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半 音 階 的 幻 想 曲




始まりにして終りのとき、或いは、終りにして始まりのとき……
生まれ、成長し、衰退し、死滅する――
「この一回性はすべての生き物の必然であり前提である」とすることは、
われわれの受けた生の大切さを教えるものであり、哲学の基礎となるようなことである。
だが、実際は、われわれの生は危険に脅かされたとき、最も実感のあるものとなり、
そのときは、一回性のうんぬんよりも、むしろ、永遠性の力動さえ意識させることがある。
従って、「一回性の生」などという前提から出発する思想は、
あたかも、一回しかないから取り替えがきかず、逆行できないから必然をあらわしているようであるが、
そこで考えられることは、そうした瀬戸際の最終的な立場の意識をもってあらゆることを統御しようとするけれど、
円満具足とする世界などもとよりないのだから、生の矛盾と相反をかえって露見させることになる。
しかし、矛盾と相反が露見するということは、われわれにとってなくてはならないことである。
われわれは世界を円満具足としているものとは絶対に感じえないからである。
矛盾と相反は、われわれにとって、世界をありのままに見る自然な世界認識のありようなのである。
そこで、眼の前にある矛盾と相反を解決すれば事足りるということになるが、
そもそも、その矛盾と相反はどのようにしてあらわれたものであるのかを見れば、
われわれが世界を円満具足として感じえないことにある。
どうして、そのようにあるのか。
われわれは、世界と<折り合い>が悪い生き物であるとしか言いようがない。
どのような進化の力が働いて、われわれが<人間>というものへ発展したかについては現在も模索中であるが、
われわれが現在ここにいて、世界と<折り合い>をつけて、円満具足としている状態にないことは確かである。
<人間>が生きるために発揮するすべての欲求・欲望は、
世界と<折り合い>を悪くさせるために働くだけのものでしかないようなのだ、
と人類創始以来のあらゆる叡智が見なしてきたことであるのだから、嘘や冗談やたわごとではないのだろう。
ところで、J・S・バッハの作品に『半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV。903』という楽曲がある。
上昇下降するパッセージから始まり、途切れのない連続した音のつらなりが浮かび上がらせてくるものは、
その流動的な速さと遅さの意志的であり、内省的であり、色彩的な感受性の音色の幻想性である。
始まりにして終りのとき、或いは、終りにして始まりのとき……つまり、人生。
バッハがこの幻想曲を生の比喩として感じていたとするならば、その後に続くフーガは三声であり、
三位一体と符合している数の主題で作られているということは、偶然ではないと言える。
始まりも終りもない連続した意識のありようだけがある人間の生、
そこに統御を与えるものが神という存在であれば、バッハの楽曲は見事な世界認識であるというほかない。
われわれに繰り返し聴くことを許容するこの楽曲は、おざなりな調和をひけらかすことなどさらさらないのである。


さて、エロはエロである。
この場合のエロというのは猥褻のことである、猥褻の定義は、
「性に関することを、健全な社会風俗に反する方法・態度で取り扱うこと(岩波 国語辞典 第二版)」とあるから、
ここで行っていることも、当然、エロに類することである。
ご覧になっていただく通りである。







恥ずかしい生まれたままの素っ裸にされた女性が両手両足を大の字に開かされ、
肉体のあらゆる箇所をこれ見よがしにさらして、縄の拘束により自由を奪われている淫猥な描写、或いは、
全裸を縄で後ろ手に縛られ掛けられた胸縄に乳房を突き出させられた女性が首を吊られている残酷な描写、
このような恥態や醜態があからさまに示されているのに、エロではないとは到底言えない。
サディズム・マゾヒズム・フェティシズム諸々といった性的欲求の現象的分類化を<キッチュ>という、
大衆的な娯楽芸術として社会に取り込んでいるありようが現在の<健全な社会風俗>であるとすれば、
エロはエロでしかないと表現しているのであるから、反社会的と言えることである。
エロが表現されているものがあらわしていることは、どう転んでも、エロであるほかないものだ。
それは、表現しようとする目的がエロであることによる、という至極あたりまえの理由によるからで、
エロとして表現されたものをエロ以上でも、以下でも、以外でも、意味を読み取ることはできない。
羞恥心、嫌悪感、或いは、好奇心を意識させられることはあっても、
猥褻と矛盾・相反するものをそこに見ることはありえない、ただ、われわれは、
官能を発動させられ、その高まりをおのずと感受していることがあるというにすぎないのである。
その高まりの向かうところがオルガスム(性の最高潮)であることは必然的である。
官能がおのずからの力でそこへ到達できないのであれば、われわれは手を使い道具を使用するのである。
いずれにしても、そこへ到達しなければならない理由があるからで、それは、
オルガスムが世界との<折り合い>のついた円満具足の意識をわずかな時間でも感受させてくれるからで、
しかも、人間なら誰にでも備わっている能力ということでは、卑近であり安易であり安価なものであるからだ。
従って、エロの目的というのは、円満具足の意識を獲得することであり、
考えつくかぎりのあらゆる方法を使ってそれを表現することにある。
表現がひとのなかに内在している<或るもの>をほかのひとへ伝達するために外在化することであれば、
エロ、すなわち、猥褻ほど、人間の世界認識に向かって素直なものはないと言える、
と「猥褻称揚」「性賛美」とわかりやすく考えれば理解はしやすいのだろうが、
そのようなことを手放しで表現したところで、山岳で言えば、まだふもとに立っているようなもの、
円満具足の意識は手淫ひとつで達成できるもの、
手淫で満足せずに、人間がみずから以外の人間を傷付けたり、殺害したりしてまで表現しようとするほど、
世界の円満具足の意識は遥かに近くて、遥かに遠いものである。
その山頂へ至るためには、まだまだ多くの困難が待ち受けているのであり、
やはり、手だけで登るよりは、縄が必要になるということである。


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