようの本性をあらわすものなのだ。
どうだ、いいことを言うだろう。
わしが言いたいのは、わしは外見以上に大したものなのだ。
大したものなのに、それなりの評価を与えられていないということを言いたいのだ。
だが、おためごかしの評価なんぞだったら、どうでもいいことだ。
それよりも、おまんまの食える仕事をくれ、それがなくては生きていけない。
わしは時空を超えた存在であるが、相応におまんまを食っていかなければ身体は痩せこけるばかりだ。
いま、時空を超えた存在だと言ったことを聞いたか、どうだ、大したことを言うだろう。
わしは、本当はSFかファンタジーに登場する魅惑のヒロインとしてふさわしいくらいの女だが、
どういうわけか、ポルノグラフィに出ている。
ポルノグラフィのヒロインであるならば、半裸じゃ出し惜しみと言われるだろうから、
生まれたまんまの全裸を見せてやってもいいが、期待されないことをやるほど、わしは馬鹿じゃない。
若い娘や熟女が裸になって金が稼げるのだから、老婆の全裸が金にならない道理はない。
ただ、美意識の問題である。
いまの時代の美意識では、若い娘や熟女の年齢までが美的対象となっているというだけで、
いずれ意識の変革が行われれば、老婆のヌードに扇情される時代は来る。
人間は進化しているのだ。
老婆のヌードのあとは、人間の骸骨に扇情され、さらには、空に扇情される知覚の時代が来る。
ロボットやサイボーグやアンドロイドなんぞに扇情されるのは、
ギリシャのピグマリオンの時代からあることだから、人間にとっての新しい知覚とは言えない。
人間の新しい知覚は、空、つまり、何も存在しないものに扇情される進化を遂げることにある。
性のエネルギーや官能というものがわかっていると、これがまんざらでたらめじゃないことがわかる。
だが、こんなこと、老婆のわしが言ったところで、もうろくしたたわけごととしか聞こえないだろう。
だから、こんなことをまだ頭が働く中年者が言ったら、気ちがいだと思われても不思議はないだろうな。
まあ、わしはでたらめは断じて言わない、信用していい。
ただ、嘘をつくことはする、これも信じていい。
この世の中で、おのれの存在理由を徹底して貫くには、嘘はなくてはならない意思伝達の手段だ。
その嘘のついでに言っておくと、
月岡芳年という画家の作に『
☆奥州安達ケ原ひとつ家の図』という大した錦絵があるが、
あそこに描かれている老婆はわしが半裸姿のモデルとなって仕上げられたものだ。
まあ、モデルになったということは、いま言ったように嘘だと認めたにしても、
あの絵の題材となった話は、わしが実際に行ったことだ。
それこそ、行ったことの方を本当の嘘だと言った方が世間には通りがいいのかもしれないが……。
あの錦絵で、腰巻ひとつの裸姿の若い妊婦が縛られて天井の梁から逆さ吊りにされているが、
あれはわしが追っ手からかくまっていた環宮の病気をなおすために殺した恋絹という女だ。
恋絹の孕んでいる胎児が病に効くからといって腹を切り裂いたわけだ。
ところが、その恋絹は実はわしの娘だったのさ、事実を知ったわしは驚愕する……。
この台本で宝暦十二年(1762年)に人形浄瑠璃として上演されてから、
その後の歌舞伎でも繰り返し上演されたというから、わしの行ったことも結構人気があったわけだ。
だが、わしの方はその残虐非道な行いのおかげで、呪われた永遠の放浪者となった。
わしが時空を超えた存在でいられるわけは、この呪いのせいということなのだ。
呪いは、女と絡み、女の本性をあばくために女を永遠に責め続けなければならない、というものだ。
ところが、女の本性と言ったところで、女のなかにそんな奥深いものがあるわけではない。
これは、男にだって同じように言えることだが、
人間のなかには、確かに奥深い未知がはかりしれないものとしてある、
だが、性の役割を生きているようなありようの男と女には、そんなはかりしれないものなんてない。
未知の本性みたいなものがあった方が男女のふくらみが増すから、そのように思うことにしているのだ。
男と女の存在理由が茎を穴に差し込むというだけじゃ、植物や動物程度のありようしか示せない。
茎を穴にはめる行為をほかの動物よりも高級にしようという自尊心、いや、見栄があるのだ。
その見栄が本質などという神秘めかしたことを、さも奥深くあるように考えさせているだけのことなのだ。
それが正しいことに、あるかないかもわからないような浅薄な本質だからこそ、
好き勝手な幻想や理論や意見や見方が成り立ってきたんじゃないのか。
じゃ、それで、男と女の何がわかったと言うんだね、わからないから研究していると言うのがせいぜいだろう。
だから、世間に流布している男女観なんてものは、
そのようにあった方が都合がよいと考えていることをひけらかしているだけで、仕組まれていることだね。
何に都合がよいかって? 
決まっているじゃないか、おのれの腹をこやすためにどのように儲けるかってことだ。
忘れなさんなよ、この世の中、おのれの腹をこやすために、ひとは考え行動しているってことを。
つまり、おためごかしが人間と人間を結び付け、絡まさせているってこと。
どうだ、鬼婆はいいことを言うだろう。
いいことを言うわりには、たいした金にならない、これも何も、みな、呪いのせいだ。
まあ、男と女の本性、そんなものは実際よりもずっと浅薄だということだ。
男と女の役割の違いを明確にすることだって、本性なんてわけのわからないものが背景にあるとしておけば、
どのようなことだって都合よく成立するにすぎない、きれいごとにしたからって何が変わるわけでもないのさ。
こんな女の本性だから、あばくと言ってもたかが知れている。
だが、そこが呪いなのだ、あばくと言ってもたかが知れていることを永遠にさせられるのだ。
女はもう本性のかすしか出ないほどに責め続けられたら、あとは死ぬしかない。
だから、わしは自分の娘を手に掛けたように、責め続けた女を切り裂くしかないのだ。
この永遠の呪いから解き放たれるためには、清廉な若く美しい男性でもあらわれて、
命で自己犠牲でもしてくれなければ、救いはないのだ。
だが、残念ながら、険しい老いにある老婆だから、まったく相手にされないままだ。
清廉な若く美しい男性も清廉な若く美しい女性でなければ、救済する気にならないのだ。
つまり、知覚が進化する時代が来るまでは、わしは永遠に呪縛から解き放たれることはないのだ。
それまでは、わしは、女をいじめる、責める、なぶるを続けなければならないわけだ。
だから言ったのだ、わしはヒロインなのだ。
ヒロインであるわし以上にでかい面をしているヒロインのような女、
美しい女、醜い女、利発な女、馬鹿な女、強い女、か弱い女、こいつらは全部目の敵になるわけだ。
わしがこの家に来たのも、偶然ではない。
家政婦の求人募集があったからと言って、こんな老いぼれを誰が好き好んで雇ったりするかね。
若くて活きのいいのがたくさん職にあぶれているんだ、売り込むには年季の入った技能しかないじゃないか。
それには、この家の主人である啓介が妻を女の家畜として取り扱いたいという願望があったればこそだった。
わしは言ったね、女には女の責めどころがある、そこを責めれば、女は奴隷にでも家畜にでもなるって。
啓介は、よくある男の典型で、男は女から男として見られているものだと信じ込んでいた。
そんな男の自己欺瞞でもって最初の妻の貴子と接したものだから、結局は離婚する羽目になった。
女を前にして、全裸になったおまえを縛りたいと言って、はいそうですかと従う女がどこにいると言うんだ。
人間には誰しもサディズムやマゾヒズムといった性的欲求があるから緊縛の行為をするのだ、
と言うことと同じで、認識の手段だけを説いて聞かせたって、そんなものは理解できても身につくわけがない。
教育というのは、その目的か結果が理解できるものでなければ、絶対に身につかないものなのだ。
この身につくということだって、おのれのなかに照応するものが自覚されなければ成り立つことではない。
だから、自分が男として見られるありようを作り出すことに懸命になるよりも、
女がそういうことを行う目的や結果をわかりやすく聞かせてやることの方が遥かによい成果を生むことになる。
啓介が言われた通りのことを実行した結果は、年齢も遥かに違う二番目の妻との再婚と相成ったのだ。
美樹という名前の妻に啓介の初恋の女である由美子を名乗らせることができたのも、
初夜から生まれたままの全裸にし思いのままの緊縛姿にさせることができたのも、
彼女が女の家畜としてのしきたりを呑み込んで生活を始めることができたのも、全部教育というもののおかげだ。
わしは、啓介が由美子を飼育・調教するさまをそばでずっと監視してやった。
啓介はことが終わる度に、わしに助言を求めてきたが、もちろん、わしは啓介のことなんかどうでもよかった。
由美子という女に関心があったのだ。
いずれは、わしの手でいじめる、責める、なぶる女として、どれだけのものか知りたかったのだ。
由美子は美しい顔立ちの女だった、身体付きもきれいだった、気立てもよかった。
女のヒロインとしては、陳腐な物語の月並みな主人公としてはまあまあといったところだったが、
わしと並ぶと俄然と存在感をあらわして絵になるところが気に入らなかった。
由美子が生まれたままの全裸を麻縄で緊縛されて、
その縄尻をわしが取って引き立てている姿を化粧室の三面鏡で見たときだ。
若い女の美しさばかりが際立ってしまって、わしはまさに引き立て役にしかなっていないありさまだった。
それに加えて、この女はわしをうとましく思っているのか、いつもほとんど無視した態度を取り続けた。
女の恥ずかしい箇所を開けっぴろげにされているときでさえ、わしの存在には流し目さえくれなかった。
わしは、もう、いつの日にか、おのれの手で由美子を責め殺そうと執念を燃やし続けた。
だが、啓介は由美子と男と女という性交渉はあっても、男と女として肉体関係を持つということはなかった。
だから、女が妊娠することはありえなかった、孕んだ子で腹をふくらませることもかなわなかった。
由美子を恋絹と同じように、縛り上げた身体を天井から逆さ吊りして責めて切り裂くことはできなかった。
違った方法で責め苦を与えなければならなかった。
そうこう思案しているうちに、啓介はよし子という新しい家政婦を雇ったのだ。
わしという年季の入った立派な家政相談役がありながらだ。
啓介の言い分では、労働仕事は若い者に任せた方が速やかにいくということだったが、
啓介と由美子の愛戯に立ち会うこともできなくさせられたのだ、つまり、わしは窓際族にされたのだ。
啓介は由美子とふたりだけで寝室へ閉じこもり、用のあるときはよし子だけを呼ぶようになった。
これでは、わしの存在理由がなくなる。
女を思いのままにさせることができたのは、すべてわしのおかげだというのに、
会社の成長を支え続けた人材を、成長したからといって、年老いた役立たずの厄介者という処遇にしたのだ。
そんな程度の考えの経営者や主人には、必ず事業の破綻が来るに決まっているのだ。
それ見たことか……。
家政婦のよし子が由美子に横恋慕して、家畜の女を飼育・調教しなければならない立場の家政婦が、
こともあろうに、夫婦の寝室のベッドの上で、ふたりとも素っ裸になって女同士で乳繰りあったのだ。
わしはいきさつの始めからずっと扉の影から覗いていたが、行き着くところまで行くまでは放っておいた。
これはわしにとっては絶好の機会だったのだ。
由美子ばかりでなく、わしの職を奪ったよし子もなぶることができたからだ。
わしは、眼の前で啓介の事業経営の破綻を見た以上、啓介に支配権も統括権も決裁権も認めていなかった。
むしろ、経営破綻させた責任を取るべきであって、啓介にわしの行動を指図する所以はもはやなかったのだ。
幸いして、その晩は会社の創立何十周年かの記念パーティーで、啓介の帰宅は明け方にしかならなかった。
わしがふたりの女をなぶり殺すにはもってこいの夜だったのである。


「美樹さん、いますぐこの家を出ましょう、それしかありません」
よし子が腹を決めたというように気負い込んで言った、年上の自尊心とも言えた。
「駆け落ちするというのですか、そう、それしかないかもしれませんわね」
美樹はきっぱりとした判断をする相手に姉のような頼もしさを感じるのだった。
「では、美樹さん、早速、支度をして、わたしも部屋へ戻って服を着てきます」
そう言って、よし子が夫婦の寝室を出ようとしたときだった。
彼女は、あっ、という叫び声とともに思わず後ずさりした。
皺だらけで骨ばった小柄な老婆が立ちふさがっていたのだ。
その手にはきらりとした冷たい光沢を放つ抜き身が握られているのだった。
「ば、婆やさん、いったい何の真似、そこをどいてくれませんか」
扉口へ仁王立ちとなった鬼婆は、鋭い鷲鼻に氷玉のような眼光を輝かせ、
皺だらけの歯のない口もとからしわがれた怒声を吐き出した。
「どういうつもりで、ものを言っているんだ、おまえは。
 そんな恥ずかしい姿をさらけ出して、
 おまえはただの家政婦だろう、家政婦が何で全裸でいるんだ、全裸でいるのは家畜の女だけのはずだ」
家政婦は一瞬ひるんだが、老婆なんぞに負けまいと言い返すのだった。
「どういう格好でいようと、わたしの勝手でしょ、あなたに言われたくないわ、
 そこをどいてください」
そのとき、美樹が背後に来てくれたのが心強かった。
だが、老婆は、相手の言うことなど耳が遠くて聞こえないとばかりに、かぶりを振るだけだった。
そして、吐き出す言葉の代わりに、抜き身の鋭い切っ先を差し出すのだった。
さすがに裸の無防備の体勢では、言葉だけの威力では弱かった。
よし子と美樹は寄り添って、年老いた家政婦と向き合うばかりだった。
いつまで向き合っていても埒はあかない、鬼婆はいいとしても、ふたりの女はそれでは困った。
「婆やさん、お願いです、そこをどいてください、
 わたしたちを通してください、お願いです」
ついに、美樹が懸命な声音で訴えるのだった。
「ほお、奥様が珍しくわしに口をきいてくれた、いままで、ないがしろにしてきたくせに。
 勝手なもんだな、自分の都合のいいときしか、ひとを利用しないってわけか、ふざけんな!
 足抜けする女郎がどのような処罰を受けるものか、味わってもらわないと、真心もわからないのだろう。
 よし子、奥様に縄を掛けろ!」
鬼婆の激しい形相は、老婆とは思えない恐ろしい声音とあいまって、ふたりを震えあがらせた。
よし子は身をすくませたまま立ち尽くしているばかりだった。
「聞こえないのか、この馬鹿、奥様を縛れと言っているんだ!」
鬼婆は片方に握っていた鞘を使って、よし子の白い尻をバシッと一撃した。
「ああっ!」
悲鳴とともに、よし子の裸身は飛びあがった。
「この次は、抜き身の方でいくよ、そんなか弱い悲鳴じゃすまないだろうな。
 おまえは家政婦なんだから、さっさと言われたことをやりゃいいんだ」
よし子は眼を剥いて鬼婆をにらみつけたが、差し出された切っ先は有無を言わさないものがあった。
「……よし子さん、言うとおりにして、家畜の女は縛られた姿でいることがきまりなんですから……」
そういう美樹の声は震えていた、いまは言いなりになっておくしか仕方がないと思ったのだ。
「でも、でも、美樹さん……せっかく、私たち、自由になれたというのに、こんなことって、くやしいわ」
よし子は思わず相手の手を取っていた、涙ぐんでさえいた。
「何をふたりでごちょごちょやっているんだ、ベッドの上の続きでも始めようと相談しているのか。
 奥様のおっぴろげた股へ家政婦が顔を突っ込んで、いや、逆だったかな、
 家政婦の穴へ奥様が舌先を差し入れて、飽きもせずにお互いを舐め合うことをまた始める気でいるのか?
 性懲りもねえ、女たちだ」
ふたりはその言葉に鬼婆をまじまじと見つめるのだった。
行為を見られていたという羞恥が身体から一気に力を抜けさせていくのだった。
「おまえたち、女がやることなんて、すべてお見通しなんだよ、わかったら、さっさと言われたことをしろ。
 おまえたちが思いあがった情欲で、この家のしきたりをないがしろにした報いは受けなけりゃならない。
 もとはと言えば、わしが作り上げたも同然な秩序だったのに、それを反故にしやがって」
よし子は、ごめんなさい、と謝りながら、美樹の裸身へ縄掛けを始めるのだった。
生まれたままの全裸にあった美樹は、後ろ手にした手首を縛られ、綺麗な乳房を挟んで上下へ胸縄を施された。
「次はおまえの番だ、さあ、後ろへ手をまわせ」
言う通りになるよし子の裸身へ、鬼婆は美樹に施されたのと同じ縄掛けを手際良く行っていくのだった。
「さあ、歩け、おまえたちを楽しい折檻部屋へ連れていってやる」
鬼婆はふたりの女の縄尻をしっかりと握ると、鞘の先で相手の背を交互に小突きながら寝室を出るのだった。
廊下へ出ると、その先に二階へ上がる階段があった、鬼婆はその階段を昇らせた。
その家の造りは二階建てであったが、鬼婆の言う折檻部屋は九階にあった。
従って、美樹とよし子は九階まで階段を昇り続けた、ふたりは息がきれたが、鬼婆は何ともない様子だった。
長い階段の途中に、それぞれがどのような思惑を抱いていたか、それはさておき、
階段という設定が出たので、ここで少々、この物語の背景となっている段階的事柄について触れておこう。
それはひとつの直感から始まった。
形而下と呼ばれているものが形而上と呼ばれているものと性的官能の結び付きをもって繋がるありようがある。
下から上へ、ということである、これが始まりであった。
この直感は、それがもしわれわれの認識として概念化することができるならば、
われわれは、このひとつの方法において、われわれをわずかの一歩でも展開させることが可能であると思わせた。
展開とは、進化という言葉に置き換えてもよいが、そのような言い方は余りにも大それたことだと感じさせた。
そもそも、下半身で行われる事柄が下半身で行われる事柄をいっさい排除した上で考えられる事柄と結び付く、
しかも、それが最も否定的に考えられている性・官能を通して行われるということが尋常な考え方ではなかった。
性・官能はどのような表現であろうと、ある領域に収められることにおいて存在理由を認められているからである。
それは、人間が至高と称するいっさいのものの正反対にあることを位置付けられている。
言い換えれば、至高とは、それ単独にあるものではなくて、下卑たものが存在することにおいて成り立っている。
ここには、すでに、相反と矛盾が存在し、整合性的に解決のできる概念が生まれる余地はないものと思われる。
人類の創始以来、形而上と形而下の二分化は、
一方では文明や文化を推進するために必要なものの見方であったが、
一方では、そのものの見方のゆえに、異種及び同種への殺戮や強姦を持続させてきたことでもある。
これだけの長い時間のなかで行われてきたことを価値転倒することなど、一挙にできることでは到底ありえない。
ましてや、このような考え方そのものを受けとめてもらえるだけの要望が実際あるのかどうかもわからない。
突拍子もない思い付きという程度のことであれば、笑って済まされることでもあるが、
形而下と形而上の結び付きは、当然のごとく、人間の全体性について考えることにもなる。
だが、そのような大それたことは早急には起こらないことがわかった、人間は段階的に進歩するものなのである。
第一に、それを表現する言語が余りにも舌足らずであり、脆弱としすぎていることがあった。
概念を作り出す言語自体において、その方法と活用は、さらなる展開が求められているのである。
言語は言うまでもなく人間が作り出した道具のひとつであって、
道具である以上、その目的を達成するために必要とされるならば、道具も進歩しなければならない。
言語は相反と矛盾の全体性を表現することにおいては、
いまだに、何よりも先に自家撞着をあらわす以外の何ものでもない。
言語は思想の整合性を求めるとき、最もよく相反と矛盾のありようを露呈する程度のものでしかない。
従って、直感をあらわす全体性はその表現者の抱いたそのままが表出されることはない。
概念をあらわす思想が整合性的になろうとすればするだけ、どこかで折り合いをつけなければならないのである。
その折り合いがつかなくなれば、収拾できない状態をもって混沌とし、展開を絶たれたとすることもできる。
人間の生活に直接影響がなければ、収拾のつかなくなった思想のありようを終焉と見ることもありうる。
思想を表現にするには、言語はまだ余りにも舌足らずであり、脆弱としすぎているのである。
だが、展開の可能性は当然のごとくにないわけではない、人間に可能性が途絶えるということはありえない。
途絶えるときがあるとすれは、みずからに謎を持たなくなったときか、種として絶滅するとき以外にない。
どのような状況になろうと、人間がみずからに謎を持ち続けるかぎりは、展開の可能性はある。
言語においても、比喩と類推という機能において、表現の可能性はある。
言わば、比喩と類推を撚り合わせて縄をなう、その縄で生まれたままの全裸にした女体を縛るということである。
そうして、縄で緊縛された美樹とよし子は、鬼婆の言う折檻部屋へ入らされたのである。
部屋は灰色一色の空間であった。
その広さや高さを特定することがしにくかったのは多分にその色合いのせいであったが、
これから行われる折檻の行為に関係して、部屋の状況の云々は直接関係がないので、詳しい描写は省くことにする。
ただ、それが屋外で行われたことではないことだけは、言うにあたえする。
屋外で行われるということは不特定のひとの眼に晒すということである。
この場合は、不特定のひとにも納得のいく普遍的な概念がその現象を理解させることが必要である。
たとえば、素っ裸にされた女がふたり、縄で緊縛されて柱に縛り付けられていたら、
どのような理由でそのようなことが行われいるのかを説明するものが要る、立て札が立てられる所以である。
立て札には、このふたりの女は御法度の女同士の愛欲を行ったために処罰されると書かれてあれば、
女同士の愛欲が御法度であるということがわかっていれば、その現象は理解できるものとなる。
社会的な法を遵守しない者が羞恥と屈辱の姿をひとまえへ晒されても、それは当然の報いと考えられるからである。
従って、社会的な法に順じない処罰はすべて屋内で行われることが常識とされている。
なぜなら、屋外であれば、法に順じない処罰をする者の方が逆に御法度であるからである。
子供を虐待する親に問題があるのは、ひとまえでそれを行わないことで、それは御法度を知っていることである。
知っていて行うことである以上、あからさまにされれば、その罪を問われることも承知だということである。
このことを鬼婆は実によく心得ていた。
部屋の中央には、二本の白木の柱が少し離れた位置に立っていて、
美樹とよし子は互いに向き合うようにして立たせられ、その柱へ縛り付けられた。
「おまえたちを責めるのに、どうしたらよいか、いろいろ考えてみたが、
 やはり、おまえたちが女だってことを一番理解する責め方がよかろうと思って、その柱へくくりつけた。
 どうだ、おまえたちが情欲のままに愛したという相手がどのようなものか、まずはじっくりと眺めるんだな」
美樹は眼の前へ立たされているよし子を見つめた、そこに眼をそらせる理由はなかった。
よし子は一糸もまとわない全裸の姿にあった。
女のあらわす優美な姿態は曲線が表現する起伏の流麗さにあった。
首筋のなよやかさ、両肩の撫でられたいじらしさ、ほっそりとした腕から手先へかけてのか弱さ、
ふっくらとしたふたつの乳房の盛り上がりは、愛らしい乳首を咲きほころばせて花を匂わせている。
腰のくびれにいたる弓なりな線のなまめかしさは、豊満な尻のあでやかさとあいまって、
しなやかにのびた両脚のつま先まで、たおやかさをあらわしている、女とは美しいものだった。
その美しさを堂々と示すように、翳りを奪われて剥き出しとなった恥ずかしい股間の箇所でさえ、
優しく盛り上がった柔和さのなかに深々とした気品のある割れ目をくっきりと輝かせているのだった。
だが、その美しい女の身体には、鬼婆が容赦なく掛けた縄が自由の拘束をあからさまにしていた。
両手を後ろ手にさせられているために、撫でられたいじらしさをあらわす両肩は哀しくせり出し、
ふっくらとしたふたつの乳房を上下から挟んだ胸縄を掛けられているために、盛り上がりはいびつとなって、
突き出すようにさせられている乳首は切なそうにとがってさえいるのだった。
それは縄ひとつで変質させられる美しさから淫らさへの変容でもあった。
たとえ、本人がそのように望んでいなくても、身体は思いとは別に感じたことをあらわすということであった。
縄掛けされた全裸の姿が示すものは、
気高くさえある美が陵辱されることを意味する以外の何ものでもなかったのだ。
縄で緊縛された以上、あらわす女を陵辱されることを引き受けなければならないのは、時間の問題だった。
どうしてそのような姿にあるのかと問うよりも、その姿が何を導き出すのかと問わせることであったのだ。
美樹は感情的な思いにならない自分が不思議なくらいだった。
それは、よし子と女同士で感じ合った新しい認識があったことによるものだった。
一度知ってしまった認識は打ち消すことができない、そこまで戻るような思いはあっても、
そこから以前へは絶対に後戻りができない、そういうありようこそが認識という自覚である。
美樹は、よし子の全裸の緊縛姿を見つめていて、みずからのありようをはっきりと自覚するのだった。
よし子には、眼の前に生まれたままの美しい全裸でいる女があらわす麗しさが、
たとえ、鬼婆に強制されて行ったこととは言え、みずからが施した縄掛けの被虐姿にあることは事実だった。
女同士の愛欲で高まり合ったあのとき以前までは、奥様を飼育・調教する役割を担っていた家政婦だった。
女の家畜である全裸の奥様を縄で縛るということは仕事であったから、無感動に何百回と行えたことだった。
だが、いま眼の前にしているたった一回の縄掛けは、どれだけ大きな思いを感じさせていることだったか。
か弱そうななで肩が巻き付けられた縄に締め上げられて悲鳴を上げるようにせり出している、
きれいな形をした乳房を上下に掛けられた縄が圧迫して泣き声を上げるばかりに突き出させている、
桃色の可憐な乳首がとがらせられて、涙のしずくをあふれ出させようとしている感じであった。
覆うすべを封じられて、これ見よがしにあからさまにさせている女の割れ目は、
羞恥や屈辱の思いよりも遥かに強い肉欲をひけらかそうとさえするように深々とした淵を示している。
非情な縄を掛けたことによってあらわされた、自分の罪の結果を見せられているような残酷さだった。
よし子は、申し訳ない思いでいっぱいになり、思わず涙ぐむのだった。
だが、そのような惨めで浅ましい身体にさせられている美樹の顔立ちを見つめたとき、
その顔立ちに浮かぶ表情の毅然としている美しさは、あの愛欲の高まりを思い起こさせるものであった。
自分が行ったことは罪深かったことかもしれない、だが、それを乗り越えてこそ、
相手と本当に手を携えて進んで行けるものだと思わせるのだった、美樹の緊縛姿はそうあらわしているのだった。
美樹はよし子の眼を見つめ、がんばりましょう、と伝えていた、
よし子のまなざしも、負けないわ、と伝え返していた。
鬼婆にとっては、ふたりの女がどのような思惑にあろうと、どっちだって大差のないことだった。
全裸の緊縛姿を柱にくくりつけられた女ができることは、せいぜい、泣くか、悲鳴を上げるか、罵るかくらいで、
身体を精一杯うごめかせて反抗を示すのが関の山、思惑が変えさせるものは何もなかったからだった。
「おまえらは、まだ若いから、泣き叫んだり、甲斐のない身悶えを繰り返したりする時間が充分にある。
 だが、生い先の短い老婆は、そんなものにいつまでも付き合っていられるほど悠長じゃない。
 女が責められて、悲しく残酷にあるさまを見て、情欲を感じる者もあるのだろうが、
 わしのような時空を超越している者にとっては、サディズムやマゾヒズムなんていうのは若気の一過性に過ぎん。
 わしが行いたいのは、おまえたちを責めなぶり、官能の喜悦のなかで死に至らしめることだけだ」
ふたつの柱の間に立った鬼婆はそう言った。
鬼婆の言葉の最後のところは、美樹とよし子を総毛立たせて震え上がらせることだった。
それがでたらめでないことに、鬼婆の両手には冷酷に刃を光らせる抜き身が握られているのだった。
「まずは、奥様、おまえからだ。
 身体を傷付けられたくないと思ったら、両脚を開いて、思い切り爪先立ちになって立て。
 言うことがきけないなら、容赦なく、この切っ先はおまえの大事なところへ突き刺さるだけだ」
恐ろしい声音で申し渡されたことを聞かされ、
美樹は強い意志で持っていたと思っていたことを簡単に打ち砕かれた。
言われるままに、おずおずと両脚を広げ、爪先立ちの姿勢を取るのだった。
鬼婆はその開かれた股間へ、刃先を上にした抜き身を突き刺した。
柱に突き刺さった抜き身は割れ目と触れるか触れないかの位置にあったが、
それも跨がされた者の爪先立ちの如何に依っていた。
美樹の晒された姿を見て、よし子は気が遠くなっていく思いだった。
「おい、家政婦、最初からそんなにふらふらしていたら、身体を傷付けるだけだぞ。
 奥様を見てみろ、ちゃんと言われた通りのことができたじゃないか、おまえも、しゃんとしろ!」
鬼婆は残酷で無慈悲であることが身上と言うように、険しい形相を顔色ひとつ変えずに怒声を吐くのだった。
よし子は精一杯の思いで言いなりになっていくしかなかった。
緊縛された全裸の女の両脚が開かれ爪先立ちの姿勢になると、抜き身は刃を上にして柱へ突き刺さるのだった。
作業をやり終えた鬼婆は、責め苦にあうふたりの女を同時に見られる位置まで下がると笑いを浮かべた。
人間が爪先立ちの姿勢になって、いったいどれくらいの時間、持ちこたえられるものなのであろう。
ふたりの女はその上気した顔立ちを激しく歪め、全身から粟粒のような汗を噴き出せて苦悶に耐えていた。
耐え切れなくなれば、刃先は深々と割れ目へ埋没することはわかりきっていた。
爪先立つ力が弱まるにつれて、刃が肉へ触れる感触が下腹部から脳を直撃する電撃となって貫くのであった。
我慢し続けようという必死の思いと金属の感触が伝える電撃はねじれるように絡み合って、
頭のなかを灰色一色にしてゆらめかせるばかりだった。
膨らんだ花びらからにじみ出した女の花蜜が跨がされた刃の上へ滴り落ちていることなど、
ふたりの女には思い至る余裕はなかった、ただ激しい苦悶は疼くような甘美を彼方に感じさせているだけだった。
最大の苦痛において最高の快楽をふたりは感じていたのだった。
爪先立つふたりの女のしなやかな両脚には、もう耐えられないという震えがあらわれ始めていた。
それまでは懸命に歯を食いしばって耐えていた美樹とよし子も、
うわごとのような唸り声をもらしながら、逃れようのない苦悶に全身を沈められていくばかりであった。
「助けて……お願いです……許してください……」
ふたりは苦悶に翻弄された思いから、最後の願いというように鬼婆へ哀願していたが、
もうろくした老婆の耳には聞き取れないというふうに、残忍な女はふたりの股間をまじまじと見やるだけだった。
「そろそろだな、どっちが先にいくかな」
鬼婆はひとりごちた。
全裸を縄で緊縛されたふたりの女の跨がされている抜き身の箇所は肉を切り裂くところまで迫っていた。、
このままでは、ふたりの罪もない女は鬼婆の餌食となるだけだった。
呪われた鬼婆がまたひとつ呪いのあかしを立てることになるだけだった。
救いはないのだろうか、奇跡でも起こり、鬼婆が突然心変わりし、責め苦をいますぐ中止することになるとか。
だが、物語の必然とは、そうそう都合よくはいかないのだ。
鬼婆がヒロインであれば、ヒロインである鬼婆がヒロインであるところの存在理由を示さなければならない。
おい、作者、そんな同語反復のような注釈をもてあそんでいるときではないぞ。
ぐずぐずしていれば、ふたりは責め殺されるのだ。
だが、作者にもどうにもならない、この物語のクライマックスは鬼婆の勝利に終わるしかないのだろう。


しかしながら、矛盾と相反の並置は異なる全体性を生み出すものだ。
もはや、それは作者の手を離れて展開する。
「鬼婆、何という残酷なことを!」
灰色一色の折檻部屋の入口に出現した人物がいた。
一糸も身にまとわない生まれたままの全裸の姿だった。
その若者は、男性でありながら、なよやかで優美な女性のような顔立ちと身体付きをしていた。
しかし、奇妙なことに、男性であることをあらわす陰茎を股間のなかへ折り込んで、
見た目にはわずかな割れ目さえのぞかせて女性の恥丘と変わらないありさまをしているのだった。
その奇妙な姿態の美青年は素早くふたつの柱に近づくと、突き立てられていた抜き身を見事に抜き去った。
美樹とよし子は受難から救済されたのだった。
ふたりは全身から力を失ったように、緊縛された裸身をずるずると床へくず折れさせていった。
それに対して、怒り心頭になった鬼婆は、小柄な背丈を思い切り伸ばすようにして美青年と対峙していた。
「おまえは、何ということをしたんだ! ろくでなしの、おとこおんなめ!
 おまえのように惨めで情けなく浅ましい姿をあからさまにしている奴がどうして女を救えるんだ!
 おまえに救う女があるとしたら、おまえ本来の清廉な美しい青年の姿で、
 わしのために一命を自己犠牲して、わしを永遠の呪いから救済することではないのか!
 わしがヒロインである以上、美青年があらわれれば、そのような必然になることは定められているのだ!
 さあ、おまえはわしのために、いますぐそこで、死ね!」
美青年はそのみっともないと言われた姿にひるむことなく言い返すのだった。
「鬼婆、何をとちくるっているのだ、おまえの行いは失敗に帰したのだ。
 消えてなくなれ!」
彼は両手にしていた抜き身を鬼婆の足もとへ放り出すと、美樹に近づいていってその縄尻を取るのだった。
鬼婆には、女をなぶる責めるはできても、男へ手出しすることはできなかった。
怒り狂った形相で、美青年が今度はよし子の縄尻を手にするのをただ見つめているしかなかった。
美青年はふたりの女性を縛った縄尻を引っ張ると、さあ、行きましょう、と言って床から立ち上がらせるのだった。
美樹とよし子は空ろな状態のまま、彼の言う通りになっていくだけだった。
鬼婆には、もはや、行う手立てはなかった。
だが、九階まで昇ってきた美青年と美樹とよし子にとって、階下へ降りるということはできなかった。
もとより、その家の造りは二階建てであって、鬼婆に連れて来られた九階の部屋だったのである。
灰色の部屋の入口に立った全裸の三人は、降りる階段がないことの事実を眼の前にするだけだった。
部屋のなかを振り返って見ると、そこに鬼婆の姿はもはやなかった。
ヒロインを失った物語は、まるで調性の定まらない音楽のように際限なく流れていくようなものでしかなかった。
広い居間のオーディオ装置からは、
J・S・バッハの『半音階的幻想曲とフーガ ニ短調』が流れているのだった。
上昇下降するパッセージから始まり、途切れのない連続した音のつらなりが浮かび上がらせてくるものは、
その流動的な速さと遅さの意志的であり、内省的であり、色彩的な感受性の音色の幻想性である。
始まりにして終りのとき、或いは、終りにして始まりのとき……つまり、人生の比喩のようである。
「あなたがうとましく思っていた年老いた家政婦は、ぼくが追い出してやった。
 あなたのご主人も、創立記念パーティーの晩から、行方不明になったようにここへ戻って来ない。
 どのような理由があるにせよ、ご主人はあなたを捨てたことに違いはない。
 こんなに美しく、よく飼育され調教されたあなたを見捨ててしまうというのだから、
 ご主人のあなたに対する愛もそれだけのものでしかなかったのでしょう。
 主人の代わりとなって行うべき家政婦も、いまや、あなたと同じ愛奴の身分になってしまった以上、
 主人の必要なあなたには、ぼくがなるしかない。
 それで、いいね」
美青年は立派な部屋着を身に着けて皮張りのソファへくつろいだ姿勢で座っていた。
彼の足もとには、一糸もまとわない生まれたままの全裸姿を麻縄で後ろ手に縛られ、胸縄を掛けられ、
剃毛されている股間の割れ目へ股縄を食い込まされた、美樹であり、由美子であり、家畜の女であり、
いまはだたの愛奴としか呼ばれていない女がきちんとした正座姿で床へ座っていた。
愛奴は上目遣いにまぶしそうに相手を見上げると、はい、と返事をするのだった。
「可愛いひとだ、もっとこちらへ寄りなさい」
愛奴は縛られた裸身をもどかしそうにすり寄せて、主人の脚へしなだれかかっていった。
美青年は柔らかに波打つ女の黒髪へ指を絡ませると優しく梳くように撫でるのだった。
愛奴は美しい顔立ちに快さそうな表情を浮かべながら、されるがままになっていた。
「あなたは女同士の愛欲を上手に行うらしいけれど、それを見てみたいな。
 いいでしょう?」
美青年は立ち上がると、愛奴を縛った縄尻を取って、居間の中央の広い場所へ導いていった。
愛奴は命じられなくても、その場へきちんと正座をすると、主人の言い付けを待っているのだった。
美青年は立派な暖炉のわきへ据え付けられた頑丈な鉄格子の檻まで行くと、
なかで全裸を縄で緊縛され顔を俯かせながら正座している愛奴に声をかけた。
「出て来なさい、ひとりで寂しい思いをさせてしまったかな」
美青年は檻から出た愛奴の縄尻を取ると、優しく頭を撫でてやり、中央へ歩ませるのだった。
向き合って正座させられたふたりの愛奴は、
見つめ合うのが恥ずかしいとでいうように、はにかんだ様子をしていた。
そのふたりに、美青年は優しく語りかけるのだった。
「ぼくに遠慮はいらないよ、好きな者同士、思いのままに愛し合っていいんだよ。
 人間には愛があるんだ、愛があるからこそ、お互いを好きになれるんじゃないか。
 好きであるものは、だれにも止められない。
 ぼくだって、あなたたちが好きだから、主人でいられる。
 あなたたちも、ぼくが好きだったら、その思いを愛欲の行為で示して見せて。
 行為であらわさなかったら、好きか嫌いかも、わからないじゃないか」
ふたりの愛奴は眼の前にすくっと立つ美しい青年を見上げながら、はい、と返事をするのだった。
床へ正座した緊縛された裸身のふたりの愛奴は、顔を見つめ合わすと、どちらからともなく唇を寄せていった。
重ね合わせる唇の感触を確かめるように、何度も触れ合わせては離れさせていくうちに、
開き始めた唇の間から舌先がのぞき出し、今度はその感触を求めて互いの舌を絡ませ合い始めた。
愛奴であった女は、生まれたままの全裸の姿でいた。
全裸の姿になることそのものが、ひとが見ているかどうかに関わらず、羞恥を意識させるものであった。
それは、何よりもまず、自分自身が見ているということに始まる、自分は自分に見られているのである。
だから、羞恥とは、自分に見られていることの恥ずかしさである。
自分を見つめる思いが強ければ、羞恥心もそれだけ強いということになる。
その羞恥は、何が恥ずかしく思わせることかという価値をどのように与えているかに依存する。
全裸になったことが、自分の恥ずかしい部分をあからさまにさせるということであれば、羞恥を覚えるのである。
その羞恥は性的官能と結び付いている。
これは、性行為をあからさまにすることは人間として恥ずかしい、という人間の価値からくる。
人間は他の動物とは異なるものであるという、人類の創始以来育んできた価値である。
生まれたままの全裸になることは、動物と同じありさまであり、動物と同じ性行為を行うことをあらわしている。
その全裸に縄を掛けられるのである。
捕らえられた動物のように縄で縛られることは、動物であることを決定化されることである。
動物であることの羞恥はますます強くなり、官能もそれに応じて高ぶらされていく。
縄を簡単に手首へ巻き付けただけでも、どきどきする胸の高鳴りを覚えるとしたら、
縄が生き物に用いられる場合、それは動物を拘束するという目的で使用されてきた価値を知っているからである。
縄で縛られることは、動物であることを意識させられることと同じだからである。
両手を束ねて縛られれば、手の自由を奪われたことになる。
手というのは、人間が他の動物と決定的な差異を作り出した人間たる所以であるから、
その使用を封じられるということは、動物と同じ状態にあるということを意識させられることである。
身体の前で手を縛られるよりも、後ろ手に縛られることの方が使用を封じられる強さがあるだけ、羞恥心も増す。
生まれたままの全裸を後ろ手に縛られ、さらにその拘束を高めるために、
乳房を上下に挟んで巻き付けられた胸縄が両腕を固定すれば、動物化の意識はますます強いものとさせられる。
一方で、肉体全体は触覚であり、巻き付けられた縄が触覚を刺激するということがある。
身体に異常がないかぎり、普通ではことさら意識しない肉体の存在を、肌に密着し圧迫する縄の感覚が意識させる。
人間は肉体に閉じ込められた自我を持っているものだとあらためて思うことをさせられる。
閉じ込められたなかで、自分というものと向き合うことをさせられる。
それも、動物同然に縛られた状態にある拘束感は、肉体という動物を逃れられないものとして意識させるのである。
全裸を縛られた者が寡黙になり、みずからに集中する態度を見せるのは、
自分の動物であることを肉体を通して発見させられた戸惑いであり、狼狽であり、混乱である。
人間はみずからを第一義として、動物であるとは考えていないことによるものである。
この混乱を収拾するには、その状態をありのままに引き受けるか、全面的に否定するしか方法はない。
それは、その状態が快へ向かわせるものであるか、或いは、不快へ向かわせるものかで決まる。
縛られた縄の触覚を刺激する箇所が快へ向かわせる場所であった場合は、否定の意味合いは減少していく。
性感帯と呼ばれている箇所へ縄が掛けられれば、そのような状態にあることの意味さえ生まれてくる。
動物の状態にあることは本来のありようであり、それが快を感じさせるのであれば、むしろ、望ましいと。
全裸を縛られて自分と向き合わされた者が、自分の気がつかなかった自分を発見する驚きである。
それが快へ向かわせる自分であれば、望ましいありようということになるのである。
自分のなかには、もとから、このような快を求める性質があったのだと考えれば、
それが官能と切り離されることのない知覚である以上、性欲としてあるものだと見なすのは当然のことである。
そこまで至る段階的過程が裸になり、縄で縛られ、拘束されるという被虐の様態をあらわすものであれば、
虐待されることに快を感じることがマゾヒズムという性欲の性質を示すものだと言うこともできる。
しかし、そこまでである、その先がない。
ふたりの愛奴は、全裸にされ、縄で緊縛され、股間という性感帯へ縄を掛けられていた。
そのままの姿で置かれているだけで、ふたりにはその状態をありのままに引き受けるかどうかの立場があった。
動物であることを引き受けるのであれば、そこは、もはや、善悪の彼岸である。
肉体の外の事象とどれだけ相反や矛盾があろうとも、快へと向かわせるものであれば、肯定できることだった。
快とは、官能の高まりが導くことと自我を放棄した動物的意識との全体性である。
肉体の外の事象に対して、すべて、はい、と答えられる、快の全面肯定である。
情欲、肉欲、性欲の虜と言われる、淫乱の状態ということである。
ふたりの愛奴は、おのおののなかで求めさせる快への欲求に従っているだけであった。
ふたりのなかで、意味にあたえする概念は何ひとつなかった、
あれば、それはその状態を反故にするものでしかなかった。
愛している、という言葉がささやかれたとしても、それが意味を結ぶ概念となることはありえなかったから、
愛の認識ということではありえなかった、言葉は動物の唸り声と変わらない意思表示しか示さないものだった。
唇と唇をぴったりと押し付け合い、絡ませ合った舌を快へ向けて飽くことなくうごめかし続けている。
やがて、舌の愛撫だけでは物足りなくなれば、相手の乳房へ吸い付き、乳首を頬張って噛み締める。
互いの乳房へむしゃぶりついて、それさえも物足りなくなれば、相手の股間を求めるようになる。
そのときは、花びらは花蜜でふくらんで、にじませ始めてもいるのである。
美青年は、愛奴のひとりの股間へ指先を差し入れて、
割れ目へ深々と食い込まされた縄がべっとりした湿り気をおびているのを確かめた。
「ふたりとも、四つん這いの姿勢になりなさい」
四つん這いになれと言われても、後ろ手に縛られた姿では、
うつ伏せになり膝を立てて尻を高々と持ち上げるしかなかった。
ふたりの愛奴は、はい、と言ってそのような姿になるのだった。
美青年は身に着けていた部屋着を脱ぐと生まれたままの全裸になるのだった。
そして、灰色をした絨毯の床へうつ伏せになって尻を立てている愛奴の花びらの奥へ、
そり立った陰茎を差し入れては思いを果たし、また、差し入れては思いを果たしていくのだった。
それから、ふたりの愛奴の腹がふくらむまでに、それほどの月日はかからなかった。
腹をふくらました姿になっても、ふたりは愛奴であったから、生まれたままの全裸へ縄の緊縛をされていた。
美青年は、たまには屋外の空気でも味わった方がよいという思いやりから、
縛られたふたりの縄尻を取って庭へ連れ出した。
高い塀にぐるりと囲まれた住まいであったから、庭へ出ても人目に晒すことにはならないと思ったことだった。
仮に見られたとしても、二匹の動物を散歩させているとしか、ひとは見ないだろうと思った。
美青年はデッキチェアにくつろいだ姿で座った。
その足もとにふたりの緊縛された妊婦の愛奴が横座りになって寄り添っていた。
すべてを明るみさらすような燦燦と輝く太陽は、そうしてあることの喜びをもたらすような思いを感じさせるのだった。
やがて生まれてくる子をふたりの愛奴は心から待ち望むのであった。


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