《 洞 窟 の 男 と 女 》 椋陽児 画 絵は男が女を虐待している姿をあらわしていた。 女は素っ裸にされ、手拭いで猿轡をされ、麻縄で後ろ手に縛られ、首縄と胸縄を掛けられ、 腰へ巻きつけられた縄は股間へとおされ、浴衣姿の男がその縄尻を激しく引っ張っている、 男のもう片方の手に乳房を握り締められた女の悦楽を秘めた苦悶の表情がそれを伝えていた。 布が敷かれていることから、ふたりは夜具の上で夜の営みを行なっているのに違いない。 だれが見ても、そのように見える絵であろう。 この絵から、男と女がともに全裸にされ虐待されるありさまを想像する者は、まずいないであろう。 それはこの絵を見ている者の内側で行なわれていることだからである。 老若男女の区別なく、性を所有する人間であれば、等しく行なわれていることである。 「人間の心的働きは男女両性の性質をもっている、それは肉体の性的性質に依存しない」 このようなことを言い切っても、人間の内部にある男性と女性は、 それ自身その性に成り切ろうと懸命であるから、われわれは置かれた状況に依存するばかりになる。 人間の内部にある男性と女性は自由なものでは決してないということである。 ふたりは、それこそ、生まれたままの全裸にされ、縄や鎖で繋がれた境遇にあるといえるのである。 その閉じ込められた場所は、プラトン以来、洞窟としてたとえられてきた。 ブレイクにおいてもしかり、彼の詩の一節は次のように表現している。 「それから、嵐が起こり、、セオトーモンの手足を引き裂いた、 彼はまわりに波をうねらせ、姦通の男女を彼の腹黒い嫉妬の海で包んだ。 ブロミオンの洞窟で、背中あわせに縛られて、恐怖と柔和が暮らしている。 『アルビオンの娘たちの幻想』」 (☆参考画像) 背中あわせに縛られているのは、ブロミオンという男性とウースーンという女性である。 ブロミオンは、固定的な信仰や錯誤理念を革命するエネルギーとしての霊知を象徴し、 ウースーンは、人間の純粋な霊のあらわれである自由としての女性愛を象徴している。 このふたりを拘束したのはセオトーモンといって、「天使」でもある教義・理念の象徴である。 はじめ純情のウースーンは天国的なセオトーモンを思慕するが、セオトーモンから見れば、 愛を感じるものの、ウースーンの自由は教義・理念に反発する罪悪そのものでしかない。 その彼女をあらゆる革命のエネルギーであるブロミオンがこれ見よがしに陵辱した。 セオトーモンは激しく嫉妬して、ふたりを洞窟に背中あわせに縛って拘束したのである。 ウースーンは縛られながら、愛は教義・理念によって律せられるものでなく、 現実の悲惨をとおして輝かしい知と愛が見いだされなければならないことをセオトーモンに訴える。 しかし、硬化した教義・理念のセオトーモンは理解せず、ウースーンは歎きをくりかえすだけである。 ブレイクにおける象徴的言語は、人間の内部にある男性と女性を起動させることで成り立っている。 これをアニムスとアニマという形で分析する方法もある。 しかし、ここでは<緊縛の因縁>という猥褻表現がとりえであるので、その方法が行なわれる。 男と女は寝床で濃密な夜を過ごした。 ふたりは互いの手をしっかりと握り合い、その全裸を仰向けにして横たわっていた。 静かな吐息をもらす寝顔には、精神的満足と肉体的疲労にひたされた穏やかな表情が浮かんでいた。 ふたりは互いを夢見あっている……男は女を思い、女は男を思っている…… 男は女を夢見ることで、より男性的なものに成り切ろうとし、 女は男を夢見ることで、より女性的なものに成り切ろうとしていた。 なぜなら、ふたりがひとつになったとき、その性はあまりにも曖昧なものとなり、 互いの存在だけが不可分にあるというだけで、相手の存在は消滅しているかに思えたからだった。 恍惚とした喜びの瞬間ではあったが、自分が何者であるかを失ったときでもあったのだ。 いま、ふたたび互いの肉体を離れ、並んで横たわっていることは、性としての孤独でもあったのである。 そこで、ふたりは互いを夢見ることで求め合ったのである…… はじめて、ふたりが生まれたままの姿になって向かい合ったとき、 男には、女の美しい顔立ちやふっくらとした乳房、くびれた艶めかしい腰付きや漆黒の神秘な小丘が、 女には、男の凛々しい顔立ちや逞しい身体つき、堂々とそり上がらせた輝かしい一物が、 互いの存在を意識し合えば、それだけ、互いの思いはひとつになろうと強く求め合うのであった。 どちらからともなく、唇を寄せ合うと重ねた、重ねあう唇はおのずと開き合い、互いの舌先を誘った。 唾液のしずくが長い糸を引いて口端から落ちるまで、柔らかく粘っこくからみ合わされた。 男の片方の手が女の豊かな乳房をつかみ、もう片方の手で尻のふくらみを愛撫しはじめると、 女は片方の手で固くいきり立った男の一物を握りしめ、もう片方の手を背中へ這わせてなで上げた。 ふたりは唇を吸い付き合わせ抱擁し合ったまま、くず折れるように寝床へ横になっていった。 互いの求め合う唇は互いの舌だけでは満たされず、思いの真実をあらわす口へと向けられていった。 男は女の股間へ顔を埋め、女もまた男の股間が口もとへくるように互いの姿勢をとっていくのであった。 女の思いの真実をあらわす口は、すでに唇を開き加減にして甘美な蜜をにじませていた、 男はそれを舌先で拭うように舐めまわし、その奥へと濃密な襞をかき分けてもぐり込ませるのだった。 いきり立つ先端にある男の思いの真実をあらわす口にも、蜜のきらめく糸筋が長く尾を引いていた、 女はそれを舌先ですくって受けとめると、すすり上げるようにして怒張した輝きを頬張っていくのだった。 それだけで、ふたりは離れがたく、互いの舌先の愛撫は互いを高めるだけ強いものになっていった。 男の舌先が女の思いの真実の口を愛撫という言葉で開くよう説き伏せているように、 女の舌先は男の思いの真実の口を愛撫という言葉で吐き出すよう誘引していた。 男の舌先がつんと立ち上がっている女の敏感な小突起へ向けられたとき、 女のほっそりとした指先は男の尻のすぼみへ差し入れられていくのだった。 女の小突起が思いを込めて噛まれると、すぼみへもぐらされた指も優しくぐるぐると回転させられた。 そうして、ふたりが結ばれる最初のときがやってきた。 男は仰向けになった女のしなやかな両脚を双方の腕で抱え、互いの真実の口と口とを触れ合わさせると、 挿入という言葉でもって奥へと突き進み、女は受容という言葉でもって内奥まで招き入れるのであった。 しっかりと含み込まれてからは、突き立てる思いの激しさは受けとめる抱擁の思いの強さと拮抗し、 昇りつめていこうとすれば、それだけ、ひとつになっていることに分け隔てがなくなっていた。 男は女性になろうと懸命になっているようであった、 深く挿入された男性は女性があってこそ、恍惚とした喜びへ向かわされるものであり、 女性と一体になることは、男性が女性そのものとなることにほかならなかった。 女もまた男性になろうと懸命になっているようであった、 深く受容する女性は男性があってこそ、恍惚とした喜びへ向かわされるものであり、 男性と一体になることは、女性が男性そのものとなることにほかならなかった。 互いの性の存在は一体となったとき、ほとんど区別のつかないものとしてあったのだ。 それが確かであると思われた瞬間は、ともに恍惚とした喜びへ昇りつめたときだった。 だが、男の放出が終わり、女の痙攣が収まると、性の孤独がよみがえってくるのだった。 男も女もふたたび互いを求め合った。 互いを求め合い、互いを高め合い、ともに昇りつめて、互いに性の孤独を思い知らされた。 それが飽くことなく繰り返された、男にはもはや放出できるものが失われても行なわれた。 精神的満足と肉体的疲労の限界まで、求め合う思いは挿入と受容を繰り返させたのである。 男と女は寝床で濃密な夜を過ごした。 ついには、ふたりは互いの手をしっかりと握り合い、その全裸を仰向けにして横たわっていた。 静かな吐息をもらすふたりの寝顔には穏やかな表情が浮かんでいた。 だが、そのふたりの姿を許すことのできない者がいたのである。 人間がそれまであった動物から進化して、人間の道を歩き始めたときに誕生した理性である。 理性は人間が秩序化されて行動する目的のために存在するものである。 男と女の求め合うだけの性に秩序化された意義を与えるものである。 理性が許せなかったのは、そこに寝ている男と女が兄と妹、或いは姉と弟の関係であったことよりも、 ふたりが挿入と受容をとおして結ばれあうことで、昇りつめて恍惚とした喜びを果てしなく極め、 男が男性を乗り越え、女が女性を乗り越えて、分離することのできない混沌の一体となることにあった。 ふたつの性が双子の兄妹、姉弟の関係であることは、置換されることの可能性を意味していたが、 ふたつを分離する道徳的な人格形成よりも、求め合うエネルギーが実現化させる自由の方が問題だった。 理性は野放しになることを自由とは認めていなかった、自由とは秩序化された野放図であるべきだった。 男と女は拘束と懲罰をもって秩序化され、その性になるように飼育されなければならなかった。 人間の進化における手の使用と火の発見は、人間に技術と発想の展開をうながした。 理性は、その手を人間がみずから自然の植物繊維を撚って作り上げた縄で拘束し、 暗闇の洞窟に希望の光をもたらす火を閉ざすことによって、 男と女の性は、理性の光によってしか導かれないものであることを教え込ませようとした。 それを学ぼうとしない男と女には打擲の懲罰が待っているだけであった。 理性によって、互いを夢見る眠りからたたき起こされた男と女は、 それぞれがみずからの性を思い知るための縄掛けを藁から作られた荒縄でされた。 男は後ろ手に縛られ胸縄を掛けられ、すでにそり立っていた一物にも自覚のための縄が巻きつけられた。 女も後ろ手に縛られ胸縄を掛けられ、自覚のための縄が腰から女のわれめへ締めこまれて食い込まされた。 ふたりは暗くじめじめとした洞窟へ連れていかれた。 そこで、ふたり並んで立たされると天井からの縄に繋がれて、ともに尻を理性の方へ向けさせられた。 理性の光明は打擲の棒となって、男と女の柔らかな尻へ悲鳴の上がるまで振りおろされるのだった。 (☆参考画像) 男は全裸のまま荒縄で縛り上げられた不自由な身体へ加えられる打擲が苦痛だった、 みずからの性を自覚させられるために一物へ巻きつけられた縄が、 打擲の呼び起こす苦痛につれてますます怒張するそれに苦悶さえ生じさせていた、 男性に成り切ろうという思いははじめからあった、いまはもっと強くそうあることを感じさせられている、 しかし、女と切り離されて、その孤独な性に閉じこもらされていると、 次第に縄の拘束の苦悶や打擲の苦痛が痺れてくるような無感覚を引き起こし、 そうあることが恍惚とした喜びさえ意識させることに気づくのであった、 女がいなくても、男性であることだけで、昇りつめる恍惚とした喜びを求められることが感じられるのだった、 縄の抱擁による一物の高揚は、挿入など行なわれなくても、見事に放出を実現させたのであった。 女も全裸のまま荒縄で縛り上げられた不自由な身体へ加えられる打擲が苦痛だった、 みずからの性を自覚させられるために女のわれめ深くへもぐり込まされた縄が、 打擲の呼び起こす苦痛につれてますます立ち上がっていく女の小突起に苦悶さえ生じさせていた、 女性に成り切ろうという思いははじめからあった、いまはもっと強くそうあることを感じさせられている、 しかし、男と切り離されて、その孤独な性に閉じこもらされていると、 次第に縄の拘束の苦悶や打擲の苦痛が痺れてくるような無感覚を引き起こし、 そうあることが恍惚とした喜びさえ意識させることに気づくのだった、 男がいなくても、女性であることだけで、昇りつめる恍惚とした喜びを求められることが感じられるのだった、 縄の締め込みによる女の小突起の高揚は、受容など行なわれなくても、見事に痙攣を実現させたのであった。 生まれたままの姿を荒縄で縛り上げられた男と女は、 それぞれにみずからの性を自覚することで、おのおのが恍惚とした喜びにひたることができたのであった。 これが理性の求めた人間の内部にある男女両性のありようであった。 この秩序化された男女両性を道徳倫理の規律で社会化すれば、 男性は男性らしく、女性は女性らしくという、互いを分離させるための意義概念が発達していくことになる。 その男女両性の分離をより明確化しようとしてあらわれたものが男による女の虐待であった。 本来は、人間の内部にある男性と女性は、ひとつに結ばれようと求め合っているものである。 理性はその自由に発展していく性を秩序化するために両性を拘束し懲罰を与えたが、 今度はその拘束と懲罰を、片方の性によってもう片方の性を律するということで行なわせたのである。 性がみずからを自覚することで、相手の存在をまったく必要とせずに恍惚とした喜びに目覚めることが、 結局は野放しの方向へ向かっていくことにほかならなかったからである。 絵は男が女を虐待している姿をあらわしていた。 女は素っ裸にされ、手拭いで猿轡をされ、麻縄で後ろ手に縛られ、首縄と胸縄を掛けられ、 腰へ巻きつけられた縄は股間へとおされ、浴衣姿の男がその縄尻を激しく引っ張っている、 男のもう片方の手に乳房を握り締められた女の悦楽を秘めた苦悶の表情がそれを伝えていた。 布が敷かれていることから、ふたりは夜具の上で夜の営みを行なっているのに違いない。 だれが見ても、そのように見える絵であろう。 この絵から、男と女がともに全裸にされ虐待されるありさまを想像する者は、まずいないであろう。 それはこの絵を見ている者の内側で行なわれていることだからである。 老若男女の区別なく、性を所有する人間であれば、等しく行なわれていることである。 最初にこのように言ったことが、ありうる人間の姿であることをあらわす表現がある。 (☆参考画像) 森のなかで(洞窟のなかではない)、ふたりの全裸の男が同じく全裸の女を虐待している。 女は後ろ手に縛られ立ち木に繋がれ背中を木の枝で打擲されていた、 或いは、立ち木に両手を高々と上げさせられて繋がれ腰や乳房を打擲されていた、 さらに、股間へ木の枝をもぐり込まされて、女の思いの真実の口を責められているのだった、 理性は、男が女を辱しめて、男性と女性の分離を明確に秩序化せよと教える。 男は女を虐待することができるからこそ、男性の自覚をもって行動することができるのである、 それは挿入と等しく、女の口へ無理やり男性を受け入れさせることである。 女は虐待されることで、受容を無理やりにでも引き受けて、女性の自覚で行動することができる、 限りを知らない受容が発揮されれば、男の思いの真実の口をどこの穴にも含むことをさせる。 だが、この男と女の行動は、人間の内部にある男性と女性の投影されたものである。 われわれの内部にある男性と女性の結びつきや分離から現象を眺めているにすぎない。 われわれの男性は分離された性の孤独を知っているからこそ、女性のわれめの苦悶がわかるのだ。 われわれの女性は分離された性の孤独を知っているからこそ、男性の怒張の苦痛がわかるのだ。 だが、われわれは、みずからの性のひとつに成り切ろうと思っているから、みずからが見えない。 相手の性は見えるが、それさえも、みずからの性にあろうとする限りで見えるものにすぎない。 男が女を虐待している。 人間の内部の男性と女性が理性によって秩序化されることで、はじめて成り立つ現実である。 だが、それは、 「人間の心的働きは男女両性の性質をもっている、それは肉体の性的性質に依存しない」 ということも事実である。 これは、救いのない話であるかどうか。 少なくとも、人間の進化の過程では、まだ、この段階に位置するというだけのことである。 |
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