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縄による女体の緊縛は欲望の最終表現ではない。 全体性からすれば、過渡的形態をあらわすものであり、目的に至らせるための手段である。 対象から行動の自由を奪い、異形となる苦痛を与え、服従することを意識化させるものである。 目的が効果的に成し遂げられるための拘束ということが縄による緊縛の存在理由である。 従って、合目的的には拘束の手段は縄に限る必要がない、 鎖の付いた手枷・足枷でもよい。(☆参考画像) それでも、縄にこだわるのは、そこに因縁がひそんでいるからである。 因縁とは、物事はその起源と結果を結ばせる作用によって定められていると見なす考え方である。 緊縛の最終目的は陵辱である。或いは、死である。 人が人を縄で縛るという行為を行なえば、あとは陵辱に至るまでの道程を如何に進むかである。 因縁からすれば、人体という起源が陵辱という結果を結ばせる作用として縄による緊縛がある。 「拘束の手段を縄による緊縛でなくてはならない」というところに因縁が生まれるのである。 陵辱を結果とする因縁など、ただおぞましいというだけで、 良識からすれば、このような事柄は知る必要もなく、このような存在さえ否定されるべきである。 ましてや、「縛られた女性は美しい」などとほざいてみせるのは、異常な精神の持ち主である。 或いは、「女性を縛るのも愛ゆえだ」とのたまうのは、狂気の精神の持ち主ということになるだろう。 縄による女体緊縛というものに関心を持つだけで、すでに陵辱者の資格充分ということである。 まったくそのとおりである。 縄による緊縛が描かれている絵画や小説や映画が行なっている表現で、 陵辱が結果として意味されていないものは皆無と言ってよいほど、必然性のあることである。 言い換えれば、陵辱を行なうために縄による人体の緊縛は存在するとしか見なされていない。 それだけのことである。 こうしたありようは、当然のことながら、過去から引き継がれた結果のことである。 すなわち、人類の起源が陵辱という結果を結ばせる作用として「緊縛の因縁」が存在するのである。 因縁であれば、われわれの手にしている縄は過去と未来とをつなぐものである。 因縁であればこそ、縄掛けそのものに工夫を凝らし技法化し、意義を見出すことができるようになる。 われわれの手にしている縄で意匠の凝らされた緊縛が女性の肉体へ施されるとき、 女性はその抱く本来の美しさを菩薩のような輝きをもってあらわすことになると信じられることである。 女性は緊縛された上に行なわれる陵辱さえもが喜びとなるほどの菩薩の寛容を知りえるからである。 その法悦がたんなる女性の官能からくる性的恍惚にしかすぎないことであっても、 縄による緊縛に因縁が存在するから、菩薩の顕現をもって人の煩悩は清められることになる。 縄による緊縛という作用を通して、縛者も被縛者も忘我の境地へ至ることができるのである。 陵辱のための縄による緊縛は宗教的心情をもってして、欲望の存在理由をえることになるのである。 ただ、このありようは一神教の宗教を抱く人々にとっては強い意味をもたない。 ひとつ家のなかに神棚と仏壇とが並存し、しかもその神棚も複数存在するようなありようが相応する。 ひとつの神があって、その神が全体を統括する宇宙が存在するというのではなく、 数多の神が全体にあり、それは自然に遍在するばかりでなく、別の神をも許容するありようである。 この宗教的心情をもって始めて、縄による緊縛に因縁を認められるのである。 縄は植物繊維という自然から生まれた存在を人の手が撚りあわせたものである。 自然から生まれた植物繊維には自然の神が宿る。 その神を人を創造した神が与えた手工の技術で撚り上げた縄には神が息づいている。 その息づいている神を奉る行為こそは、不浄な心と肉体をもった人へ掛ける縄の緊縛であり、 その緊縛も意匠の凝らされたものであればあるほど、因縁の成就は清浄へと向かうものである。 女という人の存在は生まれながらにして月経という不浄なものをもっている。 女は生まれたままの姿にして、縄による緊縛の意匠を施されてこそ、始めて清浄となる。 縄によって緊縛された全裸の女と交接することは、清浄となった被縛者を通して、 縛者は人として神を奉り、欲望という人の煩悩を自然な神のふところへ抱いてもらうことになる。 従って、縄による緊縛の因縁は、陵辱という結果を生み出すためのものでは決してない。 縄による女体の緊縛は欲望の最終表現ではない。 それは、自然に遍在する数多の神を信仰する多神教的日本人特有の宗教的行為である。 全世界の性行為を見わたして、日本人だけが縄による緊縛にこだっていることの理由である。 サディズムだのマゾヒズムだのという西洋の性科学思想など持ち込む必要などまったくない。 そのようなものは他の西洋思想と同じで、明治維新の転換期に、 「西洋のありようはすべて日本よりも優れている」という価値転倒から行なわれたことである。 日本人における縄による女体緊縛をサディズム・マゾヒズムで説明しても埒はあかない。 人体の精神性と肉体性の構造を分析していることなら可能であろう。 しかし、日本人の独自性を分析していることにはならない。 これまでに、誰も「日本人の縄による女体緊縛は宗教行為である」と言った者はいない。 何故か。 自然に遍在する数多の神を信仰する多神教的日本人であることを生得しているからである。 祈願を成就するために、神社と仏閣が隣り合わせに並んだ双方の場所へ参拝に行くからである。 生得している宗教的心情のあらわれのひとつが、 陵辱を結果とした縄による女体の緊縛であることを是認したくないからである。 それをこれまた日本人特有に、肯定も否定もしないというありように置いているからである。 所詮は「下の話である」というさげすまされた性的事象に意義などありえないと考えるからである。 良識においては、因縁の存在でさえもが因習と同義として取り扱われるからである。 そして、最もかなめの事柄は、縄による女体の緊縛を払拭したくないからである。 何故ならば、因縁は因縁としてあることなしに、浄化を生み出すこともまたないからである。 とまあ独りほざいてみても、大勢に影響はない。 これまでもそうであったし、これからもそうであるに違いないからである。 それが因縁と言うものだからである。 |
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